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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


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第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊

前回の記事でお示ししました様に、所謂「ロシア革命」は、ユリウス暦1917年2月23日にロシアの首都ペトログラードにて発生した、食料配給を求める「デモ」が原因で勃発しました。

2月革命後、「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」「社会革命党」の3党によって「ペトログラード・ソヴィエト(労働者・兵士による評議会)」が誕生し、一つの「権力」を保有することとなるわけですが、結成はこの当時多数派であった左派社会主義政党「メンシェヴィキ」の呼びかけに応じて行われました。

ですが、第310回の記事 でもお伝えしました様に、そもそも「メンシェヴィキ」や「ボリシェヴィキ」が誕生したの最大の理由は、後の十月革命で中心的な役割を果たす「ウラジミール=レーニン」がロシア労働党機関紙であった「イスクラ」編集局から分裂し、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を結成したことが原因でした。

この当時「レーニン」率いるボリシェヴィキは「多数派」であったわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成された時点では少数派となっています。

では、「多数派諸委員会ビューロー」を結成した後、「レーニン」率いるボリシェヴィキは、一体どのような変遷をたどったのでしょうか。先ずは「レーニン」にスポットを当て、今回の記事は進めてみたいと思います。


レーニンの生い立ち


レーニン

ロシアの革命家、「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」。本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」と言います。

第310回の記事でお伝えした様に、彼の兄の名前は「アレクサンドル・ウリヤノフ」。

当時のロシア皇帝であったアレクサンドル3世を暗殺しようとして失敗した人物です。

内容はWikiベースで進めていきます。
レーニンの兄がクーデターに失敗し、絞首刑に処せられたのが1887年。
レーニンもまた同年12月にカザン大学にて学生運動に加わり、暴動を起こして警察に拘束され、大学からも退学処分されることになりました。レーニンは兄と共に「テロリスト兄弟」の烙印を押され、以降秘密警察から監視される日々を送ることとなります。

そんなレーニンの思想に大きな影響を与えたのが「カール・マルクス」。彼が学生運動に参加したのもマルクスによる影響を受けた部分が大きい様です。

記述を読みますと、レーニンという人物は、非常に頭のいい人物であった様ですね。以下、転載です。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。国家検定試験でも134人中1位という成績を残す。

1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。

ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っている。


前回の記事 で、ロシアがたどった市民革命への道は、他のヨーロッパ各地がたどった市民革命の変遷とは異なる独特な道を進んだことをお示ししましたが、レーニン自身はどっぷりマルクス主義にはまり、所謂「社会活動家」としてもその頭角を現していきます。

・1895年     労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成
・同年12月7日 逮捕・投獄
・1897年     シベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放
・1898年7月   社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚
・1899年4月   『ロシアにおける資本主義の発達』を出版
・1900年     刑期が終了し7月にスイスへ亡命
(スイス滞在中、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会)
・1900年12月   政治新聞『イスクラ』を創刊
(当時、ロシア社会主義者の中で広まりつつあった「経済主義(政権打倒のための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視する考え方」を批判したもの)
・1901年12月   「レーニン」という偽名を用いるようになる

さて。その翌年、1902年に彼が記した著書、「何をなすべきか?」に関する記述の中で、少し面白い記述がありましたので、これを少しご紹介しておきます。

先ほど、ロシアがたどった市民革命の道が他のヨーロッパ諸国とは異なる異質なものであることをお伝えしました。
ただ、レーニンはそんな中でもどっぷり「マルクス主義」にはまった、ということもお伝えしたのですが、「何をなすべきか?」の中に於いて、レーニンもまたこの「マルクス主義」に対して独特の考え方を示したようです。

(何をなすべきか?とは)労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。

彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。

この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

ちょっとややこしいですね。


外部注入論とは?

「何をなすべきか」の中で、レーニンはそもそも何を主張しようとしていたのでしょう。
第62回の記事 でお伝えしました様に、マルクスは「ゴーダ綱領批判」において、「共産主義」の在り方について、以下の様に定義しています。

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

加えてその実現が「暴力」によってのみ実現できる、としているわけですが、この部分はいったん頭から外します。

(※以下の内容は、私の個人的な解釈を含みますので、その点はご容赦ください。)

「社会主義」という考え方は、その後のヨーロッパの歴史の中で、様々に姿を変え、例えばマルクスが、その実現は「暴力」によってのみ実現されるとした部分も、後の社会主義者たちの解釈の中で、大きく変化します。

そしてレーニンは、そんな「社会主義」という考え方が、プロレタリアート(労働者)たちの階級闘争の中かから自然発生的に生まれるものではない、と考えたわけですね。

彼の祖国であったロシアに於いても自然発生的に「ナロードニキ」という市民運動は勃発したわけですが、これは所謂「マルクス主義」の影響を受けたものではありません。

マルクス主義は、レーニンらによって事後的にロシア国内に持ち込まれ、ロシアの革命運動に影響を与えていくことになるのです。

マルクスはこのような革命が「プロレタリアートの手によって」実現されるべきだ、と考えました。

ですがレーニンは、「社会主義はプロレタリアート革命の中から自然発生的に生まれるものではない」と主張しているわけです。
ですから、誰かがこの「社会主義」をプロレタリアートたちに教えてあげる必要がある、と考えたのですね。

そしてレーニンは、それが出来るのは知識のない労働者階級である「プロレタリアート」ではなく、資産があり、外部から「社会主義」という思想を学ぶ手段を取ることができる「知識階級」である「ブルジョワジー」だと考えたわけです。

つまり、レーニンの目指す社会主義革命は、「ブルジョワ(資産階級)」による革命。
こうなってくると、レーニンが目指した革命は間違いなく「共産革命」ではなく「社会主義革命」であったことがよくわかります。


レーニン率いるイスクラ派(政治新聞「イスクラ」を創刊したメンバー)は、1903年、1898年3月14日に結党されたものの、弾圧を受けて機能不全に陥っていたロシア社会民主労働党を再建し、第2回党大会を開催します。

ところが、再建されたばかりの同党は、イスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって内部分裂。「ボリシェヴィキ」と「メンシェビキ」の2派閥に分かれます。

このうち「ボリシェヴィキ」を率いたのがウラジミール=レーニンでした。


さて。この後、起きるのが「血の日曜日事件」と「ロシア第一革命」。
このあたりから段々レーニンのスタンスがややこしくなってくるので、一旦記事を分け、続きは次回に委ねることとします。


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第310回 ロシア革命勃発に至る背景/マルクス主義者の台頭

「二月革命」とは言いますが、これは当時ロシアで利用されていた暦、「ユリウス暦」に基づくもの。
私たちが慣れ親しんでいる「グレゴリオ歴」では3月に起きた革命です。

私自身、このブログを通じて「右翼」や「左翼」、「共産主義」や「社会主義」等について学んできたわけですが、今回のこの「ロシア革命」。これを理解するうえで、私が長い間調べて来た内容がどうも役に立つときが来た様です。

「右翼」と「左翼」の違い、又は「共産主義」と「社会主義」の違いについては改めてシリーズ、「「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。」 でも振り返っていただければ幸いです。


二月革命の経緯

では、改めて「ロシア革命」に於ける「二月革命」について記事にしてみたいと思います。

帝政ロシア=ロマノフ朝がこうもあっさりと崩壊した理由として、

1.ロシア第一革命に於けるマルクス主義者たちの台頭
2.日露戦争に於ける日本に対する敗北
3.第一次世界大戦への参戦により、外資がロシア国内から撤退したこと
4.第一次世界大戦により、本来食料の生産活動を行うための農民が兵士として戦争に駆り出されてしまった事

主にこのような理由があるようです。
1、2については既に第310回の記事 に掲載しましたね?

