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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

当シリーズ をスタートした最大の命題は、一体なぜ日本はドイツ、つまり「ナチス」「ヒットラー」という存在と、一体なぜ同盟関係を締結したのか。この1点です。

「清」という国を開国させるためにイギリスが中心となって仕掛けた「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」。結果、満州の半分を清国はロシアに割譲させられ、これを樺太の対岸で目の当たりにした日本。

日本、清国、李氏朝鮮が連携し、ロシアの脅威に備える必要性を痛感するものの、いつまでも大国感情が抜けないいつまでも清国とその清国への属国であり続けようとする李氏朝鮮。

やがて三国は日清戦争へと突入し、日本に対して多額の賠償金を背負うこととなった清国は、その支払いのために欧州各国から借金をすることとなり、その抵当として自国の領土を欧州各国に手渡すこととなりました。

その内の一つ、ドイツが手にした山東省ではキリスト教の布教を行うドイツ宣教師と現地人との間での衝突をもたらし、後に清国政府が北京に公使館を構える日欧米合計8カ国に対して宣戦布告を行う「北清事変」へと発展。(ドイツは山東省の一部を植民地化。この時のドイツ皇帝がヴィルヘルム二世。)

ヴィルヘルム2世

他国が北京内の自国民を守るために清国との戦いを繰り広げる中、清国が他の領土へ軍を派遣できずにいる事をいいことに、ロシアは満州へと軍を進め、現地人を皆殺しにした上で満州を占領するという暴挙に。

北清事変後、満州における領土問題を通じて日本はロシアとの間で日露戦争に。日本に敗れたロシアは国内に「社会主義者」という内憂を抱えることとなります。(後のロシア革命へとつながります)

日清戦争に敗れ、日露戦争では自国領であるはずの満州で日本とロシアの戦場とされ、いい加減フラストレーションがたまっていた清国では、政府が他国への賠償に充てるため、鉄道を他国に貸し出そうとしていたことに反発して「辛亥革命」が勃発。長く中国において続いた「帝政」の時代は幕を下ろします。

更に欧州では独露の争いを中心に第一次世界大戦が勃発。日本はドイツが清国に持つ植民地、「山東省」をドイツから奪還することを名目に第一次世界大戦に参戦。大戦中の中国では政権の中心人物であった袁世凱が政権の座から脱落→病死し、指導者を失った中国は「国家」としての体裁を失い、「軍閥時代」へと突入。

袁世凱

袁世凱よりも前に、中華民国の初代大統領であったはずの孫文は、北洋(軍閥)政府に対抗して、中国の南部で「広東政府」を樹立。

孫文

更に第一次世界大戦後、同講和条約であるヴェルサイユ条約をめぐり、自国の主張が認めあられなかったことなどを理由に中国では学生運動である「五四運動」が勃発。ここに参加した「マルクス主義研究会」が母体となって、ソビエトコミンテルンの主導により「中国共産党」を設立。

更に孫文は中国がソ連の指導を受け入れることを確約し、孫文の中国国民党は中国共産党との間で「第一次国共合作」を実現。

孫文の死後、孫文の後を引き継いだ蒋介石は、孫文が残した悪しき遺産である「共産党員」と「国民党左派」たちによって完全に中国統一の足を引っ張られることとなります。

蒋介石

日本が米国や英国などとの間で行った「ワシントン軍縮会議」。その結果締結した「九カ国条約」。

この条約により、日本だけでなく、「米」「英」「仏」「独」「墺」「蘭」「葡(ポルトガル)」の合計8カ国は、「中国の内政に干渉しない」ことを約束しました。

ですが、これは、

 ・ロシアが赤化しておらず
 ・ロシア(ソ連)の影響を受けて中国が赤化することはない

ことを前提とした条約です。というより、ワシントン軍縮会議が行われた段階で、この事は全く想定されていませんでした。

しかし、現実問題としてこの事は蒋介石の「北伐」、そして「日中関係」に大きな悪影響を及ぼしてい行くこととなります。

蒋介石はそもそも日本で軍人としての教育を受けていましたから、非常に規律正しく、この事を自らが直接指導する国民党にも徹底させていました。

しかし、国民党員の中には国民党員でありながら「共産党」に所属していたり、蒋介石の考え方よりも共産党の考え方に傾倒していた、所謂「国民党左派」という連中が存在していました。

蒋介石はそんな連中と権力を争う関係にあり、規律を重んじようとする蒋介石と、「そんな連中」は全く逆の振る舞いを行っていました。

その最たるものが1927年の南京事件 であり、済南事件 であり、果ては日中戦争において日本が中国との間で交戦状態に至る前、盧溝橋事件後に勃発した 通州事件 なのです。

通州事件に関しては、既に蒋介石と蒋介石国民党は共産党軍側に傾きつつありましたから、実際には「1927の南京事件」と「災難事件」が中国共産党や国民党左派のふるまいを象徴する事件だった言えます。

行われたことは

・略奪
・放火
・強姦
・殺害
・人体破壊

といったところでしょうか。私としましても、現在はもう何度もこういった情報を発信してきましたので、だいぶんこういった記述をすることになれてきましたが、本当に最初に知ったときは文字起こしすることさえ憚られるような、そんな思いでいっぱいでした。

自ら文章にしながら、自らで目を背けていたことを記憶しています。

あいつらのやったことは、その「残虐性」にすべてが象徴されると思います。

生きたまま人体を破壊しながら殺害をしていく。「強姦」すらその一環であったのではないかと思わせるほどです。

数が多かったり少なかったりしますが、それでも「十数人」なのか、「数十人」なのか、「200名規模」なのか。ただそれだけの違いで、その残虐性は一貫しています。

あの「満州事変」でさえ、結局はそんな中国人の残虐性から、当時併合して同じ日本国民であった朝鮮人まで含めて、その命と尊厳性を「守る」ために起こされた事件だったんだという事を、日本人はもっと知るべきです。

その規模が最大であったのが1937年に「冀東防共自治政府(内モンゴル自治区)」「冀察政務委員会(華北。現在の北京などがある地域)」との境にある「通州」で勃発した「通州事件」です。

200人者もの(朝鮮人を含む)日本人が、聞くに堪えないような残虐な方法で殺害されたんです。

まだ男性経験すらない少女に対し、自らの一物が入らないからと言ってその少女の性器に拳銃を突っ込んだり、生きたまま腹を切り裂いて腸を引きずり出し、切り裂いて投げて遊ぶなんて、まずまともな人格を持つ人間にはできません。

それですらあいつらがやらかした所業のごく一部にすぎません。


日本政府はなぜ対中開戦を決断したのか?

そして、そんな「通州事件」ですが、これを引き起こしたのはかつて「馮玉祥」という人物が起こした「国民党第19軍」。これが母体となって出来上がった「中国国民革命軍第29軍」。こいつらです。

そしてこれを日本の支那駐屯軍は壊滅し、「中国政府」とは交戦状態に陥ることなく終結させています。

この後、上海において日本の民間人が居留する、「日本人租界」が中国国民党と中国共産党合わせて最終的に20万の軍勢で包囲されたことから、朝鮮人まで含めた日本の民間人の命を守るため、仕方なく行ったのが「第二次上海事変」です。

ここから、日本軍と蒋介石国民党軍は交戦状態へと突入していきます。「そんな蒋介石軍」を支援したのが米・英・仏、そして「ソ連」です。


日本とドイツの同盟関係の推移

ちなみに日本は通州事件が勃発した1937年。その前年である1936年11月には既にドイツとの間で「コミンテルンに対する日独協定」及び「秘密付属協定」の総称である「日独防共協定」を締結しています。

「コミンテルン」とは言うまでもありません。第一次世界大戦勃発により解消された「第二インターナショナル」に続き、レーニンらが起こした「第三インターナショナル」の事です。

この、「コミンテルン」の指導により1921年7月、中国国民党が誕生しました。翌1922年4月、スターリンがソ連共産党書記局長となります。

レーニンは1918年8月に頭部に銃弾を受け(暗殺未遂)、脳の障害とみられる症状が出るようになっており、スターリンが書記局長となったその翌年、脳卒中に見舞われ、半身麻痺となります。

レーニンは1924年1月21日に死去。その前日、1924年1月20日に中国では第一次国共合作が行われました。

スターリンは、レーニンが死ぬ間際まで病床に伏せるレーニンを看病する名目で監視し続け、レーニンが発信する情報をコントロールし続けました。

今更・・・という事にはなりますが、日本がドイツと同盟関係を成立させた時点で、交戦状態にあったのはそんなスターリンが牛耳るソビエト連邦であったという事ですね。

1937年11月には日独防共協定にイタリアが参加し、「日独伊防共協定」となります。

その後、1939年8月に同盟国であるはずのドイツが日本と敵対関係にあったはずのソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結。日本はやむを得ずソ連との戦争を終結させます。

1940年4月、日本はソ連との間で「日ソ中立条約」を成立させるのですが、1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始。

この段階で日本が想定していた「四カ国同盟構想」は破綻。日本にとって脅威なのはドイツよりむしろソ連ですから、当然ソ連との同盟関係よりもドイツとの同盟関係を優先させます。

ただし、日本は結局ドイツと共同してソ連に侵攻する「北方作戦」ではなく、南部仏印に対して軍を進める「南部仏印進駐」を選択(1941年7月)しましたから、結果的に日本が対米戦に敗北するまで、日本はソ連との間で同盟関係を維持し続けることとなりました。


ザっとまとめてみたわけですが、今回の記事を読んでみても、まず日本がなぜソ連を脅威に感じていたのか、という事はご理解いただけると思います。

そして、なぜ優先して蒋介石軍を壊滅させようとしていたのかという事も。

よく、ヒットラーがユダヤ人に対して虐殺行為=ホロコーストを起こした(とされる)ことが問題とされる様子を目にします。

ですが、だったらなぜ蒋介石国民党当時の国民党左派や共産党員たちが朝鮮人まで含む日本の民間人たちに対してあまりにも凄惨な「虐殺」が行われていたことが問題にされないのでしょうか?

あいつらがやったことは、ヒットラーがユダヤ人に対して行った(とされる)行為と全く変わらないと思います。

第二次世界大戦の事は今後深めていく予定ではいますが、同大戦において、連合国軍がナチスを追い込んで壊滅させたその理由と、日本軍が蒋介石軍を追い込み、壊滅させようとしたその理由の間に、いったいどれほどの違いがあるのでしょうか?

アメリカも、イギリスも、フランスも、ナチスがユダヤ人に対して行った(と自分たちが信じて疑わない)行為と全く変わらない行為を日本人に対して行った蒋介石軍(国民党左派及び共産党員)を支援し続けたという自覚がこの3国にあるのでしょうか?

ナチスを責める前に、ナチスと全く同じ行為を行っていた蒋介石軍を支援した自分たちの事を反省することからこの3国は始めるべきなのではないでしょうか?

