第77回 義和団の乱とはなぜ起こったのか?(崩壊するまでの清国②)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<前回の記事 第76回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか①~

前回の記事より、特に清国末期に時代をフォーカスし、日清・日露戦争前後の清国が、一体何をしていたのか。
このことについて検証をスタートしました。

前回掲載した年表のうち、アヘン戦争勃発後の年表をもう一度掲載してみます。

1842年 アヘン戦争終結。不平等条約「南京条約」締結
1851年 清国内で結成されたキリスト教集団「太平天国」により、「太平天国の乱」が勃発
1856年 アロー戦争勃発
1858年 ロシアとの間で不平等条約「アイグン条約」締結。ロシアに北満州を譲渡
1858年 英仏連合軍により広州が占領され、更に北上し天津が制圧される。英仏米露との間で「天津条約」が結ばれる。
1860年 アロー戦争終結。英仏との間で不平等条約である「北京条約」締結。清国内でのキリスト教の布教活動が自由化される。
1863年 太平天国の乱収束
1894年 日清戦争勃発
1895年 日清戦争終結。日本との間で(清国にとっての)不平等条約、「下関条約」が締結される。
1904年 日露戦争勃発
1905年 日露戦争終結。日露間で、ロシアにとっての不平等条約、「ポーツマス条約」が締結される。

前回の記事で掲載した「義和団の乱」。これが発生したのは1900年6月。翌年9月まで継続します。
時期的には、日露戦争が勃発する4年前~3年前に起きた事件ですね。

それではこの「義和団の乱(北清事変)」とは、一体いかなる過程の中で勃発したのでしょうか。今回の記事は、この「義和団の乱」にフォーカスして記事を作成したいと思います。


日清戦争敗戦がもたらしたもの

今回の記事は、1895年。「強国」であったはずの清国が、日本にあっさりと敗北してしまった「日清戦争」。その講和条約である「下関条約」の内容からスタートします。

下関条約(主な内容:Wikiより)

・清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)

・清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)

・清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)

・割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)

・清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)

・日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)

・清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)

・清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)

・条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)

・条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)


問題となるのは、このうち上から3つ目。

・清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)

という項目です。ちなみに「テール」というのは当時の清国の銀貨の通貨単位で、「両」と表現します。
清国の通貨単位「両」をイギリスでは当時「テール」と呼称していたことにこの名称は由来します。

当時の日本の通貨で約10銭になるのだそうです。

ちなみに2億テールとは日本円に換算すると約3億円。当時の日本の国家予算が8千万円とのことですから、この「2億テール」という金額がどれほど莫大なものかということが分かります。

当時の清国には当然日本にこれだけの賠償金を支払う余力はありません。
清国は、2億テールという賠償金を「外債」。つまり、外国からの借金(借款)によって賄いました。

清国にお金を貸したのはドイツ、イギリス、ロシア、フランスの列強四か国。
このことが、後の清国の立場をより脆弱なものとしていくきっかけとなりました。

この借款を裏付けとして、列強国は中国国内における鉄道の敷設権や鉱山の採掘権を獲得します。
また、一方で列強国から中国から土地を「租借」という形で奪い取り、事実上の植民地化していきます。

このような中で、ドイツがその権益を認められたのが「山東省」という地域です。

China-Shandong.png

義和団の乱は、この「山東省」を舞台に繰り広げられます。

戊戌の政変

日清戦争に敗北した中国は、自国がいかに世界の発展から取り残されていたのかということを実感し、近代化の必要性をひしひしと感じるようになります。
当時の清国の皇帝は光緒帝。即位したのはなんと4歳の時。
日清戦争が勃発した時が丁度二十歳ですね。

幼少であった光緒帝の代わりに政策を取り仕切ったのが前々帝咸豊帝の妃であった西太后
咸豊帝の死後、自身の息子である同治帝が皇帝となったときに、「摂政」としてその実権を担ったのが彼女です。

同治帝は18歳で急死したため、甥である光緒帝が即位。前帝同治帝に引き続き、西太后は摂政として実権を担います。

光緒帝が17歳になり、自身で親政を行うようになると、西太后は一旦政治から身を引きます。
光緒帝は、日清戦争の敗北後、清国の近代化の必要性を痛感し、役員登用試験「科挙」の改革や、これまで儒教を専門的に学んできた教育機関で同時に西洋学を学ぶ様にしたり、その他にも様々な改革を実施します。
これを、『戊戌の変法』というのですが、これに反発したのが政治から身を引いていたはずの西太后と、彼女を支持する宮中の保守派官僚たち。

このことが、改革にとっての障害となったため、光緒帝が頼ったのが「袁世凱」という人物。後の「辛亥革命」で中心的な役割を果たす人物です。

光緒帝は、袁世凱の力を借り、西太后を西山の離宮に押し込めるクーデターを計画するのですが、袁世凱の裏切りに会い、光緒帝は逆に幽閉されてしまいます。

このことで、光緒帝は実権を失い、西太后が再び政権の中心に返り咲くことになります。
この事件が起きたのが1898年。この事件のことを「戊戌の変法」といいます。

山東省における「ドイツ」

「義和団の乱」が勃発する山東省と、政権の中心地、「北京」を比較してみます。
565px-China_Beijing.png
China-Shandong.png

上が北京、下が山東省です。
こうしてみると、それほど距離が離れてはいないことに気づかされますね。

この「山東省」という地域がどのような地域であったかというと、中国にとっては学問の中心ともいえる「儒教」。この儒教の始祖である「孔子」がの出身地です。

ドイツは中国にキリスト教を布教していく上で、この「山東省」という地域は、戦略的にも重要な地域だと考えていました。
儒教発祥の地にキリスト教を布教することで、ドイツは中国人の精神そのものを支配しようと考えていたのでしょうか。

しかし、これは当然地元の中国人の反発を引き起こします。大刀会という武術集団数人が山東省曹州府にあるカトリック教会を襲撃し、ドイツ人神父2名を殺害。この直前には梅花拳という拳法の流派が約三千名で同じ曹州府にあるカトリック教会を襲撃する事件が発生しました。

共に、教会建設にあたる土地争いが原因で、一般民衆が助けを求めたことが原因なのですが、このことを口実に当時のドイツ帝国は山東省に派兵。膠州湾を占領します。
清朝との間で外交折衝が行われ、ドイツは22万両の賠償金を獲得し、済寧など3ヶ所に教会を建設。

更にドイツと清国の間で独清条約が結ばれ、ドイツは膠州湾を租借。鉄道建設権と鉱山の採掘権を手にします。

この時、ドイツ教会を襲撃した梅花拳の流派は、今回の事件で梅花拳の名声に傷がつくことを避けるため、「義和拳」と改名します。

義和拳には、母体となった梅花拳の流派だけでなく、他の反キリスト教グループも結集し、やがて「義和団」と呼ばれるようになります。

1989年、山東省に赴任したのはあの袁世凱。彼によって山東省の義和団は弾圧されるのですが、弾圧された義和団は山東省以外に流失します。

そして、北京周辺にまで流出した義和団によって引き起こされたのが今回のテーマである「義和団の乱」です。

次回記事では、義和団の乱勃発後、これが終結されるまでの経過と終結後の様子までを含めて記事を作成したいと思います。


このシリーズの過去の記事
>> 第76回 日露戦争時の中国政府(崩壊するまでの清国①)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第78回 「義和団の乱」とはどのような事件だったのか?(崩壊するまでの清国③)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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