加えて3,4の理由によって、ロシア国内の食料が供給不足に陥り、物価が5倍、6倍と高騰してしまったんですね。

で、食料の供給を求めてユリウス暦1917年2月23日、グレゴリオ暦3月8日にロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に於いて発生した「デモ」が「二月革命」のそもそもの発端です。

2月革命

このデモを鎮圧する様皇帝であるニコライ二世に命じられた警官隊がデモに向けて発砲。多数の市民が犠牲となります。

これを受けて一部の兵士が反乱を起こし、ニコライ二世はこれを鎮圧する様更に命令を出すわけですが、反乱を鎮圧するはずの兵士が次々と反乱軍に加わります。

この時のロシアの指示系統として、「ドゥーマ(議会)」に皇帝が指示をし、指示に従ってドゥーマが政策を実行する・・・という形がとられていたわけですが、肝心のこのドゥーマの議長であるロジャンコが皇帝の意に反して臨時委員会を設置し、政権を掌握し、皇帝に退位を迫ります。

このことによりニコライ二世は退位(1917年3月15日)。
彼の位を継承することを弟に拒否され、ロマノフ朝を継承する者が誰も存在しなくなり、ついにロマノフ朝は崩壊します。

一方で第310回の記事 でお伝えした通り、「メンシェビキ」に所属する議員の呼びかけにより、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。


内容そのものは結構端折りましたが、大体こんな感じです。

この後、更に十月革命がおこり、遂に「ソビエト連邦」が誕生するわけですが・・・。


「ロシア革命」と「フランス革命」の違い

調べてみて面白いな、と感じたのは、今回記事の対象としている「ロシア革命」と、市民革命の先駆けともいえる「フランス革命」や、その後ヨーロッパ各地で起きた「市民革命」との違いです。

第50回の記事 でお伝えしましたように、そもそも「フランス革命」とは、当時のフランスに在った身分制度、「アンシャンレジーム」に於いて、「聖職者」及び「貴族」の位を持つ第1、第2身分の位に対して、一般市民で構成される「第3身分」の位の人々が起こした革命です。

また更に、マルクスらが登場した時代には、第三身分が「ブルジョワ(資産階級)」と「プロレタリアート(労働者階級)」に分かれ、マルクスはブルジョワによる革命を「社会主義」、プロレタリアートによる革命を「共産主義」と呼びました。

そしてマルクスは、共産主義社会を実現するためには、プロレタリアートの暴力による改革と、社会主義社会から共産主義に移行するまでの間、プロレタリアートによる「独裁」が必要である、と説きました。

現代では「社会主義」とは「共産主義」に移行する段階に於ける、「プロレタリアートによる独裁」が行われている状況にある、と解釈されており、「共産主義社会を目指す人々」という意味では「社会主義者」と「共産主義者」とはほぼ同等の意味を持っていると考えられます。

一方で、ではそもそも「共産主義」とはどのような社会をいうと、元々「共産主義(コミュニズム)」という言葉を生み出したフランソワ・ノイエ・バブーフによれば、土地の「相続権」や「所有権」を否定した社会のこと。

この考え方の元となったルソーによれば、「自然界において人は平等であり、土地の所有や財産の相続よって身分、階級が生まれ、不平等が発生した」とあり、バブーフは「土地の所有や財産の相続」を否定し、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)の実現を目指しました。

バブーフが考えた、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』を目指す人々のことを「アナーキスト(無政府主義者)」と言います。(第161回の記事 をご参照ください)


フランス革命後のヨーロッパは、フランス革命による市民革命の『成功例』を参考に市民革命を実現していくわけですが、ロシア革命とフランス革命以降の市民革命の違いとして一番大きいのは、元々ロシアには「ブルジョワ」だの「プロレタリアート」だのと言った身分制度に関する認識がなかった言う事。

そして、ロシア人が「マルクス主義」に触れるのは、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が発令され、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」による「一月蜂起」が勃発した後。

更に、「土地と自由」から分派した「人民の意志」が、アレクサンドル2世を暗殺した後であったということです。
つまり、「マルクス主義」の情報がロシア国内に入る以前に、「市民革命」に相当する行為を行っていた、ということになります。

そして、二月革命後に結成された「ペトログラード・ソヴィエト」で副議長を務めたアレクサンドル・ケレンスキーが所属する社会革命党は、マルクス主義に基づいて結成された政党ではなく、マルクス主義がロシアに入ってくる以前からロシア国内に存在した「人民の意志」の流れを引き継ぐ政党でした。

この様に、「ロシア革命」が勃発する様子は、どうもこれまでのヨーロッパに於ける「市民革命」とは異なる傾向がみられます。

「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されたのはユリウス暦で3月1日、グレゴリオ暦で3月14日となるわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」は本来少数派であったはずの右派社会主義政党「メンシェビキ」の呼びかけによって結成されました。

元々「多数派」であったはずの左派社会主義政党「ボリシェヴィキ」は、「ペトログラード・ソヴィエト」結成時においては少数派だったのですが、ユリウス暦3月12日(グレゴリオ暦3月25日)、亡命先の東シベリアよりレフ・カーメネフと、後にソビエト連邦2代目書記長となるヨシフ=スターリンが帰国。

更にユリウス暦4月3日(グレゴリオ暦4月16日)、10月革命を主導し、ソビエト連邦初代書記長となるウラジミール=レーニンが帰国します。

カーネメフ・スターリン・レーニンはそろってボリシェヴィキのメンバーでした。


さて。それでは、次回記事において、2月革命が勃発した後の経緯を追いかけながら、この3名が帰国後、どのようにして10月革命が勃発するのか。その経緯を記事にしたいと思います。


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今回の記事は、中々熱い記事が出てきましたので、この記事をテーマに作成したいと思います。

先ずは引用元のニュースから。

【日本経済新聞記事より(2017/4/20)】(※まずは読み飛ばしてください)
麻生副総理、米抜きTPP「APECで5月協議」

 【ニューヨーク=大塚節雄】麻生太郎副総理・財務相は19日、ニューヨークで講演し、米国が離脱した環太平洋経済連携協定(TPP)に関し、米国を除く11カ国での発効に向けて「5月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で話が出る」と語った。ベトナムでのAPEC貿易相会合にあわせて開くTPP参加国の閣僚会合で、議論に本格的に着手することを明らかにした。

 米国を除くTPP参加国11カ国は、5月下旬にベトナムで関係閣僚会合を開く。日本政府は、米抜きTPPの発効方法の検討を事務方に指示する共同声明の採択を目指している。麻生氏は「相手がある話だからわからない」としながら、「12カ国という数があったからあれだけのことができた」と述べ、多国間協定の利点を強調した。

 そのうえでTPPでは「たとえば日米間(の交渉)で日本が失うものがあったとしても、他国から(利益を)とる、という調整ができた。2国間ではそこまではいかない」と話し、日米自由貿易協定(FTA)などの2国間協定には慎重な姿勢を示した。

 一方、ペンス米副大統領との間で18日に初会合を開いた日米経済対話に関しては「日米でつくりあげたルールをアジア太平洋地域に広げるようなつもりでやっている」と改めて語った。米抜きTPPの協議と並行し、日米で多国間が参加できる貿易・投資ルールづくりを主導したい意向も示した。

 政府は米抜きTPPの検討を本格化させている。TPPに合意した12カ国から米国を除いた11カ国による協定発効をめざす考え。政府はこれまで慎重姿勢を崩さなかったが、米国の動きをにらみ転換した。

 菅義偉官房長官も20日午前の記者会見で、米国を抜いた形でのTPP協定の発効について「あらゆる可能性を排除しない」と意欲を示した。

 5月にベトナムで開かれるTPP閣僚会合で「TPPで合意した高レベルの貿易ルールを実現するためにどのようなことができるか議論したい」と語った。離脱を決めた米国には「粘り強く説明することは変わらない」と再加入を呼びかける考えを示した。

 米抜きTPPの実現には、米国を外す協定改正が必要となる。日本やオーストラリアは前向きな一方、ベトナムなど米国との交渉で大幅譲歩した国からは協定内容の変更を求める声があるもようで、11カ国内の温度差は残る。

 講演はコロンビア大学で開催。冒頭部分は英語で話し、質疑応答では日本語を中心に時折、英語を交えてやり取りした。麻生氏はワシントンで20日開幕する20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議に参加するため、米国を訪れた。

今回引用したい記事はもう一つあります。

【ロイター記事より】(※こちらもまずは読み飛ばしてください)
財務相:2カ国間貿易、TPPで見込まれるほどの成果は期待できない

麻生太郎2

日米経済対話、麻生財務相「FTAの話にはまずならない」


[東京 18日 ロイター] - 麻生太郎財務相は18日の閣議後会見で、同日午後に行われる日米経済対話では「個別の話に入ることはない」とした上で、「自由貿易協定(FTA)の話にはまずならない」との認識を示した。米側の事務方の陣営が整っていないことから「細かい話ができるはずがない」とも述べた。

過去の日米協議の枠組みは、通商面などの摩擦解消を目的に、米側から提案された経緯がある。

麻生財務相は、今回の経済対話が日本側から持ちかけて発足したものであることに触れ、「摩擦ではなく、協力という前提で話をする」と強調。日米間で協議する枠組みが、アジア太平洋諸国にとっての「モデルケース」になれば、と語った。

写真は、もうちょいかっこいい写真を・・・とも思ったのですが、引用元が掲載している画像がこれだけでしたので、この写真を使います。


TPPを米国抜きで行うという意味(意義)

この政策を予測する記事を私は 第215回の記事 に記しました。

引用します。

【第215回の記事より】
米国は一国で2013年における国内総生産の65%を占めていますから、米国が抜けただけで発行は事実上不可能になる・・・という考え方も一理あるかもしれません。