ましてアメリカは、最終的に日本の広島と長崎に原爆を落とし、蒋介石軍やナチスも真っ青の大虐殺行為を行っているわけなのですから。


まとめ

改めまして、本シリーズ をスタートさせた目的は、日本がドイツと同盟関係を結んだ理由。

そして、その同盟関係そのものが、本当に責められるべきことなのかどうか。

米国は日本が対米開戦を決断するまでの過程において、主に二つの事を日本に対して要求していました。

1.警察まで含めた日本の軍事力を、中国本土、及び東南アジアから撤退させること
2.ドイツとの同盟関係を解消する事

一方で日本もまた、アメリカに対して2つの事を要求していました。

1.蒋介石に対する支援をやめる事(もっと言えば、蒋介石が降伏するよう説得する事)
2.欧州戦に参戦しないこと

そして、日本もアメリカも、今回の戦争が「自衛のための戦争である」と主張していました。

ですが、アメリカが「自衛」と言っていたのは、日本がそうであったように、民間人の命や尊厳を守ることではなく、米国が中国本土やフィリピンに保有していた「権益」を守ることでした。

日本はアメリカに対し、「我々はあなた方の権益を侵害するつもりは一切ない。ただ、蒋介石軍を支援するのをやめてほしい」といい続けていたのですが、アメリカはこの話に耳を傾けることは一切ありませんでした。

日本がドイツと同盟関係を締結したことが、本当に責められれるべきことなのかどうか。今回記事をまとめてみて、まずは一つのターニングポイントとなるのは、1936年、日本がドイツとの間で「日独防共協定」を締結した時点で、両国が危険視していた「ソ連」が一体どのような状況にあったのか。

また、この時の「コミンテルン」という手段の位置づけが果たして一体どのような状況にあったのか。この事を追求する事ではないか、と感じました。

また、この時点でドイツのユダヤ人に対する迫害がどの程度進行していたのか。この点も重要なポイントかと思います。

「次回こそ」といいながら、中々本題に迫れていませんが、次回こそは「我が闘争」を通じてアドルフ・ヒトラーの人物像を追求してみたいと思います。




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<継承する記事>第484回 カップ一揆と匕首(ひしゅ)伝説(背後の一突き)

前回の記事では、スパルタクス団蜂起以後、ドイツ(ベルリン=プロイセン)が右傾化していく様子を記事にしようと試みたのですが、どうもグダグダした形で終わってしまいました。

少しだけまとめてみますと、

・スパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが更にバイエルン・レーテ共和国を滅亡させる

・両クーデターを鎮圧する上で主戦力として活躍したエアハルト旅団がヴェルサイユ条約の発効に伴い解散を命じられる

・事実上エアハルト旅団を統括していたベルリン国防司令官リュトヴィッツがドイツ祖国とカップとともにこれに反発し、撤回を要求

・リュトヴィッツは国防司令を解任され、カップには逮捕が命じられる

・リュトヴィッツはエアハルト旅団にベルリン進撃を命じ、ベルリンを占領、カップ新政府の樹立を宣言する

・グスタフ・ノスケはワイマール政府軍に治安出動を命じるも参謀本部長(兵務局長)ゼークトはこれを拒否

・ワイマール政府エーベルト大統領はベルリンを脱出しシュトゥットガルトに大統領府を移転

・これに対し、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟(所謂左翼政党)がストライキを呼び掛けることでこれに対抗

・ルール地方ではこれに触発された労働者たち(ルール赤軍)が反乱を起こし、カップ政権は退陣

・これを鎮圧するため、ワイマール政府はルール地方に派兵を行い、ルール赤軍は壊滅

・フランスはこれをヴェルサイユ条約違反だとし、ドイツに派兵し5つの都市を占領する(1920年5月17日まで)

・再び解散を命じられたエアハルト旅団は「コンスル」というテロ組織と化す

・グスタフ・ノスケは国防相を辞任し、総帥部長官ラインハルトも退陣

・ラインハルトに代わってゼークトが総帥部長官に就任(ワイマール政府軍は政府からの独立色が強まる)

・バイエルン州でも右翼陣営より現州政権打倒の動きが強まり、バイエルン州ホフマン首相は退陣

・後継としてグスタフ・フォン・カールが新首相となる(王党派・右派)

・バイエルンでは反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるも、連合国からの圧力により解散

・バイエルンのワイマール政府に対する反発心が高まることとなり、バイエルンには数多くの右派組織が結成される

こんな感じですね。これでもまだややこしく感じますけど。

傾向として、ベルリンではカップ一揆後のルール蜂起を受け、バイエルンではカップ一揆そのものの影響を受け、共に右傾化色が強まっていっていることがわかると思います。

キーポイントとなるのが前回のタイトルにも記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方です。


当時のドイツにおける「右翼」と「左翼」


個人的に「右翼」だ「左翼」だと区別するのはあまり好きじゃないんですが、そこにこだわりすぎるとここから先の記事が非常に回りくどくなってしまうことが想定されますので、敢えてここでドイツのこの時点に於ける二つの言葉について、それぞれ定義づけておきます。

ドイツにおける「右翼」とは、ドイツ皇帝であったホーエンツォレルン家(この時点ではヴィルヘルム二世)の下まとめられた誇り高き「ドイツ帝国」の封建主義的な在り方を理想とする考え方。

「左翼」とは逆にこの封建主義的な国家の在り方を否定し、「主権」がドイツ国民の下にあり、国民の手によって国家が運営されるべきだとする考え方。その最も極端な位置づけにあるのが「共産主義」です。

マルクスを中心にドイツの社会主義を追いかける中で気づいたことですが、そもそも「産業革命」が勃発するまでの欧州では、同じ「市民階級」の中に「ブルジョワ」と「プロレタリア」という区別は存在せず、マルクスがこれに気づいてしまったために突如として衆目を集めることとなったのがプロレタリアによる市民革命=共産主義という考え方です。


「共産主義」と「社会主義」

ですが、そもそも「共産主義」とは国境も管理者もいない社会を理想とする考え方であり、そしてそんな社会を実現することはまず不可能です。

当然当時の国家の中に「共産主義に近い社会」があったとしても、それは共産主義社会ではありません。

産業革命が起きるまでは「帝政・王政・貴族政」という社会しかありませんでしたから、これを倒すことが市民革命の主たる目的でした。

ですが、「皇帝」や「王」、「貴族」が権力の座から引きずり降ろされた後、そこには尚「資産家(ブルジョワ)」という権力が存在していたことに気づいたのがマルクスたちです。

そして、ブルジョワによる権力社会こそ彼らが考える「資本主義社会」ですから、共産主義者たちはこの「資本主義社会」を暴力によって打ち倒そうと試みているわけです。

ちなみに、同じ共産主義社会の実現を暴力を用いずに実現しようと考えている連中の事を「無政府主義者(アナーキスト)」と呼びます。

ですが、彼らがいくら共産主義社会を実現しようとしても当然それが実現するわけがありません。では、「共産主義社会」でも「帝政・王政・貴族政」でもなく、「資本主義社会」でもない社会の事をなんと呼ぶのか。

それが「社会主義社会」です。

ビスマルクと5度対談し、自らの理想を彼に語ったフェルディナンド=ラッサールは国家と市民が協力してこの「社会主義社会」を作り上げようとしましたし、ビスマルクはラッサールの目指した福祉社会の実現を国家が自ら実現しようとし、そんな社会の在り方を「国家社会主義」と呼びました。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

「匕首(ひしゅ)伝説」そのものについては前回の記事でも話題にしました。

当時のドイツ国民の中にはやはり左翼的な考え方よりもビスマルクによって形作られた「ドイツ帝国」の国民として、皇帝ヴィルヘルム1世の臣下としての誇りの方が大きかったのではないかと思います。

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争でデンマークを、普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを立て続けに破り、あのマルクスですらその快進撃に快哉を叫んだほどでしたから。


ヴィルヘルム二世によって破壊されたビスマルク体制

ですが、私のブログでさんざんお伝えしている通り、ヴィルヘルム一世の後を継いだ(正確には一世の息子であるフリードリヒ三世の後を継いだ)ヴィルヘルム二世はそんなビスマルクの功績を悉く破壊していきました。

ビスマルクの目的は、プロイセン内やその周辺で革命を起こさせないこと。国家を安定させ、国民が安心して生活を送ることのできる社会を作ることにありました。

ビスマルクが統一するまでのドイツでは、お隣、フランスの影響を受け、プロイセンをはじめとする北ドイツではブルジョワたちが「民族性」ではなく、「経済的な自由」を求めて「自由主義革命」を起こそうとする動きが、逆に南ドイツ最大の大国であったオーストリアでは、自国内に抱え込んだマジャール人やスラブ人が「民族主義革命」を起こそうとする動きがありました。

ビスマルクは、プロイセンをそんな革命運動に巻き込みたくなかったんですね。

結果としてデンマーク、オーストリア、フランスを相手にそれぞれ戦争を起こし、これを北ドイツとドイツ全体の統一に利用し、ドイツ諸国をプロイセンと同じ法制度の下で管理しようとしたわけです。

ドイツ統一後は当然、争いの場を広げるだけにしかなりませんから、植民地政策はとろうとしませんでしたし、ドイツ統一のために自分自身がフランスを利用したことを自覚しているからフランスが他国と同盟関係を結ぶことをできない状況を作ることにこだわり続けました。

「フランス孤立化政策」が所謂ビスマルク体制の根幹だったはずなのです。

ところが、ヴィルヘルム二世は誇りあるドイツの領土が他国に比べて狭いことを不満に感じており、「世界政策」の名の下、世界一の領土を目指し、一気に植民地政策に打って出ました。(北清事変の元となった山東省の植民地化はその象徴です)

また更に、元々仲の悪かったロシアとオーストリアの内、同じ民族であるオーストリアを大事にし、ロシアとの同盟関係を解消。ビスマルクが恐れた通り、ロシアはフランスと同盟関係を結びました。(ドイツは西をフランス、東をロシアに挟まれる位置にあります)


社会主義者の危険性を無視したヴィルヘルム二世

ビスマルクは、普仏戦争末期、ドイツ統一の目的を果たし、普仏戦争を終結させようとしていました。

ビスマルクは普仏戦争を利用して、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国のナショナリズムを煽り、統一ドイツ=ドイツ帝国を誕生させたわけですが、一方のフランスでは、新政府がクーデターを起こし、帝政ナポレオン三世政府を崩壊させ、「国防政府」が出来上がっていました。

ところが、共産主義者たちにとってこの革命は所謂「ブルジョワ革命」にすぎません。彼らが次に目指すのは当然「プロレタリア革命」。

フランスではドイツとは真逆の動きが巻き起こりました。

敗戦同然のフランスでフランスのプロレタリアによるプロレタリア革命、「パリコミューン革命」が勃発。国防政府はヴェルサイユから逃亡し、「パリコミューン政府」が誕生しました。パリコミューン政府は国防政府軍によって崩壊し、革命を起こしたパリ市民は大虐殺されることとなるわけですが、パリコミューン政府の樹立はにわかにドイツ帝国内の社会主義者たちを活気づけることとなります。

普仏戦争を利用し、ドイツを統一することでせっかくプロイセンに安定がもたらされることとなったのに、「自由主義者」よりも「民族主義者」よりも危険な「社会主義者」がその姿を現したのです。

この事から、ビスマルクは「民族主義者」の象徴ともいえるドイツ中央党と和解してまでも社会主義者の鎮圧に乗り出しました。

ところが、ヴィルヘルム二世は権力欲に取りつかれた取り巻きの自由主義者たちにそそのかされ、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止。ビスマルクを政治の表舞台から追い出してしまいます。


ナポレオン三世政府の崩壊とヴィルヘルム二世政府の崩壊

いかがでしょうか?

このようにしてみてみると、普仏戦争によって帝政ナポレオン三世政府が崩壊した様子と第一次世界大戦によって帝政ヴィルヘルム二世政府が崩壊する様子は非常によく似ているように思えませんか?

