第84回 辛亥革命についてのあらすじ:清国の崩壊と中華民国の誕生~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事 第79回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか④~

今回は、いよいよ「辛亥革命」へとテーマを進めてみたいと思います。
辛亥革命についてまとめる前に、「義和団の乱」についても少しだけまとめてみたい思います。

第78回の記事で義和団の乱の主戦場となった「北京」の陥落までを、第79回の記事北清事変後に調印された北京議定書について触れたのですが、その間。北京が陥落してから北京議定書が調印されるまでの間のいきさつについて保管しておきます。

北京が陥落する直前、清の実権を握っていた西太后は、農民に扮して北京を逃げ出しています。
この時、幽閉していたはずの甥の光緒帝も連れ出し、西安にまで逃げ出しました。

逃走中、西太后はこれまでの姿勢を急転換し、義和団を「反乱軍」と認定し、これまでの義和団を支援する形から、突如弾圧する姿勢へと転換します。支持を受けたのが李鴻章という人物。

一方で「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」という支持も出します。
私の地位を保証さえしてくれるのなら、金に糸目を付けず、連合国との和議を図れ、と。

このことで義和団は清国をも敵に回すことになります。
一方でドイツからは更に数万にも上る援軍が派遣され、義和団は一掃されることとなります。

この時に見せた西太后の裏切りは、清国の民衆に対して大きな失望感をもたらしました。
一方で北京議定書によって課せられた多額の賠償金の負担を清国民衆に対して強いることとなり、合わせて民衆の清朝に対する不信感は極限にまで増大します。そんな中、にわかに民衆より注目を浴びるようになったのが、革命家「孫文」でした。

彼は1894年、ハワイにて清朝打倒を目指す革命団体「興中会」を結成した後、たびたび武装蜂起を起こすのですが、これはことごとく失敗。ただ、彼のこのような活動が当時の中国国内にて「革命の機運」を醸造していくこととなります。

後段では、改めて辛亥革命までの経緯を復習し、少しだけ日本と欧州との関係についても触れておきたいと思います。
その後、辛亥革命の経緯について掲載します。


「辛亥革命」までの経緯

突然「辛亥革命」という名称を持ち出されても、では一体それが何なのか、中国史に対してどのような役割を果たしたのか。
このことがまったく理解できないと思いますので、まずは「辛亥革命」の概略について話題を進めたいと思います。

改めまして、私が今回のシリーズを始めた理由の一つとして、「第二次世界大戦において、なぜ日本と中国は開戦に至ったのか」という疑問について検証したいと考えたことがあります。

第72回の記事にてお示しした動画で説明されている、「日本が第二次世界大戦開戦に至った理由」(具体的には第73回の記事にてまとめています)では、「日米開戦に至った理由」については説明できているものの、それ以前から戦争状態にあった「中国」となぜ開戦に至ったのか、この理由についてはまったく説明できていないことに対して感じた疑問が記事をスタートした理由であり、このことを見た人が、「ああ、だから日中は開戦に至ったのか」と、素直にうなずける理由がほしいと感じたのです。

もちろん、この時日本が戦っていた相手はシリーズにて延々とその歴史をたどった「清国」ではありません。「中華民国」なのです。(蛇足ですが、「中華人民共和国」でもありません)
「清国」が崩壊し、「中華民国」が誕生した原因となった事件が「辛亥革命」です。

第73回の記事の文末でも、一度今回テーマにする「辛亥革命」についてポイントを絞って記事にすることを宣言していますが、まずはこの革命が発生するに至った「背景」を検証しなければとてもこの「辛亥革命」について検証することはできない、との結論に至り、辛亥革命より「満州の歴史」について調査をすることとしました。

記事を作成した段階では、「え!?、なんでいきなり満州なん?!」という違和感満載の突入の仕方でしたが、いかがでしょうか。
シリーズを進めていくに至って、なぜ私が「満州」を調査したのかという理由はご理解いただけましたでしょうか。
整理しますと、
1.「満州」とは、中華民国ができるまで中国を統治していた「清国」の故郷である。