ですが、既に述べています通り、元々「TPP協定のガン」となるのはアメリカだったはずです。

私もまた、「民主党政権下におけるTPP交渉への参加」には反対していた人間の一人です。
ですが、TPP参加そのものへの反対をしていたわけではありません。

「日本が主導して、日本中心にルール作りを行うこと」を日本のTPP参加への条件としていました。

甘利さんを中心として、米国との間でTPP交渉が行われるようになって以降のTPPのルール作りはほぼ日米が交渉の中心となって行ったといっても過言ではありません。

そして、その中から「アメリカが離脱」するわけです。
これこそ「渡りに船」であると私は思います。

そして更に、
現行のルールで発行が無理なのならば、アメリカ抜きで発効できるようルール改正すればよいだけの話です。

とも記しました。

この時私が予測した政策がついにスタートした、ということです。
サブタイトルにある「TPPを米国抜きで行うという意味(意義)」についてですが、先ほどの 第215回の記事 や 第214回の記事 をご覧いただくと、私が何を主張したいのかということは、凡そ予測していただけると思います。

もともと、この「TPP」という考え方は、麻生さんの 自由と繁栄の回廊 という考え方に従って、アジアで米国抜きで進められている日本の外交方針に危機感を覚えた米国が、麻生さんのお株を奪う形で築いた「経済連携協定=EPA」のことです。
 (EPAについては第213回の記事 をご参照ください)

元々「アメリカ」は参加していなかったじゃないか、という意見もあるかもしれませんが、米国がTPPに参加した理由こそまさしく上記に記したような理由だと推察されるわけです。

麻生さんは、そもそも民主党内閣当時からこの「TPP」については賛成の意志を明らかにしていました。
当然と言えば当然です。「アメリカ」が入っていること以外、TPP構想はまさしく麻生さんの考える「自由と繁栄の回廊」を体現したものであったわけですから。

そして、この当時話題になっていたのは中野 剛志 氏の記した「TPP亡国論」という書籍でした。

基本的に、TPP批判を行う人たちの考え方のベースになっていたのが彼が書籍に記した内容です。
即ち民主党がTPP交渉への参加を決めた段階で、日本を除く残り11カ国の間では既にTPPの概要に対する交渉は終結しており、あとから参加した日本が交渉に参加できる余地はない、とする主張でした。

ですが、麻生さんはこれに対し、「そんなことはない」という主張を行っていました。
私も基本的に麻生さんの考え方に賛成でしたし、それ故「民主党政権下での交渉参加に反対である」という主張をこのブログでも、過去に私が作成していたブログでも掲載していました。

中野さんも同じ意見だと考えていたのですが、どうもその後配信されていた動画等を見ていると、「民主党政権であろうがなかろうが、交渉そのものに参加することはできない。日本は終わった」と考えていた様ですね。これは余談です。

実際には甘利さんの活躍もあり、交渉は米国ではなく日本にとって有利なものとなり、米国にとってうまみのないものとなってしまったので、トランプは結局「TPPからの離脱」を表明するに至ったわけです。


そして今回、ついに安倍内閣はTPP交渉について、米国抜きで行われることと相成ったわけです。
そして、更にその交渉の旗振り役を日本が行うわけですから、完全に、「米国抜き、日本主導」で行われるTPPの実現が見えてきましたね。

恐らくこういった経済交渉の中身は安倍さんではなく、麻生さん主導で進められているものと考えられます。


米国との二国間交渉の価値

さて。この度の記事で、もう一つ引用したロイターからの記事。
タイトルを

・財務相:2カ国間貿易、TPPで見込まれるほどの成果は期待できない(4月20日)
・日米経済対話、麻生財務相「FTAの話にはまずならない」(4月18日)

という二つ掲載していますが、言っている内容はほぼ同じものです。
先ほどお示しした「TPP亡国論」に於いて中野 剛志氏は、日本がTPPに参加すると大失敗する、とした理由として、韓国が米国との間で結んだ「米韓FTA」の事例があります。

もう一度 第213回の記事 をご覧いただきたいのですが、韓国が米国との間で「二国間」で締結した協定は「FTA」、つまり「自由貿易協定」です。

一方、日本をはじめとする12カ国が、米国も含めて締結した「TPP協定」は、「EPA」、つまり「経済連携協定」です。

引用先の記事に掲載していますが、「FTA」とは、ただ単に関税を撤廃し、協定を結んだ国家間で自由に貿易を行う事を取り決めるための協定です。

ですが、「EPA」とは、その貿易を行うための「ルール作り」を行う為の協定です。

韓国では、この時ほぼ米国のいいなりになって、米国にとって有利な内容の「FTA協定」を締結しました。
ですが、TPPの場合は米国にとって有利に仕上がっていた内容のTPP協定を、米国に肉薄する経済規模を持つ日本が参加することで、米国だけでなく、参加するすべての国にとってメリットのある内容に作り替えられたわけです。

この差は大きいと思います。結果、米国はこのTPP協定から離脱することを表明したわけですから。

さて。今回その「TPP協定」からの離脱を表明した米国ペンス副大統領ですが、今度は日本に対して、「二国間でのFTA協定」を結ぶことを提案してきています。

これに麻生さんは「No」と言っているわけです。理由は分かると思います。

さて。これに関して、とある人物が中々痛い発言をしていました。



上記の動画は、元財務官僚である自称経済学者「高橋洋一」氏が、自民党で幹事長代行及び東京都連代表を務める元文科大臣下村博文さんとラジオで対談をしている様子を収録したものです。

下村さんは前半で退場されるのですが、丁度後半の差し掛かりで今回テーマとなった米国抜きのTPP交渉参加が話題になります。38分10秒当りからです。

ここで、高橋洋一ですが、二か国間交渉について、私が今回の記事に記したついて、まったく逆の主張を行っています。
一応、内容として「TPPと同じ内容で」と表現こそしてはいますが、彼は日本と米国とでの二国間交渉を「行うべきだ」と言っているわけです。

勿論、結果として二国間で取り決めを行う事になるのかもしれませんが、あくまでも日本は米国に対して「TPPの枠内」で交渉を行うべきだと主張するべきだと、私はそう思います。

そうしないのであれば包括的連携協定は行わない、という姿勢を露骨に見せてもよいかもしれません。
出なければ、もし仮に最初は二国間でのFTA協定が「TPPと同じ内容」で決まったとしても、これは二国間での話ですから、将来的に「見直し」に迫られる可能性を否定することができません。

「TPP協定」も勿論同じ考え方が出来るのですが、これが「複数の国の間」で取り決めが行われている以上、どこか一つの国の利益のみを優先したような改正内容とはなりません。

仮にTPP協定が非常に魅力のあるものとなった時、再び米国が参加しようとしたときに、日本は完全に米国に対してイニシアティブを発揮することができる様になるわけです。

今後RCEP、FTAAPへと発展した時も、日本主導で進められ、「既に」運用されているモデルケースとしてTPPが参考にされることになれば、中国や韓国を含めた世界経済に対して日本が主導権を発揮することができる様になるのです。

今回の決定で本当に意味があるのはこの部分であり、米国との二国間協定など二の次、三の次。
高橋洋一は完全にその「重要度」をはき違えているわけです。

案の定・・・ではありましたが。
第128回の記事 でもお伝えしましたが、私にはなぜ彼をマスコミがここまで重用するのかということが、まったく理解できません。


少しネガティブな締めくくりをしてしまいましたが、「米国抜きで発進するTPP交渉」の意義を今一度皆さんにも考えるきっかけにしていただけると幸いです。


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第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

第297回の記事 に於きまして、私は日露戦争当時に勃発した「ロシア第一革命」について記事にしました。

ロシア第一革命そのものは、

 「私たちの生活はこんなに苦しいのに、日本と戦争をやってるなんて何事だ!」

といった主張を労働者たちが皇帝に対して行ったところ、デモ隊が警備兵に大量に射殺されてしまった事(血の日曜日事件)が原因で、革命運動がロシア全土に広がったもので、主導者のようなものは存在しなかったのだそうですが、ここに至るまでの流れを見てみますと

1.1861年2月、皇帝アレクサンドル2世により、「農奴解放令」を公布。ロシア国民の中に改革へ向けた意識が高揚される。

2.同年末、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」が結成される。

3.海外に亡命している革命家たちとも連携し、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発するが、ロシア国内の指導者が逮捕され、1864年4月11日、鎮圧(一月蜂起)

4.1878年、一月蜂起を起こした人民主義者(ナロードニキ)たちによって「第二次『土地と自由』」が結成されるが、革命を起こす方向性で意見が分かれ、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、それを否定しプロパガンダを重視する「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)」派とに分裂。

5.1881年3月1日「人民の意志」メンバーによりアレクサンドル2世暗殺

6.1887年3月1日、「人民の意志」メンバーである、レーニンの兄「アレクサンドル・ウリヤノフ」によってアレクサンドル3世の暗殺が計画されるが失敗し、「人民の意志」は壊滅。この頃から、西欧に移住したロシア人たちが「マルクス主義」に触れ、ロシア人の「マルクス主義団体」が結成されるようになる。