戦争そのもの趨勢はともかく、結果的に社会主義者たちのクーデターによって帝政政府が崩壊し、更にプロレタリア革命が勃発することでその新政府もまた、短期間とはいえ崩壊し、プロレタリア独裁政府の樹立を許しています。

また更に、プロレタリア独裁政府によって政権の座を追われたブルジョワ政府が再び軍を起こしてプロレタリア独裁政府を壊滅させ、関わったものを虐殺するところまで酷似しています。

ドイツではそのあとさらに右翼陣営によるクーデターと左翼によるクーデターが連続して起こり、国家全体が「右翼化」していくこととなります。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

では、このように遡って考えてみますと、第一次世界大戦でドイツはなぜ敗北したのか。

何となくその理由が見えてきそうですね。

ヴィルヘルム二世がもし「世界政策」なる妄想に取りつかれず、ビスマルク体制を維持していれば、ドイツが対露開戦に追い込まれるようなことはなかったかもしれません。

その根源となった「バルカン問題」ですら表面化させることなく鎮静化させ続けていたかもしれません。

それ以上にもしヴィルヘルム二世が「社会主義者鎮圧法」を廃止せず、維持し続けていたとしたら、最終的にクーデターによってヴィルヘルム二世政府が崩壊させられるところまでいかなかったかもしれないですよね。

そもそも社会主義的な考え方がドイツ国内に蔓延することを事前に防ぐこともできていたかもしれないですね。

私は、もしビスマルク後のドイツの指導者がヴィルヘルム二世でなければ、第一次世界大戦はおろか、後の第二次世界大戦すら発生しなかったのではないかと思っています。

しかし、第一次世界大戦敗戦後のドイツ国民は、そんなヴィルヘルム二世の事を批判することをせず、第一次世界大戦にドイツが負けたのは「左翼のせいである」と考えたのです。

あいつらが革命さえ起こさなければ、ドイツがフランスに負けることはなかった、と。

ですが、一つだけ確実なことがあります。それは、ビスマルクの政策をすべて排除したドイツには、結果的にビスマルクが危惧した通りの社会。つまり、「普仏戦争末期のフランスがたどった通りの社会」が訪れたのだという事です。


「アドルフ・ヒトラー」の考え方の根底にあるもの

さて、私、ようやく「我が闘争」の上巻を辛うじて「読破」することができました。今下巻に目を通していますが、下巻を読破するにはまだまだ時間が必要ですね。

アドルフ・ヒトラー


ヒットラーは、私が本日記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方をそのまま彼自身の政策に反映していくことになります。

私が本日の記事で、「匕首(ひしゅ)伝説」を、私の過去の記事にまでさかのぼって深めてみたのは、そこへの伏線だと思っていただければと思います。

次回記事では、そんな「我が闘争」の上巻を読んだ後、私が私なりに読み解いた「アドルフ・ヒトラー」という人物の人物像に迫っていきたいと思います。





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<継承する記事>第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

前回までの記事では、ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒト(息子)らが結成したスパルタクス団(ドイツ共産党)によって勃発したスパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが、更にバイエルン・レーテ共和国までも滅亡させてしまった様子を記事にしました。

バイエルン・レーテ共和国が滅亡したのは1919年5月1日~5月3日の3日間にかけての3日間の出来事だったのですが、この時活躍した「エアハルト海兵旅団」という義勇軍が、1920年3月、グスタフ・ノスケ国防相自らによって解散を命じられ、これに反発したエアハルト旅団が巻き起こした武装蜂起が「カップ一揆」と呼ばれるものです。

カップ一揆


カップ一揆の経緯

前回の記事 でもお示ししました通り、スパルタクス団蜂起が鎮圧された後、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」にドイツが調印するのが1919年6月28日の事。

このヴェルサイユ条約には、連合国側からの講和条件として「ドイツ軍の軍縮」が提示されていたことから、1920年1月10日にヴェルサイユ条約が発効した後、1920年3月31日までに正規国防軍35万を11万5千人に縮小、更に義勇軍25万を完全解散することとしました。

当然、この時解散させられることとなった「義勇軍」の中に「エアハルト旅団」も含まれていました。

エアハルト旅団を従えていたのがベルリン防衛司令官であるヴァルター・フォン・リュトヴィッツという人物で、解散を命じられた際、ドイツ祖国党のヴォルフガング・カップとともにこの解散に反発をし、エーベルト大統領に撤回を要求しました。

しかし、グスタフ・ノスケによってリュトヴィッツは解任され、カップには逮捕が命じられました。(1920年3月9日)


ベルリンの占領とカップ新政権の樹立

これを受け、リュトヴィッツは自身の配下であったヘルマン・エアハルトが率いるドイツ義勇軍エアハルト海兵旅団にベルリン進撃を命じ(3月12日)、翌13日にはベルリンを占領、ヴォルフガング・カップ新政府の樹立を宣言します。

これに対し、グスタフ・ノスケ国防相はワイマール共和国軍に治安出動を命じるのですが、プロイセン参謀本部長(当時は連合国に対する偽装のため、「兵務局」という名称だった)であるハンス・フォン・ゼークトは、軍の独立性を守るため、「軍は軍を撃たない」との理由でこれを拒否。

エーベルト大統領は身の安全を確保するため、ベルリンを脱出してシュトゥットガルトに大統領府を移転します。

ドイツ祖国党、ドイツ国民党、及び経済界が新政府を支持しました。

そう。意外にもこの「カップ一揆」はドイツ、特に旧プロイセン陣営からは支持されていたんですね。


匕首伝説

さて。このような事態が巻き起こった背景にあるのがこの「匕首伝説」なるもの。

「背後の一突き」とも呼ばれているようで、要は第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ、という考え方です。

この考え方はヒットラーの「我が闘争」にも登場しますね。

私もこのブログで度々記事にしていますが、ドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、間違いなくドイツ国内で社会主義革命が勃発したことによる自滅です。

「匕首伝説」とはこのことを言っているわけです。実際、終戦時の戦場はフランスでしたし、ドイツ国内には敵国軍を侵入させてはいませんでしたから。

で、この考え方は意外にも多くの国民に支持されていて、それが結果的に国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスを生み出す遠因ともなったという事でしょうか。左派がいなければドイツが敗北することはなかった、と。

そして、カップ一揆をおこしたヴォルフガング・カップ自身も、この「匕首伝説」を訴えていました。この事が、カップ新政府がベルリンで受け入れられた一つの理由だったんですね。


超短命に終わったカップ新政府とルール蜂起

エアハルト旅団がベルリンを占領し、カップが新政府樹立を宣言したのが1920年3月12日。ですが、この新政府が崩壊したのはなんと同年3月17日。カップ政権は1週間も持たなかったんですね。

カップ新政府崩壊の原動力となったのは社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟によるゼネラルストライキ(ゼネスト)。つまり、ドイツ全国で一斉に仕事を放棄したってことです。

また更に、ルール地方では「ルール赤軍」を名乗る労働者たちが反乱を起こします。

「労働者」とは言え、その大部分はドイツ独立社会民主党やドイツ共産党に所属する、第一次世界大戦の「復員兵」。総勢5万の復員兵たちが終結し、義勇軍を襲撃(3月15日)。17日にはカップは退陣を余儀なくされました。

その後、共和国政府は戦勝国であるイギリス、及びフランスにルール蜂起鎮圧のため、軍の増派の許可を求めるのですが、フランスは「条約の破棄に当たる」としてこれに強硬に反発するのですが、イギリスは逆に共和国政府を支持し、日本やイタリアもこれに賛同しました。

連合国の足並みがそろったとはいえない状況の中、共和国軍は派兵を行い、ルール蜂起鎮圧のため、ルール地方へと向かうことになります。

4月6日、軍は赤軍に中枢にまで到達し、赤軍は壊滅することとなりました。

一方でフランスは条約違反であることを口実にドイツに軍を派兵し、フランスを支持したフランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの5つの都市を占領し、共和国軍が引き上げる5月17日まで占領を続けました。


共和国政府とバイエルンとの対立

ここまでくると、かなりぐちゃぐちゃですね。

まず、カップ一揆後に再び解散を命じられたエアハルト旅団は、「コンスル」という名称の組織を結集し、テロリスト集団と化します。

国防相であるグスタフ・ノスケもカップ一揆において「反革命を優遇した」という理由で辞任に追い込まれます。ノスケの辞任に伴って「総帥部長官」であったヴァルター・ラインハルトも辞任。代わって兵務局長であるハンス・フォン・ゼークト総帥部長官に就任。軍は政府からの独立色を強めることになります。

一方で、バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

ドイツ国内で、徐々に右派と左派による対立の構造が激しさを増し始めるのです。


本日の記事は自称をなぞるだけで、私のブログ「らしさ」に欠ける記事だったかと思います。

ですが、この当時のドイツの全体像を把握する上では必要な行程かとも考えています。いずれ継続する記事を作成する中で、今回の記事を参考にしたり、または更新、改修をしたりする場面も出てくるかと思いますが、より「真実」に近い姿を見出すためこのような記事が存在することもご容赦いただければと思います。

次回記事では、いよいよ本シリーズの本丸であるヒットラーやナチスという存在に少しずつ迫っていければと思っています。


次回記事備忘録 ミュンヘン一揆



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<継承する記事>第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

私自身の多忙さと年金の話題を挟みましたので、少し和数が飛びましたが、改めて ドイツ近代史のシリーズ を再開してみたいと思います。

時系列的には 第468回の記事 でスパルタクス団蜂起について記した上で、当時のドイツの共産主義の象徴であったカール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクが処刑されたことを、第471回の記事 で戦後ドイツでハイパーインフレーションをもたらす直因となった「ヴェルサイユ条約」について、第475回の記事 で「ナチス政権を誕生させることなった」ワイマール憲法について記事にしました。

時系列的に記しますと、

1919年1月5日 スパルタクス団蜂起
1919年1月15日 リープクネヒトとルクセンブルク、処刑
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印
1919年8月11日 ワイマール憲法制定
1919年8月14日 ワイマール憲法公布・施行
1920年1月10日 ヴェルサイユ条約発効
1923年1月 フランス・ベルギーによるルール占領

このような流れになります。スパルタクス団はその残党により、3月にも暴動を起こすのですが、1月の蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケにより鎮圧。

グスタフは更に1919年4月6日にバイエルンで樹立した「バイエルン・レーテ共和国」も打倒します。(1919年5月3日)


バイエルン・レーテ共和国とアドルフ・ヒトラー

バイエルン・レーテ共和国の面白いところは、非常に短期間の間に「ブルジョワによる革命」→「プロレタリアによる革命」という経緯をたどっているという事。

一応、皆様ご存じだとは思いますが、ドイツにおけるバイエルンの位置はこちらです。

バイエルン州


バイエルン共和国の誕生

バイエルンにおける革命は三度発生しているようで、まずは1918年11月7日夜半。「バイエルン王国」であった時代に、独立社会民主党の指導者であるクルト・アイスナーがバイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ王家の廃止とバイエルン共和国の樹立を宣言。

ベルリンでフィリップ・シャイデマンがドイツ共和国樹立を宣言したのが1918年11月9日ですから、それに先駆けてバイエルン共和国が誕生したことになります。

アイスナーの特徴的だったのは、ベルリン政府(プロイセン)に対して反発的な姿勢を見せた事。

バイエルンは、普仏戦争によってビスマルクがドイツを統一 した後も、法制度的にはプロイセンには合流せず、「自由都市」としての立場を貫きましたね?

第426回の記事 で、元々南ドイツには北ドイツとの統合に否定的な「分離主義者」が多かったことを記しました。

ビスマルク自身もそれを認識していて、南ドイツで主に信仰されていたカトリック。その信者によって構成されていた「ドイツ中央党」の動きを抑えることを目的としてカトリックを弾圧していました。(文化闘争)

しかし、1873年恐慌の勃発を受け、自由貿易から保護貿易への転換が必要であると直感したビスマルクは、中央党を味方に引き入れるため、中央党との和解を図ることとなりました。

このような経緯から見てもご理解いただけると思いますが、バイエルン人の中には元々プロイセンに対する反発心が内在していたんですね。自分たちは「ドイツ人」ではなく「バイエルン人」である、と。

ですから、第一次世界大戦に対しても、「プロイセン王(ヴィルヘルム二世)が勝手に起こした戦争」であり、バイエルンがこれに巻き込まれたという意識を持っていた人も少なくはなかったわけです。

ただ、アイスナー自身も確かに独立社会民主党の党員であったものの、共産主義者たちが目指す「プロレタリア独裁政府の誕生」とは距離を取っていて、このようなアイスナーのあいまいな姿勢は社会主義者たちからも反発を買うことになりました。

アイスナーを支持した社会主義者たちは彼の下から離反し、代わりに1919年1月の選挙では、カトリックによって構成される保守的な「バイエルン人民党」が第一党となり、独立社会民主党はわずか3議席しか取れずに敗北。アイスナー自身は右派の青年将校によって暗殺されてしまいます。

しかし、この暗殺事件がかえって独立社会民主党と社会民主党の結束を深め、政権を維持することとなりました。


バイエルン=レーテ共和国の誕生

独立社会民主党と社会民主党が結束を深め、政権を維持することとなったわけですが、アイスナーから離反し、共産党を結成した面々や、その他の左派連中からはこの事が好ましくは思われませんでした。

そして1919年4月6日、独立社会民主党のエルンスト・トラーと無政府主義者(アナキスト)のグスタフ・ランダウアーが中心となって革命が勃発。首相であった社会民主党ヨハネス・ホフマンはミュンヘンを追われ、バイエルン・レーテ共和国が誕生しました。

ですが、更にその1週間後、今度はこの事に不満を持った共産党が、ロシア出身のオイゲン・レヴィーネを中心としてエルンスト・トラーらが作ったレーテ共和国を打倒。改めてバイエルン・レーテ共和国の樹立が宣言されました。

