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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第456回 第一次世界大戦でドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

いくつか記事を挟みましたので、シリーズ としては久しぶりの記事になります。

前回の記事を作成していて見えてきたのは、第一次世界大戦が、ヴィルヘルム2世率いるドイツと、ニコライ2世率いるロシアの間で始められた戦争で、ドイツとロシアが共に「社会主義革命」によって自滅し、終了した戦争であったということ・・・。

前回の記事から継続して目を通していただいている方には唐突に感じられるかもしれませんが、前回の記事の文末でご紹介したこちらの記事↓

第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

に記している内容は、即ちそういうことを意味しています。

第351回の記事 は「ロシア」についてのシリーズで、特にドイツ革命に対する「コミンテルン(第三インターナショナル)」の関わり合いを解明することを目的に記事を作成しています。

で、当然私自身の中に「第一次世界大戦」に関する知識は殆んどといっていいほどありませんでしたから、そもそもドイツ革命の経緯に関して、「第一次世界大戦」が前提となっていません。

歴史の流れの中で、ポンと突然ドイツ革命が起きたかのような記載内容となっています。


ということで、今回の記事では、私自身の中に、きちんと「第一次世界大戦」がどのようなものであったのかという情報が入っていますし、それまでの「ドイツ」という国がどのような国であったのか。

また、ドイツという国における「社会主義」の発展についてもある程度私の中に落ちていますので、第351回の記事 を引用しながら、「ドイツ」を視点に第一次世界大戦と「社会主義革命」の関わりを記事にしていきます。


キール水兵の反乱はなぜ起きたのか?

これは、第351回の記事 より一つ前の記事。第350回の記事 に掲載しています内容です。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

この事をきっかけとしてドイツ革命は本格化し、ヴィルヘルム2世は亡命→退位へと追い込まれていきます。

「キール軍港における水兵の反乱」は、引用部分にも掲載されています通り、サボタージュにより逮捕された水兵たちが、「キール軍港」へと送られ、「キールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めて」起こしたデモに官憲が発砲したことからデモは武装蜂起へと拡大するわけですが。

では、キール軍港に送られた水兵たちは一体なぜ「サボタージュ」を行ったのでしょうか?

キール水平反乱


第一次世界大戦は、ドイツにとって既に「負け戦」であることが確定していた

前回の記事 で掲載した「シュリーフェン・プラン」は完全に失敗し、ドイツは戦術の変更を余儀なくされるのですが、この時ドイツが相手にしていたのは「ロシア」と「フランス」以外にも「ベルギー」「イギリス」、そして遠方から「アメリカ」が近づいていました。

中国やインド洋では日本も対独開戦を行っていたのですが、今回は「欧州決戦」にポイントを絞ります。

ドイツ陣営(中央同盟国軍)は、ドイツ以外にもオーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマントルコが含まれていましたが、ネット上の記述を見る限り、オーストリアはとても主体的にドイツを助けているようには見えません(どちらかといえばドイツがオーストリアを支援している)し、ブルガリアも、トルコもドイツ戦線まで援軍を派遣しているようには見えません。

シュリーフェン・プランで掲載しました通り、ドイツはフランスやベルギーとの戦いを繰り広げる「西部戦線」と、ロシアとの戦いを繰り広げる「東部戦線」の2面戦争を繰り広げていました。

ロシアはロシア国内で勃発したロシア革命により自滅し、最終的に「ブレストリトフスク条約」を締結してトロツキーらと講和条約を締結することに成功したのですが、問題となったのは西部戦線。

ドイツがベルギーに侵攻したことによりイギリスが参戦しましたので、西部戦線ではフランス、ベルギーだけでなく、イギリスまでも相手にすることになっていました。

そして、更にアメリカ軍が到着し、ドイツとしては、もはや劣勢を覆すことは事実上不可能な状態に陥っていました。

ドイツ・オーストリアは各々停戦に向けた協議を各国に向けて打診するのですが、これが拒否され、停戦に向けた「交渉」すら行うことができない状況に陥っていました。

軍部は軒並みこの事を把握しており、この情報が軍部だけでなく、兵士レベルにまで知れ渡ってしまいました。

このような状況の中、ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフという二人の人物率いるドイツ海軍が、「最後の賭け」としてイギリス艦隊に決戦を挑むため、ヴィルヘルムスハーフェン港の大洋艦隊主力に出撃を命じました。

ですが、この時点で兵士たちの耳には、既に敗戦が濃厚であるとの情報が入っていましたので、兵士たちは作戦そのものの有効性に疑問を抱きました。兵士たちは、「そんな戦争に行ったところで、

その結果、彼らは「サボタージュ」を決行したのです。後は前記した枠囲いの内容の通りです。

第一次世界大戦中のドイツ社会主義

キール軍港で武装蜂起が起きるまでの流れを補完できれば、そのまま第351回の記事 へと話題をつなぐことはできるのですが、ヴィルヘルム2世退位後、ドイツ国ワイマール共和政政府の中心となる社会主義陣営。

特にドイツ社会民主党党首であるフリードリヒ・エーベルトは、ドイツ国の初代大統領となるわけですが、彼が党首を務めるドイツ社会民主党をはじめとする社会主義陣営が、第一次世界大戦の戦況下、どのような役割を演じていくのか、この話題を記事にしてみます。


第一次世界大戦までのドイツ社会主義

第439回の記事 でも掲載しましたように、ラッサールの死後、彼が築いた「全ドイツ労働者協会」から、やがてラッサールの精神が失われ、1875年5月、全ドイツ労働者協会は、もう一つの社会主義政党である「ドイツ社会民主労働党」と合流し、「ドイツ社会主義者労働者党」を結成しました。

先のフランスにおける「パリ・コミューン」政府の樹立とともに、危機感を覚えたビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を制定し、ドイツ国内における社会主義者たちの弾圧へと突き進むわけですが、ヴィルヘルム2世の誕生後、期限を迎えた同法は失効し、これを機にドイツ社会主義者労働者党は「ドイツ社会民主党」へと党名を変更しました。(1890年9月)

この後、ドイツ社会民主党は支持を拡大し、1905年に38万人、大戦を迎える直前の1913年には108万人へと勢力を拡大。

また、ドイツ社会民主党の支持母体である自由労働組合は、組合員を組合員250万人にまで広げていました。


「自由都市」の弊害

第一次世界大戦までの社会主義を、もう一つ視点を変えてみてみます。

第426回の記事 におきまして、ドイツ統一に際し、ビスマルクが行った「大きな譲歩」について記事にしています。

引用してみます。
ビスマルクは、南ドイツ4カ国と交渉し、国名を「ドイツ連邦」とはせず、「ドイツ帝国」とし、その盟主を「皇帝」とするところまで含めて妥結する流れの中で、南ドイツ4カ国に対しては大きな譲歩をしています。

先に記したように、ビスマルクがドイツを統一しようとした最大の目的は、ドイツ領内の各国が、「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定にさせないようにすることにあります。

その手段として所属国を一つのルールの下に統一し、共通のルールで「ドイツ」という国家全体を運用しようとしたわけです。

ところが、ビスマルクは南ドイツを北ドイツに統合し、「ドイツ帝国」を設立した際、北ドイツ各国とは異なり、この4つの国に対しては「自治権」を認めたのです。

これらの国々に対し、「自治権を認める」ということは、即ちビスマルクがもともと排除しようとしていた『「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定』 にさせる要因を、自国の中に有し続けるということです。

ビスマルクは、普仏戦争によってドイツ=ナショナリズムを昂揚させ、南ドイツ諸国とともに見事「ドイツ帝国」結成にまでたどり着くわけですが、誕生と同時に自国内に「南ドイツ」という大きな矛盾を抱え込むことになるんですね。

この記事を記した時点で、ビスマルクにとっての「不安定要素」は「自由主義」であったのですが、ヴィルヘルム2世の時代になって、「社会主義」という姿で「不安定要素」が顕在化することになります。

南ドイツを含まない元「北ドイツ連邦」は各地方ごとに選挙制度が厳格で、あったため、社会主義者たちがなかなか当選しづらい状況にあったのですが、自治権を持つ南ドイツ、「バイエルン」「ヴュルテンベルク」「バーデン」などでは地方にまで男子普通選挙制度が浸透していたため、社会主義者たちが当選しやすい状況が生まれていました。

ただ、少し複雑なのですが、このことが南ドイツ自由都市において社会主義者たちと「自由主義者」たちが連携する関係を生み、ドイツ社会民主党の中に、かつてのラッサールの様な考え方をする勢力が生まれるようになっていました。


少し記事が長くなりそうなので、第一次世界大戦までのドイツ社会主義と、大戦中の社会主義陣営について、改めて記事を分けて作成してます。



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この記事のカテゴリー >>日本国債の問題


今回は久しぶりに国債情報を分析したものを記事にしてみます。

タイトルを見て、わかる人にはわかるとは思うのですが、今回の記事には、

 第104回 本当の国債発行額と国債発行残高の推移

の「更新版」としての役割を担ってもらおうと思っています。

同記事を作成したときには、第27回 国債を返済する仕組み~60年償還ルール~ が最も人気のある記事、だったのですが、現時点ではこの104回の記事 が圧倒的に私のブログで第一位のアクセス数を誇っております。

日本で発行される国債の基本的な考え方は、第27回の記事 に掲載しています通りで、日本国の国債が破綻しない最大の理由は、この「60年償還ルール」にある、という考え方に基づいて当ブログは構成されています。

で、60年償還ルールで日本国債が破綻しない理由については、「第359回の記事」でその分析結果を掲載しています。

では、なぜ今になって第104回の記事の更新版を掲載しようと思ったのか。これは、私の「60年償還ルール」に関する考え方を証明するような経済指標が見つかったから。

といっても、別にこれまで掲載してきた記事とは異なる、新しい情報が出てきたわけではありません。これまで掲載してきた情報の、「最新情報」がこれを示していたということです。

「結論から入る」タイプの人には、私の記事は読みにくい、もしくは煩わしく思われるかもしれませんが、このような記事の作り方が私のスタイルですので、どうぞお付き合いいただければと思います。


3つの「国債発行額」の推移

結論から入るタイプの方のために、あらかじめこの記事で掲載する内容をここで掲載しておきます。

1.「一般会計における国債(建設国債+赤字国債)」発行額の推移
2.「借換債」発行額の推移
3.国債発行残高総額の推移

この3つです。それぞれ、2006年度から2019年度まで、過去14年分の「国債発行額」を掲載します。

ここから何が読み取れるのかは順次掲載していきます。

1 一般会計における国債発行額の推移
一般会計における国債発行額

2.「借換債」発行額の推移
借換債発行額

3.国債発行残高総額の推移国債発行残高の推移

2018年度は補正予算を組んだ後の予算、2019年度は当初予算ベースとなっています。

徐にこのグラフを掲載されたところで、皆さんからすれば、「で?」という一言で終わってしまうかもしれません。

例えば第104回の記事 では、2016年までの数字をグラフ化していますが、2016年度には補正予算が含まれていないため、今回のグラフとは多少違っています。

で、そのあたりを見て「2019年もどうせ予算ベースでしょ。また補正予算組んだら増えるんだから意味ないじゃん」とおっしゃる人もいるかもしれません。

ですが、私が見ていただきたいのはそんな1番の表面上の数字ではなく、2番と3番。特に3番の「国債発行残高の増加幅」を見ていただきたいのです。

では、次にその「国債発行残高の増加幅」をグラフではなく、表形式で掲載してみます。

国債発行残高前年差額 : 一般会計前年度差額(単位:兆円)
2006年度 4.8 : -3.8
2007年度 9.8 : -2.1
2008年度 4.5 :  7.8
2009年度 48.0 : 18.8
2010年度 42.3 : -9.7
2011年度 33.6 :  0.5
2012年度 35.1 :  4.7
2013年度 38.9 : -6.6
2014年度 30.2 : -2.4
2015年度 31.3 : -3.6
2016年度 25.2 :  3.1
2017年度 22.6 : -4.5
2018年度 27.0 :  1.8
2019年度 16.5 : -2.7

年度→国債発行残高の増加幅→一般会計における国債発行額の増加幅の順で掲載しています。

この表を下に、私が何を言いたいのか、ご推察いただけるでしょうか?


