第51回 「左翼」の変遷など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<前回の記事 第50回 「右翼」と「左翼」

前回の記事では、「右翼」と「左翼」のタイトルの下、フランス革命時の身分制度が生んだ「右翼」と「左翼」という言葉。
そして、敗戦後日本における米国の占領政策が日本人に植え付けた「右翼」と「左翼」という言葉に対するネガティブなイメージについてお伝えしました。

今回はフランス革命に於いて「右翼」と「左翼」という言葉が登場して以降の、特に「左翼」というカテゴリーの変遷について追いかけてみたいと思います。

「左翼」とフランス革命

「バスティーユ牢獄」の襲撃により勃発した「フランス革命」。
その後、憲法制定国民議会により、「フランス人権宣言」が採択されるわけですが、この人権宣言を国王は承認しようとしませんでした。(「右翼」「左翼」という誕生したのはこのタイミングです)

10月5日、パン不足によりパリ市街地の主婦たちがヴェルサイユまで押し寄せ(ヴェルサイユ行進)、王宮に乱入します。
国王はやむを得ずフランス人権宣言に同意し、フランス人権宣言が成立します。

この「フランス革命」を推進する中心となったのが、「ジャコバン=クラブ」という政治結社です。
元々は1789年4月、当時の第三身分議員で、ブルターニュ地方出身者がベルサイユに作った「ブルトン(ブルターニュ人)=クラブ」がその前身なのだそうです。

同年11月、議会がパリに移動したのに伴ってブルトンクラブもパリの「ジャコバン協会」に移動するのですが、この後この政治結社は「ジャコバンクラブ」と一般に呼称されるようになります。




「ジャコバンクラブ」の変遷

さて。この「ジャコバンクラブ」。
元々は第三身分議員によって構成された「左翼組織」であったわけですが、パリに移動してからは門戸が国会議員以外に開かれたこともあり、1790年夏の時点で1000名を超える会員数、152の地方支部を有する巨大組織へと拡大します。
この頃には第二身分や第一身分出身の議員も多く所属するようになり、派閥としても「立憲君主派」と呼ばれる、いわゆる「右派(王政支持派)」の「穏健派」が主流を占めるようになっていました。

フイヤン派の離脱

1791年6月、フランスの国王であるルイ16世一家がパリを逃亡する、「ヴァレンヌ事件」が起こります。
ルイ16世はフランスを逃亡し、他国の「王」となってフランスに攻め込むことを計画していました。

一家は逃亡の3日後に国境付近で逮捕され、計画は未然に防がれます。
ジャコバンクラブでは、ルイ16世排斥の請願運動が決定されますが、これに怒ったのは王政支持である立憲君主派(多数派)です。(ジャコバンクラブを構成しているのは議員だけではありません)
立憲君主派はジャコバンクラブを脱退。拠点をフイヤン修道所に移し、「フイヤンクラブ」を結成。「フイヤン派」としてジャコバン派から分裂します。

多数派であるフイヤン派主導で開催された立憲議会にて、国王の逃亡は逃亡ではなく、「誘拐された」とうことにされてしまいます。

一方、フイヤン派の抜けたジャコバンクラブでは請願文が採択され、練兵所にて大衆に署名してもらう算段となるのですが、王党派(フイヤン派)が多数を占める議会は民衆が王党派(と民衆が主張する)の男性を縛り首にしたことを口実に、国民衛兵1万人を導入して請願運動を中止させるため、強硬手段に打って出ます。

実際に出た死者の数は十数名程度で、けが人も同様であったにもかかわらず、噂に尾ひれがついて誇張され、民衆の間では「虐殺事件」として喧伝されます。( シャン・ド・マルスの虐殺)

この時に戒厳令を意味する「赤旗」が初めて用いられたのだそうです。
赤旗(共産主義の象徴)」が後の「階級闘争のシンボル」となります。

同年9月3日、多数派を占めるフイヤン派主導で「1971年憲法」が採択され、フランスは「立憲君主制」へと移行します。

ジロンド派の離脱

残ったジャコバンクラブでは、「ジロンド」という地域出身の「ブルジョワジー(裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民)で構成された穏健共和派(ジロンド派)が台頭します。彼らが主張していたのは「国王なしの『共和制』」。

このころのフランスでは、国王の逃亡事件を機に、国王に対する不信感が高まり、これまで国民の多数を占めていた国王擁護派が、左派に傾倒するようになり、革命そのものが急進化する傾向にありました。

国王の逃亡を手引きしたスウェーデン王グスタフ3世は、逃亡失敗の知らせを受けるとフランスから亡命した貴族たちと共に諸外国に呼びかけて「反革命十字軍」を組織する計画を立て、ロシアとも軍事同盟を締結しますが、グスタフ3世は暗殺されます。

また、亡命に成功していたルイ16世の実弟であるアルトワ伯爵が、神聖ローマ帝国皇帝やプロイセン王と共に「ピルニッツ宣言」という、一種の宣戦布告とも受け取れるような宣言を出すなどフランスと諸外国の間では今にも戦争が巻き起こるのではないかと、このような機運が高まる状況にありました。