共産主義者の理想は

1.ブルジョワ革命による貴族政権の打倒
→2.プロレタリア革命によるブルジョワ政権の打倒
→3.プロレタリアによる独裁政権の樹立

にあるわけですから、これほど理想的な共産主義政権の誕生の仕方はありません。

当時はロシアでレーニンらによるソビエト政権が誕生した直後で、第三インターナショナル(コミンテルン)が樹立され、世界中で共産主義革命を起こすこと(世界革命)が目論まれていましたから、レーニンらにとってみればこれは快哉を叫ぶ思いだったかと思います。


政治家、アドルフ・ヒトラーの登場

さて、このようにロシア共産党(コミンテルン)に指導される形で、「ドイツ共産党」の主導で誕生した「バイエルン・レーテ共和国」。

当然その運営は「レーテ(評議会)」によって行われます。

バイエルン・レーテ共和国が誕生したのは1919年4月13日。その2日後、4月15日に、ミュンヘンのレーテ予備大隊評議員の選挙が行われました。

この時、当選者の一人として名前があったのがあの「アドルフ・ヒトラー」です。

アドルフ・ヒトラー

ヒットラーが初めて政治の場に姿を現した瞬間でもありました。


バイエルン・レーテ共和国の滅亡

さて。このようにして誕生した「バイエルン・レーテ共和国」ですが、冒頭にも記しました通り、ドイツ国中央政府のグスタフ・ノスケ国防相率いるワイマール共和国軍他、ドイツ義勇軍によって1919年5月1日~5月3日の3日間にかけてあっという間に占領されてしまいます。

崩壊する寸前、共産党は人質としてとらえた人々を虐殺。その後、レーテ共和国は滅亡します。

その後、政権は再び共産党によってミュンヘンから追い出されたはずのヨハネス・ホフマンの下へと戻ることになるのですが、政権は事実上、中央政府軍の下に置かれることとなります。

で、その占領軍による「レーテ共和国にかかわったもの似たいする」「残虐行為」が多発したのだとか・・・。

ロシアからやってきたオイゲン・レヴィーネは7月5日に処刑。エルンスト・トラーは1925年まで投獄されることとなりました。

一方、この時ヒットラーは占領軍により「革命調査委員会」の委員として任命されます。革命調査委員会に、クーデターの最中に政治活動をしていた人物に共産主義の傾向があるかどうかを調べる役割が与えられていました。

ヒットラーは、この時の働きが認められて「帰還兵への政治教育を行う啓発教育部隊」に配属されることとなりました。


この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

次回記事では、第351回の記事 と多少話題が重なるのですが、この後、ベルリンで起きる「カップ一揆」以降の話題を深めていきたいと思います。


次回備忘録 ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ

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先日、本年度第一四半期のGDPの一時速報が発表されましたので、本日はこの内容について記事にしてみたいと思います。

いつもGDPが速報がなされる時にはあちら側界隈の皆さんが大騒ぎしているのですが、どうも今回はその雰囲気がありません。まるで発表がなされなかったかのように、本当に静かなまま一日が過ぎていきました。

理由はただ一つ。公表された結果が好調だったからです。

【日本経済新聞 2019/08/9より】
GDP1.8%増、消費堅調で想定外の伸び 4~6月年率

内閣府が9日発表した2019年4~6月期の国内総生産(GDP)速報値は、物価変動の影響を除いた実質の季節調整値で前期比0.4%増、年率換算では1.8%増だった。プラス成長は3四半期連続。改元に伴う大型連休で個人消費が伸びたほか、設備投資も増えた。米中貿易摩擦の影響で輸出は停滞が続いたが、内需が経済を下支えした。

4~6月期は大型連休や天候による消費押し上げ効果が大きかった。QUICKがまとめた民間エコノミストによる事前予測の中心値(前期比年率0.4%増)を大きく上回った。

GDPの半分以上を占める個人消費は前期比0.6%増で、3四半期連続のプラスとなった。4月末から5月にかけての10連休で、旅行などレジャー関連の消費が盛り上がった。新型車の発売が相次いだ自動車の販売も好調だった。5~6月に気温が高めに推移したことで、エアコンが早めに売れ出したこともプラスに働いた。

内需のもう一つの柱である設備投資は1.5%増えた。建設関連の需要が強く、1~3月期の0.4%増から上昇幅が拡大した。サービス業を中心に人手不足に伴う省力化投資も引き続き活発だ。

公共投資は1.0%の増加。18年度の補正予算が執行段階に入り、伸びにつながった。GDPの伸びに対する内需の寄与度は全体で0.7ポイントのプラスだった。

外需は中国や欧州など海外経済の減速で弱い動きが続いた。輸出は0.1%減で、2四半期連続のマイナスだった。米中の貿易摩擦などから海外での需要が減速し、半導体製造装置や金属加工機械などの中国向け輸出が落ち込んだ。

輸入は1.6%増で、2四半期ぶりに増加したが、1~3月期(4.3%減)からの戻りは鈍い。輸出から輸入を差し引く外需のGDPへの寄与度は0.3ポイントのマイナスだった。海外経済の不透明感の高まりから、貿易活動が全体に縮小している可能性がある。

4~6月期のGDPは生活実感に近い名目でみると前期比0.4%増。年率換算では1.7%増だった。4~6月期は物価が伸びず、名目の成長率が実質をわずかに下回った。

日本経済は2018年7~9月期に自然災害が相次ぎ、マイナス成長に転落。続く10~12月期には、堅調な個人消費を支えにプラス成長に戻った。19年1~3月期は中国経済減速の影響で輸出や生産が減少した。ただ、輸入が輸出を上回って急減したため、計算上はGDPを押し上げ、年率2.8%の高い成長率となっていた。

今回の日経記事には、1か所だけ評価したい部分がございまして、それが次の画像です。

日経2019第一四半期

いつも掲載していますように、私はそもそも「年率換算」などといったフィクションの数字など全くあてにならないと思っていますし、「前期比」という数字は「季節調整」というその計算方法すら説明することが難しいような計算式が用いられていますので、その信憑性は非常に薄いと思っています。

上記画像はまさしく私が日頃痛烈に批判しています、その「季節調整」が行われた数字と、加えてGDP全体に関してのみ「年率換算」が行われた数字も掲載されています。

ですが、私がそれでも「評価したい」とする理由は、この表を見れば「実質」と「名目」をきちんと比較することができるからです。

季節調整列と前期比の数値としての信憑性はさておき、「年率換算」をクローズアップせず、「前期比」まででとどめていることももう一つ評価できる点です。年率換算なんて完全にフィクションの数字ですから、これを経済指標として用いることなど頭がおかしいとしか思えませんからね。

またもう一つ、4-6の第一四半期だけでなく、比較された昨年度の第4四半期の増減率も掲載されていますので、どのくらい成長したのかという事がよりわかりやすい表現にはなっていると思います。

記事全体も「年率換算」などというトンデモ数字で語ることはなく、「前期比」までできちん留めていまして、計算式によって生まれるバイアスが、より小さくとどまる様になっています。


GDP速報が全く騒がれなかった訳

さて。今回のGDP速報、マスコミ報道等で全く騒がれなかったわけですが、なぜ誰も騒がなかったのか。

理由は、マスコミがやけにクローズアップしています、「季節調整系列」「年率換算」「前期比」で、特に「個人消費」に該当する値があまりにも好調だったから。

例えば「民間最終消費支出」全体で前期比2.5%増。「家計最終消費支出」で2.5%。ここからさらなるフィクションの数字である「持家の帰属家賃」を取り除くとなんと2.7%増。

もちろん、このような数字が算出されたのは今回が初めてではないのですが、消費低迷を謳いたいマスコミやあちら側の人たちとしては歯ぎしりしたくなるほどの消費の好調さを示す数字がこれでもかというほどに並んでいるわけです。米中貿易摩擦、日韓関係悪化などで、どうしても消費は低迷していてほしかったわけですからね。

いい加減気づけばいいのに、と思います。「年率換算」や「前期比」の異常さに。


2019年度GDP第1四半期1次速報「前年同月比」

という事で、ここからは私の視点で「GDP統計」を見ていきます。

【2019年度GDP第一四半期第1次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 138.357 兆円(1.6%)

 民間最終消費支出 76.125 兆円(1.5%)
 家計最終消費支出 74.071 兆円(1.4%)
  除く持家の帰属家賃  61.537 兆円(1.6%)

 民間住宅  4.051 兆円(3.7%)
 民間企業設備 21.099 兆円(2.8%)

実質GDP
全体  132.460 兆円(1.2%)

 民間最終消費支出 74.448 兆円(1.0%)
 家計最終消費支出 72.480 兆円(1.0%)
  除く持家の帰属家賃  58.920 兆円(0.9%)

 民間住宅 3.702 兆円(2.9%)
 民間企業設備  20.477 兆円(2.4%)

内閣府


私が大切にしているのは「実質」よりも「名目」。「季節調整年率換算」よりも「原系列」。「前期比」よりも「前年同月比」。

なぜかと申しますと、すべての項目で前者よりも後者の方が計算式によって生まれるバイアスが少ないから。ゼロとは言いませんけどね。

計算式が少ない分、より実態に近い統計結果となっているんです。

それでも「実質」の情報を掲載しているのは、あくまでも参考のため。両方の伸び率を差し引くことで「物価上昇率」を算出することができますから。

その視点で申しますと、物価上昇率は

全体 0.4%

 民間最終消費支出 0.5%
 家計最終消費支出 0.4%
  除く持家の帰属家賃  0.6%

 民間住宅  0.8%
 民間企業設備 0.4%

となります。

政府が目指している物価上昇率は2%ですから、それを考えると「物価の伸び悩み」となるのかもしれません。

ただ、個人的には名目がきちんと成長しているのであれば、そこまで物価上昇率にこだわる必要はないと思います。

特に、「民間住宅」では名目が3.7%も成長しているんですから。物価が上昇していないんだから経済が~~という理屈にはならないと思います。国民がそれだけお金を使っているわけですからね。

日経の記事の中で、悔しさが感じられるのは文末の

日本経済は2018年7~9月期に自然災害が相次ぎ、マイナス成長に転落。続く10~12月期には、堅調な個人消費を支えにプラス成長に戻った。19年1~3月期は中国経済減速の影響で輸出や生産が減少した。ただ、輸入が輸出を上回って急減したため、計算上はGDPを押し上げ、年率2.8%の高い成長率となっていた。

どうしても日本国経済が不調であることにしたいんでしょうか?