「60年償還ルール」の満期

私のブログでは、「国債が破綻しない理由」として、この「60年償還ルール」を中心に記事を作成しています。

60年償還ルールとは、日本国政府が発行した国債は60年分割で返済することが可能となっていること。

日本ではこのルールの下に、償還期を迎えた国債はいったん全額償還されるのですが、償還期を迎えた国債のうち、まだ償還する必要のない国債については、「借換えても良い」ことになっています。

「借換債」とは、この「借り換えてもよい国債」に対して発行されているのですが、戦後、日本で初めて国債が発行されたのは、昭和40(1966)年の事。その額1972億円です。

更に調べてみますと、60年償還ルールが決まったのはその3年後、昭和43年(1968年)の事。

で、同年国債発行額の内、1000億円に対してこの60年償還が行われたのが60年償還の始まりだったようです。

では、60年償還が始まった1968年から数えて60年後、とは一体何年になるでしょう。

単純に1968年に60を足した年。つまり、2028年がその60年目となります。


今年が2019年ですから、もうすでに10年を切っています。満期になれば残額は0円になりますから、それ以上借換債を発行する必要はありません。

仮に1968年に発行された国債の借換債が、仮に毎年発行されていたとすれば、最後の借換債が発行されるのは、2017年。

これが償還されれば、1968年に発行された国債の「国債発行残高」は0円になります。

今年は52年分の借換債を含む「国債」が、飛んで2023年には56年分、2024年には57年分、2025年には58年分、2026年には59年分、2027年には60年分の「国債」が、発行されます。

ですが、2028年には1968年に発行された国債の借換債は発行されませんから、前年と同じ60年分の「国債」しか発行されません。

詳しくは第359回の記事 を読んでいただきたいのですが、つまり国債発行残高の「増加」に歯止めがかかるのです。


満期を迎える国債内訳(2018年12月末)

こちらは、財務省が公表している、「国債発行残高」の満期別内訳です。一番左が2018年度、つまり今季で満期を迎える国債の内訳。来年、再来年と右に向かってグラフは進んでいきます。

このグラフを見ますと現在、借換債を含めた国債は、「10年」「5年」「2年」「1年」物の国債が、それぞれほぼ同じ割合で発行されているようです。

先ほどお示しした、1968年債の満期に関する事例は、あくまでも借換債が毎年発行されていたと仮定した場合の事例です。

では、もし「借換債」が毎回「10年物国債」で発行されていたとしたらどうでしょう。1968年、最初に発行された国債が10年物であったとすると、この年に発行された国債の「借換債」が最後に発行されるのは満期を迎える2028年から10年前。2018年には既に発行されている事になります。

この事例で申しますと、2018年には、既に「60年分の国債」が発行されている事になります。遡って17年に59年分、16年に58年分、発行されていることになりますが、2019年には既に60年償還初年度である1968年債の借換債は発行されていないことになりますね。

つまり、借換債が10年物で発行されていた場合に限定すれば、2019年度以降は、借換債の発行年数には既に「上限」が訪れていることになり、「年数ベース」ではこれ以上は増えることはない、ということになります。

借換債の中には「超長期国債」といって、10年を上回る償還期限の国債も発行されており、例えば31年に償還期限を迎える国債の中には、「15年債」や「20年債」が含まれていることがグラフからもわかると思います。

当然ですが、「60年償還ルールベースで考えますと、既にこれらの国債の中には「満期分の借換債」が含まれていることが考えられるわけです。

そこで、再度先ほどの表を見てみます。

国債発行残高前年差額 : 一般会計前年度差額(単位:兆円)
2006年度 4.8 : -3.8
2007年度 9.8 : -2.1
2008年度 4.5 :  7.8
2009年度 48.0 : 18.8
2010年度 42.3 : -9.7
2011年度 33.6 :  0.5
2012年度 35.1 :  4.7
2013年度 38.9 : -6.6
2014年度 30.2 : -2.4
2015年度 31.3 : -3.6
2016年度 25.2 :  3.1
2017年度 22.6 : -4.5
2018年度 27.0 :  1.8
2019年度 16.5 : -2.7


18年度の国債発行残高の「増加幅」が比較的大きく、また一般会計における国債、つまり「新規発行債」の発行額が18年度よりも減少していることが理由として挙げられるとは思いますが、それにしても「16.5兆円」しか「国債発行残高」は増加していません。

リーマンショック前、2007年、2008年に次ぐ水準です。ちなみに2008年の増加幅が小さくなっているのは、ここに占める「財政投融資債」の発行額が前年よりも下落していることにありますので、単純な比較はできません。

そういう意味で言うと、2009年の国債発行残高が大きく増加していますが、これは単に「リーマンショックによる国債発行額の増加」が大きかったということだけではなく、この年に償還期を迎えた国債が多く存在し、「借換債」の発行額が増えていたことが理由として挙げられます。

少し余分なことを記しましたが、それにしても2019年度の国債発行残高の増加幅が極端に少なくなっているように思いませんか?

また、この縮小傾向は、実は2014年から継続しています。18年が極端に上昇しているだけで。

借換債の発行額の推移ももう一度見てみます。

借換債発行額

13年から14年にかけて、一時的に増加していますが、それ以降、19年までの5年間、継続して減少していますね?

このことは、60年償還ルールにおける「最終発行年」を過ぎた国債がそろそろ姿を見せ始めたことが原因なのではないか、と私は思うのです。

「日本国債が破綻する」とか、「日本国債はいくらでも発行していいんだ!」とか、極端な意見が巷では目立ちますが、国債発行残高はそろそろ「増加しにくい状況」へと変わり始めます。

ひょっとすると「減少」に転じてもおかしくはない状況がやってきているわけです。

プライマリーバランス(財政均衡)がどうとか、そういった緊縮云々には全く関係なく、です。

日本の国債発行残高がなぜ増え続けるのか。その本当の「答え」。私の説が正しいかどうかが証明される時期が、そろそろ訪れるのではないでしょうか。




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この記事のカテゴリー >>GDPの見方


先日(2019年2月14日)2018年度GDP第3四半期(10~12月)1次速報が公表されましたので、本日はこの話題を取り上げます。冒頭にお伝えしておきますが、引用したニュース記事は枠で囲っています。枠で囲っている部分は私の記事に一通り目を通していただいた後でチラ見する程度でかまわないと思います。

サブタイトルを二つスルーすると本編がスタートします。


では、まずはこちらのニュースをご覧ください。

【日本経済新聞記事(2019/2/14 8:53)より】
GDP実質1.4%増、10~12月年率 2期ぶりプラス

内閣府が14日発表した2018年10~12月期の国内総生産(GDP)速報値は、物価変動の影響を除いた実質の季節調整値で前期比0.3%増だった。年率換算では1.4%増。年率2.6%減だった7~9月期から、2四半期ぶりのプラスとなった。18年夏の自然災害による個人消費の落ち込みが解消され、内需が全体の成長率押し上げに寄与した。

前期比0.3%増の成長率のうち、0.6%分は国内需要を表す内需が寄与した。内訳をみると、GDPの5割超を占める個人消費が前期比0.6%増と、7~9月期の0.2%減から回復。飲食や宿泊、航空などレジャー関連の回復が目立った。自然災害が個人消費を下押ししていたが10~12月期は回復。自動車販売も堅調だった。

住宅投資は1.1%増。2四半期連続でプラスを確保した。住宅投資は工事の進捗状況に応じてGDPに計上しており、4~6月期以降の着工の伸びが寄与した。民間の設備投資も2.4%増と全体を押し上げた。生産用機械の伸びが寄与した。

一方、外需は0.3%分、成長率を押し下げた。中国経済の鈍化により情報関連財の輸出が伸びず、輸出全体の伸びを抑えた。輸入は堅調な内需を背景に増加。外需の寄与度は、輸出の寄与度から輸入の寄与度を引いて算出する。前期からの伸び率は輸入が輸出を上回り、全体に対する外需の寄与度はマイナスとなった。

18年10~12月期のGDP成長率は名目で見ると0.3%増。年率換算では1.1%増だった。名目値は実質値に物価分を上乗せして算出するため、物価が上がれば名目値は上がる仕組みだ。10~12月期は物価上昇率が鈍く、名目の成長率が実質を下回った。

収入の動きを示す雇用者報酬は名目の前年同期比で3.2%増。7~9月期の2.6%増から伸び率が拡大した。

18年暦年の成長率は実質0.7%増、名目で0.6%増。いずれも12年以降、7年連続のプラス成長となった。成長率はともに17年を下回った。18年の名目GDPは548兆円と17年の545兆円を上回り、過去最高を更新した。

記事内容としては、比較的マトモ。なのですが、私としてはやはり主張したい。「なぜ実質GDPで判断するのか!」と。

ちなみにNHKはこの話題を以下のように報道しています。

【2019年2月14日 15時30分】
GDP 2期ぶりプラスも中国経済の減速が業績に影

2期ぶりにプラス成長を取り戻したGDP。しかし、回復の勢いは力強さに欠けています。大きな要因は中国経済の減速です。

北九州市に本社がある「安川電機」は、産業用のロボットやモーターなどを手がけています。
省力化のための設備投資の需要が底堅いこともあって、今月までの1年間の決算では、売り上げ、最終利益ともに過去最高を更新する見通しです。
しかし、全体の売り上げの2割を占める中国での経済の減速が、業績に影を落としています。

主力商品の1つは、半導体を製造する装置などに組み込まれるモーターです。

ところが、去年の秋以降、“巨大市場”の中国で、スマホの売り上げが低迷。アメリカと中国の貿易摩擦の激化という要因も加わって、モーターを組み込んだ製品の中国向けの輸出が落ち込み、モーターの受注も減っているのです。このため、去年10月と先月、2度にわたって業績予想を見直し、営業利益を当初から20%近く下方修正しました。

このように、中国経済の減速などを背景に業績予想を下方修正する企業が相次いでいます。

SMBC日興証券の今月8日時点のまとめでは、東証1部で決算発表を終えた企業のうち、来月までの年間の業績予想で、営業利益を下方修正した企業は155社に上り、上方修正した92社を大きく上回っています。

安川電機はヨーロッパでのビジネスを強化するため、現地に新たな生産拠点を設けたほか、食品工場向けなど新たな需要を掘り起こすなどして中国市場の落ち込みを補いたいとしています。

安川電機の小笠原浩社長は「米中の貿易摩擦がどのように動くかが1つのカギになるが、長い目で見て中国が思い切り減速することはないと思う。中国は市場としても大きいので、その動きをきちんと見て対応していきたい」と話しています。
中国減速が段ボールにも
中国経済の減速は、段ボールの材料となる古紙を取り扱う業界にも影響を与えています。

関東地方の古紙業者の組合は、中国向けに、段ボールにリサイクルされる古紙を輸出しています。
去年の夏から秋にかけて引き合いが強くなり、買い取り価格が2割ほど上昇しました。米中の貿易摩擦で、去年8月、中国が、アメリカから輸入する古紙に追加の関税を課したため、代替品として、日本の古紙に需要が集中したためです。
ところが、こうした状況は長くは続かず、年末になると状況が一変しました。取り引きを続けてきた中国の7つの業者のうち6社からの注文が途絶え、残る1社もピーク時の半額程度の買い取り価格を提示してきたのです。

景気減速で、中国国内の製造業の生産が鈍り、製品をこん包する段ボールの需要も大きく落ち込んだことが要因の一つだとみられています。

組合では、採算が合わないことなどから、去年12月から3か月連続で中国への輸出を見送ることにしました。このため埼玉県にある業者の工場には、およそ500トンの段ボール用の古紙が積まれたままになっています。

「関東製紙原料直納商工組合」の大久保信隆理事長は、「中国国内の生産が鈍っていることは間違いなく、その経済的影響が古紙業界にも来ている。中国は世界最大の古紙の消費国なので、今後、生産が戻るよう願うしかない」と話しています。
春節終えたデパートも警戒感
中国経済の減速に対する警戒感は、中国の旧正月、「春節」の商戦を終えたデパートからも出ています。

「三越伊勢丹」は、「春節」に合わせた今月4日から10日までの大型連休の期間中、外国人旅行者向けの売り上げが、グループ全体で去年の同じ時期に比べておよそ4%減りました。

このデパートではことしの春節商戦に合わせて、中国の企業が手がけるスマートフォンの決済サービス、「アリペイ」を全国すべての店舗に導入し、中国人の買い物客の取り込みを図りました。
しかし、宝飾品など比較的高額な商品の売り上げが伸び悩んだということです。

その一方で、中国語を話せるスタッフを増やすなど接客サービスを強化した店舗は売り上げが増えたということです。
このため、このデパートでは、日本の「おもてなし」をより充実させて、消費の減少を防ぎたいとしています。

三越伊勢丹の販売戦略部の堀井大輔さんは「春節商戦の売り上げの減少が短期的なものなのか、それとも中長期的なものなのか、注意深く見ていきたい」と話していました。

NHKとすると、「実質GDP」がプラス成長したことがよほど悔しかったのでしょうか。記事全体をざっくりと要約すると、「確かに実質GDPは1.4%成長したが、中国経済の成長率が減速しており、楽観視することはできない」という内容の記事が書かれています。


「季節調整系列」と「年率換算」

それでは、ここからこの「GDP実質1.4%増」という話題に、記事作成者である私、「のんき」のフィルターをかけていきます。

いつもお話ししている内容ではありますが、まずこの「実質GDP1.4%」という数字は、「季節調整された実質GDPの『前期比』を『年率換算』したフィクションの数字」です。

私、この「季節調整」だけは、未だにどのような計算方法が用いられているのかということを全く理解することができません。春夏秋冬、もしくは季節催事における独特な要素を排除しているのですが、そんな事人間業でできるのか、という疑問をずっと抱き続けています。

そんな「人為的」な方法を用いて算出された結果に、どれほどの「信憑性」があるのか。全く信用できません。

なぜそんな計算が行われるのかというと、「連続する二つの期間」、つまり春と夏、夏と秋、秋と冬といった異なる季節を同じ基準で比較するために行われているのですが、わざわざそんな計算をすることに何か意味があるのでしょうか?

それよりもむしろ、「今年の春と昨年の春」を比較してどうなのか、「今年の夏と昨年の夏」を比較してどうなのか。同じ季節同士を比較すれば、そんな信憑性に非常に疑いのある結果が出てくるとは思えません。もちろん、私は「GDP」の算出方法そのものに疑問を抱いていますので、前年同期と比較した「だけ」でその払拭できるわけではありません。

ですが、それでも人為的な計算式を用いて「季節調整」が行われた数字よりは「なんぼかまし」、です。

更に「年率換算」とは、そんないい加減な「季節調整」が行われた後の「前期比」の成長率が、「もし1年間継続したらどうなるのか」という、完全にフィクションの数字です。

時間があるかたがいらっしゃったらぜひ計算してみてください。季節調整が行われた「前期比」から1年後の「実質GDP成長率」が1年前の「前期比」と同じ・・・もしくは「近似値」になっている四半期なんてたったの1度もありませんから。

にも関わらず、なんでマスコミはそれほどに「年率換算」の数字を重宝したがるのか、私には全く理解できません。


「実質GDP」と「名目GDP」

あともう一点。「実質GDP」と「名目GDP」について。

この話題は 第218回の記事 で詳細に掲載していますので、改めてご覧いただければと思いますが、

・「名目GDP」とは、「一定の期間に総額で何円の消費が行われたのか」という値。
・「実質GDP」とは、「一定の期間に全部で何個消費されたのか」という値

です。

500円のみかんが4個売れたのか、それともケース売り1Kg2000円のみかんが1ケース売れたのか。実質GDPからそんな情報は一切読み取ることはできません。

私は日本国中で一体「何個分」の「消費」が行われたのかということよりも、日本国中で「総額何円」の消費が行われたのかという情報の方が大切だと思うのですが、なんでマスコミは「実質GDP」に執着するのでしょうか?

