第79回 義和団の乱とロシア、義和団の乱と李氏朝鮮(崩壊するまでの清国④)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<前回の記事 第78回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか③~

今回も引き続き「義和団の乱」について触れながら、義和団の乱後の社会情勢の変化にまで話題を進めていければと思います。

改めて、今回のシリーズの位置づけについて振り返っておきたいのですが、今回の記事は、第73回の記事においてお示しした、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)を起こした理由が、実は「きれいごとに過ぎないのではないか」という疑問。
これを解消するために作成しているシリーズです。

大東亜戦争において、日本が米英と戦争状態に突入する以前に、既に日本は中国(中華民国)との間で戦争状態にありました。
また、日本国内では、1936年に勃発した「2.26事件」の影響を受け、軍部が政治に介入する状態にあり、状況としては異常な状態でした。

このような異常な状態にあった日本国政府が引き起こした「大東亜戦争」は、本当に「やむを得ず起こした戦争」であったのか。
米英と開戦する前、なぜ日本は中国と戦争状態に陥ったのか。この二つの疑問を解消するため、まずは「日本と中国はなぜ戦争状態に陥ったのか」ということを解析することとしました。

次に「日本と中国はなぜ戦争状態に陥ったのか」という問題を解析する上において、頻繁にその舞台となる「満州」。では、そもそも「満州」とは何なのか。なぜこの地域で日中にロシアを交えた形での衝突が頻繁に起きるのか。このことを解析することにしました。

スタートした当初は大東亜戦争が発生する直前の満州について調査しようとしたのですが、どうもそれほど甘い話題ではないことに気づかされ、改めて「満州」そのものの歴史を調べることからスタートすることとしました。

詳細はカテゴリーをさかのぼっていただければと思うのですが、中国近代史への「キリスト教」の介入に原因の一つがあるのではないか、との仮説にたどり着き、その一つとして「義和団の乱」の経緯を調べているのが現段階です。

前回の記事では、義和団の乱の勃発~終結まで、その具体的な内容をお示ししました。
今回はさらに、その内容を検証し、深めていくことを目的としています。


本題に入る前に、改めて「満州」という地域に限定した「近代史」を少し整理してみます。

清国の領土である「満州」に、最初に介入したのは「ロシア」でした。

Manchuria.png

たびたびお示ししている地図ですが、
「アロー戦争」に於いて締結した「アイグン条約」において、ロシアはまず地図中赤色のエリア、「満州」のうち北半分。薄い赤色のエリアを清国から譲渡させます。

地図で見ればわかると思うのですが、領土は北海道の対岸で、これは当時の日本にとっても脅威だったと思います。

ちなみに、日本の浦賀にペリーが来航したのは1853年7月。
日米、日英、日露和親条約を締結するのが翌年の1854年。時期としてアヘン戦争終結とアロー戦争勃発の中間の時期に当たります。
日本(明治政府)が正式に開国を認めたのは1869年でアロー戦争から9年後のことです。

日露和親条約において、樺太には国境を設けないことがすでに決まっていましたから、北満州への進出は、当時の日本にとって、まさに「対岸の火事」でした。

朝鮮を舞台として「日清戦争」が勃発する過程においても、「露朝密約事件」が勃発する等、ロシアの朝鮮半島への関与がひたひたと足音を立てて近づいてきていました。

日本にとって、朝鮮半島の近代化は急務。一刻を争うそのような状況であったのだと思います。
清国とも、当初は朝鮮半島の近代化に強調して介入し、清・朝・日の三国が連携して欧米列強から東アジアを守る、そのような構想が練られていたのだそうです。

ところが、朝鮮内部での反乱やクーデターがたびたび繰り返され、清国の「属国」という立場に拘泥した朝鮮に振り回された挙句、ついに日清戦争開戦と相成りました。

Location-of-Liaodong-Peninsula.png

その結果、日本が清国との間に「1895年:下関条約(日清講和条約)」を締結し、勝ち取ったのがこちら、満州の一部である「遼東半島」。
この時、清国は同時に日本への多額の賠償も約束させられるのですが、この債務を清国は欧米列強よりの借金で返済。
同時に露仏独の三国は日本に対して遼東半島の清国への返還も迫り、日本は「臥薪嘗胆の思い」で遼東半島を中国に返還します。(1895年:三国干渉。当然日本ではロシアに対する反発が強まります)