2.「満州」に住んでいた「女真族」が清国を設立し、後に「満州人」と名乗るようになった。

3.19世紀に入ると、「アヘン」と「キリスト教」を利用して、イギリスをはじめとする欧米列強が清国の弱体化を図った。

4.弱った中国に、圧倒的な武力をもって戦争を仕掛け、中国を「開国」させた。

5.時代の変化を読み切れなかった時の王朝は、先に近代化を果たした、「格下」であるはずの日本にまで敗れた。

6.日清戦争の賠償を欧米列強に対する「外債」で賄ったことから、清国は次々と領土を奪われ、欧米列強に植民地化された。

7.日露戦争においては自国領土であるはずの「満州」を、他国である日本とロシアの戦場にされ、いい加減清国民のフラストレーションはMAXに高まりつつあった。

ここまでが、清国において「辛亥革命」が発生し、清国が滅びるに至るまでの概略です。
これ以外にも、清国内において発生した「太平天国の乱」や「義和団の乱」など、まさに清国朝廷は内憂外患に晒され、その国力そのものがいかに弱体化の極みにあったことがわかります。

私は別に清王朝を取り分けて擁護するつもりもありません。
末期の清王朝、実権を握っていた西太后の権力への執着、そしてその余りにもの頑固さが清国を崩壊へと向かわせた直因であったことは否定できないと思いますが、本当に許さざるべきなのは清朝ではなく、「アヘン」や「キリスト教」を使って清朝、漢人や満州人の精神的な支柱そのものを破壊した欧州の列強国であったと思います。

彼らさえやってこなければ、清朝がここまでズタボロにされることはなかったでしょう。
同様のことは開国を迫られた「日本」についてもいえると思います。このことは、第66回の記事前段にてもお伝えした通りです。

もっと遡れば、安土桃山時代。織田信長の時代より日本に対しても、清朝がたどった道と同様の仕掛けが欧州より仕掛けられていました。豊臣秀吉の時代には、既にその危険性が認識され、秀吉により、「伴天連(バテレン)追放令」なるものが発令されています。

清国が崩壊していく経緯を見ればよくわかると思うのですが、「キリスト教」を、欧州の国々は一種の「軍事政策」として見事なまでに利用しています。アジア各国に対して、欧州はまず宣教師を送り込み、回収させることで、各国の中に「信者」を作り出します。
いうなれば、

「自分たちはヨーロッパの新しい、先鋭的な考え方を学んでいる。一刻も早くキリスト教の教えを他の国民にも普及させ、より理想的な社会を築くことが必要だ」

などという考え方に取りつかれ、いわば「反乱の芽」が醸造されることになります。例えば「太平天国の乱」のような反乱がおきたり、そのことで信者以外の国民との対立が深刻化し、「義和団の乱」のような反乱がおきることになるのです。

江戸時代末期の日本の惨状など、まさにそれを具現化したものではなかったでしょうか。
清王朝の崩壊は、このような欧州による植民地政策の延長線上にあったことを忘れてはならないと思います。

ちなみにこの「キリスト教」の部分を「マルクス主義」に置き換えてもまったく同じ理屈が成り立ちますね。

辛亥革命

さて。肝心の「辛亥革命」ですが、その発端は1911年10月10日、「武昌」という地域で起きた兵士たちによる反乱がその幕開けとなります。
日清戦争や義和団の乱にかかる莫大な賠償金や借金の返済のため、清朝は鉄道を国有化し、この利権を他国に貸渡すことでその返済に充てようとしていました。

このことに反発の強かった四川に清国政府は出兵し、ここで暴動が発生します。この暴動を鎮圧するため、清国政府はさらに軍隊を派遣。このことで手薄になった「武漢市武昌区」で計画されたのが「武昌蜂起」。辛亥革命の発端となった武装蜂起です。
蜂起を行ったのは1911年3月、武漢の軍隊の中で組織された文学社という組織と、1907年7月に東京で組織された「共進会」という組織。
辛亥革命の発端となった「武昌蜂起」は、軍人によって引き起こされた武装蜂起だったんですね。