わざわざ昨期の統計まで持ち出して日本国経済をディスっていますね。

ですが、まず「日本経済は2018年7~9月期に自然災害が相次ぎ、マイナス成長に転落」と記しています。

ですが、名目の「原系列」で見てみますと、確かに2018年7-9月の全体のGDPは-0.3%と前年度割れしていますが、内需でマイナスを記録しているのは「民間住宅」のみ。家計消費は1.4%、企業の設備投資は2.1%の前年度越えです。

7-9月のGDPが昨年度を割り込んだ理由は7-9月期の「純輸出高(輸出高-輸入高)」が前値年度を大きく下回ったから。自然災害が相次いだことは、全く関係ありません。

また、「続く10~12月期には、堅調な個人消費を支えにプラス成長に戻った」とありますが、これも誤りで10-12月の名目GDP原系列は横ばい。わずかながらマイナス成長で、しかも「個人消費」の成長率は7-9月期を下回っています。最大の理由は「純輸出高」が前年度を下回り、むしろマイナス成長していることが理由です。

また、「19年1~3月期は中国経済減速の影響で輸出や生産が減少した。ただ、輸入が輸出を上回って急減したため、計算上はGDPを押し上げ、年率2.8%の高い成長率となっていた」ともありますが、実は下落幅は輸入を輸出が大きく上回っており、これも日経の記事は全く逆の情報を記事としてあげています。

また更に、19年1~3月期は個人消費が0.8%増、企業の設備投資費に至っては3.4%増ですから、いかに日経の記事が的外れな内容となっているのかという事がとてもよくわかります。

今回、「前期比」という統計のバイアスがより多くかかるデータとは言え、「実質」と「名目」をきちんと比較できる形にし、更に昨期の情報まで比較できる形で情報を掲載したことは評価できますが、これほどに的外れな内容となっていることは、やはり私としては理解しかねる問題です。

「前期比」よりも「前年同月比」に着目し、きちんとした記事を作成してくれる新聞社が登場することを、私は願ってやみません。




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<継承する記事>第480回 年金に対する私の認識の誤りを「厚生年金勘定」から検証


第477回 改めて分析する基礎年金勘定~誤っていた私の分析結果~
第478回 年金制度に対する私の誤った分析結果を再検証します
第479回 年金に対する私の認識の誤りを「基礎年金勘定」から検証
第480回 年金に対する私の認識の誤りを「厚生年金勘定」から検証

上記4つの記事に続く第5弾目の記事です。

きっかけとなったのは第477回の記事 でお伝えしました通り、私が正しいと信じていた従来の「年金制度の仕組み」が誤っていたという事。

内容は重複しますのでここには記しませんが、その誤り方。どのように誤っていたのか。ではそれを検証したうえで、それでも年金制度は破綻しないと言い切れるのか。この点を検証しようと思いまして、今回のシリーズを作成しています。

一番大きなポイントとしては、国民年金勘定や厚生年金勘定に繰り入れられることなく、「基礎年金勘定」のみで運用されている「基礎年金」が存在したという事。

この部分が仮に国民年金勘定や厚生年金勘定に繰り入れられていたとしたら収支状況はどのようになっていたのかを示したグラフが次の二つ。

国民年金収支(基礎年金勘定分を含む)
厚生年金収支(基礎年金勘定分を含む)

国民年金勘定については、2009年まで赤字でしたが、それ以降は黒字になっています。
厚生年金勘定については、赤字幅が狭まってこそいるものの、収支全体としては赤字です。

最新、2017年の収支状況で5.12兆円の赤字です。

ただし、このデータは私の独自の計算方法を用いて作成したものであり、厚生年金勘定については特に本来国民年金勘定に振り分けられるべきものも含まれていることから、データとしては必ずしも正確なものではないことをもお伝えしました。

また次に、「厚生年金勘定」の内、ここから基礎年金部分を全額取り除き、「厚生年金部分」のみをピックアップしてその推移を示したのが次のグラフ。

厚生年金部分収支推移

支出がほぼ増加しておらず、収入のみが増加しているため、収支差額こそ狭まっていますが、最新の2017年の段階でさえ0.54兆円の赤字。一貫して収支差額は赤字であったことがわかります。

ただし、私が作成したグラフとしては、

・「基礎年金部分から繰り入れ」られている部分がその年に亡くなる人の数までは考慮されておらず、「収入」から多めにマイナスされている事
・厚生年金加入者(納付者)の数が期首より期末の方が増えている事
・厚生年金納付者(納付企業)の中にも「未納者」は存在する事。

主にこの3つの理由が加味されていませんので、必ずしも正確な結果を現したものではありません。ですので、このグラフだけを以て、(現時点において)厚生年金部分収支が本当に赤字なのかどうか。これを断言するのは少し急ぎすぎかと思います。

今回の記事では、これらの前提条件を下に、今度は各年金勘定における「年金積立金」の推移を検証することで、では本当に年金会計は全体として危険な状態にあるのかどうか。その部分を検証してみたいと思います。


基礎年金勘定「積立金」から見る年金の財政状況

この部分に関しては第479回の記事 におきまして、記事としては既に取り上げていますね。

基礎年金勘定積立金+剰余金推移

こちらが基礎年金勘定の「積立金」の推移です。

「積立金+余剰金」としているのは、積立金にはその年度末時点での金額であり、その年に発生した「余剰金」は含まれていません。ですので、その年の「余剰金」と「積立金」を加えることで、翌年度の期首(4月時点)での各年金会計の正確な余剰資金を算出することができます。この事が理由です。

2011年までは順調に増加していた基礎年金勘定の「積立金」が翌12年、更に13年と減少しているその理由として、第479回の記事 におきまして、「基礎年金の国庫負担分」の引き上げのための財源を民主党内閣で震災復興のための予算として流用してしまったからだとお伝えしたと思います。

基礎年金勘定収支推移

こちらがその時にお示しした基礎年金勘定全体の収支状況です。今更ですが、私の年金に関する資料は、基本的に収入は「保険料収入」及び「国庫負担分」、支出は「保険料給付費」のみしか計算に加えていません。

年金収支にはそれ以外の項目もあるのですが、それを入れてしまうと焦点がぼやけてしまい、本当に「年金のシステム」だけでクロが出ているのか、もしくは赤字なのかという部分が見えてきにくいと思いますので、そのような方法をとっています。

ただし、「年金積立金」に関してだけはそのような算出方法が難しいので、すべての項目の収支が合算された結果の数字となっております。

基礎年金勘定の収支を見てみますと、12年、13年の収入が少なくなっていることがわかるともいます。ですので、この不足分が「積立金」をより繰り入れられたものと考えられます。

ただし、その上で更に2016年度、2017年度の基礎年金勘定の収支を見てみますと、2016年で296.87億円、2017年で1105.34億円それぞれ赤字出していて、基礎年金勘定積立金においてもその分マイナスが出ています。

単純に考えますと、基礎年金勘定ではその年に「納付される」ことが予測される金額が全額国民年金及び厚生年金勘定より繰り入れられています。

その年に亡くなった方へは給付がなされませんので、その分「基礎年金勘定」では資金が余ることになるはずなのですが、それでも尚積立金を削らざるを得ない状況であった、という事でしょうか?

2017年度は10月より年金の受給に必要な納付機関が25年から10年に短縮されましたので、これに伴う歳出の増加も原因として考えられますが、2016年に関してはそれでは説明が付きません。

制度として、基礎年金勘定で運用されているのは「昭和61年以降に受給者となった人」のみです。最も高齢の方で92歳を過ぎたあたりでしょうか?

厚生労働省が公表している最新の「簡易生命表」によりますと、男性の25%、女性の50%程度が90歳までは生きているのだそうです。

簡易生命表

その割合も年々増えているようですので、この辺りが想定を超えてきたのでしょうか?

これが「基礎年金勘定」の積立金を見た時点での、現時点での私の「予測」です。


国民年金勘定「積立金」から見る年金の財政状況

気を付けていただきたいのは、ここは「未納者」が多い項目で、その分余計に「年金積立金」から切り崩されて運用されている項目だという事です。

国民年金積立金+剰余金推移

動きとしますと、「基礎年金勘定」の積立金の推移とよく似た動き方をしていますね。

ただし、リーマンショックが起きた2008年と、その翌年の2009年を見ますと、順調に積立金が増えていた基礎年金部分とは異なる動きがみられます。

これは、リーマンショックに関連した動向で、「失業者」が増えた事。この事で年金を支払う事の出来ない「未納者」が一気に増えたのではないかと予測されます。

加えて2012年、2013年の落ち込み方も同様ですね。ここもおそらくは国庫負担増加に伴う財源を民主党内閣で年金ではなく震災復興のために使ってしまったことが一つの原因と考えられます。

ただ、震災に伴って失業者が増加し、同時に「未納者」が増えた事もその理由として考えられると思います。

もう一つ、「国民年金加入者」は毎年減少していて、国民年金勘定での「収入」は未納者の増減に関わらず減少していると考えられますので、安倍内閣以降の伸び悩みの理由の一つとして考えられなくはないかと思います。

ただし、「基礎年金勘定」の動向とも一致が見られることから、それ以外になにがしかの理由が考えられるのではないか、とも思います。


厚生年金勘定「積立金」から見る年金の財政状況

さて。回りくどく記事を書いてきましたが、実は私の中である一定の「結論」は出ています。

それが示されているのがこの「厚生年金勘定」における積立金の推移から見えてきます。

厚生年金積立金+剰余金推移

本心とすれば、実は2007年以前のデータも欲しいなと思っています。ただ、今の仕事の都合上、中々まとまった時間が取れませんので、現時点でわかっているデータから検証を進めていきます。

いかがでしょうか? このグラフを見ますと、安倍内閣以前と安倍内閣以後の「動向」が非常にわかりやすく見えてきませんか?

「厚生年金勘定」での積立金の推移を見てみますと、2013年を谷として、それ以前とそれ以後で明らかに動向が異なりますね。

2013年までは積立金が切り崩されており、2014年以降は逆に積み足されていることがわかります。

もう一度こちらのグラフをご覧ください。

厚生年金部分収支推移

こちらは厚生年金勘定の内、「厚生年金部分」の推移を示したグラフです。少なくとも見かけ上は「赤字」でしたね?
もちろん、「厚生年金積立金+剰余金推移」のグラフにはこの「厚生年金部分」のデータも含まれています。

では、先ほどの「厚生年金積立金+剰余金推移」のグラフから、「厚生年金部分」を取り除いてみるとどのようになるでしょうか。

厚生年金積立金(厚生年金部分を除く)

これが、「厚生年金積立金」から「厚生年金部分収支」を取り除いた「厚生年金積立金」の推移です。

ややこしいと思われるかもしれませんが、厚生年金全体の「積立金」から、「基礎年金部分以外の厚生年金保険料(+国庫負担分)」を加え、更に「厚生年金部分の給付費」をマイナスしたデータです。

つまり、もし年金制度が「基礎年金部分」だけで運用されていて、厚生年金会計における「2階部分」がなかったとしたら厚生年金勘定はプラスになるのか、マイナスになるのかというデータです。

ご覧の通り、厚生年金会計全体の収支同様基礎年金部分だけの収支も2013年以降プラスで推移していることがわかります。つまり、「厚生年金部分(二階部分)」では確かに年金会計は赤字かもしれませんが、それを差し引いても「厚生年金会計」全体では安倍内閣以降の収支はプラスだってことです。

こんなことを言うと、「厚生年金だけでいえば確かにそうかもしれないけど、年金会計全体ではどうせ赤字なんでしょ?」

という人もいるかもしれません。では、最後に「年金会計」全体の積立金の収支を見てみましょう。


年金勘定「積立金」全体から見る年金の財政状況

年金積立金+剰余金総額推移

いかがでしょうか? 厚生年金勘定の動きと同様、2013年まで減少し、それ以降は増加に転じていることがわかりますね?

年金積立金総額(厚生年金部分を除く)

こちらは年金積立金総額から「厚生年金部分」を取り除いた動きです。

いうまでもありませんが、当然「年金積立金総額」と全く同じ動きを見せています。

ちなみに、私が示している「年金積立金」にはGPIFによって運用された「運用益」は含まれていません。

最新の2017年のデータで、GPIFの運用を含まない積立金の総額は基礎年金部分まで含めて総額で122兆円ですが、GPIFの運用益をふくめると164兆円です(基礎年金部分は含みません)から、その違いは明らかですね。

ちなみに、安倍内閣がスタートした2013年の私ベースの年金積立金は108.56兆円。最新の2017年が正確には121.77兆円ですから、GPIFの運用に頼らずとも安倍内閣では年金制度全体で12.9兆円の「運用益」を増やしているってことです。GPIFではこれに加えて更に43兆円の利益が生まれているという事です。

5回に渡りまして、非常に回りくどい記事を作成しましたが、これが「結論」です。

もちろん将来にわたって確実に破綻しないかのような私の言い方は決して正しかったとは言えません。これは本当にお詫びしなければならない部分だと思います。

今回の調査で、「第二号被保険者」を増やし、年金会計を安定させていくことがいかに大切な事なのかという事がとてもよくわかりました。そのことは、私の記事にコメントをいただいた さの 様のおっしゃる通りです。

改めまして、私のこれまでの記事を信頼し、ひょっとすると情報ソースとしてご利用いただいたのではないかと思われる皆様に心よりお詫びを申し上げます。

結論としましては、現在の年金の運用方法に従って丁寧に運用していけば、年金制度は決して破綻を過度恐れる必要はないシステムだという事がわかりました。ただし、条件として「第二号被保険者」の数を増やしていくこと。そして安定させていくことが最低条件です。

改めて現在の安倍内閣の政策がいかに正しい政策を実行しているのかという事も実感させられています。

今後、新らしい記事を作成しながら、並行してという事にはなりますが、私の過去の年金に関連した記事で必要な部分を随時修正していきたいと思います。

今後とも、私のブログをどうぞ、よろしくお願いいたします。




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<継承する記事>第479回 年金に対する私の認識の誤りを「基礎年金勘定」から検証