7.1898年、キエフのマルクス主義団体が中心となり、「ロシア社会民主党」が結成される。結党宣言を行ったシュトルーベにより、「ロシア社会民主労働党」と党名が改められる。

8.1901年、ナロードニキの流れを組む革命政党、「社会革命党」が結成される。

9.ロシア労働党機関紙「イスクラ」編集局を中心とするグループ「イスクラ派」が分裂し、

 『多数派であるボリシェヴィキ』

  と

 『少数派であるメンシェヴィキ』

に分裂する。

「イスクラ」は多数派であるメンシェヴィキの機関紙となるが、ボリシェヴィキの代表で会ったレーニンは1904年末、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を創設する。

10.1905年1月9日、「血の日曜日」によりロシア第一革命が勃発する

と、この様な流れになります。

そう。ついに登場しましたね。ロシア革命の立役者、「ウラジーミル・レーニン」の名が。

レーニン

まあ、悪名高きソ連を生み出したわけですから、「立役者」との表現はあまり適切ではないかもしれませんが。

ちなみに元々は「ボリシェヴィキ」が「多数派」、「メンシェヴィキ」が「少数派」を意味するのですが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも共に「社会主義」派閥。ですが、後に同じ社会主義の中でも「ボリシェヴィキ」が「左派」、「メンシェヴィキ」が「右派」と変化していくようです。

ロシア第一革命が終結するのは1905年12月です。
この時ボリシェヴィキは武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行させるのですが、デモ隊に向かって帝政ロシア政府軍が砲撃。1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは投稿し、ロシア第一革命は終結することとなります。


ロシア第一革命後のロシア

前置きのつもりだったのですが、随分長くなりましたね。
革命に合わせて、ロシアでは各地に「ソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会(理事会))」が結成されます。

ですが、ロシア第一革命の後、社会活動家たちに対する皇帝の締め付けは激しくなり、指導者は投獄されるか、または亡命という選択を迫られました。このことにより、「ソヴィエト」は壊滅させらます。

この時、中心となって活動家たちの弾圧を行ったのが「ピョートル・ストルイピン」という人物。
ロシア第一革命後の内閣で首相を務めていた人物です。

ストルイピン

ですが、彼の取った農村に対する政策がロシア国民の反感を買い、1911年9月18日、彼はユダヤ人青年の手によって暗殺されてしまいます。彼が暗殺された場所こそ、現在のウクライナの首都であるキエフ。

ちなみに、当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア第一革命当時、このサンクトペテルブルクで「ソヴィエト」を結成した人物が「レフ・トロツキー」。彼もまたウクライナ人で、家族はユダヤ人。

彼は後のロシア革命で指導者の一人ともなる人物です。


少し話が脱線しました。
ストルイピンの弾圧により鳴りを潜めていた社会活動家たちですが、彼が暗殺されたことにより、少しずつ息を吹き返します。

ストルイピン暗殺の翌年、1912年1月、ロシア社会民主労働党からの独立を目指していたレーニンは、ロシア社会民主労働党から追放されてしまいます。

ここで、ロシア社会民主労働党は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」の2つの党へと完全に分裂してしまうこととなります。


第一次世界大戦に於けるロシア

政党「ボリシェビキ」誕生の2年後、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発 します。

改めて第309回の記事 を比較しながら記事を見ていただけると、状況が頭に入りやすいかもしれません。

1912年に第一次バルカン戦争が、1913年に第二次バルカン戦争が勃発するわけですが、バルカン戦争終息後、1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」を受けてオーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

これを受けて、いち早くセルビア支持を表明し、国内に向けて総動員令を発布したのがロシアでしたね。(7月31日)
そして、そのロシアに対して速攻で宣戦布告したのがドイツ。(8月1日)

Europe1914-jp.png

そんなロシアとドイツとの間で最初に起きた衝突が1914年8月17日から9月2日にかけて継続した「タンネンベルクの戦い」でした。

ロシアはこの戦いに於いてドイツ領プロセインに侵攻を行うわけですが、結果ロシアは敗北し、前線をロシア領内まで後退。
続く第一次マズーリ湖攻勢に於いてロシアは再びプロセインへと軍を勧めますが、ドイツはフランスと対峙する西部戦線より部隊を移動させており、ロシア軍は壊滅。

ドイツよりロシア軍は完全にたたき出されてしまうこととなります。
翌年のゴルリッツ戦線でもロシアは敗北し、ポーランド方面ではワルシャワ、イヴァンゴロドの2つの要塞が陥落し、ロシアは大撤退を迫られます。

この様な情報がロシア国内にも伝わり、ロシア社会民主労働党より分裂したボリシェヴィキ、メンシェビキ、及び社会革命党は、一気にその党勢を拡大します。

戦争が長引くことによってロシア国内の経済も低迷。
議会と皇帝との間の対立構造も深刻となり、宮廷もまた僧侶であるはずのグリゴリー・ラスプーチンによって牛耳られる(1916年12月30日に暗殺される)など、第一次世界大戦当時のロシアはまさしく「混迷」を深めていくこととなりました。

そして、そんな中でついに勃発するのが第一弾の「ロシア革命」である「二月革命」です。

次回記事では、そんな「二月革命」についてまとめてみたいと思います。


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第308回 第二次バルカン戦争が勃発した理由とその影響を検証する

第307回第308回の記事 と連続で「バルカン戦争」をテーマとさせていただきました。

今回から再び第一次世界大戦に話題を戻します。
第303回の記事 をおさらいしますと、第一次世界大戦が勃発した直接的な理由は「サラエボ事件」に於いてオーストリア皇太子が

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』

によって暗殺された事がその理由となります。

で、第307回第308回の記事 で振り返りましたように、この当時「ボスニア」はオーストリア・ハンガリー帝国に併合されていました。

で、オーストリア当局によって逮捕された暗殺犯のうちの一人が、暗殺に用いられた武器を支給したのがセルビア政府であったことを告白し、オーストリアはセルビア政府を非難。最後通牒を突きつけた上でセルビアに対して宣戦布告を行います。

そしてオーストリア対セルビアという構図であったはずの紛争が、なぜか第一次世界大戦へという全世界を巻き込んだ戦争にまで発展することとなります。


第303回の記事 で私は、

セルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます

とこの様に記し、第307回第308回の記事 へと移りました。

結果として見えてきたのは、サラエボ事件をきっかけに勃発した第一次世界大戦ですが、サラエボ事件は連続する歴史の流れの中の一シーンにすぎず、サラエボとボスニアの独立から続く一連の国家間の思惑にこそその原因はあったのではないか、ということです。

第二次バルカン戦争

改めて、こちらは第二次バルカン戦争に於ける国家間の関係性の構図です。
後に別途記事にする予定ですが、この当時のヨーロッパの構図として、

 「英・仏・露」の3国で結ばれた「三国協商」

  と

 「独・墺・伊」の3国で結ばれた「三国同盟」

とが対立する構造に在りました。

三国同盟対三国協商

余談ですが、日本はイギリスとの間で「日英同盟」を結んでいました。
元々イギリスはロシアと対立する構造にあり、露仏は日本のアジアに於ける勢力拡大を阻止しようとする構図に在ったのですが、三国協商が締結されたことで、日本はロシア・フランスとも同盟関係を築くことになります。

日本は「三国協商」に巻き込まれた感じですね。
第一次世界大戦中にロシアではロシア革命が起こり、ロシアは三国協商から脱退し、三国協商は崩壊に至ります。

一方三国同盟を結成していたイタリアもまた領土問題に関係して第一次世界大戦中に三国同盟を離れ、イギリス側につくことになります。

この構図を頭に入れて第二次バルカン戦争の国家間の関係図に目をやると、「ロシア」の裏側に「英仏」の姿が、「オーストリア」の背後に「独・墺」の姿が見えてきますね。

三国協商のロシアが支援するセルビアと三国同盟のオーストリアの戦いとは、即ちこのような構図から生み出された戦いだと云うことになります。


では、改めて「サラエボ事件」まで時間軸を戻してみます。

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』によってオーストリア皇太子が暗殺されるわけですが、之を支援したとされるのが「セルビア」。

オーストリア側から「セルビア」の存在を見てみますと、セルビアは元々事件の現場となった「ボスニア」を自国領土にしたいと考えていた国です。この国が、オーストリアによってボスニアが併合された後、「ブルガリア」「モンテネグロ」「ギリシャ」と共に「バルカン同盟」を結成し、南方の雄、「オスマントルコ」を撃破します。

また更に、オスマントルコを撃破したセルビアは、更に同じ同盟国であるブルガリアを更に撃破し、領土を拡大しました。
そしてそんなセルビアの後ろには「ロシア」の存在があります。