ちなみに「武漢市」とはこのあたりです。
Location_of_Wuhan_Prefecture_within_Hubei_(China).png

この武装蜂起は成功し、11日午前、武昌全域が決起軍によって占領されます。そして、ここに設立が宣言されたのが「中華民国軍政府鄂軍都督府」。同時に国号を「中華民国」と改めることが発表されます。
ここに清朝政府はさらに軍隊を派兵するのですが、今ことによって他地域が手薄となり、中国18省中15省が清朝からの独立を宣言します。

この時、武昌に対して派遣された軍隊、「北洋軍」の中にいたのが「袁世凱」。朝鮮で起きた東学党の乱でも、日清戦争でも、義和団の乱でも登場し、清朝の側から見ると「大活躍」した人物です。

ちなみに義和団の乱のところで名前が登場した光緒帝は1908年に死去。光緒帝が死去した翌日には西太后も病死。
後を継いだのが宣統帝溥儀。あの「ラストエンペラー」です。
ダウンロード

即位したとき、溥儀はまだ3歳。世事の実権を握っていたのは溥儀の父親であり、光緒帝の弟であった醇親王という人物です。
醇親王は光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでおり、1909年、袁世凱は失脚させられます。

そんな袁世凱ですが、清は1911年10月4日、罷免され、病気療養中であったはずの袁世凱を湖広総督に任じますが、袁世凱は病気を理由に就任を固辞。さらに清朝は27日、袁世凱を欽差大臣任じ、北洋軍を率いて武漢攻略に着手させます。またさらに11月1日に袁世凱は内閣総理大臣に任命されるのですが、11月2日に漢口を攻撃したところで軍事行動を停止し、革命政府との講和協議をスタートします。
同26日、イギリス総領事館を通じて中華民国軍政府と各省の代表に対して停戦、宣統帝の退位を提示します。
そして、この時同時に自身の総裁(大統領)就任も申し出ているのです。

12月2日、イギリス駐漢口領事館の斡旋で革命軍と清朝の間で停戦協定が成立します。
同日、臨時政府組織大綱の制定を行うことが決定され、この時袁世凱を意向次第で臨時大統領に推挙することが確認されました。

12月25日、フランスのマルセイユから孫文が上海に帰国します。
孫文は革命をやりすぎて政府より追われる立場にあり、世界各国で逃亡生活を続けていたんですね。

フランスより帰国した孫文と袁世凱との間で選挙が行われ、翌年の元旦、孫文が南京において中華民国の成立を宣言し、初代臨時大統領として就任します。

辛亥革命のスローガンは孫文の主張である「打倒韃虜」。つまり、満州人から漢民族の手に国を取り戻すことにあったのですが、孫文は「漢満蒙回蔵諸民族による国家体制」を主張し、随分とトーンダウンしたイメージは受けます。この時点で、「漸く漢民族の手に国家を取り戻した」というところでしょうか。

孫文はさらに袁世凱に対し、「宣統帝の退位」を条件に、自らの臨時大統領の座を譲り渡すことを宣言します。
2月12日、宣統帝は皇帝の座を退位し、中国の政治は帝政から共和制府へと権限委譲が行われるのです。
清国は滅亡し、ここに、2000年以上続いた中国における「帝政」は終焉を迎えます。

退位後、孫文は辞表を提出、袁世凱が大統領として就任します。

さて。ここまでが「辛亥革命」のいきさつです。
随分とした「美談」に見えますが、このような経緯を経て誕生した「中華民国」が、その後日本と「日中戦争」を引き起こすまでに至るのです。

第二代臨時大統領として袁世凱が就任するのは時にして1912年2月15日。
果たしてこの中華民国は、一体どのような経緯を経て日本と対立するに至るのでしょうか。


このシリーズの過去の記事
>> 第79回 義和団の乱とロシア、義和団の乱と李氏朝鮮(崩壊するまでの清国④)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
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>> 第95回 辛亥革命後の中国と袁世凱(えんせいがい)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

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