第477回 改めて分析する基礎年金勘定~誤っていた私の分析結果~
第478回 年金制度に対する私の誤った分析結果を再検証します
第479回 年金に対する私の認識の誤りを「基礎年金勘定」から検証

の3つの記事に引き続き、私の年金制度に対する認識の誤りを検証し、また更にではどのように誤っていたのか、終局的な目的として、年金は本当に破綻しないと言い切れるのか。この事を目的とした記事としては第4段目。

今回は「厚生年金勘定」を分析することによって、年金の収支を測定する上での「ノイズ」を一つ取り除いてみたいと思います。

前回の記事では『次回以降記事では他会計の「積立金」も含めて、全体で年金収支の検証を行ってみます。』と記したのですが、もう一つ前置きとして今回の記事を作成しています。


「厚生年金勘定」のノイズ

「国民年金勘定」も「基礎年金勘定」も共に年金制度の1階部分。
年金制度2

上図でいう「国民年金(基礎年金)」部分の会計収支のみを現したものですが、「厚生年金勘定」では、この所謂「1階部分」に加えて「厚生年金部分」。つまり「二階部分」が含まれる特殊な年金勘定です。

厚生年金勘定がそもそも黒字なのか、赤字なのか。この事をきちんと算出するために、まずはこの厚生年金勘定の「ノイズ」である「厚生年金部分」に集中して記事を作成してみます。

厚生年金収支(基礎年金勘定分を含む)

参考資料としてまずは厚生年金の「保険料」と「給付費」を私独自の計算方法を用いて比較した資料。上表をご覧ください。

この資料で見る限り、厚生年金を「基礎年金勘定+厚生年金部分」で合算して考えると、厚生年金勘定は「赤字」なのではないかとする推測が容易に成り立ちます。

ただし、このグラフの内、「基礎年金部分」に関しては、厚生年金受給者の内に、「国民年金のみを収めていた期間が含まれる受給者」も含まれていますので、単純にこれを「赤字である」と決めつけるわけにもいきません。

ですが、これを「厚生年金部分」に絞れば、ここには重複する受給者は含まれませんから、純粋に厚生年金収支における「厚生年金部分」が赤字であるか、黒字であるのかという事を図ることができます。

もったいぶることはしません。まずは結論から表示します。

厚生年金部分収支推移
※グラフとしてはまだ「未完成」ですから、転用はしないでください。どのように未完成なのかは後述します。

青が保険料収入。

(厚生年金保険料収入+国庫負担分)-基礎年金勘定へ繰入

という式です。計算式に国庫負担分が含まれていますが、これは「基礎年金勘定」へ全額繰り入れられています。


一方で、緑が給付費。

「厚生年金保険料給付費-基礎年金勘定より繰入」

という式です。つまり、長い間赤字だったという事・・・。

基礎年金勘定より繰り入れられた額がそのまま「基礎年金」として給付されますので、その差額が厚生年金部分となります。ただし、「基礎年金部分」には繰り入れられた後、同期間中に受け取り者がいなくなる部分がございます。

その部分は当然浮いてしまうことになりますが、厚生年金勘定としては一体ですので、給付者がいなくなった部分は厚生年金部分の不足部分に充てられていると考えられます。

ただし、グラフ中ではその「多めに見積もって繰り入れられている繰入分」を保険料全体からマイナスしていますので、「収入」の側は少しだけ少なめに算出されています。

ちなみに、「厚生年金収支」の赤字幅は以下のようになっています。これは第478回の記事 でお示ししましたね。

2007年 -7.18兆
2008年 -7.3兆
2009年 -8.04兆
2010年 -7.84兆
2011年 -7.42兆
2012年 -8.32兆
2013年 -8.28兆
2014年 -6.98兆
2015年 -6.32兆
2016年 -5.72兆
2017年 -5.12兆

では、同じ「厚生年金」の内、「厚生年金部分」の赤字幅はどのように推移しているでしょうか?

2007年 -5.92兆
2008年 -5.63兆
2009年 -6.63兆
2010年 -6.95兆
2011年 -5.70兆
2012年 -4.69兆
2013年 -4.35兆
2014年 -3.67兆
2015年 -2.65兆
2016年 -1.28兆
2017年 -0.54兆

リーマンショックの起きた2008年、翌2009年に赤字幅が大きく膨らんでいますが、その原因は受給額が減ったことではなく、給付費が急増したこと。

理由は現時点では不明です。

赤字幅としては厚生年金勘定全体よりも、厚生年金部分の赤字幅の方が縮小幅が大きく、近々黒字化してもおかしくないような状況にはなっていますね。

まあ・・・今の私の心境としては誤った情報を長年配信し続けた罪悪感でいっぱいです。

もう一つの視点いたしましては、年金の加入者数の推移。

第478回の記事 でお示ししました通り、厚生年金の加入者の数は、平成19(2007)年度まで増加し、20年、21年の2年間減少。

22年より再び増加に転じ、以降現在に至るまで毎年増え続けています。

「基礎年金勘定への繰り入れ」は毎年の期首、つまり4月に、前年3月末時点での年金加入者数から1年間に納付されると考えられる保険料の総額を予測して基礎年金勘定に繰り入れられるものです。

ですが、昨年度の期首の厚生年金加入者よりも昨年度期末の厚生年金加入者の数の方が多くなっているわけですから、昨年度に納付された保険料の総額は、昨年度期末の厚生年金加入者の数から予測される保険料の納付額よりも少なくなってしまいます。(加入者数が減少した2年間は取り除いて考えます)

この事から、当然今年度の期首に厚生年金勘定より引き出される「基礎年金部分」の金額は、昨年に納められた厚生年金の「基礎年金部分」の総額よりも多くなってしまいますので、必然的に前年までの厚生年金勘定の資産を切り崩して支払わざるを得ません。

その財源として平成25(2013年)までは厚生年金勘定の「年金積立金」が切り崩されていました。

ですが、2014年以降は、実は厚生年金勘定では「年金積立金」より1銭たりとも財源を受け入れていません。

つまり、2014年以降は、わざわざ年金積立金を切り崩すことをせずとも「厚生年金加入者が増えることによって不足する『基礎年金勘定へ繰入』るための財源」を単年度会計の中で賄えるようになっている、という事がわかります。

またもう1点。「厚生年金」に「未納者」はいない。私はこれを前提として今まで記事を作成してきましたが、厚生年金にも、支払い義務を負った企業がこれを支払わず、場合によってはそのまま倒産してしまうケースもありますから、当然「未納額」も存在します。

上記グラフには、これらの情報が加味されていませんから、単純にこのグラフだけを配信する事だけはご遠慮願いたいと思います。

更にもう一点。厚生年金勘定において「基礎年金勘定」より受け入れている額は、「昭和60年以前に年金受給者となった人」への支給額ですから、当然毎年減少しています。(私が勘違いをして誤った情報配信を行っていた部分です)

にもかかわらず、毎年国庫負担分を含む保険料収入が毎年増え続けているという事はきちんと評価すべきだと思います。

後は、年金の受給年齢が毎年上がっている事。

年金支給開始年齢の引き上げ

上図にある「定額部分」、これが基礎年金部分、「報酬比例部分」、ここが厚生年金部分です。

基礎年金部分に関しては既に受け取り開始年齢の引き上げが終わっていますが厚生年金部分に関してはまだこれから。上図で見る限り、42年までは継続します。

このような状況を考えますと、少なくとも現時点において厚生年金制度の「破綻」を危惧するような状況にはないのではないか、と私は思います。

それでは、次回記事こそ、「積立金」の部分にポイントを絞り、年金制度の新たな解明に向けて、記事を作成していければと思います。




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<継承する記事>第478回 年金制度に対する私の誤った分析結果を再検証します

前回に引き続き、

 「基礎年金給付費」 と 「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」

の認識について、私の誤った部分を全面的に認めさせていただいた上でその検証を続けさせていただきます。

前々回の

第477回 改めて分析する基礎年金勘定~誤っていた私の分析結果~

という記事から継続しての訂正、及び再検証を目的とした記事です。

また繰り返しになりますが、私の認識の誤りによって影響を受ける記事が少なからず存在しますが、私のブログの方針として、それらの記事を削除することは致しません。

なぜならば、それらの記事を下に何らかの分析をなさった方がいらっしゃるかもしれませんし、あるいはなにがしかの「情報ソース」として掲載なさっていた方もいらっしゃるかもしれないからです。

検証が完了後、極力影響を受ける全ての記事に対し、訂正記事の紹介文を掲載し、できれば誤っている部分に対して赤字で訂正を入れていきたいと思っています。掲載した文章は削除ではなく、訂正線を入れて赤字訂正を行う予定です。


改めて行う「基礎年金勘定」の分析

前回までの記事では、「基礎年金勘定」と各「年金勘定」を合算してグラフ化した次の2枚のグラフ。

国民年金収支(基礎年金勘定分を含む)
厚生年金収支(基礎年金勘定分を含む)

を通じて、確かに「国民年金勘定」はこれまでの私の主張より時期こそ遅れているものの、「破綻」とは程遠い状況になりつつあること、加えて「厚生年金勘定」については計算式上、実は赤字となっており、とても「破綻しない」と言い切れるほどの状況ではなかったことをお伝えしました。

ですが、この2枚のグラフを作成する際、その計算式に用いた数字は、私がオリジナルの計算式を用いてはじき出した数字を用いていて、必ずしも「正解」とは言えないことをお示ししました。

その上で最終的にたどり着いた結論として、「基礎年金勘定」「国民年金勘定」「厚生年金勘定」の3つの会計において、「積立金がどのように推移し、減っているのか、増えているのかを検証することが、「年金会計」全体の収支状況を見る上で大切でなのではないか、とする考え方に現在たどりつきました。

ところが、分析を進めていますと、どうも年金の収支状況に関しまして、非常に歪な部分が出てきましたので、そちらをまずは優先して解析していきます。

加えてこの解析の結果、私の認識の誤りをもう1か所訂正する必要が生まれる可能性があることをあらかじめお伝えしておきます。

基礎年金勘定収支推移

検証に用いるのはこちらのグラフ。

基礎年金勘定の収支の推移です。このグラフを見て、1か所。正確には2か所、いびつな部分があることがわかるでしょうか?

キーワードとなるのは「東日本大震災」。東日本大震災が勃発したのは2011年3月ですが、その翌年と翌々年。つまり2012年と2013年の「国民・厚生年金会計より繰入」の部分が、明らかに減少しているのがわかりますね?