ジロンド派はピルニッツ宣言等の「外圧」を「革命政府に対する脅迫」であると受け止め、1972年4月、オーストリアに対して宣戦布告します。(フランス革命戦争)。一方ジロンド派の主張に対して異を唱えたのが「マクシミリアン・ロベスピエール」という「山岳派」に所属する第三身分出身の人物。同じジャコバン派です。

当時のフランスは財政もそこを突きており、優秀な貴族士官が大量に亡命していたこともあり、とても対外戦争で勝利できるような状況にはありませんでした。

ルイ16世の王妃であるマリーアントワネットの実家はオーストリア。オーストリアに対し情報を漏らし、またルイ16世は国政に対し、「拒否権」を発動し、国政を停滞させます。

当時ジロンド派に変わり政権を担当していたフイヤン派は、政権運営は不可能と判断し、7月11日に総辞職。
翌日議会は「祖国は危機にあり」との宣言を出し、義勇軍がフランス全土から集まります。
民衆や義勇兵たちは宮殿を攻撃して国王と王妃を幽閉。

この時国王の身辺警護を行っていたスイスの傭兵は国王から民衆への発砲を禁止されていたため、多くの傭兵が虐殺されます。(8月10日事件)
その後、フランス国内では「反革派命狩り」が行われ、監獄内で1万数千人を超える規模の虐殺が行われたのだそうです。(九月虐殺)

これをきっかけに王権の廃止を要求し、実現したのがジャコバン派の中でも「反戦派」であったロベスピエール達「山岳派」。
ブルジョワを支持基盤とする「ジロンド派」と民衆を支持基盤とする「山岳派」。

その対立は深刻となっており、「ジロンド派」はジャコバンクラブから離脱します。
その後、ロベスピエールら「山岳派」は有名なギロチンによって国王を処刑し、のちに民衆の武装蜂起によってジロンド派は政府(国民公会)より追放され、逮捕・処刑。「山岳派=ジャコバン派」の独裁体制が確立します。

山岳派の独裁体制は過激化し、反革命派は「粛清」の名の下処刑され、やがて無関係な市民までも処刑されるようになります。
同じジャコバン派の中でも見解の相違から山岳派と分裂した2派閥に対しても粛清を行い、「恐怖政治」と呼ばれる政治体制を貫きました。

ちなみに、この時の「恐怖政治」はフランスでは「la terreur(=恐怖)」と呼ばれ、これが「テロリズム」の語源となっているのだそうです。
ロベスピエールとは、史上初の「テロリスト」なのだそうですよ。

「フランス革命」における「左派」

いかがでしょうか。
元々の「左翼」とは、ルイ16世の圧政に苦しむ平民たち。農民や商工人たちのことを意味していました。
ところが、「左翼」の政治結社として登場した「ジャコバンクラブ」。ジャコバンクラブが結社の中に右翼勢力をも取り込んでいく中で、「左翼」という言葉の位置づけが、目まぐるしく変遷していく様子に気づくことができたでしょうか。

ルイ16世の逃亡。信頼を裏切られた民衆たちの怒りも理解できます。
嘘をついてルイ16世の「逃亡」という情報を「誘拐」にすり替えてしまい、「王政」を復活させた「右派」である「フイヤン派」。

そしてその対立軸、「左派」である「ジロンド派」。
右派であるフイヤン派も「開戦派」ではありましたが、実際にオーストリアに対して宣戦布告を行ったのは「左派」であるジロンド派でした。

「 シャン・ド・マルスの虐殺」という事件に於いて、確かに発砲を行い、十数名の命を奪いはしたものの、フイヤン派の行為は「虐殺」と呼べるものではありませんでした。
「8月10日事件」や「九月虐殺」において、大量の虐殺を起こした民衆や義勇兵を先導したのはジャコバン派の中の「左翼」であるロベスピエールら「山岳派」でした。

ジャコバンクラブからジロンド派が離脱した後過激化し、「恐怖政治=テロリズム」を実行したのは、残った最左翼である「山岳派」でした。

左翼である山岳派と対立した「ジロンド派」も、当時の「ジャコバンクラブ」の中では「右派」であったと考える事が出来ます。
「ジロンド派」は「ブルジョワジー(裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民)」に支持されていました。
現代の日本においても、このような「雇用主」や「富裕層」に対して、「右翼」としてのイメージが残っている理由の一つに、この「ジロンド派」に対する印象が息づいているのではないか、と私は考えます。

ですが、考えてみてください。もともとの「右翼」とは、「王政」や「貴族政」を支持していた階級であったはずです。

また、 「シャン・ド・マルスの虐殺」に於いて、

「この時に戒厳令を意味する『赤旗』が初めて用いられたのだそうです。
『赤旗(共産主義の象徴)』が後の『階級闘争のシンボル』となります。」

という情報を私は掲載しました。そう。「赤=左翼」とは、元々力の弱い階級層が、力を持つ富裕層や支配層に対して「闘争」を挑むきっかけとなった、即ち「階級闘争」の象徴に他ならないのです。

次回記事では、同じ「左翼の変遷」のタイトルを流用して、この「フランスにおける左翼」の変遷から、更に歴史を進めてみたいと思います。

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