第78回 「義和団の乱」とはどのような事件だったのか?(崩壊するまでの清国③)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<前回の記事 第77回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか②~

今回の記事は、前回に引き続き「義和団の乱」についての記事です。

前回の記事では、義和団の乱が発生する前提として、

・日清戦争敗北による賠償金を外債発行により賄ったこと。
・このことにより、清国の様々な地域が事実上植民地化されてしまったこと。
・ドイツが山東省を植民地化する前提として、山東省においてドイツ人宣教師殺害事件、カトリック教会襲撃事件が発生したこと。
・山東省で生まれた「義和団」が、袁世凱により弾圧され、義和団の乱が発生した北京とその周辺地域へと移動したこと。

という4つの前提をお示ししました。
また、第76回の記事でもお示した様に、義和団の乱が発生する前提の中に、キリスト教を布教しようとする欧州人の、地元の風習や慣習を無視した横暴なふるまいもありました。

このような前提の下発生したのが「義和団の乱」です。

ちなみに、清国が日本への賠償を外債で賄った、という話は、第74回の記事でも少し触れていますね。
この時は、ロシアが肩代わりしたと記しましたが、肩代わりした国はロシアだけではなかった、ということですね。

今回の記事は、ロシアが清国と結んだ「露清密約」。この密約が締結されたのは1896年6月なのですが、ロシアが満州に駐留するようになった経緯には、さらにその事後談があったようですので、ここにも触れておきたいと思います。



Wikiで見ますと、義和団の乱が発生した年月日は1900年6月20日とされています。

565px-China_Beijing.png
こちらは北京。
565px-China_Tianjin.png
こちらは天津。
China-Shandong.png
こちらが山東省です。

袁世凱の弾圧に会い、山東省から流出した義和団は、この北京と天津の間の地帯に集結したのだそうです。
その数は実に20万に上るのだとか・・・。なんでも誇張して表現したがる中国の数字だけに、うのみにするのは危険ですけどね。

さて。北京と天津の間に集結した20万に上るという義和団ですが、6月10日。ついに北京へと攻め込み、あっという間に包囲してしまいます。そしてこの時、彼らによって殺害されたのが日本公使館書記官の杉山彬という人物とドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーの両名。

両名が殺害されたのが6月20日で、Wikiはこの日を「義和団の乱勃発の日」としているようです。
戊戌の政変により光緒帝を失脚させ、政治の実権を握っていたのが西太后。彼女はこの翌日、なんと「北京に公使館をおく列国」、すなわち

・イギリス
・アメリカ
・ロシア
・フランス
・ドイツ
・オーストリア=ハンガリー
・イタリア

の7か国。これに加えて

・日本

の計8か国に対して宣戦布告を行います。

この時、既にイギリスを中心とする2000の援軍が北京城に向かっていたのですが、北京と天津を結ぶ鉄道を義和団が破壊したことにより、援軍には北京救援の道を断たれていました。北京城内の公使たちは完全に退路を断たれていることもあり、清国は「北京決戦」にかけたのだと思います。


柴 五郎

この時、北京の外国人公使館区域には925名の外国人、約3000人ほどの中国人クリスチャンがいる中で、各公使館の護衛に当たれる戦力は481名に過ぎなかったのだそうです。

このうち日本の義勇兵は25名。この義勇兵を指揮したのは柴 五郎 中佐。同年3月に北京に派遣され、公使館の護衛に当たっていた人物です。
北京政府からは宣戦布告され、周囲を義和団に包囲される中で、完全に8か国の公使館は孤立状態に立たされた中、活躍したのがこの柴中佐だったのだそうです。

Shiba_goro_2.jpg

「能弁は銀、沈黙は金」といいますが、孤立状態にあり、パニックを起こす8か国の人々の中にいて、ただ一人柴五郎だけは寡黙であったのだそうです。
彼のその落ち着いた雰囲気が、やがて周囲を安心させ、やがて彼は信頼を集めるようになります。

彼は語学も堪能で、領内に取り残されていた中国人だけでなく、各国の公使とも意思の疎通を行うことができ、その人柄と共に、彼の下には「情報」が集まってくるようになります。

彼の指揮する25名の日本軍が中心となって55日間、8月14日、8か国の連合軍により北京が陥落するまでの間、押し寄せる20万の義和団の猛攻から最後まで公使館区域を守り抜きました。
籠城組全体の指揮者はイギリス公使であるクロード・マクドナルドでしたが、事実上の総指揮を担ったのが柴五郎でした。

柴をはじめとする日本軍は、他のどの国の兵士にもまして勇敢で優秀だったのだ、とのこと。
特にイギリスからの評価は高く、このことが、後々の日英同盟にもつながることになります。

もし柴がいなければ、義和団の乱における清国(西太后)の目論見は達成され、公使館の外国人たちは全滅させられていたのでしょうね。

「日本」と「ロシア」

義和団の乱において清国より8か国に対して宣戦布告がなされたとき、日本とロシア以外の諸外国は、世界各地で戦争状態にあり(イギリス=ボーア戦争、アメリカ=米比戦争等)、充分に派兵できる状況にはありませんでした。このことから、連合国軍中、最も多くの派兵を行ったのはこの2国。

ですが、ロシアは義和団が満州地域まで進出してきた際、義和団を掃討する名目の下、満州地域に派兵を行い、満州全土を占領してしまいます。このことが後の日露戦争の一つの原因となりました。

この当時の清国に、当然ロシア兵を満州から追い払う余力はなく、その役割を果たしたのが日露戦争に勝利した日本軍です。
この当時の清国とロシアの間には「日露密約」しか存在せず、公的にはロシアが清国に進駐する建前などまったく存在しませんでした。

一方の日本軍を指揮したのは福島安正少将。
イギリスからの再三の要請に応じて、応援部隊として派兵された彼の活躍で連合国軍は天津を占領します。
その後、やはり日本軍を中心として北京を陥落するのですが、その後、連合軍は国ごとに分かれて北京を占領します。

天津にしても北京にしても、ヨーロッパ列強国の兵士たちは占領地域の住民に対する略奪や放火、強姦などを平気で行っていたのだそうです。
ところが、日本兵はまったくそういったことをしない。籠城中も、とても規律が保たれており、占領後もすぐに治安が回復し、日本軍は市民から大歓迎されたのだそうです。

一方、ロシアに占領された区域の状況はとても悲惨で、保護を求めて日本の占領区に続々と逃げ込んできました。
この時軍を指揮していたのが柴五郎で、彼が帰国する際は、町全体が別れを惜しんで大騒ぎになったのだそうです。

次回記事では、この「義和団の乱」について、もう少し深めてみたいと思います。


このシリーズの過去の記事
>> 第77回 義和団の乱とはなぜ起こったのか?(崩壊するまでの清国②)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第79回 義和団の乱とロシア、義和団の乱と李氏朝鮮(崩壊するまでの清国④)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]