私の記事でも「実質GDP」の値は掲載しますが、あくまでもこれは「参考値」。マスコミが必死に「季節調整、年率換算」の数字ばかりをPRしますから、そんなフィクションの数字ではなく、「実際の実質GDPはどうなのか」ということを皆様に知っていただくために掲載しています。この辺りを踏まえて、いかに掲載内容をご覧ください。

もちろん私が掲載する情報はすべて、「原系列、前年同期比」です。


2018年(平成30年)度GDP第3四半期1次速報

【2018年度GDP第3四半期第1次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 142.310 兆円(-0.3%)

 民間最終消費支出 78.831 兆円(1.2%)
 家計最終消費支出 76.273 兆円(1.1%)
  除く持家の帰属家賃  63.760 兆円(1.3%)

 民間住宅 4.373 兆円(-0.7%)
 民間企業設備 22.322 兆円(4.3%)

実質GDP
全体 136.299 兆円(-0.0%)

 民間最終消費支出 76.834 兆円(0.8%)
 家計最終消費支出 74.528 兆円(0.7%)
  除く持家の帰属家賃  61.000 兆円(0.6%)

 民間住宅 3.987 兆円(-2.3%)
 民間企業設備 21.606 兆円(3.4%)

内閣府

どうでしょう?

マスコミ報道とは違った光景が見えてきませんか?

マスコミ報道では実質GDPが「1.4%」成長していたはずなんですが、上記データでは「横這い」になっていますね。厳密に言えば「下落」しています。

名目GDPに至っては0.3%のマイナス。厳密に言わずとも「下落」しています。

では、日本経済は「悪化」しているのでしょうか?

その内訳に目を通していただきたいのですが、実は私たち民間人の経済活動に関して言えば、前年割れを起こしているのは「民間住宅」のみ。これは名実共に前年割れしています。

ですが、それ以外の項目はいかがですか?

ご覧の通り、すべての項目で「名実共に」上昇しています。

私、日本経済新聞記事に対し、「記事内容としては、比較的マトモ」と記していますが、それは上記の通り、「原系列前年同期比」でみても同じ結果が生まれているからです。

偶然ですが、「原系列前年同期比」と「季節調整系列前期比」に、比較的近い構造となっています。

ただ、同じ記事には「GDPの5割超を占める個人消費が前期比0.6%増と、7~9月期の0.2%減から回復」「自然災害が個人消費を下押ししていたが10~12月期は回復」と記されていますが、ここは全くのデタラメ。「前年同期比」でみれば、7~9月の「個人消費」は名目で1.4%、実質で0.5%上昇しています。

自然災害の中でも、個人消費は「昨年の同じ季節に比べて」ちゃんと上昇しています。「下押し」なんてされていません。

また、「住宅投資は1.1%増。2四半期連続でプラスを確保した」と記されていますが、ここも違います。今期も昨期も共に住宅投資は前年割れを起こしています。今期よりマイナス幅が減少しているだけで、前年割れを起こしているという状況は変わりません。

2期連続・・・どころか、5期連続で名実ともに住宅投資は前年割れしてるんです。なんでここをきちんと報道しないんでしょうね?

もちろん、それまでの「住宅投資」が急激に上昇しすぎていましたので、そのことが原因かとは思うのですが、きちんと分析すれば、マスコミ側から政府側に、きちんとした政策提言ができると思うんですが。マスコミの役割ってそういうことじゃないんでしょうかね?


内需が上昇しているのに、なぜGDPは前年割れを起こしているのか?

そう。今回のGDP統計の最大の問題点はここです。

答えは・・・深く考えるまでもありませんね。内需が好調なのに、GDPが前年割れしている原因は「外需」にあります。

ということで、「輸出入データ」を見てみましょう。

【2018年度輸出入第3四半期第1次速報(2018年度:2017年度:前年同期比)】

名目輸出額 25.926兆円 25.728兆円(0.8%)
名目輸入額 26.698兆円 24.559兆円(8.7%)
名目純輸出額 -0.771兆円 1.169兆円(-166.0%)

実質輸出額 23.667兆円 23.599兆円(0.3%)
実質輸入額 24.877兆円 24.015兆円(3.6%)
実質純輸出額 -1.199兆円 -415.8兆円(-99.7%)

「純輸出高」に「前年同期比」という値はないのですが、あえて計算してみました。

「純輸出高」とは、「輸出高」から「輸入高」を引いた金額です。GDPにはこの「純輸出高」が加算されています。つまり、「輸入高」はGDPからマイナスされている、ということです。

NHKの記事では、中国への輸出産業の売り上げが減退しているという記事と、中国からの来訪者が日本国内で起こす消費額が減少している、という記事を合わせて掲載することで、あたかも日本の輸出産業が減退しているかのような記事を掲載していますが、ご覧の通り第三四半期の「輸出額」は名実共に上昇していますね?

では、一体なぜGDPは前年割れしているのか。

いうまでもありませんね。答えは「輸入額の上昇」です。

日本の輸入品目の中で、実にその1/4を占めるのが「鉱物性燃料」。この中で最も大きなシェア率を誇っているのが「原油及び粗油」。石油製品まで合わせると輸入品目全体の15%くらいのシェア率です。

また、第457回の記事 で2018年の「消費者物価指数」の推移を10費目別に表にしてお示ししましたが、その中でも「光熱・水道」の分野が大幅な前年比伸び率を示していることもご確認していただけると思います。

つまり、日本の「GDP」の足を引っ張っているのは「原油価格の高騰」だということ。決して中国経済のせいではありませんね?

ということでタイトルにある「実質1.4%上昇は本当か?」という問いかけですが・・・もちろんデタラメです。

「いやいや、それは『前年同月比』ではないだけで・・・」という方もいらっしゃるかもしれませんが、もう一度記事を最初から見直してください。1.4%という数字は、「季節調整系列を年率換算」した数字で、完全な「未来予測」です。フィクションの数字です。

もし、万が一4期後の数字が実質1.4%を記録したとしても、それは単なる偶然にすぎません。「実質1.4%」という数字は、かなり適当な「未来予測」の数字です。

ですから、決して現在の日本経済の「現状」を反映した数字ではありません。


しかし、いい加減こんなフィクションの数字があたかも現在の日本経済の現状を指示しているかのように思いこませる記事を書くの、マスコミもやめるべきだと思うんですが。




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<継承する記事>第458回 実質賃金マイナス公表の見方~消費されなければ物価にはならない!~

先日より、2度に渡って記事を作成したこの「実質賃金」。私自身が作成した内容を頭の中で反芻し、シミュレートしていたんですが、その中で私、とあることに気づいてしまいました。

私を含め、多分ほとんどの人がこの「実質賃金」という言葉に騙されていたんじゃないかと思うのです。「実質賃金」ですから、どうしても皆さん、「実質的な賃金」と思い込んでしまいがちで、ついつい実質賃金を、「名目賃金を受け取った月に消費に回せるお金」だと思いこんでいたんじゃないかと思うのです。

前回前々回 の記事で、私はこの事に疑問を呈し、そもそも「消費しなければ物価にはならない」ということを散々訴えてきたわけです。

改めて考えていただきたいのは、この「消費しなければ物価にはならない」という言葉の意味です。

実質賃金指数の求め方は、「名目賃金指数÷持家の帰属家賃を除く消費者物価指数」という式で求めることができます。


「持家の帰属家賃を除く消費者物価指数」とは何か?

「持家の帰属家賃」という言葉が乗っかっていますと、すごく難しいもののように感じるかもしれませんが、「持家の帰属家賃」とは、「日本国内では消費されていない物価」です。

シリーズ、「物価」の見方 では散々話題にしていますが、「持家の帰属家賃」とは、「海外の住宅事情と比較するために設けたフィクションの数字」です。詳しくは同シリーズを遡って読んでください。

日本国内では消費されていないわけですから、実質化する際の「物価」からは除外されます。当然ですね。

つまり、「持家の帰属家賃を除く消費者物価指数」とは、例えば1月であれば1月の間に「日本国内で消費された品物やサービスの物価指数」ということになります。

って表現するととてもわかりにくいですよね。そこで、もう少し砕いた表現をします。

「日本国内で消費された品物やサービスの物価」とは、「日本国内で、一人の人が消費した品物やサービスの平均単価」 です。

ですから、この数字に「消費された数」をかけると一人の人が一定の期間に消費した支出の「合計金額」が出てきます。


「実数」と「指数」

では、先ほどの「消費者物価指数」。ではこの値、どうやって算出しているのでしょう?

「名目値」=「実質値」×「物価」

という公式に当てはめれば、「消費者物価指数」は「名目値」を「実質値」で割る事で求められます。

ですが、消費者物価指数が気まなければ「実質賃金」を求めることはできませんから、上記の公式から「消費者物価指数」を求めることはできません。

「消費者物価指数」は、例えば今年の1月であれば、今年の1月の消費者物価を、「基準年の1月の消費者物価」で割ることで求めることができます。そう。今年の1月にも、基準年の1月にも、「消費者物価指数」以外に、「消費者物価」なるものが存在するはずなのです。

では、「名目賃金」と「名目賃金指数」の関係はどうでしょうか?

もちろん「名目賃金指数」は、今年の1月の名目賃金を基準年1月の名目賃金で割ることで求めることができます。





では、「実質賃金」と「実質賃金指数」は? 


「実質賃金」の正体

Aさんという人について考えてみましょう。

Aさんの今年度1月の名目賃金(手取り給与所得)が20万円だったとします。この月のAさんの総消費支出(平均単価×消費数)が15万円だったとします。

では、Aさんの「実質賃金」はいくらでしょう?

GDPの場合は、この場合「総消費支出」が名目GDP、「平均単価」がGDPデフレーター(物価)、「消費数」が実質GDPだと考えることができます。

では、「賃金」の場合は?


ここから後は、私の「憶測」です。数学者でも統計学者でもない、ズブの素人の私の「憶測」だと思ってご一読ください。

ですが、「根拠」がないわけではありません。

私は、「実質賃金」の正体は、「手取り賃金」を受け取った後、同じ月に行った「支出」を全額差し引いた残りこそ「実質賃金」なのではないかと考えているのです。

式で表すのなら、

手取り賃金=「月間手取り給与」-「月間消費支出」


となります。

Aさんが1月給与所得を受け取った後、、1月に物品の購入やサービスに対する支出を行った後、手元にいくらお金が残っているのか、ということです。

つまり、1月の給与所得のうち、貯金に回すことができたお金こそ「実質賃金」なのだと。

実質賃金の正体

手取り賃金=「月間手取り給与」-「月間消費支出」の根拠

例えば、「基準年」1月の名目賃金が20万円、総消費支出が15万円だったとします。この場合、貯蓄に回すことができる金額は5万円です。この場合の「実質賃金指数」は名目賃金÷総消費支出(×100)ですから、約133.3となります。

以降4年間の1月の賃金を以下のように設定してみます。

名目賃金
基準年 20万円
2年目 25万円
3年目 30万円
4年目 10万円
5年目 50万円

つづいて、「総消費支出」を以下のように設定してみます。
総消費支出
基準年 15万円
2年目 18万円
3年目 29万円
4年目 12万円
5年目 10万円

ここから、「貯蓄額」を計算します。
貯蓄額
基準年 5万円
2年目 7万円
3年目 1万円
4年目 -2万円
5年目 40万円

では、次に「実質賃金指数」を算出してみます。(小数点第2以下は切り捨てます)
実質賃金指数
基準年 133.3
2年目 138.8
3年目 103.4
4年目 83.3
5年目 500.0


着目していただきたいのは、「貯蓄額」と「実質賃金指数」の相関関係です。

数値の大きい順に並べ替えてみます。
貯蓄額
5年目 40万円
2年目 7万円
基準年 5万円
3年目 1万円
4年目 -2万円

実質賃金指数
5年目 500.0
2年目 138.8
基準年 133.3
3年目 103.4
4年目 83.3

人によると、「当たり前やん!」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。数学が得意な方であれば、わざわざ私がこうやって計算し、並べなおすまでもないでしょう。

そう。「貯蓄額」と「実質賃金指数」の相関関係は全く一緒なんですね。その順序が崩れることはありません。

もし仮に、私の「推測」が誤りであったとしても、それぞれが同じ関係性を持つ数字であることは疑いようがありません。


「総消費支出」の内訳

では、こんなことを暴き出して、私が一体何を主張したいのかと申しますと、ここ。

 「総消費支出の内訳」

の話です。

 「実質賃金」=「名目賃金」-「総消費支出」

であることは証明させていただきました。

問題となるのは、この式のうち、「総消費支出」。その内訳についてです。

問題1
Aさんが受け取った名目賃金が、40万円だったとします。Aさんはこの月、20万円のパソコンを1台、5万円のゲーム機を1台、営業車でガソリン代を3万円、家庭用の灯油を2万円消費しました。

この月のAさんの「実質賃金」はいくらでしょう。


答えは、

 名目賃金(40万円)-総消費支出(20万円+5万円+3万円+2万円)=10万円。

つまりこの月のAさんの実質賃金は10万円です。

問題2
Aさんが受け取った名目賃金が15万円だったとします。Aさんはこの月営業車のガソリン代を3万円、食費に2万円消費しました。

この月のAさんの「実質賃金」はいくらでしょう。

もうわかりますね。この月のAさんの実質賃金もまた、10万円です。

問題1も、問題2も共に営業車のガソリン代を3万円消費していますが、問題1ではそれ以外にパソコンを1台、ゲーム機を1台購入していますね。つまり、「娯楽」のために消費活動を行っているのです。

ところが、問題2ではガソリン代以外に食費として2万円しか消費していません。この月は生活するのに精いっぱいだったことがわかります。

ですが、どちらの月も「実質賃金」は同じ10万円なのです。


現在、野党マスコミの皆さんは、厚労省の毎月勤労統計で不正が行われ、「実質賃金がマイナスであったことが隠されていた!」「アベノミクスは失敗だ!」と大騒ぎしています。

ですが、どうでしょう?

実質賃金がマイナスだったということは、本当に「アベノミクスの失敗」を意味しているのでしょうか?

国民は、そもそも何に対して「消費活動」を行ったのでしょうか?