ロシアはさらに賠償を引き受けたこと、遼東半島を日本から取り返したことを口実に、清国にさらに要求を突き付け、満州におけるロシアの権益、駐留を認めさせます。(1896年:露清密約)

次いで1900年勃発した義和団の乱において、ロシアは義和団の満州地域への派兵を口実に、満州全土を占領します。

ここまでが、義和団の乱が収束するまでの過程に於ける「満州」をめぐる近代史の流れです。

北京議定書

義和団の乱(北清事変)の収束に伴って、清国と清国が宣戦布告した8カ国との間で結ばれた条約が、「北京議定書(北清事変に関する最終議定書)」です。

北京議定書(Wikiより)

・義和団に殺害されたドイツ公使と日本書記官に対する清朝要路者の弔問と十分な賠償、さらに光緒帝本人の哀悼の意の表明。ドイツ公使に対する記念碑の建設。

・外国人殺害のあった市府は5年間科挙の受験を禁止する。

・清国の武器弾薬及び武器弾薬の原料の輸入を禁止する。

・清国は、賠償金として4億5000万両を銀で列国に支払う。この賠償金は年利4%とし、39年間の分割払いとする。

・各国公使館所在の区域を特に公使館の使用のみに充てる。この区域は、各国公使館の警察権下に属する。また、この区域内における清国人の居住を認めず、公使館を防御できる状況におく。

・大沽砲台および、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台をすべて撤去する。

・清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする。

・清国政府は、以下の上諭を各市府に向けて公布すること。

 1.排外的団体に加入することを禁止する。禁を犯すものは死刑。
 2.地方長官及びその配下の官吏は、自らの地域の秩序に責任があり。もし排外的紛争の再発その他の条約違反が発生し、その鎮圧をしなかったり犯罪者を処罰しなかったら、その官吏を罷免する。また、再雇用も恩典もその後受けることはできない。

・清国政府は、列国が有用と認める通商及び航海条約の修正ならびに、通商上の関係を便利にするための通商条項の内容の変更について今後検討する。

・総理各国事務衙門を廃止、外務部を新設する。なおその際、外務部を六部の上位とすること。

・ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、ベルギーの天津租界の設定。

このうち、

『清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする』

という条項に基づいて、8カ国は中国国内に、自国軍を駐留させることとなります。
これは日本も例外ではなく、天津に「清国駐屯軍(後の支那駐屯軍)」を駐留させます。

この支那駐屯軍が後の「盧溝橋事件」へと関わることになります。

ちなみに
565px-China_Tianjin.png
天津はこちらです。
Manchuria.png
満州はこちら。
どれだけ近くにあるのかということがよくわかります。

黒竜江(アムール川)事件

さて。清国が宣戦布告をした8か国のうち、北京に向かった7カ国とは別に、自国の権益拡大を目的とし、一国だけ別の動きをした国がありました。それが、「ロシア」です。

他国が北京で公使館に取り残された人々を救出するために進軍する中で、ロシアが「満州」全土を占領したことは先述した通りです。その直前。アイグン条約において、「清国領」とされた「江東六十四屯」地域に、ロシアが攻め入りました。

この時のロシア軍のやり方は、江東六十四屯地域に居住するすべての清国人を滅ぼし、この地域に誰もいない状態にして占領する・・・という空恐ろしい方法を用いたのだそうです。
この時に虐殺された清国人の数はなんと2万5千人。あくまでも中国領土内で起きた事件ですから、その数字にどこまでの信ぴょう性があるのかはさておき、それでも六十四屯地域に住む清国人は一掃され、だれも住む者のいなくなった地域はロシア人によって占領されました。