そんなセルビアが、今度は自国領土であるボスニアのセルビア人を使って自国の皇太子を暗殺した。
これは正直脅威に感じたかもしれませんね。

またオーストリアの立場から更に考えますと、オーストリアはセルビアの意図に反してボスニアを自国領土に併合し、更に第一次バルカン戦争にも干渉してアルバニアを独立させているわけです。

マケドニア

明らかにセルビアの発展を邪魔していますね。
立場的に、オーストリアはセルビアを格下に見ていたのではないでしょうか。

セルビアはオスマントルコの占領下から独立したばかりの小国。一方オーストリアは神聖ローマ帝国の時代から続く由緒ある家柄。そんなセルビアが、自国の皇太子を暗殺した。

オーストリアにとって、セルビアを叩くうえでこれ以上の口実はなかったのかもしれません。


第一次世界大戦への変動

オーストリアのセルビアに対する宣戦布告を受けて、先ず動くのはロシアです。
セルビアの独立を支持する立場を貫いてきたロシアは、1914年7月31日に挙国一致体制を取るため、国内に向けて「総動員令」を発令します。オーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったのが同7月28日のことですから、実に迅速な対応です。

オーストリアは宣戦布告に当たって、事前に同盟国であるドイツに相談をしていたわけですが、ロシア参戦を受け、8月1日、ドイツも同様に総動員令を発令します。

同日、ロシアと同盟関係にあるフランスも「総動員令」を発布。
ドイツは8月2日にロシア、8月3日にフランスに対してそれぞれ宣戦布告を行います。

1900.jpg
(バルカン戦争以前の地図ですが、参考にしてみてください。)

また、時を遡って1839年、ベルギー独立戦争を経てネーデルランド連合王国からベルギーが独立するわけですが、このベルギーの独立を支援したのがイギリス。

本来中立国であるはずのベルギーへのドイツ侵攻を受け、1914年8月4日、イギリスはドイツに対して宣戦布告。
イギリスの参戦を受けて嘗てイギリスの植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦します。

また更に、イギリスからの再三の要請を受け、1914年8月23日、日本もまたドイツに対して宣戦布告を行います。
日本がドイツに対して宣戦布告を行った後の日本の対応は 第106回の記事 をご参照ください。

日本はドイツに対して、「中国に返還することを前提として、無条件に膠州湾岸地域を日本に引き渡す」ことを要請したわけですが、これをドイツが受け入れなかったため、ドイツに対して宣戦布告を行う事となります。

オーストリアもよもやこんなことになるとは思っていなかったのかもしれません。
オーストリアに味方してくれる国はドイツとブルガリア、そしてオスマントルコだけ。

ドイツ・オーストリア両国はまさしく世界中から袋叩きにされることになります。
後先を考えずオーストリアがセルビアに宣戦布告をしたことが原因ではありますが、それにしても・・・。


さて。皆さんお忘れかもしれませんが、今回のシリーズはそもそも第一次世界大戦の原因追及をすることが目的ではありません。

第一次世界大戦の経緯をさらったのは、そもそも「ロシア革命」が勃発したのが第一次世界大戦の真っ只中であったから。
以上のような経緯で第一次世界大戦は勃発したわけですが、そんな第一次世界大戦がヨーロッパから中国にまで飛び火して展開する中、ロシアでは一体何が起きていたのでしょうか。

次回記事では、いよいよ本丸、「ロシア革命」へと記事を移したいと思います。


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第307回 バルカン戦争とは?その影響をわかりやすく考える

第一次バルカン戦争について検証した前回に引き続き、今回は「第二次バルカン戦争」について検証してみます。

復習いたしますと、『バルカン戦争』は

青年トルコ党が実権を握ったオスマントルコによってマケドニア地域に集められたボスニアヘルツェゴビナのムスリムがマケドニアにいたアルバニア人と連携して行った事実上の独立戦争をセルビアが支援し、またロシアの支援を受けて結成された「バルカン同盟」諸国が更にオスマントルコに対して宣戦布告を行った

ことによって勃発しました。

結果、バルカン同盟はオスマントルコに勝利します。
停戦条約として締結されたのが「ロンドン条約」。

改めて、前回お示しした地図を掲載してみます。

マケドニア
【地図①】

元々バルカン戦争はアルバニア人の独立を口実として勃発した戦争ですから、ロンドン条約においてはアルバニアの独立が宣言されます。地図では青色の部分の左端(西側)に「1912」と記されているのが分かると思います。

斜線の引かれていない、このエリアが「アルバニア」が独立した後の領土です。

地図をみるとわかりますが、ロンドン条約によって、ピンク色の「セルビア」領土に隣接する、右上から左下に向けて引かれた太い斜線のエリアがセルビアに、同じく右上から左下に向けて引かれた細い斜線のエリアがギリシャ、左上から右下に向けて引かれた斜線のエリアがブルガリアにそれぞれ割譲されます。

先ほどの地図を少し東に移動させますと、こんな感じです。

トラキア
【地図②】

こい黄土色の部分が「トラキア」。
国境は現在の地図になりますが、トラキアの北側がブルガリア、西側がギリシャ、東側がトルコです。

Wikiのマケドニアのページを参考にしますと、

「1910年代のバルカン戦争によってギリシャ、ブルガリア王国、セルビアの3王国によって分割された。このときの国境が現代まで残されているものである」

と記されていますので、この地図の国境がちょうどバルカン戦争によって分割された国境、ということになりますね。

ブルガリアには、マケドニア領土以外にこの「トラキア」の丁度国境線より北側の部分も割譲されました。


第二次バルカン戦争

さて。今回のテーマとなる第二次バルカン戦争。

ロシアの後押しを受けて同盟を結成し、オスマントルコに対して戦争を挑んだバルカン同盟ですが、トルコに見事勝利し、ロンドン条約によって多くの領土を手に入れることになります。

ところが、今度はこの獲得した領土をめぐってバルカン同盟諸国間で争いが始まります。

記述を読んでいると、領土争いの舞台となったのは地図①の内、ブルガリアが獲得した領土。
南西側に細長く伸びている部分があると思いますが、この領土の所属をめぐって争いが勃発した様です。

同エリアは、丁度「セルビア」「ブルガリア」「ギリシャ」の3国が国境を接する地点で、この地点の領有権を3国が共に主張していました。

特にブルガリアとギリシャはトラキアに於ける国境でも対立する構造にありました。

この様な対立構造にある中、第二次バルカン戦争はブルガリアによるセルビア・ギリシャ両国への侵攻からスタートします。
この段階で事実上バルカン同盟は崩壊しているわけですが、セルビアとギリシャはお互いに同盟関係にあり、共同でブルガリアに対抗します。

更にセルビア・ギリシャ連合軍に対し、バルカン同盟で同盟関係にあるモンテネグロ、更にルーマニア、オスマントルコ帝国までもが参戦し、ブルガリアに対して宣戦布告を行います。

この時、唯一ブルガリアを支援したのがオーストリア・ハンガリー帝国、バルカン同盟側を支援したのがその立役者であるロシアです。

第二次バルカン戦争

結果的にブルガリアの惨敗に終わるわけですが、第一次・第二次バルカン戦争を通じて、バルカン同盟の4カ国、及びオスマントルコ帝国の中で、領土問題に対する不満が蓄積したままになってしまいます。

第二次バルカン戦争の結果、ブカレスト条約が締結されるわけですが、この結果に満足した国は一国も存在しなかったんですね。


オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国との間に生まれたしこり

改めて振り返ってみましょう。
確かに「バルカン戦争」そのものは独立を目指したアルバニア人をセルビアが支援する形から始まったのですが、セルビアがアルバニア人を支援した動機の中にあったのが、「ナチェルターニェ」の考え方から、自国に統合することを目指していた同じセルビア人の国であるボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国に併合されてしまったことにありました。

このことでセルビアはボスニアヘルツェゴビナを統合することを諦め、逆に南側のオスマントルコ領を侵略することを目指すようになりました。

オスマントルコとの戦争に勝利し、マケドニア領は手に入れたわけですが、オーストリア・ハンガリー帝国の横やりが入り、アルバニアが独立。ここから軍隊を撤退させられることとなった上、唯一の海上ルートへの抜け道であったアルバニア地域を封鎖されてしまいます。

地政学的に考えれば、海上ルート、所謂「シーレーン」は国が発展する上でも非常に重要な貿易の為のルートであり、北部をオーストリア、南部をトルコに抑えられた状況は、セルビアの将来的な発展の大きな弊害となったはずです。

こう考えると、セルビアの対オーストリアへの開戦に至る動機としては十分だったと考えられますね。
この他、オーストリアはドイツと同盟関係にありましたし、両国はロシアと対立する構造に在りました。

敗戦後、ブルガリアはオーストリア・ドイツと急速に接近し、また敗戦によりお互いに勢力を急速に縮小させることとなったオスマントルコにも接触を始めます。

一方でセルビアを支援したロシアはイギリス・フランスとの間で「三国協商」という同盟関係を築く友好関係にあり、この後サラエボ事件 をきっかけとして火が付いたセルビアとオーストリアとの対立は、一気に第一次世界大戦へと拡大することとなります。

次回記事では、いよいよサラエボ事件が第一次世界大戦へと発展するその過程について記事にしたいと思います。


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第303回 第一次世界大戦とロシア革命/第一次世界大戦はなぜ?