「実質賃金がマイナス」という、一見するとネガティブな言葉にかみついて、具体的な内容を検証することもなく、批判するだけであれば国会議員である必要はありません。中学生でもできます。

本当に疑問です。彼ら、彼女らに「国会議員」である資格はあるんでしょうか?




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<継承する記事>第457回 「実質賃金がマイナスになった!」とバカ騒ぎする前に知るべき事

昨日(2019年1月31日)に引き続き、話題となっていたのが以下の記事。

【共同通信記事より 2/1(金) 2:00配信】
政府、賃金マイナス公表へ 18年実質、0.5%程度

 毎月勤労統計を巡り、厚生労働省が前年同期と比べた実質賃金の伸び率を実態に近い形で計算し、結果を来週にも国会に示す方針を固めたことが31日、分かった。現在示している「参考値」よりも2018年1~11月の平均で0.5%程度マイナスとなる。専門家から今の統計の数値が「実態に合わない」と批判が根強く、見直しは避けられないと判断した。

 アベノミクスの要である賃金の伸び悩みを認めれば安倍政権にとって大きな打撃となる。野党が「賃金偽装」との追及を強めるのは必至だ。政府は「勤労統計は景気判断の一要素にすぎない」とかわし、所得が改善しているとの見解を維持するとみられる。

記事だけ読むと、まるで厚労省が修正後の毎月勤労統計の内、実質賃金指数のみを公表せずに隠しているかのように読めますが、そんなことはありません。 前回の記事 でも掲載しましたように、厚労省は既に修正後のデータを、実質賃金指数まで含めて公表しています。

問題となっているのは、公表しているデータの対象となっている企業が17年と18年とで異なっているんじゃないか、ってことなんですが、共同通信社はこの事理解して記事にしているんでしょうかね?

で、17年までの企業と同じ企業を対象に算出した「参考値」が、名目賃金しか公表されておらず、実質賃金指数を公表しないのは、18年の実質賃金指数が18年と比較してほとんどの月でマイナスとなっているのを隠すことを目的としているんじゃないか、アベノミクスが失敗だったことを隠そうとしているんじゃないか、というのが野党の主張です。

代表的な事例が以下の通り。共産党、志位委員長のツイートを引用します。

前回の記事では、「実質賃金がマイナスになった」ことに関して、名目賃金側から見た捉え方と実質賃金が下落したそもそもの理由について記事にしました

捉え方として、

1.毎月勤労統計はそもそも常勤雇用者が5名以上の企業しか調査対象としておらず、その魅力は「速報性」にこそある。
2.厚労省の毎月勤労統計以外に、国税庁も給与所得に対する統計を公表しており、その対象は「従業員1名以上の企業」となっている。(国税庁データの方が厚労省データより正確である)
3.国税庁データによれば、2017年の「平均給与所得」は既にリーマンショックが起きた2008年を上回っている。

ということをお示ししました。ちなみに、厚労省の毎月勤労統計では、仮に調査対象を17年と同じ調査対象で比較したとしてもすべての月で名目値が2017年を上回っています。参考に前回の記事で使ったグラフをもう一度掲載しておきます。

給与所得比較

人によれば、「リーマンショックが起きた年なんだから、平均給与所得は元々低かったんじゃないか」と勘繰る人もいるかもしれませんが、グラフを見ていただければ、「リーマンショックが起きた年を上回っている」という言葉の意味をご理解いただけるのではないかと思います。

志位委員長は、『実質値では「今世紀最悪のレベル」』と言っていますが、一体何の資料を見てそんな大ぼらを吹いているんでしょうね。大ぼらを吹いているのはむしろあなただろう、と。

もちろん国税庁データは「名目値」になりますから、この情報を実質化すれば結果は異なりますが、名目値がリーマンショックが起きた年を上回ったのに、いくら何でも「今世紀最悪のレベル」という表現は悪質すぎると思います。

また更に、実質賃金が下落した理由として、「原油価格の上昇」が「持家の帰属家賃を除く消費者物価指数」を上昇させ、結果として実質賃金を下落させたんだ、ということを掲載しました。

前置きが長くなりましたが、今回の記事では、この「実質賃金の下落」の捉え方についてポイントを絞って記事を作成してみたいと思います。


「物価」とはそもそも何なのか?

当カテゴリー、「実質賃金と名目賃金」としては既に何度もお伝えしていると思うのですが、実質賃金が下落する要因となる「物価」について。

そもそも「物価」には、「消費されたもの」しか反映されません消費されていないものは「物価」には反映されないということです。

この考え方ってとても重要なんです。

例えば店頭に、「100円」と値札が付いているパンが販売されていたとします。ですが、この日はパンの売れ行きが悪く、パンがたくさん余ってしまったので、100円のパンを半額にして販売したところ、ようやく買ってもらえたとします。

すると、このパンの「物価」は「100円」ではなく「50円」になります。

当たり前じゃん、って思うかもしれませんが、これを理解できていない人って結構多いのではないでしょうか?ですから志位委員長みたいなバカな投降を平気で行える人がたくさんいるわけです。


更に深めてみます。100円のパンを半額に値引きして販売しましたが、結局買い手がつかず、このパンは廃棄されてしまったとしましょう。

では、このパンの物価は一体何円なのでしょうか? 100円? 50円? 違います。「0円」です。だって売れていないんですから。


家電製品で考えてみます。店頭に10万円の値札が付いたテレビが置いていたとします。

この日は決算セールで、大安売りをしていました。キャッチフレーズは「店頭の値札価格より更に50000円引き!」です。

この人は10万円と値札のついたテレビを5万円で購入することができました。では、このテレビの物価はいくらになるでしょうか?

そう。10万円ー5万円でこのテレビの「物価」は「5万円」です。


では、このテレビが決算セールの値段でも売り切れず、翌日も店頭にそのまま並べられていたとします。値札には「10万円」と書かれています。

では、このテレビの「物価」は一体いくらになるのでしょう。答えは簡単です。「0円」です。だって売れていないんですから。

「業者から仕入れてるじゃん」と考える人もいるかもしれませんが、業者から仕入れた価格は、業者から購入した時点で既に「物価」として計上されています。購入した後、店舗で単に保有しているテレビなんですから、やはり物価は「0円」です。

レジを通って、販売されて初めて「物価」として計上されるんです。


もちろん「物価」はこんなに簡単には決まりません。正確な「物価」の決まり方は改めてシリーズ、「物価の見方」を遡ってご一読いただければと思いますが、簡略化して、最も単純な決まり方をご説明しますと、上記の通りです。

私が何を言いたいのか。改めて同じことを繰り返しますが、「消費されていないものは『物価』には反映されない」ということです。


「名目賃金が上昇」して、「実質賃金が下落」するとは?

例えば、今年度12月の名目賃金が3%上昇し、物価が5%上昇した結果、実質賃金が2%下落したとします。

多分、多くの人が考えるのは、

「いくら名目賃金が上昇しても、実質賃金が下落したら景気は悪くなるじゃないか!」

ということだと思います。前回の記事で、私も実質賃金のと名目賃金の考え方を、

「名目値」とは、「もらった賃金のうち、何円が支出に回せるのか」という値。「実質値」とは、「受け取った給料でいくつ買えるのか」という値

と記しました。つまり、名目賃金が上昇した以上に物価が上昇したら、消費できるサービスが減るじゃないか、ということです。

例えばアルバイト従業員の給料がひと月に1万円だとして、先ほどの100円のパンの事例で言えば、物価が上昇する前は100円のパンが100個変えていたわけですが、物価が上昇した結果、パンの値段が120円に上昇した結果、同じパンが83個しか買えなくなるわけです。

さて。ここで質問です。この考え方は正しいでしょうか。間違っているでしょうか?


よく考えてみましょう。この記事で何度もご説明していますが、物価は、「消費」されなければ「物価」にはなりません。

このアルバイト従業員は、ひと月に1万円しか給料を受け取っていません。1万円の給料で購入できる120円のパンは83個です。では、このパンの物価は「120円」なのでしょうか?

思い出してみてください。私は「物価」の説明の中で、「売れていないものの物価は0円」だと説明しましたね?

パンの値段が100円の時は、100円のパンを100個購入することができていましたから、パンの消費量は「100個」です。

ですが、パンが120円に値上がりした結果、実際に購入することができたパンは83個で、残り17個のパンは消費されませんでした。

つまり、残り17個のパンの販売価格は「0円」です。

このアルバイト従業員が前年に消費したパンの数は100個で、単価が100円でしたから、このパンの物価は「100円」です。

ですが、今年に消費することができたパンの数は83個。単価が120円ですから、総額で9960円購入しています。ですが、店頭には消費されていない「0円のパン」が17個存在しています。

では、このパンのこの月の「物価」は一体いくらになるでしょう?

もうお分かりですね。計算式では9960÷100ですから、この月のこのパンの物価は99.6円です。単価は120円に上昇しましたが、物価は下落していますね。


「消費されていないものは物価には反映されない」という意味

私が何を言いたいのか、もうお分かりですね。100円のパンが120円に値上がりしたとしても、物価が120円となるためには、前年と同じ数消費されなければ120円にはならないということです。

では、月収10000円のアルバイト従業員が前年に100個消費した100円パンの物価が120円になるためには、どうすればよいでしょうか?

答えは簡単です。月収10000円のアルバイト従業員が120円のパンを前年同様100個消費すればいいだけのことです。

月収10000円のアルバイト従業員が、12000円お金を使えばこのパンの物価は120円になるのです。


ご理解いただけましたでしょうか?

「名目賃金」が上昇し、「実質賃金」が下落することができる状況は、実は3つしか存在しません。

1 昨年貯蓄に回した給与を支出に回した

2 給与の内、昨年までは貯蓄に回していた給与を消費に回す様になった

3 借り入れを起こしてでも消費する様になった

このような経済状況を、

 「貯蓄性向が減少し、消費性向が上がった」

と表現します。

中には、「それって貯金が減るってことじゃん!!」ということをいう人もいるかもしれませんが、そもそも貯金がなければ、受け取る給与以上に消費を増やすことはできませんから。

同じ月に、名目賃金が上昇した以上に物価が上昇していたのだとすれば、それはその月に受け取った給与所得以上に消費に回す余裕があったという事実に他なりません。

もしくは2番にあるように、昨年まで貯蓄に回していた給与を消費に回すゆとりが生まれたということ。

いかがでしょうか? 確かに今回厚生労働省が行った「不正」は、許してよいものではないのかもしれません。ですが、だからアベノミクスが失敗であったかのように喧伝するのはいかがなものでしょう。

志位委員長の様な人物が、いかに「経済」を分析する能力がないのか。このように考えるとよく理解できるのではないでしょうか。

本当に糾弾されるべきは、経済減少をまともに検証することもせず、思い込みだけで条件反射のように政権批判を行う、現在の特定野党の面々ではないのでしょうか?

あんな人たちになぜ議席が与えられるのか。私には全く理解できません。



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今朝、ネット情報をチェックしていますと、以下のようなニュースが話題になっていました。

【読売新聞ニュース 1/30(水) 21:55配信】
実質賃金、実は18年大半がマイナス…野党試算

 立憲民主、国民民主などの野党は30日、毎月勤労統計の不適切調査問題をテーマとした合同ヒアリングを国会内で開き、2018年1~11月の実質賃金の伸び率が大半でマイナスになるとの試算を示した。

 厚生労働省は23日、不適切調査問題を受けて再集計した実質賃金の伸び率を公表した。これによると、3、5~7、11の5か月で前年同月比がプラスだった。最もプラス幅が大きかったのは6月の2・0%。

 これに対し、野党の試算では、6月と11月を除き、すべて前年同月比でマイナスとなった。最もマイナス幅が大きかったのは1月で、1・4%だった。

 厚労省の調査は、前年の17年と18年で対象となる事業所を一部入れ替えている。野党は17、18年を通じて調査対象だった事業所のデータを試算に使った。

 厚労省の担当者は、野党の試算について「同じような数字が出ることが予想される」として事実上、追認した。野党は「政府が公表した伸び率は実際より高く出ている」と批判している。

大元となるのは、厚生労働省が民間企業の「賃金指数」を集計した「毎月勤労統計調査」において、

1.東京都における
2.500人以上の規模の事業所に対して
3.本来であれば全数調査にすべきところを
4.一部の企業のみを抽出して調査していた

という、「不正」が根源にあるわけですが、引用したニュースはこの事例について言及されているニュースではありません。


1月31日のニュースの概要

わかりにくいと思いますので、一つずつご説明します。

まず、厚生労働省は前記した「不正」に関して、既に修正を行っており、2019年1月23日に修正結果を毎月勤労統計調査のホームページに修正後のデータを公表しているわけですが、引用した記事で問題とされているのは、2018年度の毎月勤労統計調査において、対象とするサンプルを2017年度とは入れ替えていることにあります。

2017年度までは同じ対象となる企業について調査を行っているのですが、2018年度はその対象を入れ替えましたよ、ということです。

そして、今回の「不手際」が発覚したのは、その「対象の入れ替え」が行われた結果、17年度と比較して賃金指数が大きく跳ね上がったからです。

しかも、この「不正」が平成16年、西暦で2004年。小泉内閣当時から継続して行われていた・・・ということが発覚しました。

本来であればその「不正」について追求し、今後同じようなことが起こらないように厚生労働省に反省を促すのが本来の国会の在り方だと思うのですが例によって野党の皆さんは、この情報を安倍内閣を攻撃する材料として利用し始めています。

これが、引用した「実質賃金」に関するニュースです。


安倍内閣は、アベノミクスによる効果をねつ造するために対象企業を入れ替えた?

