第66回 日本における「左翼」など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。


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さて、今回のシリーズテーマ、「右翼」と「左翼」

元々は、
現在の日本において、「右翼」というと、どちらかといえば軍国主義的者なイメージが、「左翼」というと「共産主義者」、または「社会主義者」というイメージが、いったいなぜ植え付けられたのか、という疑問からスタートしました。

日本における「左翼」

日本における「左翼」の歴史を振り返ると、いわゆる日本の「開国」により、日本人が多く海外へ渡航し始めたことに由来するようです。
振り返ってみると、江戸時代の農民による「一揆」や幕末の「尊王攘夷運動」、そして開国後の「自由民権運動」などは、欧州でいわゆる「プロレタリアート」たちが行った市民革命と近しいものがあるのかもしれません。

また、ペリーが来航し、日本が外敵からの脅威に晒されるまでは、江戸幕府の「封建体制」はうまくいっていたわけですし、欧米人たちが余計な思想さえ持ち込まなければ日本が開国する必要性すらなかったわけです。

佐幕派、討幕派に分かれてすさまじい流血戦を繰り広げる必要もなかったわけですし、果ては日本が「第二次世界大戦」という世界規模の戦争に巻き込まれることすらなかったでしょう。

もっと遡ると、安土桃山、織田信長の時代に、「フランシスコ=ザビエル」が日本に到来し、キリスト教的な思想を日本に持ち込んだ後、秀吉、家康、秀忠、家光の4代にわたってキリスト教を排斥し、「鎖国」体制を完成させなければ、江戸幕府が300年の繁栄を築くことはなかったでしょう。
その思想を国内に招き入れたとたん、佐幕V.S.倒幕という国家を二分する戦争にまで発展したわけです。


「左翼政党」の誕生

日本で「左翼」が誕生したのは日清戦争後。
「士農工商」といういわゆる階級制度が廃止され、代わりに「経営者」と「労働者」という「格差」が誕生します。
ここにフランスやドイツ、アメリカなどで思想を勉強した「社会主義者」たちが「権利」という思想を教え、「労働組合」という組織を誕生させます。

日本に持ち込まれた「社会主義」には2種類あったようで、一つが「マルクス主義」の考え方に基づく、いわゆる「革命」によって社会形成を成し遂げる「マルクス主義型」の社会主義。
もう一つは、革命ではなく「愛と奉仕」によって労働者たちを教育し、社会環境を改善しようとする「キリスト教社会主義」。

現存する国際的社会主義組織である「社会主義インターナショナル」はこの「キリスト教社会主義」との結びつきが強いようです。

1901(明治34)年、日本で初めての社会主義政党となる、「社会民主党」が誕生します。
この政党の「綱領」は以下の通りです。
1、人種の差別、政治の異同にかかわらず、人類は皆同胞たりとの主義を拡張すること。
2、万国の平和を来すためにまず軍備を全廃すること。
3、階級制度を全廃すること。
4、生産機関として必要なる土地および資本をことごとく国有とすること。
5、鉄道、船舶、運河、橋梁のごとき交通機関はことごとく公有とすること。
6、財富の分配を公平にすること。
7、人民をして平等に政権を得せしむること。
8、人民をして平等に教育を受けしめるために国家は全く教育の費用を負担すべきこと。

(引用日本社会主義運動の前史、平民社活動史

これは、ドイツ社会民主党の綱領を参考にして作成されたのだそうです。
らしい、といえばらしい内容ですね。まるで現在の日本のどこぞの政党の主張を聞いているようです。

ですが、この社会民主党。なんとたった2日で「禁止」され、解党させられます。
当然といえば当然。当時の国際社会、国際状況において「武力を放棄せよ」とは、他国に「どうぞ乗っ取ってください」と言っているようなもの。
また、資産をすべて国有にせよというのは、あくまで性善説にのっとった、「政府が悪いことをするはずがない」という思想に基づいた考え方です。そんなわけありませんよね?

「日本社会党」の誕生

1906年には、さらに「日本社会党」という名称の政党が誕生します。
ところが、この「日本社会党」。少しずつマルクス主義的な「直接行動」。つまり「革命」を主張するようになります。

ときの政権、西園寺内閣は、「社会主義思想も時の風潮である」と考えて政党として認めたわけですが、ある意味これを裏切ったような感じですよね。

この「直接行動論」を訴えたのは、米国から帰国した「幸徳秋水」という人物。
彼が訴えたのは、「第二インターナショナル」の「修正主義」と呼ばれる思想の限界であったようです。

「マルクス主義」とは、元々「プロレタリアートの暴力」によってのみ革命は成し遂げられるという主張であり、「修正主義」とは、そのマルクス主義の「暴力的な要素」を否定したものです。

これが、そもそもの「共産主義」と「社会主義」の違いであり、当時の社会主義的な国際状況は「第二インターナショナル」が主流を占めていました。ドイツではこの「修正主義」の基づき、「暴力」ではなく「議会」によって社会的変革を成し遂げようと考えていたのですが、幸徳秋水は、「そのような方法を用いたとしても、いまだに『ブルジョワによる支配体制』はまったく変わっていないじゃないか」と主張したわけです。

つまり、本当に革命を成し遂げられるのは「議会」ではなく「暴力」であると。

結果、「日本社会党」は再び西園寺内閣によって禁止され、解党。
今考えるとこれ、とても当たり前のことだと思いますけどね・・・。

「大逆事件」

さて。日本社会党が解党された後、いわゆる「社会主義者」たちは、「キリスト教社会主義」と「マルクス派社会主義」に分裂するわけですが、一方の「マルクス派社会主義」。ここからさらに「日和見主義的改良派」と「急進主義的革命派」に分かれます。

そして社会主義者たちは当時の明治天皇の暗殺をたくらみます。

「赤旗事件」「足尾鉱山暴動」「大逆事件」と続きますが、「大逆事件」において、一部の社会主義者たちによる陛下の暗殺計画を、彼らの精神的支柱である「幸徳秋水」が裏で糸を引いて成し遂げようとした陰謀・・・であるように仕立て上げ、当時の桂太郎内閣は当時の社会主義者たちを一斉検挙。

うち、幸徳秋水を含む12名が処刑されます。

このことにより、社会主義運動はいったん収束に向かうのですが、1912年、全国労働者組織である「友愛会」の結成に伴い、徐々に息を吹き返します。ちなみに・・・「友愛会」ですか。まあ、多くは語りますまい。

その後、第一次世界大戦が勃発し、アジア市場から欧米人が撤退したため、日本では「成金」と呼ばれる資産家たちが登場し、いわゆる「資本主義」が急成長。物価成長率は著しいものがあり、労働者階級からは「賃上げ闘争」や「労働時間の短縮」を求めた「労働運動」が巻き起こります。

このあたり、めっちゃ民主的だと感じるのは私だけでしょうか。
この後、1919年にロシアで「コミンテルン」が結成。20年にロシアはアジア進出を画策し、日本において「アナーキスト(無政府主義者)」であった大杉栄という人物と接触し、1922(大正11)年、1月モスクワで開催された極東勤労者大会に日本の急進主義者たちが集って参加をし、ここで「日本共産党」の設立が宣言されることになります。

次回記事では、この「日本共産党」を中心に話題を進めることとしたいと思います。

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>> 第60回 第1インターナショナル
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