第354回 ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わりなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

前回まで記事では、レーニンが提唱し、設立した「第三インターナショナル=コミンテルン」について、ヨーロッパを中心とする世界各地で発足する「共産党」。

その発足後の武装蜂起の支援に関しまして、コミンテルンが初めて具体的な支援を行ったとされる「ドイツ革命」に関しましてそれでは「ドイツ革命」とは何ぞや、という視点でしばし記事を作成しました。

ドイツ革命の流れとしては、
<1.ドイツ第一次世界大戦において元々短期決戦を考えていたが、想定が外れ長期化してしまった。

2.この状況を打開するため、「総力戦体制」が取られ、結果として働き手を奪われたドイツでは極度の食料不足に陥った。

3.戦局の悪化と共に、ドイツ国内において「平和」と「食料」を求める「デモや暴動」が頻発するようになった。

4.ロシアにおける二月革命の成功を受け、ドイツ各地において「ストライキ」が勃発する。

5.1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、逮捕される。

6.逮捕された水平たちが送られたキール軍港に駐屯していた兵士たちが逮捕された水平たちの釈放を求めて行ったデモ隊に対し、官憲が発砲。デモは一気に武装蜂起へと発展する。

7.11月4日、労働者・兵士レーテが結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧。西部ドイツが一気にレーテの支配下に入る(レーテ蜂起)。レーテ蜂起はドイツ全土に広がり。

8.1918年11月9日、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによってドイツは共和制へ移行。ヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明する。

9.ドイツは「人民委員評議会」と「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の二重権力構造へと陥る。

10.11月11日、ドイツは連合国との間で休戦協定を結ぶ。

11.1919年2月6日、ワイマールにおいて「ワイマール憲法」が制定され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。

12.1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印。

13.1920年3月13日、右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立。これに対し、ドイツ政府は「ゼネラルストライキ」にて対抗する。

14.ルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領(ルール蜂起:4月6日、政府側軍隊によって壊滅)。

15.社会民主党は信認を失い、中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣(コンスタンティン・フェーレンバッハ内閣)を結成。(1920年6月2日)

と、この様な流れです。

この後姿を見せるのが「ドイツ共産党」。本日のメインテーマです。

ドイツ共産党発足の経緯

第351回の記事 でもご紹介しましたが、ドイツ共産党は「スパルタクス団」と呼ばれるドイツのマルクス主義者たちが構成する政治集団が母体となって結成されました。

「スパルタクス団」はドイツ社会民主党左派から更に分裂した「グルッペ・インターナツィオナーレ」によって結成されたものです。

当時獄中に捉えられていた「ローザ・ルクセンブルク」という女性の提案によって作成されることとなった非合法の小冊子『スパルタクス書簡』では、グループ全員がペンネームとして「スパルタクス」という名称を用いていたことから、彼女らのグループは「スパルタクスグループ(スパルタクス団)」として知られる事となりました。

ルクセンブルクらが元々所属していた政党は「ドイツ社会民主党」だったわけですが、このドイツ社会民主党の左派がここから分裂して「独立社会民主党」を結成。スパルタクス団もここに合流するのですが、この「独立社会民主党」より更に革命路線を目指す「極左」勢力が結成しのが「ドイツ共産党・スパルタクス団」でした。

1919年1月1日の事です。

1月5日にはスパルタクス団による「スパルタクス団蜂起」なるものも勃発するわけですが、これは元々武装蜂起を意図していたものではなく、「デモ」を呼びかけたものだった事、そして集まったメンバーが想定していた以上に大量に集まってしまった事などから、統率がうまく行かず、政府が結成した義勇兵によってあっという間に鎮圧されてしまいます。

この時行われた義勇軍と武装した労働者たちとの間で武力衝突が起こり、無関係な市民も多数巻き込まれたのだそうです。
Wikiベースの情報ではありますが、この時鎮圧に拘わった義勇兵が後のドイツ政治に対して大きく影響を与えていくこととなるのだそうです。