「賃金指数」の中で、誤って算出されていたのは「きまって支給する給与」で、軒並み公表されていた「月間平均給与」を再集計されたものが上回っています。

野党がピンポイントで着目したのは、その結果、2018年の「賃金指数」が、2017年と比較して伸びたのか下落したのかというところ。

政府が公表したデータは、もちろん「対象とする企業を入れ替えて」算出したもの。2018年は1月から最新の11月まで含めて前年を大きく上回っています。最大で6月の2.8%です。

しかし、当然野党はこう主張します。「サンプルが変わったから結果が変わったんだろう!」と。

そこで厚労省が示した、同一のサンプルを用いた場合の「参考値」が以下の通り(すべて前年同月比です)。

1月 0.3%
2月 0.8%
3月 0.2%
4月 0.4%
5月 0.3%
6月 1.4%
7月 0.7%
8月 0.9%
9月 0.1%
10月 0.9%
11月 1%

全月プラス成長となっていますが、この値は、すべて「名目値」です。

そう。野党やマスコミが大好きなのは「名目値」ではなく、「実質値」なんですね。

ちなみに、「名目値」とは、「もらった賃金のうち、何円が支出に回せるのか」という値。「実質値」とは、「受け取った給料でいくつ買えるのか」という値。

野党やマスコミは、「何円使えるか」より、「何個購入できるのか」ということの方が大事だ、と鉄板で主張します。

厚労省は「実質値」を出すのを渋るわけですが、実質値を出すための計算式は決まっていて、「名目賃金指数÷持家に帰属する家賃を除く消費者物価指数」という公式で簡単に算出できます。私自身も計算してみましたが、野党の計算結果とほぼ同じ結果になりました。

実質賃金は、「6月」と「11月」以外、すべての月で実質賃金指数は前年度割れ、となっていたんですね。ちなみにサンプルを入れ替えた後だと1マイナスとなっているのは1月、2月、5月、8月、10月の5か月のみ。で、「サンプルを入れ替えたのは実質賃金がマイナスになっていることを隠すためだろう!!」と野党はわめき散らしているわけです。

データを入れ替えて集計を始めたのは2018年1月になってからで、その時に2月~11月までのデータなんてわかるわけがないんですけどね。超能力者でもない限り。


「実質賃金」がマイナスになると何か問題なのか?

実質賃金については私、シリーズ 実質賃金と名目賃金 において散々話題にしています。

第363回の記事 でも記していますが、実は私、元々厚労省の「毎月勤労統計」については全くあてにしていません。

参考程度にしかならないと思っていましたから、今回厚労省による不正が発覚したところで、「え、今更?」というのがニュースを見た第一印象でした。

というのも、そもそも厚労省のデータは「常勤雇用者数が5名以上の企業」しか対象としておらず、「常勤雇用者が5名未満の企業」は対象になっていません。

ですが、政府データには厚労省データとは別に、「国税庁」が公表している「従業員1名以上の企業」を調査対象としたデータがございまして、こちらの方が正確で、より実態に近い数字となっています。(参考:第43回 実質賃金と名目賃金⑤~厚労省データと国税庁データの違い~

なので、私は賃金の情報を見るときは、厚労省の毎月勤労統計ではなく、国税庁の「民間給与実態統計調査」の方を参考にしています。

このデータですと、業態別だけでなく、受け取っている給与階層別の労働者数なども見られますので、私はとても重宝しています。シリーズ、中間層の見方 で具体的に作成しましたね。今から3年以上前のデータにはなりますが。

ただ、国税庁データの欠点は、集計時間が長く、年に一度しか発表されないこと。昨年2018年のデータが掲載されるのが今年の9月です。

毎月勤労統計は、国税庁のデータほど正確ではないものの、その「速報性」にこそ魅力があるんですよね。

ちなみに、両方の統計データを比較すると、このようになります。

給与所得比較

厚労省データは平成19年(2007年)のデータが17年基準(20年以降は22年基準)のデータしかなかったので、私の手元で計算することは避け、空欄にしています。

厚労省データは「指数」、国税庁データは「年間平均給与所得」です。ともに年間のデータを用いています。「指数」も、基本的には「給与所得」実学をベースに算出されたものですので、単位は違いますが、伸び率や減少率はほぼ同じ基準で比較することができます。

ご覧いただくと一目瞭然ですが、平成29年(2017年)のデータと平成20年(2008年)のデータを比較した場合。「2008年」。つまり、リーマンショックが起きたその年です。

厚労省データは2008年が「103.6」で、2017年が「101.1」。割合にして2.4%、2017年の値が2008年の値を下回っています。

ところが、国税庁データでは2008年が429.6万円。2017年が432.2万円ですから、今度は2017年の値が0.6%、2008年の値を上回っています。

この違いはいくら経済感覚に疎い人にだって理解できるのではないでしょうか?厚労省データと国税庁データの違いは、「常勤雇用者5名未満の企業」が含まれているのか、含まれていないのか、その違いだけです。

2017年と比較して、2018年の「実質賃金」が下回っているからアベノミクスは失敗だ、と野党やその支援者たちはわめき散らしているわけですが、国税庁データによれば、2017年の実績は既にリーマンショックが起きた年の数字を上回っているんですよ?

更に、2018年は実質賃金こそ2017年を下回ったかもしれませんが、名目賃金指数においては2017年の給与所得を上回っています。

実質賃金が下回ったから、一体何だと言いたいのでしょう、彼らは?


今回の「実質賃金の下落」が意味すること

さて。それでは一体なぜ、名目賃金が上昇したにも関わらず、実質賃金指数が下落したのでしょう?

今更言うまでもありませんが、それは実質賃金の算出方法にからくりがあります。

既に掲載していますが、実質賃金指数は、

 実質賃金指数=名目賃金指数÷持家の帰属家賃を除く消費者物価指数

で算出されます。

名目賃金指数が上昇したのに実質賃金指数が下落した理由は単純で、持家の帰属家賃を除く消費者物価指数の上昇率が、名目賃金指数の上昇率を上回ったからです。

私のブログを読み込んでくださっている方であれば、私が次にどんな情報を持ち出すか、予想はついていらっしゃるかと思います。

そう。「消費者物価指数」の「十大費目別消費者物価指数」です。

物価が上昇するには、上昇する鳴りの理由があるんです。そしてこの「消費者物価指数」に関してもまた、私は散々シリーズ、「物価の見方」の中でご説明しましたね?

データは、あえて1年分を掲載しますから膨大になります。後で解説しますが、どの項目にプラスが多く、どの項目にマイナスが多いのか、ということに着目しながら、画面をザっとスクロールしてみてください。

平成30年(2018年)の消費者物価指数

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】
食料 ウェイト:2623
1月 3.2
2月 3.0
3月 1.9
4月 0.7
5月 0.8
6月 0.4
7月 1.4
8月 2.1
9月 1.8
10月 2.4
11月 0.5
12月 -1.1

 生鮮食品 ウェイト:414
 1月 12.5
 2月 12.4
 3月 6.3
 4月 -1.5
 5月 -0.7
 6月 -1.2
 7月 4.3
 8月 8.7
 9月 5.6
 10月 10.8
 11月 -1.4
 12月 -9.4

 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 1月 1.3
 2月 1.2
 3月 1.1
 4月 1.1
 5月 1.1
 6月 0.7
 7月 0.8
 8月 0.9
 9月 1.0
 10月 0.9
 11月 0.9
 12月 0.7

住居 ウェイト:2087
1月 -0.1
2月 -0.1
3月 -0.2
4月 -0.2
5月 -0.1
6月 -0.1
7月 -0.1
8月 -0.1
9月 -0.1
10月 -0.2
11月 -0.1
12月 -0.1

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
 1月 0.1
 2月 0.1
 3月 -0.1
 4月 0.0
 5月 0.1
 6月 0.1
 7月 0.1
 8月 0.1
 9月 0.1
 10月 -0.1
 11月 0.0
 12月 0.1

光熱・水道 ウェイト:745
1月 4.6
2月 4.3
3月 4.0
4月 3.6
5月 3.1
6月 3.3
7月 3.1
8月 3.4
9月 3.7
10月 4.4
11月 5.0
12月 5.0

家具・家事用品 ウェイト:348
1月 -1.2
2月 -1.7
3月 -1.4
4月 -1.5
5月 -1.5
6月 -1.0
7月 -1.1
8月 -1.1
9月 -1.0
10月 -1.0
11月 -0.7
12月 0.1

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 1月 -2.0
 2月 -3.8
 3月 -3.3
 4月 -3.8
 5月 -3.5
 6月 -2.9
 7月 -2.1
 8月 -2.5
 9月 -2.0
 10月 -2.0
 11月 -0.6
 12月 0.5

被服及び履物 ウェイト:412
1月 0.5
2月 0.3
3月 0.0
4月 0.1
5月 0.1
6月 0.0
7月 0.3
8月 -0.1
9月 0.1
10月 0.1
11月 0.1
12月 0.1

保健医療 ウェイト:430
1月 1.6
2月 1.8
3月 1.7
4月 1.9
5月 1.9
6月 2.0
7月 2.0
8月 1.1
9月 1.0
10月 1.1
11月 1.2
12月 1.3

交通・通信 ウェイト:1476
1月 0.7
2月 1.5
3月 1.7
4月 1.1
5月 1.3
6月 1.4
7月 1.5
8月 2.0
9月 2.1
10月 1.9
11月 1.2
12月 -0.1

 自動車等関係費 ウェイト:836
 1月 2.0
 2月 2.6
 3月 1.8
 4月 2.1
 5月 2.7
 6月 4.0
 7月 4.3
 8月 4.2
 9月 4.5
 10月 4.6
 11月 3.3
 12月 1.3

教育 ウェイト:316
1月 0.4
2月 0.4
3月 0.3
4月 0.3
5月 0.3
6月 0.5
7月 0.5
8月 0.5
9月 0.5
10月 0.5
11月 0.5
12月 0.5

教養娯楽 ウェイト:989
1月 0.5
2月 1.3
3月 0.5
4月 0.2
5月 0.0
6月 0.8
7月 0.6
8月 1.6
9月 1.0
10月 1.4
11月 1.0
12月 0.9

 教養娯楽用耐久財 ウェイト:59
 1月 -1.1
 2月 -1.5
 3月 -2.5
 4月 -5.0
 5月 -3.8
 6月 -2.9
 7月 -2.4
 8月 -2.1
 9月 1.7
 10月 -0.3
 11月 -1.0
 12月 -0.3

諸雑費 ウェイト:574
1月 0.5
2月 0.6
3月 0.5
4月 0.1
5月 0.3
6月 0.4
7月 0.3
8月 0.0
9月 0.2
10月 0.8
11月 0.9
12月 0.8

段違いになっているところ、例えば「家具・家事用品」の下にある「家庭用耐久財」は、「家具・家事用品」の中に含まれる項目をピックアップしたものです。

「10大費目」とは、「食糧」「住居」「光熱・水道」「家具・家事用品」「被服及び履物」「保健医療」「交通・通信」「教育」「教養娯楽」「諸雑費」の10の項目の事。

この10の項目のうち、物価を大きく上昇させる要因となっている項目が「光熱・水道」であることがご覧いただけると思います。

この他、「食糧」の中の「生鮮食品」や、「交通」の中の「自動車関係費」。

「光熱・水道」や「自動車関係費」を上昇させる主要因となっているのは「原油価格」。特に2018年は大きく「円安」に物価が振れることもありませんでしたから、原油価格が上昇する原因は、「海外の原油取引価格の上昇」が原因です。アベノミクスとは全く関係ありませんね?

更に、「生鮮食品」が高値を付けているのはアベノミクスのせいではなく、「気象条件」が原因です。

つまり、海外や気象条件が要因となり、名目賃金の上昇率を上回る物価上昇を見せたため、実質賃金指数が下落することになった・・・というのが今回のデータの正しい見方です。

物価が下落する主要因となっているのは「家庭用耐久財」や「教養娯楽用耐久財」。つまり、「家電製品」の大安売りがそもそもの原因です。つまり、ジャ〇ネットタ〇タのせいですね。

このように、物価が下落するにも上昇するにも、きちんとした理由があります。確かにアベノミクスが目標に掲げているのは「生鮮食品を除く消費者物価指数の2%上昇」かもしれませんが、仮にこれが達成できなかったとしても、物価が下落して尚手取りが増えるのであれば、これほど喜ばしいことはないのではないでしょうか?

「アベノミクス」が本当に目指しているのは「自立した経済成長」です。「これがアベノミクスである」と訴えられている内容は、そのアベノミクスが目指す社会の一側面を示しているにすぎません。

その結果、アベノミクス目的として示していないところで経済成長の要素が見えたとして、何か問題があるのでしょうか?

・・・と、本来はこういう批判をしたいわけですよ。

なのになぜか今は「物価が上昇して生活が苦しくなっていることがわかったぞ!!どうしてくれるんだ!!」という主張のオンパレード。

いやいや、確かに原油価格の上昇が経済に悪影響を与えているかもしれないけど、家電製品と携帯電話、その通信料以外はちゃんと成長しているでしょ、と。成長しているから消費者物価指数は上昇するんですよ、と。

「木を見て森を見ず」・・・というか、「森を見て木を見ず」というか。「全体像」をきちんと把握せず、安倍内閣を批判することのできる経済現象が登場したからといって、そこに食らいついて安倍内閣を批判することに終始するのはいい加減やめてほしい。

「賃金が増えているんだから、その増えた賃金を消費に回すにはどのようにすればいいか」ということを全体で話し合える、そんな国会であってほしいと、私は切に願っております。



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<継承する記事>第455回 ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由

今回の記事は、前回の記事で触れました通り、ドイツがロシアに宣戦布告を行うと同時に宣戦布告を行った理由である、「シュリーフェン・プラン」について記事にしたいと思います。


プロイセンはなぜ普墺・普仏戦争に勝利できたのか?

ビスマルクがリーダーを務めていた当時のプロイセンが、プロイセンの「不安要素」を取り除くため、「ドイツ統一」に向けて歩みを進めることとなったのは このシリーズ を読んでいただいている方にはご存知の通り。

どちらの戦争も、プロイセンは実に鮮やかな勝利を収めました。

では、ビスマルク軍は一体なぜ両戦争にあそこまで「圧勝」することができたのか。

これは、ひとえに名参謀、「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)」の存在あってこその勝利だったのですが、では彼の一体何がビスマルク軍に圧勝をもたらしたのか。

これをたった一言で述べるとしたら、「事前準備」。これ以上の表現はないと思います。

特に、普墺戦争当時のプロイセンが相手にしたのは単に「オーストリア」だけでなく、同じ「ドイツ連邦」を構成する、数多のドイツ連邦諸国まで含まれていました。オーストリアとフランスの事前密約まであったことを考えると、これは決して有利な戦争ではなかったと思います。

傍から見れば、「なんて無茶なことを」と思われたのではないでしょうか?