この事件は、日本人をも畏怖させます。1902年には清国とロシアとの間で満洲還付協約が結ばれ、「東三省」、すなわち
Manchuria.png
こちらの地図の南東側。濃い赤色とその左側のエリア。ここからロシア兵を段階的に撤退させることが約束されるのですが、ロシアはこの約束を守りません。

1903年4月には、逆に清国に対して、ロシア兵を撤退さえるための条件が次々と突きつけられるようになり、1904年、ついに日露戦争が勃発することになります。

「李氏朝鮮」という弊害

日清戦争後、日本によって強制的に清国から独立させられた朝鮮国、李氏朝鮮ですが、なんと今度は清国からロシアになびきます。

元々親日家であり、日本の指導の下、朝鮮半島の近代化を図ろうとしていた開化派、金玉均が、当時の朝鮮政権の中心にいた閔妃(みんぴ)の刺客により暗殺され、閔氏に不満を持っていた「東学党」による武力蜂起、『東学党の乱(甲午農民戦争)』が勃発します。この時、閔氏は清国に助けを求めました。

このことが「日清戦争」を引き起こす原因となったのですが、日清戦争が勃発する2日前、、日本は李氏朝鮮の景福宮を占領し、この時の国王である高宗に代えて前国王である興宣大院君再び国王に据え、開化派である金弘集政権を誕生させます。

日清戦争は日本の勝利に終わるのですが、三国干渉により日本が劣勢に立たされると、閔妃はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、政権を奪還します。(1895年7月6日)

このことで閔妃ら親露派の一派と開化派勢力・日本との対立は決定的となり、1895年10月8日午前三時、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮(朝鮮の王宮)に突入、騒ぎの中で閔妃は切り殺され、死体は焼き払われます。

その後日本と朝鮮との関係はほぼ正常化され、戦場は朝鮮半島から満州へと移ることになります。
国号も李氏朝鮮から大韓帝国へと改められ、1910年、大日本帝国に併合され、後は「大日本帝国」の領土として存在することになります。

ちなみに閔妃が嫁いだ相手、高宗は大韓帝国成立後も日本の事実上の支配下にあるとはいえ、皇帝としての座に君臨し続けました。
彼はそれでも自身の「復権」を狙い続け、1907年に「ハーグ密使事件」という事件を起こします。
1907年、オランダハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を送り、国際社会に訴えることで自国の主権を回復しようとしたのです。三人の密使を送るのですが、大韓帝国の外交権を持っているのは大日本帝国であることを理由に拒絶され、彼らは会議に参加することすらできませんでした。

彼らがやむなく行ったのは現地でのビラ撒きや講演会。
彼らが行ったのは、今でいう「ロビー活動」。国際社会の世論に訴えようとしたんですね。
やることが今も昔もまったく変わってません。

このような過程を見ると、はっきり言って朝鮮がもっとしっかりしていれば、日清戦争が起きることも、日露戦争が起きることもなかった様に思えてなりません。清国がボロボロにされていった経緯については理解できないこともないのですが、この朝鮮の、特に支配者層のあり様は、あまりにひどすぎる気がします。

併合せず、放置していたら日露戦争後も一体どうなっていたのかと考えると、本当に空恐ろしくなります。

さて、次回はいよいよ清国が崩壊する直因となった「辛亥革命」。これを追いかけることで日露戦争後の中国について調べてみたいと思います。


このシリーズの過去の記事
>> 第78回 「義和団の乱」とはどのような事件だったのか?(崩壊するまでの清国③)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第84回 辛亥革命についてのあらすじ:清国の崩壊と中華民国の誕生~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

露と日本の関係性ですが、ピョートルの南下政策と日本への露寇、松前事件等から見られると、弱冠、日露の関係が深くなるかと\(^.^)/
かっ at 2016/08/27(土) 19:56 | URL

> 露と日本の関係性ですが、ピョートルの南下政策と日本への露寇、松前事件等から見られると、弱冠、日露の関係が深くなるかと\(^.^)/

ふむふむφ(..)
一通り記事が落ち着いたら調べてみますね(*^^)v
nonkinonki at 2016/08/29(月) 11:01 | URL

URL:
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