さて。今回のテーマは「バルカン戦争」。

そもそもなぜこのテーマを記すに至ったかと言えば、第303回の記事 の記事に於いて第一次世界大戦を調査する上で、なぜ第一次世界大戦が勃発したのか。その理由としてこの「バルカン戦争」が関係しているらしいことが見えて来たからです。

セルビアが「ナチェルターニェ」という政策方針に従ってボスニアヘルツェゴビナを統合しようとしている中、オーストリア・ハンガリー帝国にボスニアヘルツェゴビナは併合されてしまいます。

そして、その後勃発したのが「バルカン戦争」なるものです。
現時点で、私はこの「バルカン戦争」なるものが一体どのような戦争であったのか、ということをまったく知りませんから、今回の記事で、話題がどちら方面に向いて進んでいくのかもまったく予測できていません。

まずはWiki等をベースとしながら、「教科書的」な話題から記事を進めてみたいと思います。


そもそも、「バルカン戦争」って何?

Wikiを参考にしますと、

「バルカン戦争」とは、「第一次バルカン戦」と「第二次バルカン戦争」という二つの戦争のことを云います。

「第一次バルカン戦争」とは1912年に『バルカン同盟』」を結成した「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国と、衰退しつつあった「オスマン帝国」との間で発生した戦争。

「第二次バルカン戦争」とは敗戦したオスマン帝国から獲得した領土をめぐって、今度はバルカン同盟に所属する4カ国の間で勃発した戦争のことです。


第一次世界大戦を考える上では、どちらかというと「第一次」はあまり関係がなく、「第二次バルカン戦争」によって生まれたバルカン同盟諸国の中の「シコリ」の方が大きいとは思うのですが、まずは「第一次バルカン戦争」について手繰ってみます。


第一次バルカン戦争

改めて、再度1900年当時のヨーロッパ地図を掲載します。
1900.jpg

「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国は、「オーストリア・ハンガリー帝国」と「オスマントルコ帝国」に丁度挟まれる形で位置しています。

「モンテネグロ」は少し見えにくいですが、セルビアの丁度南西側に位置しています。

Wikiの話題としては、丁度「セルビア」が先ず話題として挙がっています。

セルビア・ボスニア

こちらも第303回の記事 で掲載した地図ですが、セルビアの北西側に「ボスニア」が位置しています。

1459年6月、セルビアはオスマントルコによって滅亡させられるわけですが、1817年オスマントルコ領セルビアとして復活。
1882年、正式に「セルビア王国」として独立します。

そんなセルビアですが、独立する以前から大繁栄を誇った中世当時の「セルビア王国」を復活させることを目途として、同じ時期に自治権が認められた「ボスニアヘルツェゴビナ」を自国領土として統合することを目指していました。(ナチェルターニェ)

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

一方のトルコでは、1908年7月3日、「統一と進歩委員会」という政治組織が中心となって「青年トルコ革命」なる武装蜂起が勃発しており、この混乱の中、「バルカン同盟」の一員を構成する「ブルガリア自治公国」がオスマントルコ領から独立を宣言します。


マケドニア

上の地図は、「マケドニア」というトルコ領の一部を示したものです。青い部分がそうですね。
ボスニアヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー帝国に併合されたとき、トルコはボスニアヘルツェゴビナに居住していたムスリム(イスラム教徒)をこのマケドニアに移住させようとします。

ところが、ボスニアから移住させられたムスリムたちは、現地に居住していたアルバニア人たちと融和し、更に独立を目指して反乱を起こすことになります。この当時のオスマントルコは「青年トルコ党」によって本来の「オスマントルコ」とは異なる姿へと変えられてしまっていましたから、アルバニア人たちは本来のトルコの姿へと戻そうとしたんですね。(1912年5月)

この時、セルビアはアルバニア人たちを支援し、これを口実として対トルコ戦争=バルカン戦争を勃発させます。

バルカン戦争事態が勃発するのは1912年10月8日なのですが、同日トルコに宣戦布告を行ったのはモンテネグロのみ。
ブルガリア、セルビア、ギリシャが宣戦布告するのは10月17日のことです。

「バルカン同盟」は1912年の春~夏にかけて、バルカン諸国のキリスト教徒によって築かれた軍事同盟なのだそうですよ。

この軍事同盟の締結を支援したのは「ロシア」。
ロシアはまた、バルカン半島に於いて増加する「オーストリア・ハンガリー帝国」の勢力を脅威に感じていたわけですね。

セルビアとブルガリアが戦争の結果手に入れようとしていたのは上地図にある「マケドニア」地域であったわけですが、ブルガリアは同時に「トラキア」という地域と「イスタンブール」をその手中に収めようとしていました。

トラキア
【トラキア(濃い茶色部分)】

イスタンブール
【イスタンブール】

この地域は、実はバルカン同盟の結成を支援したロシアも狙っていた土地であったのだそうです。
後にロシアはこの土地を通じて「ドイツ帝国」「オーストリア・ハンガリー帝国」「オスマントルコ帝国」「ブルガリア王国」の4カ国が結成した「中央同盟国」との間で第一次世界大戦を起こすこととなります。

なるほど・・・。少し「第一次世界大戦」の構図が見えてきましたね。

この地域をめぐって、イギリス帝国はロシアにその領有を容認しておきながら、ブルガリアに対してはこの地域の獲得を後押しし、ロシアよりも優先させる、との保障を与えていたのだそうです。

一方、イギリスはオスマン帝国の親密な支援者でもありながら、オスマン帝国に敵対するギリシャのバルカン同盟入りを支援。
このことでロシアに対抗しようと考えていたのだとか・・・。ものすごい二枚舌外交ですね。

また一方でオーストリア・ハンガリー帝国もまたオスマン帝国への領土拡大をもくろんでいた為、自国とトルコとの間にある国とはすべて対立構造に在ったのだそうです。そう。第一次世界大戦勃発のきっかけとなったとされる「サラエボ事件」において関係が悪化した「セルビア」とも。

そして「ドイツ」はもともとオスマントルコ帝国と親密な関係にあったわけですが、そのオスマントルコ帝国が弱体化したことを受けて、同盟関係の中心をトルコからブルガリアへ転向させようとする意図もあったようです。

元々ブルガリア親独的で、またブルガリア国王フェルディナンド1世は反ロシア的な感情を抱いていたようで、この様な複雑な心情がサラエボ事件をきっかけに燃え上がったのが「第一次世界大戦」だと云うことですね。

それでは、改めて次回記事では「第二次バルカン戦争」についてまとめてみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>テロ等準備罪(所謂共謀罪)


<継承する記事>
第305回 テロ等準備罪を考察する/丸山穂高議員のブログ記事より

前回の記事では、維新の会丸山穂高議員の記事を引用する形で、「テロ等準備在」について検証してみました。

一番はっきりしたのは、「テロ等準備罪」は「国際組織犯罪防止条約(パレルモ条約)」に批准する為に作られる法律であり、その最大のポイントとなるのは、パレルモ条約にて規定された、条約に批准するための条件の一つ、即ち

 「[『組織的な犯罪集団が関与する重大な犯罪を実行』するために組織を作ったり、その実行を指示したり、手助けをしたり、誰かがその犯罪を実行するようにけしかけたり、援助したり、相談したりすること」

 を

 「犯罪とするため、必要な立法その他の措置をとる」


必要がある、とされている部分です。

そして、その「重大な犯罪」とは、「長期四年以上の自由を剥はく 奪する刑又はこれより重い刑を科することができる犯罪を構成する行為」のこと。

つまり、与党は

 
「長期四年以上の自由を剥はく 奪する刑又はこれより重い刑を科することができる犯罪を構成する行為」

 を

 「実行するために組織を作ったり、その実行を指示したり、手助けをしたり、誰かがその犯罪を実行するようにけしかけたり、援助したり、相談したりすること」


を罪とするための法律を現在「テロ等準備罪」との名称で法整備化しようとしていたのだ、ということがよくわかりました。
そして、それを民進・共産・社民・自由の4党は阻止しようとしているのだと言うことも。


さて。今回の記事は、上記のような内容に関連して、「テロ等準備罪」そのものを批判することを主眼としたものではありません。

その事よりも、私自身が体験・・・というよりも、とあるお年寄り拝聴したあるお話をご紹介することを目的としています。

話の内容としては、「それはさすがに嘘やろ」とか、「騙されてるんじゃないの」というそしりを受けても仕方がないような内容だと思っています。何しろソースは私が伝聞した内容だけですし、これを裏どりするような方法も私は持ち合わせていません。