ですが、それでも圧勝できた理由は、普墺、普仏ともに相手側との「兵器力」の差。そして短時間で兵力を確保するための「徴兵制度」の実施。通信網や鉄道の整備など、ビスマルク軍はその「事前準備」を綿密に行ったうえでオーストリアやフランスを挑発し、戦争を仕掛けさせたわけです。

もう一つ、ビスマルクが戦争の「引き際」をわきまえていたこともその理由としてあるわけですが、今回は「モルトケの功績」の方に着目します。

特に特徴的なのは、普墺戦争でビスマルク軍が用いた「ドライゼ銃」。(この辺りは第422回の記事 をご参照ください)

その能力に慄いたフランスは、ドライゼ銃を上回る性能を持つ「シャスポー砲」を開発したのですが、普仏戦争が勃発した時点でビスマルク軍はその性能差を埋めて余りある、「クルップC-64野砲」という大砲を完成させていた、というエピソード。

つまり、普墺戦争で圧勝しておきながら、その時の功績に甘んじることなく、普仏戦争の際にはこれを上回る「戦略」を既に計画していたということです。


「シュリーフェン・プラン」という妄想

さて。私がなぜ本題に入る前に、わざわざビスマルク時代のプロイセンの話を再び持ち出したのか。

普墺・普仏戦争においてプロイセン軍が事前の予測を大きく裏切り、オーストリア・フランスに対して圧勝した理由。それは何よりも「事前準備」を綿密に行っていたからです。

ここまで言えばお分かりですね。ビスマルクが失脚し、当時の軍略家、大モルトケもいないドイツにおいて、ドイツを率いたヴィルヘルム2世が用いた軍略=「シュリーフェン・プラン」とは、まるで普仏戦争においてプロイセンを相手にしたフランスを彷彿とさせる軍略。

「妄想」に近いものでした。

「シュリーフェン・プラン」とは、その名前の通り、ビスマルク後のドイツにおいて、一時参謀総長を務めた「シュリーフェン」という人物が考えた軍略です。

アルフレート・フォン・シュリーフェン


この軍略が練られたのは1905年の事。1890年にビスマルクが失脚し、ビスマルクが意固地なほどに徹底した「フランスの孤立政策」を撤回し、ロシアよりもオーストリアとの同盟関係を重要視したヴィルヘルム2世。

この事でビスマルクが危惧した通り、ロシアはフランスとの間で同盟関係を結ぶにいたりました。既に記事にしています通り、ロシアとフランスの位置はドイツをサンドイッチ状態にする位置。

両国が連携してドイツに挟撃を仕掛ければ、一気にドイツの立場は危うくなります。普仏戦争で買った恨みから、フランスと同盟関係を築くことはできませんので、ビスマルクはロシアと同盟関係を築き、フランスと同盟させないことを何よりも大切にしていたのです。

しかし、現実問題としてビスマルクが危惧していた状況に陥ってしまった以上、ドイツにとって最悪の事態、つまりフランスとロシアが同時に軍事行動を起こし、ドイツに迫ってくる事態に備えないわけにはいきません。

そこで、シュリーフェンがこの事態を想定して考えたのが「シュリーフェン・プラン」です。

以下、Wikiより「シュリーフェン・プラン」について引用しておきます。
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。

これは、ロシアの未発達な電信網や鉄道事情などから、ロシアが総動員令を発令してから攻勢に出るまでには6週間かかると予測したからである。

こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、東部戦線と西部戦線左翼を犠牲にして、強力な西部戦線右翼で中立国ベルギーとオランダに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。

作戦の所要時間は1か月半とされた。

これは、かなりロシアの事を舐めた視点で計画されていますよね。ただ、この計画が立てられたのは1905年ですから、この時点では的を射た政策だったのかもしれません。

ですが、この「シュリーフェン・プラン」が実際に用いられた第一次世界大戦が起きたのは1914年7月末の事。同計画が練られてから、実に10年近くも年月が経た後のことです。

改めてこちらの地図を。

1900.jpg

仮に対露仏開戦に至った場合、シュリーフェンの計画によれば、ドイツ軍はフランスとの国境やロシアとの国境は一時的に放置して、対露仏戦争とは全く無関係なオランダ・ベルギーを武力によって制圧し、ベルギー側からフランスに侵攻。国境付近でドイツ軍に向けて進軍するフランスを背後からたたき、壊滅させた上で急いでロシアとの国境に向かい、ロシアを叩く・・・と。

シュリーフェンの計画によれば、ロシアが総動員をかけて進軍を開始してからドイツにまで到達するのに6週間かかると想定されていますので、その間にオランダ・ベルギーを侵攻した上で全力でフランス軍に当たって、4.5週間でフランス軍をせん滅し、その足でロシア国境に向かう・・・ということですね。


小モルトケによるシュリーフェン・プランの改良

で、実際にこの計画の実行にあたったのは1906年に参謀総長となった大モルトケの甥、小モルトケ。

Wikiによれば、小モルトケはこの「シュリーフェン・プラン」の相当な改修を行った、とあるのですが、内容を見てみると、

・フランスが真っ先に狙うであろうアルザス・ロレーヌ地方(普仏戦争でビスマルク軍がフランスより獲得した土地)の防衛をオーストリア軍に任せる予定だった→ドイツ軍部隊を新設し、その舞台に防衛に当たらせる。

・フランスの裏をかくためにオランダとベルギーを侵略する予定だった→オランダは侵略せず、代わりにルクセンブルク(ベルギーとフランスとドイツに囲まれた小さな領土)を侵攻する。

といった程度の内容で、どう考えても「相当な改修」には見えません。

ですが、ヴィルヘルム2世軍はこんな稚拙な計画の下、対ロシア戦を開始するのです。


ドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

では、改めまして、なぜドイツはフランスに宣戦布告を行ったのか。

もうお分かりですね。なぜならば、シュリーフェン・プランで最初に攻めこむ計画になっていたのがロシアではなく、フランスだったから。

シュリーフェン・プランでロシアに戦争を挑む以上、ドイツ軍にとっては=「対仏開戦」を意味していたわけです。なぜならば、シュリーフェン・プランによれば、先にフランスを倒さなければ、ロシアと戦争することができないわけですから。

また、更にその進路として迷惑にも「ベルギー・ルクセンブルク」を通過することになっていましたから、当然ベルギーにも戦争を挑むこととなります。


ヴィルヘルム2世軍の「誤算」

「誤算」ねぇ・・・。

まず第一に、シュリーフェン・プランによれば、ベルギーがドイツ軍による進軍をまるで何もせず、素通りさせてくれるかの様に計画されているのですが、当然そんなことはありません。ベルギー軍だって自国に侵略してくる国があれば当然迎撃します。当然のことです。

ということで、ドイツ軍はベルギーを通過する際、当然のようにしてベルギーの反撃を受けることとなりました。

第二に、対ロ仏開戦に当たって、英国は中立の姿勢を示していたのですが、ドイツに対してたった一つだけ約束をしていました。

「ベルギーにだけは攻め込むなよ」と。

英国がなぜベルギーに攻め込まないようドイツに進言したのかを深く調べることは現時点ではしませんが、シュリーフェン・プランに基づいてドイツが進軍する以上、ドイツはベルギーに攻め込まないわけにはいきません。

ということで、イギリスに対独開戦を行うための口実を与えてしまい、ドイツは当然のごとくしてイギリスも敵に回してしまいます。

また更に、ロシアだって10年前のままの軍事態勢で居続けるわけがありません。10年もあればロシアの軍事技術も当然進歩します。

シュリーフェン・プランによれば、ロシア軍がドイツ国境にたどり着くまでに6週間かかるとされていましたが、ロシア軍は総動員発令より実に2週間半後にはドイツ国境にまでたどり着き、当然ドイツ軍はそちら側にも軍を配備しないわけにはいかなくなり、対フランス戦がスタートした時点で、既にドイツ軍の優位性は吹き飛んでしまっていました・・・というか、最初っから優位性もへったくれもない気がします。

フランスやロシアを見くびりすぎですし、ベルギーを舐めすぎでしょう。

もしこの時の指導者がビスマルクであり、参謀が大モルトケであったとしたら・・・と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもビスマルクや大モルトケはこんな稚拙な計画で露仏両国に戦争を挑むなどというバカな真似はしませんし、そもそもオーストリアとロシアが戦争状態に陥る前に事態を打開していたのではないかと思われます。

普仏戦争においてフランスはまともな準備すらせずにドイツに宣戦布告し、逆に綿密な準備を行っていたドイツに返り討ちにされたわけですが、今回の独仏戦は真逆ですね。

しかも、「シュリーフェン・プラン」は、おそらくドイツ側から宣戦布告を行うことなど想定していなかったんじゃないでしょうか?

ドイツがロシアの宣戦布告を行うため、ドイツ側の勝手な理屈でフランスは宣戦布告をされ、ベルギーはドイツ側の勝手な理屈で攻め込まれてしまうわけです。

元々はセルビアのバックについたロシアとオーストリアとの争いですから、フランスもイギリスもベルギーも全く戦争には無関係ですから。

それもこれも、ヴィルヘルム2世の「世界政策」という、あまりに幼稚な妄想が呼び込んだ「厄災」です。ドイツ国民にとってもいい迷惑だったでしょうね。更にイギリスと同盟関係にあった日本からも宣戦布告され、せっかく極東に手に入れたはずの山東省という植民地まで失ってしまうことになりました。


イタリアの離反

イタリアは、元々オーストリアとの間で領土問題を抱えていました。

第387回 以降の記事でたびたび話題にしてきた「ウィーン三月革命」。

直前に起きたフランス二月革命は、プロレタリアートたちによるいわゆる「プロレタリアート革命」でしたが、ウィーンで起きた「三月革命」は、そんな二月革命に触発された革命ではありますが、性格はオーストリアでハプスブルグ家の支配下にあった民族がオーストリアからの独立を望んで起こした「民族主義」革命。

独立を望んだ「民族」の中に、「チェコ」「ハンガリー」に加えて「北イタリア」が含まれていたことをご記憶でしょうか?

この問題は、ビスマルクによってドイツが統一された後もくすぶり続けていました。

ですが、露土戦争の事実上の講和条約である「ベルリン条約」を経てフランスがイタリアの対岸にまで迫ってきたことを受け、「ドイツ」「オーストリア」との間で同盟関係築きました。(三国同盟)

イタリアは三国同盟の一員として大戦に参加したはずだったのですが、開戦翌年、4月には三国同盟を裏切り、連合軍へと寝返ります。

イギリスより終戦後、オーストリアとの間でくすぶり続けていた領土問題を回収することを約束されたことがその原因とされています。(ロンドン密約)


「独露」の敗北

一国一国詳細に調べることはしませんが、イタリアが離脱したとの独墺に、オスマン帝国、ブルガリア王国がが加わり、「中央同盟国」を形成。

「中央同盟国」は、シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 にて話題にしましたね?

第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

1917年に勃発した二月革命~十月革命、所謂「ロシア革命」の影響でロシアは共産化し、連合軍を離脱。中央同盟国と同盟関係を築いたウクライナとの戦争を経て、中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。

元々セルビアのバックについたロシアと、オーストリアのバックについたドイツとの間で始まったはずの第一次世界大戦ですが、ロシアは早々と(といっても3年は経過していますが)戦線から離脱してしまいます。

そしてその翌年。ドイツもまた、同じような経緯をたどって第一次世界大戦の宣戦から離脱することとなります。この事を受け、第一次世界大戦は終結することとなるのですが・・・。

では一体どのようにしてドイツは第一次世界大戦から離脱することとなったのでしょう? 実は私、既にこの内容を記事にしていたんですね。私自身が作成した記事でありながら、全く気付いていませんでした。

それが、こちらの記事→第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

そう。私が今シリーズ を作成するきっかけとなった記事です。

ということで、次回記事では、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 に引き続き、再び「ドイツ革命」に焦点を当てて記事を作成したいと思います。

記事内容としてはおそらく ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 で作成した記事を引用する形で進めていくことになるとは思いますが、もう少し「ドイツサイド」に切り込んだ視点で記事を作成できればと考えています。



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<継承する記事>第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由

前回の記事で、第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたことがある、と言いながら、一つしかその理由を掲載せずに記事を終了させていましたね。

後、「ナチェルターニェ」、日本語で「大セルビア主義」というんですが、これもリンク先を読んでいただければよくわかるんですが、リンクを読め、という表現はいささか強引だったかと。

「ナタルニーチェ」とは、セルビアがオスマン帝国に占領され、滅ぼされる以前に存在した「大セルビア」。オスマントルコから独立して復活を果たしたセルビアが、オスマントルコに滅ぼされる前の状況にセルビアを戻そうとするセルビアの政策の事を言います。

滅ぼされる前のセルビアの領土の中に、「ボスニア」が含まれており、オスマントルコから独立したセルビアは、自国同様自治権を有することとなったボスニアを自国領として再び併合したい、と考えていたわけですね。


あともう一点。私は前回の記事で、

『セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね』

と記したのですが、結果的にやはり「ナチェルターニェ」構想がその原因の一つとなっていたことが前回の記事を進めていく中でわかりました。

ナチェルターニェは1844年に製作されたのですが、露土戦争後、正式にオスマントルコから独立することができたセルビアを率いていたセルビア公は親オーストリアであったため、ナチェルターニェ構想は形骸化していたのですが、セルビアでクーデターが起こり、カラジョルジェヴィチ家が政権の座に就いた後、再び「ナチェルターニェ」に基づく政権運営が復活した、ということですね。

オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアの間に「火種」を生んだのはセルビアで起きたクーデターであり、セルビアがこれまでの「親墺」から「親露」に転向してしまった事。これまで武器の発注をオーストリアに行っていたのに、これをフランスに切り替えるなどしたため、オーストリアとセルビアとの間で所謂「貿易摩擦」が起きました。

対抗してオーストリアがセルビアの畜産品に莫大な関税をかけて事実上の禁輸措置をとるなどしたため、オーストリアとセルビアの関係は急速に悪化していくこととなります。(豚戦争)

そして、そんな中で行われたのがオーストリアにより「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」という強硬策でした。

ロシアと密約まで結んで実行したはずなのに、結果的にオーストリアはボスニアだけでなくロシアも敵に回してしまうことになります。その後勃発した「第二次バルカン戦争」において、セルビアのバックについたロシアと、ブルガリアのバックについたオーストリアはまるで「代理戦争」の様な形で戦果を交えることとなります。(実際に戦争したのはセルビアとブルガリアです)


ドイツはなぜ第一次世界大戦に参戦したのか?

