第74回 『満州』とは?その意味や位置・歴史を検証する~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<前回の記事 第73回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか②

前回に引き続き、今回のテーマは

「前シリーズである「『右翼』と『左翼』」の中で、日本における「右翼」を追いかけていく中で生じた疑問。日本は本当に「やむを得ず」戦争に巻き込まれたのか。このことに対して沸き起こった疑問。」

これを解消することが目的です。

「大東亜戦争」の発端は米英との開戦(真珠湾攻撃)がその発端である、とはされているものの、それは米英との開戦がそうだっただけであり、この時すでに日本は中国(当時の『中華民国』)と戦争状態にあり、米英との開戦時の内閣である東条英機内閣は、「日中戦争も含めて大東亜戦争である」と閣議にて決定しているわけです。

日本が米英との開戦に至った経緯は「ブロック経済」→「ABCD包囲網」→「ハルノート」の経緯で説明できるかもしれません。
では、「中国」は? 例えば上記開戦に至った流れの中にある「ABCD包囲網」。ここには「C」、つまり「China(支那=中華民国)」が含まれているのです。

Aはアメリカ、Bはイギリス、Dはオランダ。1941年(昭和16年)12月8日、「米國(国)及英國(国)ニ對(対)スル宣戰(戦)ノ詔書(つまりは米英に対する宣戦布告)」によって対米英戦争が勃発した後、12日には「支那事変(日中戦争)」も大東亜戦争に含めることに閣議決定。そして翌年1月11日にオランダに対しても正式に宣戦布告が行われ、大東亜戦争とはすなわち「米英蘭蒋(蒋介石)」に対する戦争であることが決まったわけです。
見事、「ABCD包囲網」を構成する国々ですね。

では、そもそもなぜ日本は当時の中華民国と戦争状態に陥ったのか。当時の中華民国と米英、そして蘭はどのような関係性にあったのか。これが今回のシリーズで突き詰めたいと考えている内容です。





こちらは、「満州」で、前回の地図とは違ってWikipediaから拝借した地図です。
赤く色づけされたエリアが「満州」です。地図上の左側。濃い赤で色づけされた部分が現在は中国。
右側、淡い赤で色づけされた部分は現在はロシアです。

前回の記事では、メインタイトルである「大東亜戦争」を検証するうえで、日本と中国の関係性を図る指標として、「辛亥革命」に着目することを示していましたが、どうも情報をわかりやすく整理しようとすると、この「満州」という地域について詳しく調べていくことが、一番早いのではないか、という結論に至りました。

『満州』の歴史

では、この「満州」という呼称。いったい、なぜこの地域は「満州」と呼ばれるのでしょうか。
今回のテーマである「大東亜戦争」。この大東亜戦争の発端となった「盧溝橋事件」。その舞台となったのがこの「満州」なのですが、このとき日本が対立していた相手は「中華民国」。つまり、「中国」です。

現在の中華人民共和国とはまた別の国にはなりますが、この「中華民国」は、「辛亥革命」という、当時の中国で起きた「民主主義革命」によって、それまで中国の領土を統治していた「清」という国が滅ぼされたことによって誕生しました。

「満州」とは、「清」という国を設立した民族が、「清国」を設立する以前、自分たちのことを「マンジュ」と名乗っていたことに由来します。「満州」とは、この「マンジュ」という呼称に対する当て字です。

清国は元々「アイシン」という国号で、アイシンとは、満州の言葉で「金」を意味します。
自分たちのことを初めて「マンジュ」と呼称した、「金国」の創始者、「ヌルハチ」。彼は「女真族」という民族の出身で、女真族の中で、「愛新覚羅(アイシン=ギョロ:アイシンカクラ)」という姓の一族の出身でした。

彼が「アイシン国(金国)」を名乗ったのは、つまり自分の一族の姓を国号に充てたわけですね。
ちなみに清国の前の中国の国号は「明(みん)」。ヌルハチは、「明」から、この「女真族」が居住する地域の統治を任され、当時4つの民族に分かれて抗争を繰り広げていた女真族全体を統一します。

この当時、ヌルハチは自分たちの勢力を「マンジュ(満州)」と呼称しており、統一後、この地域全体を「マンジュ(満州)国」と呼称するようになりました。

のちにヌルハチの後を引き継いだホンタイジが、正式に自分たちの民族名を「女真」と呼ぶことを禁止し、正式に「満州」と名乗るようになります。満州とは即ち、清国を設立したヌルハチの出身民族である「女真族」が明国より統治を任され、居住していた地域のことです。

ホンタイジは1636年、明の前身である元の末裔であるモンゴル民族から『大元伝国の御璽』を譲り受け、更に漢民族からも推戴を受け、「皇帝」の座に即位します。
このとき、国号も「金」から「清」に変わりました。

順治帝による北京攻略によって明を滅ぼし、中国全土を支配した「清」でしたが、19世紀。中国はついに「西欧」と接触することになります。
当時インドを植民地として支配していたイギリスは、インドで栽培した「アヘン」を、中国に密輸します。「アヘン」は中国を堕落させ、これを食い止めるため清国はアヘンの輸入を禁止し、イギリスより派遣された外交官、チャールズ=エリオットが逃げ込んだマカオを武力によって封鎖し、さらに井戸に毒を巻いてイギリス人を毒殺しようとします。