ですので、内容を信じるか、信じないかは読者の方にお任せします。


9.11同時多発テロとは

同時多発テロ

事件が起きたのは2001年9月11日のこと。
場所はアメリカ合衆国。写真はニューヨーク貿易センタービルに二機の旅客機が突っ込んだ時の様子です。

この他、国防総省本部庁舎ペンタゴンなども標的とされ、合計で3,025人の方が命を落としました。
事件はアルカイダという国際テロ組織の指導者ビンラディンによって指揮されたものであるとされ、後のアフガニスタン紛争やイラク戦争にもつながる大事件となりました。


私が聞いた話とは

さて。私はとある喫茶店にて、隣に座った一人のご老人から、中々興味深いお話を聞かされることになります。

その方のお話を飽くまで100%信じるとすればの話ですが、彼は「ジャパンガイドドットコム」というインターネットサイトの管理者をしているのだと言っていました。(同名のサイトを発見することは出来ますが、同じサイトなのかどうかは定かではありません)

そのサイトには、所謂「チャットルーム」のような仕組みがあるのだそうです。

ある日、このサイトに、イランのテヘラン大学の一人の学生が、一つのチャットルームを開いたのだそうです。

この学生が中心となって話は展開していくわけですが、最初、管理人の男性は、ここで一体何の話がされているのかはよくわからなかったのだそうです。

中々専門的な話がされていて、時に北朝鮮の高官などもこのサイトを訪れたのだそうです。

段々と話の内容が理解できる様になってくると、どうもこのチャットルームで話し合われている内容がアメリカにあるどこかの背の高いビルに向けて飛行機を突入させる計画について話し合っているらしいことが分かってきました。

実際に誰かが飛行機の操縦をする訓練を受けに行くといった話もされていたそうで、これに気づいた管理人の方は、「内閣準備室(うろ覚えですが、確かそう言っていたように記憶しています)」に連絡をするわけですが、まったく相手にもされず、地元出身の自民党国会議員にも連絡するわけですが、その議員さんとは連絡がつかず、その翌日、同時多発テロが勃発したのだそうです。


つまり、この一連の話の流れから、この同時多発テロは、イランのテヘラン大学の学生によって考え出された・・・ことになるようです。

私は結構信じやすいタイプですので、この話を聞いたとき、とてもびっくりしましたし、また疑うこともなく、そのまま信じた様に記憶しています。

勿論今でもこの話を疑っているわけではありません。むしろ内心では信じています。

ただ、実は今回テーマにしたいのは、私の聞いたこのお話の内容そのものではなく、日本の、「ジャパンガイドドットコム」というサイトが事件の関係者たちに情報交換される場として使われ、直前とは言え管理者の方がこれだけの情報をつかんで政府に連絡したのに、なぜ政府は動かなかったのかということなのです。

実は、関係者たちがこの計画で情報交換をする場として日本のサイトのチャット機能を利用したのは、日本はこのような「テロに関連した計画」に対する監視が他国より非常に緩く、発覚しにくいことが挙げられます。

これは、管理人の男性も言っていたことです。もちろん話し合いをしていたのは海外に居住する人たちですから、日本の法律で取り締まることは出来ません。

では、もしこの話し合いをしていた人の中に、日本人が混じっていたとしたらどうなるのでしょう。

調べてみると、これらの行為を日本人が行っていた場合、「内乱陰謀罪」なる罪に問われることになる様です。
仮に計画に移さず、未遂に終わったとしても、この様な「内乱」を計画しただけで罪に問われるようですね。

但し、この様に、「計画」をしただけで刑法の対象となる犯罪は

 殺人予備罪(201条)

 身代金目的拐取予備罪(228条の3)

 強盗予備罪(237条)

 内乱予備罪(78条)

 外患予備罪(88条)

 私戦予備罪(93条)

 放火予備罪(113条)

 通貨偽造準備罪(153条)

そして

「破壊活動防止法」によって規定された内容や「凶器準備集合罪」も「予備罪」と同じ性格を持っている様です。
「内乱陰謀罪」は「破壊活動防止法」に含まれるんですね。

ですが、これらの「予備罪」は、パレルモ条約によって規定された「長期四年以上の自由を剥はく 奪する刑又はこれより重い刑を科することができる犯罪を構成する行為」をすべて網羅できているわけではありません。

例えば、「振り込め詐欺」では、刑期が12年に上るものもあるのだそうですが、振り込め詐欺は上記予備罪のどれにも該当しないため、「予備罪」で逮捕することはできません。

ですが、今回テロ等準備罪が法制度化されると、この様な罪でも、計画されていた段階で取り締まることが可能になるんですね。


あともう一つ。これらの犯罪が計画されていることをサイト管理者が把握した時、サイト管理者に「通報する義務」があったとしたらどうでしょう。

勿論これはパレルモ条約に関連したテーマとは少し離れるのですが、サイトを管理する立場にある人が、サイト上で「テロ等準備罪」に該当する計画が話し合われている事を把握した時、これを「通報する義務」があったとしたら。

そしてその通報先として「警察」そのものではなく、所謂サイバー犯罪を専門的に取り扱う特殊な機関を通報先として用意しておき、例えば警察に通報があったとしても、必ずそこへ情報を流すことが義務付けられていたとしたら。

もし上記の事例で管理者の男性が通報したとしても、その通報先が「内閣準備室」なる場所ではなく、専門的に情報を解析することができる機関であれば、速やかに対応することもひょっとしたら可能だったのではないでしょうか。

勿論冤罪であるケースもあるでしょうから、まずは専門機関がその内容を解析し、重大な犯罪に該当すると判断した場合にのみ速やかに上部機関に通報する仕組みがあれば、今回例に挙げたケースでもひょっとすると何らかの対策が取れたのかもしれません。

尤も、私がここで考えるまでもなく、既に政府はこのくらいのことは考えているのかもしれませんけどね。


「テータから見る日本」といいながら、今回は私が伝聞した内容や推論を中心に記事を構成しましたが、「重大な犯罪を計画しても、取り締まることができない国」であり続けようとする野党の皆さん。

一体どのように思われますか?

この記事のカテゴリー >>平和安全保障法関連法案


本日は少し方向性を変えてこんな話をしてみます。

ブログのタイトルは「データから見る日本」となっていますが、私自身の「体験」もまた一つの「データ」だと考えていますので、今回は私の体験をベースに記してみます。私の体験を記事にする前に、今回の記事では、「テロ等準備罪」と、民進・共産・社民・自由の4党がこの法案の一体何に反発しているのかという、その概要を把握するための記事を作成してみます。


テロ等準備在概要

概要については、維新の会の丸山穂高議員が非常にわかりやすく説明して下さっていましたので、ここを若干引用する形で記事にしてみます。

丸山穂高議員

詳細はリンク先にてぜひご確認ください。
テロ等準備罪を分かりやすく解説 (丸山穂高議員(衆議院議員/大阪19区))

丸山議員の記事によりますと、今回の法案が提出される趣旨として、以下のような内容が掲載されています。
提案理由

近年における犯罪の国際化及び組織化の状況に鑑み、並びに国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定その他所要の規定を整備する必要がある。

この提案理由の性格を端的に抜粋しますと、

 「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴」ったもの

だということです。
つまり、国際連合条約に締結するために、日本国内でも法整備を整える必要がある、ということですね。

では、どんな条約なのかといいますと、

 「国際組織犯罪防止条約(略称:TOC条約、パレルモ条約)」

という条約。日本はこの条約に締結していないため、

 「国際的な犯罪集団の情報についての他国との綿密なやり取りができない」

と丸山議員は記しています。
そして、「国際的な犯罪集団の情報」とはどんな情報かというと、

 「IS(イスラム国)などのテロ集団とか麻薬密売組織」等の情報。

この様な情報を日本の警察が把握するため、「世界の捜査機関」と綿密な連携を結ぶ必要があり、そのため提出されているのが今回の「テロ等準備罪」だということです。


では、日本がこの「国際組織犯罪防止条約(略称:TOC条約、パレルモ条約)」 に加盟するためには、日本国内にどんな法整備を整える必要があるのでしょうか。

これについて、丸山議員はパレルモ条約第2条と第5条を抜粋しています。
条約の詳細についてはリンク先記事をご覧いただければと思います。


【パレルモ条約に加盟するための条件】

パレルモ条約に加盟するための条件として、同条約第5条では、

 「締約国は、故意に行われた次の行為を犯罪とするため、必要な立法その他の措置をとる」

必要があると記されています。では、「次の行為」とはどのような行為なのかと言いますと、これには2つありまして、一つ目が

1.「金銭的利益その他の物質的利益を得ること」 を「直接又は間接」 的な目的として、「重大な犯罪を行うこと」 を「一又は二以上の者と合意すること」

 これを法律上「犯罪」とするためには、

 ・「合意の参加者の一人による当該合意の内容を推進するための行為が伴」っている

または

 ・「組織的な犯罪集団が関与するもの」

である必要がある


 2.自分自身が参加している 「組織的な犯罪集団」 が「 一体どのような目的で集まっているのか ということ」を 認識 していて、そしてその集団が 「一般的な犯罪活動」や「特定の犯罪」を行う意図をもって集まっている集団 である、ということを 解っていながら、特定の個人が