私がこのブログで取り上げたことはあるはずなのですが、どの記事で取り上げたのか、検証する時間がございませんので、直接この記事で説明いたします。


基礎年金部分国庫負担割合1/3→1/2引き上げの経緯

基礎年金部分は、麻生内閣当時まで1/3を国庫にて負担していたのですが、小泉内閣当時の計画に従い、麻生内閣においてこの国庫負担分を1/3から1/2に引き上げました。

ですので平成21年度(2009年度)からは年金の国庫負担分が1/2となっています。

2019年7月の参院選において、福山哲郎が年金国庫負担を1/3から1/2に引き上げたのは自分たちだ、とのデマを振りまいていましたが、民主党政権が誕生したのは2009年9月の事。

同年の予算は前年に決められますし、民主党政権が誕生した時点で既に「平成21年度(2009年度)」はスタートしていましたから、民主党内閣が2009年度からの基礎年金国庫負担分の増額を決めることは物理的に、時系列的に不可能です。タイムマシンをあいつらが持っていたとしても不可能です。

で、年金国庫負担分を引き上げるという事は、当然新たなる財源を必要とします。自民党では、この財源を平成23年(2011年)分まできちんと確保していました。

制度上は「将来の消費増税分を財源として充てる」ことが記されていたわけですが、自民党はこれに頼らない財源を毎年きちんとねん出していたんですね。

例えば平成23年度(2011年度)の財源は以下の通りです。

・ (独)鉄道建設・運輸施設整備支援機構特例業務勘定の利益剰余金(1.2 兆円)
・ 財政投融資特別会計財政融資資金勘定の積立金・剰余金(1.1 兆円)
・ 外国為替資金特別会計の剰余金(進行年度分:0.2 兆円)

総額2.5兆円分です。

この金額が、平成23年度(2011年度)末に国民年金勘定、厚生年金勘定へそれぞれ繰り入れられ、平成24年度(2012年度)分の基礎年金部分の財源として充てられることが決められていました。

ところが、2011年3月に勃発したのが東日本大震災。この財源として民主党政権では前記した2.5兆円分の年金の為の財源を復興に回してしまいましたから、当然年金会計全体では2.5兆円分の財源が失われてしまいます。

この事を意識して先ほどの基礎年金勘定の収支推移を見ていただきたいわけですが、2011年度に納められるはずの保険料国庫負担分が納められませんでしたので、2014年度分が「財源不足」に陥ります。

その結果、不足した財源が「国民・厚生」両会計か繰り入れられることはありませんでした。

その結果、両年度は基礎年金勘定としては「赤字」になっています。

では、この事を意識しながら次の「基礎年金勘定積立金」の推移グラフを見てみます。

基礎年金勘定積立金+剰余金推移

2011年まで上昇の一途をたどっていた「基礎年金勘定」の積立金(+剰余金)の額が、2012年、2013年と急落していることがわかりますね。これは、不足した基礎年金勘定の給付分を賄うため、基礎年金勘定の「積立金」が削られて支給に回されたことを意味しています。

そして2012年(平成24年)11月に「年金特例国債」が平成24年、25年分と発行されることが決められ、両年に年金特例国債がそれぞれ2.5兆円ずつ発行されています。

ただ、この事を考慮しますと、安倍内閣初年度にも同様に基礎年金勘定の「積立金」が削られている様子が見られますので、この事は別途検証が必要かと思います。

また、これとは別に安倍内閣において2016年度、2017年度も共に基礎年金勘定の「積立金」が削られており、更にその削られる幅が増えていますので、この事も別途検証してみます。

少し前置き記事を含む形となりましたが、次回以降記事では改めて他会計の「積立金」も含めて、全体で年金収支の検証を行ってみます。

年金特例国債の発行額がどのように吸収されているのかという部分も含めて検証してみたいと思います。



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<継承する記事>第477回 改めて分析する基礎年金勘定~誤っていた私の分析結果~

前回の記事に引き続き、「基礎年金勘定」に関する私の認識の誤りを検証し、その結果から過去の記事をどう訂正していくべきなのか。これを検証することを目的とした記事を作成します。

前回の記事をまとめますと、年金会計全体の内、国民年金の全額、及び厚生年金の基礎年金部分を管理するために設けられている「基礎年金勘定」。

ここには二つの「支出項目」があります。

一つが 

 「基礎年金給付費」。

もう一つが

 「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」

です。指摘をいただくまでの私の認識としては、年金を給付する際、「基礎年金部分」を全額基礎年金勘定から国民年金勘定、及び厚生年金勘定に繰り入れ、そこから受給者に対して支払われていたと思い込んでいました。

年金制度2

このグラフを見ていただくとご理解いただきやすいでしょうか。

年金受給者は「第一号被保険者」「第二号被保険者」「第三号被保険者」に別れており、第一号被保険者とは全ての保険者の内、「国民年金(基礎年金)」しか受け取ることができない人。

自営業者や学生さんなどがこれに該当します。その他、就労することができない人、もしくは就労していても厚生年金が適用されていない人なども含まれていますが、自営業者以外は基本的に「免除」もしくは「減額」が適用されていると考えられます。収入がなくて支払うことができませんからね。

「国民年金勘定」で管理されているのはこの第一号被保険者の皆さん。

第二号被保険者の人は国民年金以外に「厚生年金」を受け取っている人。「被雇用者(労働者)」の事です。

厚生年金部分はその1/2を企業が負担しています。

厚生年金勘定で管理されているのはこの「第二号被保険者」の事。この他、第二号被保険者の配偶者の事を「第三号被保険者」といいます。ポイントとなるのは、「第二号被保険者」は「厚生年金」だけでなく、同時に「国民年金」の加入者でもあるという事。

現在の制度では、第一号被保険者、第二号被保険者(+第三号被保険者)共に「国民年金(基礎年金)部分」を一旦両年金勘定から引き出し、「基礎年金勘定」という別の会計帳簿に繰り入れ、そこで一括して支払われているという事です。


「基礎年金給付費」と「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」

改めて両項目の違いですが、「基礎年金勘定」という仕組みが導入された昭和61年よりも前に年金受給者であった人に対して支払われている「年給付費」が「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」と記されている項目で、この項目は給付される前に再び「国民年金勘定」、及び「厚生年金勘定」に繰り戻され、そこから受給者に対して支払われています。

しかし、昭和61年以後に受給者となった人は、これが他会計に繰り戻されることはなく、第一号~第三号までひっくるめて「基礎年金勘定」から支払われています。それが「基礎年金給付費」です。

私が誤っていたのは、この認識がなかったという事。

自分で調べてたどり着いた結果であり、私自身色んな資料を比較して検証をしていた「つもり」だったのですが、一番肝心な部分を考察することなく思い込んだまま情報として「確定」させてしまっていたという事。

これは改めて読者の皆様にお詫びさせていただきます。


基本に戻って考える

誤ってこそいましたが、ではだからと言って「誤っていました、ごめんなさい」で終わらせるわけにはいきません。

要はどこがどのように誤っていたのか、そしてその結果全体にどのような影響を与えることになるのか。そして終局の目的として、「年金は破綻しない」とする私の主張がそもそも間違っていたのか、それともそうではなかったのか。これを検証しなければ私のブログとしての役割を果たすことができません。

そこで、まずは「基本に立ち返って」考えることが大切かと思います。

私としますと、「国民年金勘定」及び「厚生年金勘定」において収入が減る中で給付費が減っていた(と思い込んでいた)ことを「発見」しましたので、これを「年金が破綻しない」最大の根拠であると考えていました。

それが次のグラフです。

国民年金収支

厚生年金収支

逆に言えば、この数字を下に「破綻するわけがない」と思い込んでいますから、それ以上の検証を行っていない状況でもあります。

ですが、実際には

国民年金収支(基礎年金勘定分を含む)
厚生年金収支(基礎年金勘定分を含む)

こちらの方が現在の年金収支状況としては「正解に近い」姿ですから、私のこれまでの根拠が「年金が破綻しない理由」とはなりえていないわけです。

とはいえ、「国民年金」に関しては次期が私のかつての認識と比較すると非常に遅れてはいますが、「破綻はしない」という状況には近づいているかと思います。

問題は「厚生年金」の収支です。前回も示しましたが、赤字幅がどのように推移しているのかと申しますと、以下の通り。

2007年 -7.18兆
2008年 -7.3兆
2009年 -8.04兆
2010年 -7.84兆
2011年 -7.42兆
2012年 -8.32兆
2013年 -8.28兆
2014年 -6.98兆
2015年 -6.32兆
2016年 -5.72兆
2017年 -5.12兆

年々その額を縮小させているとは言うものの、5兆円という額は決して小さいものではありません。ちなみに国民年金の収支状況はと申しますと、以下の通り。

2007年 -4.4兆
2008年 -4.26兆
2009年 0.08兆
2010年 0.04兆
2011年 0.47兆
2012年 1.11兆
2013年 1.37兆
2014年 1.5兆
2015年 1.6兆
2016年 2.13兆
2017年 2.25兆

と、プラス幅を増やしてこそいますが、とても厚生年金の赤字幅を相殺する段階には至っていません。最新の状態で2.87兆円ほどの赤字です。

ただ、今回お示ししている数字の根拠としているのは、「年金受給者」の数とその割合から、私が計算式によって作り出した数字ですので、これが「正しい数字」と言えるのかどうかと申しますと、必ずしもそうだと言い切ることはできません。

という事で、ここからは私の計算式を加えることなく、政府が公表している数字のみを用いて、年金会計の収支全体で考えてみます。


国民年金勘定と厚生年金勘定の考え方

まずはこの部分から。

「国民年金勘定」とは、大きく分けて

 収入 「国民年金保険料」「国庫負担分」「基礎年金勘定より受入」
 支出 「基礎年金勘定へ繰入」「年金給付費」

という項目で構成されています。その他事務費や運用益、積立金などもありますが、それらは考慮せずに進めていきます。

公的年金保険者数の推移

できたらグラフくらいは自分で作成したかったんですが、時間の都合上、厚労省の資料をそのまま掲載します。

「公的年金保険者数」、つまり年金を国に納めている人たちの数を年経で示したグラフです。

「第一号被保険者(国民年金加入者)」の数を見ますと、平成25年以降、年々減少していることがわかると思います。

という事は、つまり昨年年金を収めた人の数よりも、今年年金を収めた人の数の方が少ないという事。

国民年金の運用では、毎年4月、その年度が始まる一番最初の月に、前年度に納められた保険料の総額から、「今年納められると予測される保険料の総額」を引き出して、「基礎年金勘定」に繰り入れています。

ですが、その「保険者数」が年々減少していますので、当然「昨年納付された保険料の総額」よりも4月の段階で「今年納付されると予測される保険料の総額」の方が少なくなります。

ですから、当然「国民年金勘定」の中にはそこから引き出されることなく、国民年金勘定に残ったままの金額が発生します。

ところが、「国民年金」は個人が意識的に納めるものですから、中には国民年金を収めようとしない「未納者」もいます。

そのことで基礎年金勘定に繰り入れるための保険料が不足することがありますので、その場合は「年金積立金」の中から不足する分を引き出します。ですが、その保険料は「未納」であり、本来受け取り者のいない保険料ですので、その金額は将来給付されることなく「基礎年金勘定」に蓄積されることになります。

混乱するといきませんので、こちらの図を頭に入れながら考えてみてください。

年金システムのからくり

一方、「厚生年金勘定」を考える場合、先ほどの「公的年金保険者数の推移」を見ていただきますと、厚生年金の保険者の数は年々増えていることがわかります。

ちなみに増加に転じたのは、微増ではありますが平成22年から。遡ると平成19年までは継続して増加しています。保険者数全体で見ますと平成28年から増加に転じていますね。

この事が何を意味するのかと申しますと・・・というより、この点に関しては私も思い込んでいた部分があったのですが、保険者数が減少する国民年金勘定とは異なり、保険者数が増加していますので、「基礎年金勘定」の部分に関しては昨年度末に納付が完了した金額より、今年度に納付が予測される金額の方が多くなってしまいます。

そう。「未納者」の存在にかかわらず、厚生年金勘定では「基礎年金部分に繰り入れ」なければならない金額が不足する仕組みになっているんですね。これは盲点でした。

ですから、必然的に「年金積立金」は切り崩されることになります。

ですが、その「切り崩された」積立金も、「年金積立金」の項目から「基礎年金勘定」の項目に移動するだけで、年金会計全体で考えると当然「納付者」が増えているわけですから、収入全体としては増えていることになりますね。


国民年金勘定と厚生年金勘定の「支出」について

一方の「支出」に関しては、国民年金・厚生年金とも、「基礎年金部分」に関しては「基礎年金勘定」より「期首(4月)に年度を通じて必要となると考えられる給付費」が一体いくらになるのかという事が想定され、これが「基礎年金勘定」より繰り入れられ、それぞれの年金会計で給付に回されています。

冒頭でお伝えした通り、「国民年金勘定」「厚生年金勘定」にそれぞれ繰り入れられている金額は「昭和60年までに受給者となった人」の給付費のみであり、昭和61年以降の「基礎年金」は「基礎年金勘定」より支出されています。

国民年金勘定、厚生年金勘定ではそれぞれ、年度末に受給者が死亡し、給付が必要とならなかった金額が必ず残りますから、これが「積立金」として蓄積されていくことになります。厚生年金会計ではこれ以外に、「厚生年金部分」に関する管理が独自になされていますから、もしそこで給付費が不足するのであれば「積立金」の中から切り崩されることとなります。


このようにしてみていきますと、「国民年金」「厚生年金」はそれぞれ貸借対照表上は支出と収入の間ではバランスしているはずですから、何を見ることが大切なのかと申しますと、結果的に両会計から繰り入れられた金額で運用されている「基礎年金勘定」において一体いくら「積立」もしくは「切り崩し」が発生しているのか。

厚生年金勘定にはそれ以外に独自に運用されている「厚生年金部分」が存在しますから、これが積立金を切り崩すことで運用されているのか、それとも逆に積立金が加算されているのか。

「国民年金」はそもそも積立が減少する要素が「未納分」以外には存在しませんから、では一体いくら積み立てられているのか。

そして、最終的に「積立金」は一体総額でいくらになっているのか。これを所謂「運用益」を加味せずに見てみますと、その全容が見えてくるのではないかと思われます。

という事で、私の時間が来てしまいましたので、次回記事では、この「積立金」の収支推移を見ながら年金運用についての「解明」を行っていきたいと思います。



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今回の記事、私としては非常に不本意な記事になります。

タイトルにある通り、私が長年主張していた年金の考え方について、一部ですが、私の年金問題に対する主張全体に大きな影響を与えるほどに誤った部分があったことがわかりました。

私のブログの記事を読んで、参考にしてくださっていた方もいると思う中で、これは本当に申し訳ない思いがします。私自身としてもショックでしたし、非常に恥ずかしい思いがしています。

きっかけは本年(2019年)6月24日、以下の記事に読者の方からお寄せいただいたコメントです。(本日は同年7月26日です)

第476回 マクロ経済スライド調整率改定の意義~年金崩壊説の崩壊~

コメントそのものを抜粋いたします。
初めまして!恥ずかしながら最近になってようやく年金について興味を持ち始めた者です。
年金特別会計を見ていると「基礎年金給付費等基礎年金勘定へ繰入」という項目があり、検索してみるとこちらのサイトに出会いました。
記事を読み一旦は理解した気になってましたが、どうもおかしいような気がして確認のためコメントさせていただきます!