上記地図中、左上。黒枠で囲まれたエリアを拡大したのが地図の全体像。この全体像のうち、緑色に色付けされているところが「マカオ」です。
このことを皮切りに繰り広げられた戦争が「アヘン戦争」。(補足:アヘン戦争が勃発したのは1840年です)
当時産業革命を経て大幅に軍力が拡大されていたイギリスに、当時の清国が勝てるわけもありません。

清国はイギリスとの間で不平等条約、「南京条約」を結びます。
驚いたのは、この時まで中国が「広東システム」という貿易方法を採用しており、「広東(広州市)」以外では他国との貿易を行っていなかったということ。そう。まるで日本における長崎の「出島」のような役割を「広東」という地域が果たしていました。中国も事実上の「鎖国」政策をとっていたんですね。



こちらが広東です。
清国は南京条約によってこの「広東システム」を廃止させられます。広東以外に5港開放させ、ここでも貿易が行えるようにします。
この時にさらにイギリスに割譲させられたのが「香港」。これ以降、香港はイギリス領となります。

ただ、この時点ではまだ「中国」も精神的に完全にイギリスに乗っ取られたわけではありません。
「清国」そのものが満州人。つまり漢民族以外の民族であり、中国人にとっては「外敵」であったこと。イギリスも、そんな満州人と同じ「外敵」程度にしか中国人の目には映っていなかったのです。

しかし、そんな中国に対して再度イギリスが仕掛けた戦争が「アロー戦争(第二次アヘン戦争)」。(補足:アロー戦争が勃発したのは1896年です)
香港より中国本土に対してアヘンを密輸しようとしていたイギリス船籍の密輸船「アロー号」。乗員は清国人だったのですが、憲兵がこの清国人を海賊容疑で逮捕します。

これを不当であるとしてイギリス側が中国に仕掛けた戦争が「アロー戦争」。また、中国国内で起きた「フランス人宣教師殺害事件」を口実に、フランスもアロー戦争に参戦。

当然の様に清国は敗北し、英仏に対して「天津条約」という不平等条約を結ばされます。
北京に外国の公使を常駐させること。清国が禁止してきたキリスト教の布教を認めること。外国人が港以外の中国国内でも商売がや布教ができるようにすること。貿易港を増やすこと。そして賠償金の支払い。

この条約を不服とした中国人によるイギリス人への発砲事件が起こり、再び開戦。
英仏は北京を占領し、清朝を屈服させます。この結果結ばされた条約が「北京条約」。

北京条約では、
・天津条約を実施すること
・天津港を開放すること
・賠償金を支払うこと
・移民を認めること

フランスに対しては清朝が没収したフランスの教会財産を返還すること。
イギリスに対しては九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲すること

をそれぞれ認めさせます。
また、これに乗じてアロー戦争に参戦したロシアに対しては、



満州より、上記地図上で、薄い赤色の部分を割譲することを約束させられます。
その後もロシアの南下政策により北側の国境以南の地域を支配、割譲されれ、イギリスからはインドシナ半島側から南側国境に近い地域を植民地化され、日本は琉球を併合。(補足:アロー戦争が終結したのは1860年、琉球が日本に併合されたのは1879年です。)

朝鮮半島では日本との間で巻き起こった日清戦争に敗北し、朝鮮半島の独立を認めさせられます。(補足:日清戦争が勃発したのは1894年、終結したのは1895年です)
この時結ばれた「日清講和条約」。この中で、清国は日本に遼東半島を割譲し、多額の賠償金を支払うことを約束させられるわけですが、


こちらが遼東半島です。

ここを日本に奪われることを潔しとしないロシアは、イギリス、フランスと共に圧力をかけてこの遼東半島を返還させます。
またさらに清国が背負った賠償金を肩代わりし、その代わりにロシアの満州での駐留や権益拡大を認めさせられます。(露清密約)

密約の主な内容[wikiより]

日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。
締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。
戦争の際には、清の港湾は全てロシア海軍に開放される。
ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。鉄道の建設と経営は、華俄道勝銀行=露清銀行が引き受ける。
戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。
この条約は15年間を有効期限とし、期限満了の前に双方は条約を継続するか協議する事ができる。
これらの内容は1922年のワシントン会議の席上で中華民国の代表からその存在が初めて発表された。


この密約を根拠にロシアは満州に軍隊を駐留させ、このことに脅威を抱いた日本がロシアに対して「日露戦争」を仕掛けた・・・という流れですね。(補足:日露戦争が勃発したのは1904年です)

戦争に勝利した結果、日本がロシアと結んだ条約の中に、ロシアが満州から撤退することと、
・ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。
・旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。
・ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。
・満州横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。

という、満州における日本の権益に関する条文が記されていたわけですね。

さて。この、「満州」というエリアに関する権益争い。日本とロシアの間で繰り広げられていますが、実はこの地域、日本のものでもなく、ロシアのものでもなく、「清」という国号の中国の領土です。

日露戦争が始まったのが1904年2月8日。終結したのが 1905年9月5日です。
では、この期間、肝心の「清国」はいったい何をしていたのでしょうか。

日清戦争後から日露戦争、そしてその終結後にかけての「清国」の動きに焦点を絞って次回記事は掲載してみたいと思います。


このシリーズの過去の記事
>> 第73回 十五年戦争の原因を検証する~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第76回 日露戦争時の中国政府(崩壊するまでの清国①)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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