前回の記事で、『「いくつか」整理できたことがある』とした内容のうちの一つとして、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」が、セルビアが一方的に事件を仕掛けてきた事件であり、オーストリアが切れて引き起こしたのが「第一次世界大戦」だというような、非常にあいまいな認識でいました。

ですが、「バルカン問題」の事を考えると、サラエボ事件が起きる以前から、セルビアとオーストリアの間では既にいつ戦争状態に陥ってもおかしくはない「火種」があったんだということを知ることができました。

また更に、第一次世界大戦ではオーストリアがセルビアに宣戦布告をおっこなった後、ニコライ二世がロシア軍総動員令を発令し、これに対抗する形でドイツが同じく総動員令を発令。更にドイツがベルギーにまで攻め込んだことを受け、イギリスがドイツに対して宣戦布告を行う・・・といった形で大戦は泥沼化していくことになります。


この流れは非常に概略的な説明になるのですが、例えば前回の記事でも疑問を呈しました通り、この時点でヴィルヘルム2世とニコライ2世は友好的な関係にあり、この2名がなぜお互いに宣戦布告を行うような状況になったのか。疑問が残りますね。

また、セルビアにオーストリアが宣戦布告を行ったことは理解できるとしても、ではなぜヴィルヘルム2世はそう簡単にオーストリアに対する支持を表明したのか。ここも素直にうなずくことはできない部分です。

現時点で一ついえることは、この時点でドイツの指導者は既にビスマルクではない、ということ。皇帝であるヴィルヘルム2世自身なんですね。また更に、普墺・普仏戦争の際、軍参謀総長として辣腕を振るった「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」もまたもういないということ。

参謀総長の座にあったのは、モルトケ(大モルトケ)の甥である「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」、通称小モルトケであったということ。この2点があげられるかと思います。

そう。『第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたこと』のうち2つ目は、第一次世界大戦の時のドイツ指導者であったヴィルヘルム2世は「世界政策」の名の下に、行き当たりばったりで行動する、彼のビスマルクとは比較にならないほどの無能者であったということです。

ただ、本当に「無能だった」といえるのかというと、それは先代の指導者であったビスマルクが有能すぎただけで、他国の指導者たちと比較すると、これがどうだったのかということには疑問が残るところですね。


ヴィルヘルム2世とニコライ2世

ヴィルヘルム2世とニコライ2世

この両者。実はいとこ同士。これは私としても意外でした。

ただ、いとこと言っても、直接の血のつながりはないそうで、血のつながりがあるのはヴィルヘルム2世とニコライ2世の妻。とはいえ、両者が仲がよかった理由の一つとはいえるかな、と思います。

また、サラエボ事件が起きたときの両者の「皇帝」としての立ち位置を考えますと、ヴィルヘルム2世の場合、第453回の記事 でお伝えしました通り、デイリー・テレグラフ事件を受け、イギリスや日本を敵に回し、更に議会では選挙を経てドイツ社会主義労働者党が姿を変えたドイツ社会民主党が議会第一政党へと躍進。

更にツァーベルン事件を経て社会民主党の支持者を中心として帝国全土からバッシングを受け、議会とは大きな亀裂が発生している状態。これが1913年末の段階です。

一方のニコライ2世は日露戦争勃発後に首都サンクトペテルブルクで丸腰の民衆に発砲し多数の死傷者を発生させる「血の日曜日事件」を起こし、「ロシア第一革命」が勃発。

更に日露戦争には敗北し、民衆に対する威信は著しく低下。国内には各地に「ソビエト」と呼ばれる社会主義者たちの「評議会」が結成される状況にありました。

実際、ロシアでは第一次世界大戦開戦より約3年後に当たる1917年2月23日、後の「10月革命」へとつながる「二月革命」が勃発しており、ロシア国内には「反乱分子」といえる社会主義勢力が虎視眈々と改革の機運を狙っている状況にあったのだと思います。

つまり、「ロシア」も「ドイツ」も、実は国内情勢としては非常に似通った状況にあったということ。ひょっとすると、「戦争」を起こし、これに勝利することで、国内に対する皇帝の「威信」を取り戻したいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。


オーストリアの事前工作

オーストリアによる「セルビアへの宣戦布告」が行われた時、ロシアは即セルビアへの支持を表明し、「ロシア軍総動員令」を発令しました。

これに対し、ドイツもまた同様に「総動員令」を発令したわけですが、実はドイツはそう条件反射的に総動員令を発令したわけではありません。

ロシアが総動員令を発令した時、ヴィルヘルム2世はまず、ニコライ2世に対して「総動員令の取り下げ」を行うよう要請しています。ロシアが総動員令を発令したのが1914年7月30日の事。ドイツが取り下げの要請を行ったのは同日の事であり、ドイツは翌31日まで回答を待っています。

ですが、ロシアがこれを断ってきたためにドイツはロシアに対して動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を条件とする最後通牒を発し、翌8月1日、ロシアがこれを断ってきたためドイツはロシアに対し「宣戦布告」を行っています。

では、ドイツは一体なぜこれほど即座にオーストリアを支持するため、ロシアへの「要請」を行ったのでしょうか?


オーストリアは、サラエボ事件を口実にセルビア人をサラエボから駆逐しようとしていた

今更感満載ですが。

私、どちらかというとオーストリアが切れるのも最もだよな、というような考え方をしていたわけですが、しかし実際はオーストリアもセルビアに対して「反セルビア感情」を抱いていたわけで、自国の皇太子夫妻が暗殺されたことは、オーストリアにとってこれ以上ない対セルビア開戦を行うための「口実」だったんだな、という印象を今は持っています。

ですから、オーストリアは、セルビアに対して宣戦布告を行う前に、サラエボにおいて「反セルビア暴動」を煽動しています。

Wikiから引用しますと、以下の通りです。
サラエボではボスニア系セルビア人2人がボスニア系クロアチア人とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。

セルビア人に対する暴力はサラエボ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「Schutzkorps」も設立され、セルビア人を迫害した

つまり、オーストリア当局は反セルビア暴動をあおっておいて、これに反発して暴動を起こしたセルビア人たちを逮捕、投獄、処刑し、セルビア人に対する迫害まで行っていた、ということですね。

オーストリアがもし皇太子夫妻殺害に対する報復として宣戦布告を行うのなら、このようなことを行わず、即座に宣戦布告を行うのではないか、と私は思うのです。

オーストリアは、それよりもバルカン半島におけるセルビアの脅威を取り除くことを意図しており、もし仮に自国がセルビアに宣戦布告を行ったとすれば、当然にしてセットでついてくる「ロシア」の脅威を事前に取り除いておく必要がある、と考えました。

仮にロシアが参戦したとしても、これに対抗するだけの軍力が必要だと考えたわけですね。

ですので、サラエボで暴動が起きている間に、オーストリアは事前にドイツと交渉を行い、「ロシアが介入した場合はドイツがオーストリアを援助する」約束を取り付けていました。

ドイツ、ヴィルヘルム2世がロシアに対し、即座に「ロシアへの要請」を行った理由はここにあります。


ドイツはなぜオーストリアを支持したのか

となると、疑問はここにたどり着きます。

事前交渉でドイツはオーストリアを支持することを表明していたわけですが、オーストリアを支持してセルビアと対立するということは、これはイコールロシアとの対立を意味することは分かっていたはずです。

ヴィルヘルム2世がニコライ2世に行ったような交渉をしたところで、引き下がるようなロシアではないことも。

また更にドイツはロシアに宣戦布告すると同時にフランスに対しても宣戦布告を行っています。これは、、「シュリーフェン・プラン」と呼ばれる、露仏攻略ための古い「戦略」を実行するため。ドイツの計画では「ロシア」に宣戦布告をするということは、同時に対フランス開戦も意味していました。

このあたりは次回記事でまとめたいと思います。

この後更にイギリスまでもがドイツに宣戦布告を行っており、どう考えてもドイツにとっては不利でしかありません。

これをドイツ、ヴィルヘルム2世はオーストリアを支持した段階で予見できたはずです。

結局、これをもたらしたのも、ヴィルヘルム2世がビスマルクの「フランス孤立化政策」から「世界政策」へと大きく舵を切りなおしたことが原因です。

この事は、かえってドイツの孤立化をもたらし、オーストリアから対セルビア開戦に向けた相談が行われた段階で、既にドイツにはオーストリアしか同盟国が存在しませんでした。

実際には「三国同盟」が結ばれていて、ドイツはイタリアとも同盟関係にあったのですが、イタリアは第一次世界大戦中に英仏露の「三国協商」側に寝返って対独参戦しています。

この状態で、もしオーストリアがセルビアに敗れるようなことがあれば、西をフランス、東をロシアに抑えられたドイツの南側に、バックにロシアがついた「セルビア」という脅威が迫ることとなります。

加えて戦争状態に突入することで、ビスマルクがそうしたように、ドイツ国内の「ナショナリズム」を煽動して、自身に反発する社会主義者たちをも巻き込むことを想定したのかもしれません。普仏戦争の時はあのマルクスでさえ「ナショナリズム」に昂揚したわけですから。

どちらにせよ、ヴィルヘルム2世の中に、「焦り」があったことは事実だと思います。


さて。次回記事では、ドイツがどのようにして第一次世界大戦に臨んでいくのか、本日少しだけ話題にした「シュリーフェン・プラン」を中心に記事を進めてみたいと思います。



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<継承する記事>第453回 諸悪の根源? ヴィルヘルム2世がもたらす災厄

前回 までの記事を通じまして、特に「ロシア」と「ドイツ」 の2方面から、第一次世界大戦というものを見ることができたかな、と思います。

とはいえ、当シリーズ における「第一次世界大戦」については、これから記事にする予定なので、少し矛盾する言い回しにはなりますが。

二つの視点から見てきたことで、私の中でいくつか整理できてきたことがあります。


第一次世界大戦とバルカン問題

一つは、「第一次世界大戦の勃発」が、結局「バルカン問題」の延長線上にあったんだな、ということ。

勃発した単調直入な理由は>前回の記事 でも掲載しました通り、ボスニア出身のボスニア系セルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が原因で、1914年6月28日の事。

第303回の記事 におきまして、その背景として、まず暗殺犯であるガヴリロ・プリンツィプに武器を支給したのがセルビア政府であること。

そしてこれを理由にオーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったことを記事にしました。

また更に、その遠因として、オスマントルコの支配下にあったセルビアが、最終的に「セルビア王国」として独立した様子を記事にしました。引用します。

セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。

この引用部分に関しましては、ドイツシリーズにおいて私が掲載しました、

第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

 及び、

第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

両記事を読んでいただいた方には、すっとご理解いただける内容かと思います。

両方の記事を繋げますと、バルカン半島で、1459年6月、「イスラム教国であるオスマントルコ」に支配されていた「キリスト教国であるスラブ人国家セルビア」は、1817年、にオスマントルコ領セルビア公国として復活し、1882年、「セルビア王国」として独立したということ。

ただ、「セルビア」についての説明は、第303回の記事 では少し誤りがあります。

セルビアが、元々セルビア王国領であったボスニアを、オーストリアが併合してしまったために、オーストリアに対する敵愾心を抱くようになったかのように記していると思うのですが、447回の記事 でも訂正していますように、ベルリン条約でオーストリアによるボスニアの自治権が認められた後、セルビアはオーストリアに歩み寄っていて、オーストリアの承認を受けてセルビア公国からセルビア王国へとランクアップしていたりしますので、この記述は正確ではないと、現時点では考えています。

つまり、セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね。


オーストリアとセルビアの対立の理由

オーストリア・ハンガリー帝国

セルビア王国

ということで、オーストリアとセルビアが対立した理由を探ってみたのですが、一番大きいのは、1903年6月11日にセルビアで起きたクーデターにあるようです。

このクーデターで、ベルリン条約後、オーストリアから承認されて王国へと昇格させたセルビアの王家、オブレノヴィッチ家、最後の国王であるアレクサンダル・オブレノヴィッチ5世が陸軍士官らによって暗殺されてしまいます。

セルビアそのものの情報をそこまで深めるつもりはないのですが、さわりだけお伝えしておきますと、この事でセルビアは専制君主制から立憲君主制に移行。新国王は親露政策をとり、更にオーストリアとの間の同盟関係を解消し、英仏、ブルガリアと経済同盟を形成したのだそうです。


「豚戦争」の勃発


この事でセルビアとオーストリアでは、その関係が急速に悪化することとなります。いきさつを、Wikiからそのままコピペしてみます。

1906年、セルビアが兵器の購入先を二重帝国のベーメンの兵器工場からフランスに切り替えると、二重帝国は対抗措置としてセルビアの主要輸出品である畜産品(豚またはその製品)など農産物への禁止関税を施行した。

これに対しセルビアは二重帝国からの輸入を拒否する報復措置をとり、「豚戦争」が始まった。

豚戦争は1910年まで続いたが、その間セルビアは、二重帝国以外のヨーロッパ諸国に市場を求めてオスマン帝国のサロニカ(現在のギリシア・テッサロニキ)の港経由で交易を行い、オスマン帝国のほかエジプト・ロシアに家畜の輸出先を拡げ、さらに皮肉なことに、オーストリア=ハンガリーの有力な同盟国であるドイツに市場を確保することによって二重帝国からの経済的自立を達成した。