今のところの理解としては、
国民年金勘定では付加年金、死亡一時金などの給付を行い、残りを基礎年金勘定に入れます。
厚生年金勘定では報酬比例の年金、障害年金等を給付し、残りを基礎年金勘定に入れます。
基礎年金勘定では国民年金勘定、厚生年金勘定から受け取ったお金で基礎年金給付費、基礎年金相当給付費を支払います。

給付額は平成29年ですと基礎年金勘定22,408,941、国民年金勘定554,147、厚生年金勘定23,666,851で合計約46兆くらい
保険料は国民年金勘定1,396,425、厚生年金勘定30,944,165で合計約32兆
国庫負担は国民年金勘定1,939,211、厚生年金勘定9,481,945の約11兆
その他いろいろな歳入歳出があり(理解できてない項目が沢山あります)、結果としては何とか黒字で積立金に移行。
こう理解してます。
こちらのサイトでは基礎年金勘定を考慮されていないように見えました。

前回の財政検証では平成30年あたりまで赤字でしたが、厚生年金加入者が増えたのでしょうずっと黒字です。
それはいいのですが、マクロ経済スライドがデフレのせいでほぼ発動しておらず(今回何とか発動)所得代替率が思うほど下がりません。この調子ですと少子化による大赤字が待っています。
このままだと本当に破綻してしまうのではないでしょうか?
ちなみに私の破綻の定義は積立金が無くなり多額の赤字を所得代替率を大幅に下げること(30%くらい)で保つようにすることです。

長くなってしまい申し訳ありません!よろしくお願いします!

難しいと感じるかもしれませんので、まずは私のこちらの記事をご覧ください。

第117回 公的年金制度の仕組みをわかりやすく図解入りで解説いたします。

記事の中で、年金の運用が「年金特別会計(厚生・国民)」、「基礎年金勘定」、「年金積立金」の3つの財布を使って、トータルで運用されていることをお示ししています。

年金システムのからくり

問題となるのは、この内「基礎年金勘定」に関する説明です。

①年金会計の中から、前年に受け取った国民の「年金保険料」の中から、本年に納付されると考えられる保険料を全額引き出し、「基礎年金勘定」に繰り入れる
②「基礎年金勘定」から同年に給付に回されると考えられる年金受給額を全額引き出し、「年金会計」に繰り入れる
③「年金会計」の中から、その年に受給者がいなくなった金額を「年金積立金」に繰り入れる

という説明を私は行っているのですが、この内の②、コメントをくださったチダ様のご指摘では、基礎年金勘定から年金会計に繰り入れられている額は、「全額ではないのではないか」とおっしゃっられています。

私としては、全く想定していませんでしたから、最初自分が何を言われているのかが理解できていなかったのですが、改めて基礎年金勘定の会計収支を見ると、確かに他の年金会計に繰り入れられている金額以外に、「基礎年金給付費」なるものが設定されていて、最新の使用で繰り入れられている額の20倍近い金額が歳出として計上されていたのです。

思い込みは怖い話で、私は私の説が誤っているとこれっぽっちも思っていませんでしたから、改めてこの「基礎年金勘定」を見直す機会を自分自身の中に設けていなかったわけですね。

項目の中に、「基礎年金給付費」という項目と、「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」という二つの項目があるのです。

恐らく私は最初に調べたときに、これを同じものである、と大きな勘違いをしていたのだと思います。

かつ、国民年金や厚生年金の収支をグラフで作成する際に参考としていた「基礎年金勘定」から繰り入れられた金額は、それぞれの年金勘定で「基礎年金勘定より繰り入れ」と記されているもののみを参考にしていましたので、よもや基礎年金勘定の側に繰り入れられていない金額が残っているとは思っていなかった、という事です。

今回だけで完結させられるかは自身がありませんが、訂正記事によって影響を受けるのは、私が年金勘定は「国民・厚生共に黒字だ」と主張している部分、及びその証拠として作成しているグラフ、またその運用制度そのものを説明した記事が軒並み影響を受けます。

全く影響を受けないのは「マクロ経済スライド」に関する説明のみです。ですが、マクロ経済スライドの「キャリーオーバー」に関して作成した記事は、「キャリーオーバーすべきではない」理由として年金収支に関する情報を用いているはずですので、こちらも訂正が必要になってくるかと思います。

ただ、私のブログのスタイルとして、記事を削除することはいたしません。記事を削除せず、記事中でどこが間違っていたのか、赤字で訂正文を加える形で修正を行っていきます。

現時点で、いくつかの資料を既に作成しておりまして、これから作成する記事の目的としては、まずは誤りをきちんと訂正する事。

その上で、現在の年金の収支状況が、基礎年金勘定から年金積立金まで含めて、全体で見てどのような収支状況にあるのか。この事を改めてきちんと検証していきたいと思います。


「基礎年金給付費」と「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」の違い

まずはこのご説明から。私は、基礎年金勘定帳簿に掲載されていた「基礎年金給付費」が、そのまま国民年金勘定、厚生年金勘定へと繰り入れられている金額だと思い込んでいました。

最大の原因は実は次の画像。

590cb2d042fffb1fe742825cd5ddcff4.jpg

今は同じ資料を厚労省のホームページから検索しようとしても出てこないと思います。

野田政権時代に、私が「年金財政は安全だ」ということを裏付けるために資料を作成していたのですが、その時に見つけていた資料で、ここに「基礎年金勘定へ繰入」という項目と「基礎年金勘定より繰入」という二つの項目があるのがわかると思います。

元々は、ここに掲載さ入れていた「基礎年金勘定」とは何ぞやというところから私の基礎年金勘定の検証はスタートしました。当時、この「基礎年金勘定」に着目してデータを作成している人などいませんでしたから、私としてはそれにたどり着いたとき、「これだ!」と心の中で快哉を叫んだ記憶がありますよ。

本当はこの時に、もう少し深く「基礎年金勘定」の事を調べておかなければならなかったのでしょうね。

あれから既に7年ほどたちます。今になって気づくとは・・・

ガッカリしても仕方ありませんね。記事を進めていきます。

では、サブタイトルにある

 「基礎年金給付費」と「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」の違い

について。この二つの項目が生まれた理由は、昭和61年に行われた年金制度の改正。要は、この時に初めて「基礎年金勘定」なるものが生まれたんですね。

これまで国民年金は国民年金、厚生年金は厚生年金として運用されていたものが、基礎年金部分を一旦「基礎年金勘定」へ全額繰り入れ、ここで別枠で運用することで、仮に国民年金が財源不足に陥ったとしても厚生年金受給者が納める基礎年金で国民年金を運用できるように改正された仕組みです。

昭和61年に改正された年金制度が実行されましたので、60年までの年金受給者と、60年以降の年金受給者の間で運用の仕組みに違いが生まれます。

と、ここまで記せば何となくわかるんじゃないかと思いますが、昭和60年までに年金受給者となった人の基礎年金年金給付費が「基礎年金相当給付費他勘定へ繰入及交付金」、それ以降に受給者となった人の基礎年金給付費が 「基礎年金給付費」。

60年までに受給者となった人の基礎年金は基礎年金勘定から国民・厚生両年金勘定に「繰入」られて運用されていますが、それ以降に受給者となった人の基礎年金は、繰り入れられることなく、一括して「基礎年金勘定」の中で運用されていた・・・という事。

これに気づけなかったことは、私のブログ記事に大きな誤りを生んでしまいました。私のブログを信頼し、参考にしていただいた方へは、心の底よりお詫びを申し上げたいと思います。


「国民年金」及び「厚生年金」の収支に「基礎年金勘定」分を加えると・・・

あらかじめ申し上げておきますと、以下のグラフは私の推測に基づく計算式で作成したデータを含めていますので、参考にしていただいても構いませんが、それぞれのグラフを根拠として単独で利用することだけはやめてください。

【国民年金収支推移】
国民年金収支(基礎年金勘定分を含む)

【厚生年金収支推移】
厚生年金収支(基礎年金勘定分を含む)

これまで利用してきた以下のグラフ
【A】
国民年金収支
【B】
厚生年金収支

にそれぞれ基礎年金勘定から繰り入れられることなく、基礎年金勘定内で「国民年金受給者」及び「厚生年金受給者」にそれぞれ給付されている給付費を加算したものです。

基礎年金勘定内でわざわざ分けて掲載されているわけではありませんから、ここは計算式によって私が算出したデータを用いています。

計算式として用いた数字は

①基礎年金給付費
②(重複を含まない)年金受給者数
③厚生年金受給者数(共済年金等受給者も含む)
④国民年金受給者数(②-③)

の4つです。ここから

⑤厚生年金受給者数の(重複を含まない)年金受給者全体に占める割合(③÷②)
⑥国民年金受給者数の(重複を含まない)年金受給者全体に占める割合(④÷②)

を算出し、それぞれを①に掛けた値を⑤は厚生年金収支に、⑥は国民年金収支にそれぞれ加算しています。

このグラフで見ますと、国民年金給付費に関しては基礎年金給付費を加えようが加えまいが、年金受給者の数は年々減っており、収支で見てもプラスになっていることがわかります。

一方で、厚生年金給付費に関してはトータルで見ると給付費は増加しており、保険料+国庫負担分も増加してこそいるものの、給付費の増加に追い付くことはできず、トータルで見ると毎年赤字なっていることがわかります。

ちなみに、どの程度の赤字額かと申しますと、

2007年 -7.18兆
2008年 -7.3兆
2009年 -8.04兆
2010年 -7.84兆
2011年 -7.42兆
2012年 -8.32兆
2013年 -8.28兆
2014年 -6.98兆
2015年 -6.32兆
2016年 -5.72兆
2017年 -5.12兆

の赤字です。額がまあまあ太いですね。

ただ、これらの数字の母体となっている厚生年金受給者とは、「厚生年金受給資格者者」の事であり、この人達が皆一生を通じて厚生年金加入者であったわけではありません。ですから、本来は「国民年金受給者」に加えるべき部分も含まれた受給者について掲載したグラフだという事だけはご認識いただければと思います。

また、私があくまでも独自の計算式によって求めた「概算」ですから、これが正しいかどうかは証明することすらできません。

まずは「概算でこのような結果が出た」という事実だけを把握していただければと思います。

という事で、今回は私に時間が無くなってきましたので、この記事は一旦ここで終了にします。あまりにも記事を作成しない期間が長くなると、コメントをいただいたチダ様にも申し訳ないと思いまして、急ぎ作成したのが本日の記事です。

次回記事では、では今回のように私独自の計算式を加えず、「基礎年金勘定」「国民年金勘定」「厚生年金勘定」をそれぞれ加工しない数字を用いて検証するとどうなるのか。年金制度全体での収支状況を検証してみます。



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