 ・「組織的な犯罪集団の犯罪活動」に参加

したり、

 ・犯罪組織の目的を達成するために「組織的な犯罪集団のその他の活動」に参加

すること。

この二つの行為の内、どちらか一方にでも該当するとパレルモ条約第5条の内「次の行為」に該当することになります。

二つ目は、

「組織的な犯罪集団が関与する重大な犯罪を実行」するために組織を作ったり、その実行を指示したり手助けをしたり、誰かがその犯罪を実行するようにけしかけたり援助したり相談したりすること

となっています。

つまり、今回問題となっている「テロ等準備罪」とは、パレルモ条約第5条にある、「犯罪とするべき行為」の内、「二つ目の行為」 を法整備する為の法案であることが分かりますね。


民進・共産・社員・自由の野党4党は、この「テロ等準備罪」の事を批判し、「共謀罪」と呼称しています。
で、上記野党4党は「(共謀罪改め)テロ等準備罪」について、「そんな法案を整備しなくても、現行法で条約に批准することは出来る」との主張をしています。

これに対して、丸山議員の記事でも紹介されているのですが、政府は以下のリンク先に掲載されているような回答を既に示しています。

現行法のままでも条約を締結できるのではないかとの指摘について(法務省HPより)

パレルモ条約で、今回のテロ等準備罪の対象となる「重大な犯罪」について、以下の様に規定されています。

 「長期四年以上の自由を剥はく 奪する刑又はこれより重い刑を科することができる犯罪を構成する行為」

私はリンク先に掲載されている内容について、全てを正確に読み込めているわけではありませんが、読まずとも推察されることがあります。

それは、確かに4野党が指摘している様に、パレルモ条約の対象となっている「重大な犯罪」を計画段階で取り締まる法律は確かにあるのかもしれません。

ですが、これらの法律ではパレルモ条約が指定してきている 「長期四年以上の自由を剥はく 奪する刑又はこれより重い刑を科することができる犯罪」 を全て網羅できていないのではないか、ということです。

そして、与党側はこの 「長期四年以上の自由を剥はく 奪する刑又はこれより重い刑を科することができる犯罪」 をすべて列挙し、今回の「テロ等準備罪」の対象として示しているのではないかと思われるのですが、これに4野党は「対象が広すぎる」といちゃもんをつけてきているのではないか、と考えられます。

完全に検証したわけではありませんが、恐らくそう遠い内容ではないでしょう。


さて。では、そもそも「テロ等準備罪」はいったい何のために作られようとしているのだったでしょう?
それは、「パレルモ条約」に批准し、「国際的な犯罪集団の情報」を「他国との綿密にやり取り」するためです。

そしてこれに反発し、法案成立を必死に食い止めようとしている4野党は、一体何のためにそんな事をしているのでしょう?

さて。何となく見えてきますね。

背理法的に考えますと、

 4野党には、「政府が他国と綿密にやり取り」をされるとまずい「国際的な犯罪集団の情報」がある

ということです。
あれ? どういうことでしょう。

日本国の政党であるはずの4つの野党が、「政府が他国と綿密にやり取りをされるとまずい国際的な犯罪集団の情報がある」って・・・。


次回記事では、私の体験にも基づく、「テロ対策措置法について思う事」を記事にしたいと思います。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第297回 日露戦争とロシア第一革命/ロシア国内に於ける背景

さて。今回のシリーズの中心である「ロシア」と「ソ連」を考える上で、どうもこの「第一次世界大戦」というものを無視するわけにはいかないようです。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年7月28日、終結したのが1918年11月11日なんですが、ロシアをソ連へと変貌させるきっかけとなった「(第二次)ロシア革命」が勃発したのは1917年2月23日。第一次世界大戦の真っ只中で勃発しました。

ちなみに、2月に起きたロシア革命は「2月革命」と呼ばれます。
この時のロシア革命は 1917年11月7日(ユリウス暦1917年10月25日)にも勃発しており、この時の革命は10月革命と呼ばれます。

なぜ2月革命はグレゴリオ暦なのに10月革命はユリウス暦なんだ、というツッコミが入りそうですが、このネタはロシア革命そのものを記事にする際にわかる様であれば調べてみたいと思いjます。


第一次世界大戦はなぜ起きたのか?

記事としては第一次世界大戦について記す予定なのですが、ひょっとするとこの記事一つでは終わらないかもしれません。
今回は、基本的に教科書通り、第一次世界大戦が勃発するに至った経緯について、一般的な理由を調査してみます。


私の記憶では、中学であったか高校であったかは覚えていませんが、確か「サラエボ事件」なるものが原因で、オーストリアの皇子が殺害されたことがそもそもの発端であったように記憶しています。

ですので、今回は先ずこの「サラエボ事件」から調べてみます。


サラエボ事件とは?

基本、情報ソースはWikiをまずは利用します。

Wikiによると、このサラエボ事件について、以下の様に記されています。

【サラエボ事件とは?】
サラエボ事件とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

とあります。ここで一つ疑問が浮かびます。

確かに、一国の国王の後継者夫妻が暗殺された・・・というのは一大事件かもしれません。
ですが、そんなたった一つの事件がなぜ第一次世界大戦にまでつながっていったのでしょう?

【第一次世界大戦が勃発した理由(Wikiより)】
当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。

しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

上記にある「当局」とは、「オーストリア当局」の事。恐らく警察の事と思われます。

ここで浮かぶ疑問点は二つ。なぜセルビア政府は暗殺者たちに武器を支給したのか。
そして、オーストリアとセルビアの対立に過ぎなかったはずの事件が、一体なぜ第一次世界大戦という大きな戦争にまで拡大したのか。この2点です。

地図としては、世界地図で見る世界史 というサイト様に掲載されているものがとてもわかりやすかったので、ここから持ってきます。

1900.jpg

最も大きい国がロシア帝国。その左下、南西側に「オーストリア・ハンガリー二重君主国」なるものがあって、その真南に、とても小さいですが「セルビア」という国が存在しますね。


調べてみると、どうもポイントとなるのが、サラエボ事件に於いて皇太子夫妻を暗殺した犯人であるガヴリロ・プリンツィプの出身地とその属性に在るようです。

改めて彼の出身とその属性を見てみますと、

「ボスニア出身のボスニア系セルビア人」

となっています。
つまり、ボスニア出身のボスニア系セルビア人がセルビア政府から武器を支給され、起こしたのが今回の事件だということです。

では、「ボスニア」とはどの地域になるのかというと・・・

【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
ボスニアヘルツェゴビナ

現在の地図にはなりますが、このあたり。
丁度セルビアと国境を接するあたりになります。

【中世のセルビア】
セルビア(中世)

また更に、こちらは中世の「セルビア」。
セルビアは、7世紀にこの地域にやってきて、この地域に於いて、6つの部族に分かれて生活していたのだそうです。

その6つの部族が以下の通り。

「ラシュカ」「ボスニア」「ドゥクリャ/ゼタ」「ザフムリェ」「トレビニェ」「パガニア」

これら6つの部族が時にくっついたり、時に独立したりを繰り返しながら、1171年、ついに統一され、「セルビア王国」として成立することになります。

そう。「ボスニア」とは、セルビア人の中の一部族の名称だったんですね。

ただ、「ボスニア王国」という国と「セルビア王国」という国の関係性はどうもよく分かりません。
Wikiで、「セルビア王国」についてのページを見ると先ほどの地図となるのですが、これをボスニア王国についてのページから見ると、

セルビア・ボスニア

こんな感じ。ピンクがセルビア、緑がボスニアです。
1184年当時の地図なのだそうですよ。

セルビアが統一された時期と符号が合いませんね。
このあたりははっきりとした理由が分かれば後日記事にできればと思います。

そして、この当時のボスニアは、「ハンガリーの支配下にあった」ともされています。
ボスニアがボスニア王国として独立するのは1377年のことです。


話が随分脱線してしまいましたが、肝心なのは、「ボスニア人は、元々セルビア人だった」というところです。

そんなボスニアとセルビアですが、セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。
ただ、これだけではセルビア政府がオーストリア皇太子暗殺を計画した秘密結社に対して武器を提供するまでのことを行ったりゆうとしては 少し弱い気がします。

この後、「バルカン戦争」なるものが勃発します。
どうもセルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます。

そこで、次回記事では、この「バルカン戦争」について記事にしたいと思います。


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