つまり、このセルビアによる大きな政策転換が、セルビア・オーストリアの対立を生むきっかけとなり、将来起こる「第一次世界大戦」の遠因となっていたんですね。

余談ですが、セルビア王家の特徴は、オブレノヴィッチ家も、クーデター後に君主となったカラジョルジェヴィッチ家も、ともにセルビア本国の出身者でした。支配民族と被支配民族が同じ、という日本と同じ構造の国だったんですね。


オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合

オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するのは1908年10月6日の事。

この時、カラジョルジェヴィチ家への王位移行を経て、オーストリアとの関係が急速に悪化していたセルビアでは、再び「大セルビア主義」、つまり、「ナチェルターニェ」に基づいた国家戦略が復活していたんですね。

この時点で、セルビアは再び「ボスニア・ヘルツェゴビナ」への進出を志すようになっていましたから、このタイミングでのオーストリアの「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」、オーストリア・セルビア関係に対して、まさに火に油を注ぐような行為であったことは想像に難くありません。

また、この時オーストリアの外相に任じられていた「アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール」は、セルビアがどうという前に、ロシアとの協調関係を維持しながらもバルカン半島に対する影響力を拡大するための外交を推し進めており、その「総仕上げ」でもあったのがボスニア・ヘルツェゴビナの自国への併合でした。

同年(1908年)7月にオスマントルコでは「青年トルコ革命」が勃発し、にわかにバルカン半島情勢が混乱し始めることになります。

これは、エーレンタールにとっても一つの「チャンス」でもありました。逆に革命の影響がバルカン半島を刺激するようになれば、自国が占領しているボスニア・ヘルツェゴビナもまた、不安定化する恐れがありましたから、エーレンタールはすぐさま決断し、ロシア外相とも協議し、両地域の併合をロシアが黙認する「密約」を取り付けます。

これを受け、10月5日、一気の両地域の併合宣言を行いましたが、案の定セルビア(とモンテネグロ)が猛反発し、オーストリアとの間で一生即発の事態を迎えます。更に開戦に乗り気だったのはむしろオーストリアの方で、オーストリアはセルビアとモンテネグロを分割することで、バルカン半島に対する懸念材料を一気に払拭する気満々でした。

ところが、ロシア国民の間でセルビアに対する同情論が高まり、また英仏の反対で密約を結んだロシア側の「権益」がご破算になったこともあり、ロシア政府は国民の圧力に押されてオーストリアに強硬な態度をとることとなり、今度はロシアとの間にまで開戦の危機が生まれてしまいます。

これを受け、オーストリア皇帝は対セルビア開戦を断念。ロシアにはドイツが圧力をかけ、開戦の危機は回避されることとなりました。


この段階で、出来上がってしまっていますね。「オーストリア対セルビア」の対立の構図が。そしてセルビアのバックにはロシアが付き、オーストリアのバックには「ヴィルヘルム2世率いる」ドイツが付くという構図まで。

そもそもの原因を作ったのは、クーデター後に誕生したセルビアの新国王ペータル1世政権。同政権の政策転換さえなければ、ひょっとすると墺露にセルビアを加えた状態でボスニア・ヘルツェゴビナ併合の話も出来ていたのかもしれません。

第一次世界大戦の当事者であるヴィルヘルム2世とニコライ2世は元々中がよかったはずなので、これがなければ両国が戦争状態に陥ることもなかったのかもしれません。

この後、1912年5月には独立を目指して反乱を起こしたアルバニア人を支援する「バルカン同盟」とトルコとの間で「第一次バルカン戦争」が勃発。

バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャ)の結成はロシアが支援したものです。(参考記事:第307回

バルカン戦争では結局バルカン同盟側が勝利するわけですが、今度はバルカン同盟の同盟国間で争いが勃発(第二次バルカン戦争)。

詳細はリンク記事を参考にしていただきたいのですが、構造は「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」V.S.「ブルガリア」。

ロシアは元々「汎スラブ主義」で盛り上がる国民の声に押されてスラブ人国家を支援していた国ですから、当然「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」を支援。一方でセルビアと対立構造にあるオーストリアはブルガリアを支援します。

ブルガリアに対してはルーマニア、オスマントルコも宣戦布告を行いましたから、ブルガリアを支援したのは唯一オーストリアのみであったことがわかります。

セルビアのオーストリアに対する怨念は、第一次・第二次バルカン戦争でも深められることになりました。詳細は308回記事 をご参照ください。

そんな中で勃発したのが、セルビア政府から武器を渡された 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』が「サラエボ」でオーストリア皇太子を暗殺した「サラエボ事件」。

次回記事では、本題である「第一次世界対戦」そのものへと記事を進めてみたいと思います。

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<継承する記事>第452回 ヴィルヘルム2世の政策~場当たり的な政策が醸し出す未来~

しかし、ヴィルヘルム2世・・・いけてないですね、やっぱり。

前回の記事 で彼の政策を一部記事にしてみたんですが、どうにも気が乗りません。感情移入できないんです。

タイトルにもしたように、一つ一つの政策が場当たり的ですし、先見性のかけらも見受けられません。そして、彼の周りにも彼の政策をきちんとサポートできているような人物が見当たらないんですね。

それを象徴しているのは、彼の政策の象徴ともいえる「世界政策」でしょうか。

例えば、私が高校時代、教科書で習った言葉に「3B政策」という言葉があります。ですが、この言葉を覚える意味が一体どこにあるのか、私には理解できません。

1898年、彼がオスマン帝国を訪問した際、彼はオスマン帝国に対し、「ドイツは全世界3億のイスラム教徒の友である」という演説を行っています。

ですが、これまでの歴史を踏まえ、普通に考えればわかると思うんです。ドイツがオスマン帝国に対して、友好の言葉を述べるということは、即ちドイツとオスマントルコとの間にあるエリア。「バルカン問題」を頭に入れていれば、このバルカン問題において、「ドイツはスラブ民族ではなく、オスマン帝国を支持しますよ」といっているようなもの。ロシアに喧嘩を売っているようなものです。

また更に、スラブ民族のほとんどはキリスト教徒なんですから、当然イギリスやフランスも敵に回すようなものです。

この後、彼はドイツ(プロイセン)の首都、ベルリン、

ベルリン

トルコとバルカン半島の接点であるヴィザンティウム(現在のイスタンブール)、

ビザンティウム

現在のイラクの首都バグダッド。
バグダッド

この3つの地点を鉄道で結ぶ、「バグダッド鉄道」の建設が政策として計画されました。これが、のちに「3B政策」と呼ばれるようになります。これが英仏露の大反発にあい、第一次世界大戦に敗退したことで、頓挫することになります。

まあ、要は3つの大国との間に反発を生んだだけで、ドイツには全く利益をもたらさなかった政策です。これらの国々との対立を極力起こさないように政策を進めたビスマルクの政策とは全く対立する政策ですね。


デイリー・テレグラフ事件

前回の記事で話題にした「黄禍論」もそうですが、ヴィルヘルム2世は、日本に対しても挑発し、反発をあおるような発言をたびたび行っていたようです。

彼が行った政策の一つに、「艦隊法」という法律の制定があります。

この法律は、ドイツ軍に新しく海軍を設立するもので、1898年、「自衛のため」の艦隊建設を目的とした法律が、更に1900年に成立した「第二次艦隊法」は「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を意図したものであったのだとか。

これに対し、ヴィルヘルム2世は言い訳として、

「ドイツの戦艦建造はイギリスを敵国とするものではなく、極東の国々に対するものである」

との発言を行っています。Wikiの開設によれば、「特に日本を挑発するような発言」として掲載されています。

この言葉は、「デイリー・テレグラフ事件」といって、ヴィルヘルム2世と対談したイギリス陸軍大佐、ワートリーという人物が、その対談の内容を、「恣意的に要約」して「デイリー・テレグラフ」という新聞社に送り付けたものが発端となってはいるのですが、掲載されたのは1908年10月28日の事。

ですので、「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を目的としたとされる「第二次艦隊法」成立後の話です。日本にとってみれば、三国干渉に引き続き、ということになるでしょうか。

ビスマルクとの面会により、日本人では「ビスマルクのいる」ドイツが大好きな人が増えていたのですが、ヴィルヘルム2世の数々の挑発的な言動を受け、日本では「反独」感情が供促に高まることになります。

「デイリー・テレグラフ紙」ではこれ以外にも、イギリス人を挑発するような発言や、イギリス人たちを見下しているともとられかねないような発言も掲載されており、これはイギリス人だけでなく、ドイツ人からも怒りを買うことになります。

ビスマルクの時代には、皇帝はどちらかというとお飾り的な存在であり、その主導権は完全に首相である「ビスマルク」が握っていました。

ヴィルヘルム2世はこれを快く思っていなかったんですね。ですからビスマルクを事実上罷免してまで自分自身が主導して政治を運用しようとし、宰相はみな、ヴィルヘルム2世の考えを実現するにはどのようにすればよいか、としか考えられない連中がその座に収まる結果となってしまったのです。

「デイリー・テレグラフ事件」を受け、カプリヴィ、ホーエンローエの後を次いで首相となったビューローは首相の座を辞職(1909年7月14日)。議会からも皇帝のあまりにも軽率すぎる振る舞いを批判する声が非常に大きくなりました。

ビューローが辞職する直接の原因となったのは艦隊法による軍艦建設により財政赤字が深刻化したことが原因なのですが、デイリー・テレグラフ事件の結果、皇帝の権力よりも議会の権力の方が強くなり、ヴィルヘルム2世の権力は事実上、大幅に縮小されることとなりました。

後継者として「テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク」が宰相となるのですが、彼が宰相となって初の帝国議会選挙(1912年1月)によって、ついに「ドイツ社会民主党」が議会第一政党へと躍進することとなりました。

「ドイツ社会民主党」。そう。第439回 までの記事でテーマとしたドイツの社会主義政党。「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」が合併して出来上がった、「ドイツ社会主義労働者党」を前身とする政党です。

ドイツ社会主義労働者党は、ビスマルクが失脚し、「社会主義者鎮圧法」が失効した事を受け、「ドイツ社会民主党」と党名を変更しました。

すごいですね。ヴィルヘルム2世のあまりにも稚拙すぎる政策のおかげで、ビスマルクが恐れていた「未来」が、国外だけでなく帝国内でも見事に現実のものとなっていくのです。


孤立化するドイツ

海外では1902年に日本とイギリスとの間で日英同盟が。1904年日露戦争を経て1907年日露の間で日露協約が、フランスとの間で日仏協約、イギリスとロシアとの間で「英露協約」、1908年には日米間で「日米協商」と、次々に友好関係が築かれていきます。

逆にドイツと友好関係にあるのは清とオスマントルコのみ。ドイツは孤立化を強いられることとなっていました。

ビスマルク体制とは、真逆ですね。多分、ビスマルクであればこの時点で日本とは友好関係を築いていたでしょうし、日本と協力してロシアの満州進出を阻止しながら、ひょっとすると目的を同じくするイギリスとも同盟関係を築いていたかもしれません。

一方でロシアと敵対関係を作るつもりもないでしょうから、「独露再保障条約」の更新を行って友好関係を築き、同時にオーストリアとの同盟関係を継続しながら、バルカン問題にも取り組んでいくような形になっていたのかもしれません。希望的観測すぎるでしょうか。

とはいえ、ビスマルクは1898年7月30日、老衰に近い形で息を引き取っていますから、遅かれ早かれ同じような状況は生まれていたのかもしれません。「ヴィルヘルム2世」という人物が皇帝になるという事実だけは避けることができなかったでしょうから。


ツァーベルン事件

ドイツ社会民主党が議会第一党として躍進したその翌年(1913年)末、「ツァーベルン」という町で、地元住民とプロイセン軍との間に、一触即発の事態が勃発します。

この町は、普仏戦争によってドイツがフランスより獲得した「アルザス地方」にある町。

ややこしいんですが、アルザス人はもともと「ドイツ民族」。ドイツ語の一種である「アルザス語」を話す民族で、ドイツの前進の一つである「神聖ローマ帝国」の一部でした。

その後、フランスの領土となっていたのですが、普仏戦争によって再びドイツに統合された地域です。

ここに住んでいた「エルザス人(アルゼス人)」は、フランスに支配されている間にドイツ人との間に価値観の「ズレ」が生じており、ドイツ人の中にも、このエルザス人に対する「差別意識」のようなものがあったのだそうです。

そして、この地域に配属されたプロセイン将校がツァーベルンの住民に対して行った「侮辱的発言」が原因で、エルザス人の中から抗議の声が上がります。同発言が新聞報道されたんですね。

報道後、兵舎の周りに集まった群衆が逮捕される、侮辱した張本人であるフォルストナーが、今度は自分自身が侮辱されたことに逆切れして市民を怪我をさせ、拘留される、などの小競り合いが発生。

ツァーベルン議会からは皇帝や宰相に対して、市民が逮捕されたことを講義する電報が送られるなどし、社会民主党の支持者を中心に兵士に対する抗議活動が、帝国全土へと広がります。

その後、フォルストナーによる侮辱行為が音声記録として登場したことにより、フォルストナーは侮辱罪で告訴され、事態は終息へと向かいます。


この事を受け、宰相であるベートマンに対して不信任案が提出され、保守党以外全ての政党によって決議されるのですが、憲法によって宰相の任免権が皇帝にあることが決められており、ヴィルヘルム2世はベートマンの続投を表明。事件に関係した軍人たちが処罰されることもありませんでした。

結果として、ヴィルヘルム2世と議会との間には大きな亀裂が生じることになるんですね。


さて。いよいよ「第一次世界大戦」へと時計の針が近づいてまいりました。

第一次世界大戦の直接の原因となったセルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件が勃発するのは1914年6月28日。

第303回の記事 におきまして、「ロシア側の視点」から「第一次世界大戦」勃発を記事にしました。

次回記事では、「バルカン問題」も絡めながら、今度は「ドイツ側の視点」から第一次世界大戦について記事にすることができればと思っています。

いよいよ、シリーズ、 ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 とリンクしてきましたね。

少しだけ、楽しみになってきました。



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