パウル・レヴィ

スパルタクス団蜂起において、スパルタクス団の指導者であったローザ・ルクセンブルクら多くのドイツ共産党指導者たちは政府義勇軍兵士によって「私刑」の名の下で惨殺されます。

彼女らに代わって共産党を指揮する立場となったのがサブタイトルにある「パウル・レヴィ」という人物です。

パウル・レヴィ

掲載されている情報を読んでいきますと、どうもロシアのレーニンらと親交があったのはこの人物。
彼はどうも極左が集うドイツ共産党の中においても比較的穏やかな人物であったようで、スパルタクス団蜂起そのものにも否定的で、蜂起後、党首に就任した後は同党内の極左派を除名処分にしてしまいます。

この時除名されたメンバーは「ドイツ共産主義労働者党」を結成します。

「広範な層の労働者との連帯」を意図していたのがレヴィ、「直接的な革命」を目指していたのが除名されたドイツ共産主義労働者党のメンバーであった、という構図です。

彼は、イタリア共産党結成をめぐる騒動の中でイタリア共産党結成にコミンテルンの支持するイタリア指導者を支持しなかったことから、ドイツ共産党の中央委員会に置ける投票権を失い、彼の支持者共々中央委員会を退陣することになります。

この時コミンテルンよりドイツに派遣されてきていたのがクン・ベーラというハンガリー人です。

クンベーラ


ドイツ共産党による三月行動とコミンテルン

漸くたどり着きましたね、「三月行動」。

そもそもなぜイタリア共産党結成における絡みでパウル・レヴィはドイツ共産党議長の座を追われることとなったのでしょう。

レヴィがコミンテルンの行動に反対する立場にある人物(ジアチント・メノッティ・セッラティ)の支持を表明したのは、イタリア社会党の党会議に於いての事。コミンテルンは、イタリア社会党を分裂させ、そこからイタリア共産党を誕生させようとしていたわけですが、レヴィはこれに反対していたんですね。

そして、レヴィを組織的に失脚させたのが「コミンテルン」。レヴィが失脚したドイツ共産党を指導したのがコミンテルンより派遣されたクン・ベーラ。彼は、ドイツ共産党に対し、ドイツの「マンスフェルト」という都市で武力蜂起を起こさせます。

マンスフェルト

ちなみにこの当時の首都、「ワイマール」がここ。
ワイマール

実際に3日間、都市を占拠することに成功するのですが、それもたった3日間。その後、あっという間に国防軍によって鎮圧されてしまいます。(1921年3月:三月行動)


しょぼっ・・・と思われた方もいらっしゃるかもしれません。私もそう思います。

多分、当時のコミンテルンの皆さんもそう思ったのでしょう。同年6月に開催された第三回コミンテルン世界大会においてクン・ベーラは痛烈に批判され、後にスターリンの下で「大粛清」に巻き込まれ、銃殺されることとなります。

この時はまだレーニンは健在な時代。
パウル・レヴィはこの三月行動をパンフレットにおいて大批判するわけですが、この事が理由で彼はドイツ共産党を除名されてしまいます。

ですが、レーニンやトロツキーは、実は彼の行った批判に対し、賛同する意思を示していました。レーニンは彼に書簡を送り、
「規律違反」による除名を受け入れ、除名された後もKPDに親しく接し、階級闘争に際しては誠実な方法で同党と共闘すれば、復党に尽力する

ことを約束します。

ですが、レヴィはこれを受け容れず、レーニンからもそっぽを向かれてしまうこととなります。


さて。ですが、よく考えていただきたいのです。レーニンやトロツキーの行った「ロシア革命」は、私の事前の予想を大きく裏切り、非常に平和的に、誰一人死者を出すことなく、非常にあっさりと成し遂げられてしまいましたね?

これはトロツキーの機転によるものが大きかったわけですが、ではクン・ベーラが始動した「三月行動」はどうであったでしょうか?

実はクンベーラはハンガリー革命の指導者。ハンガリー革命では12万の軍隊が武力衝突していますから、死傷者の数も推して知るべしです。こう考えると、レーニンやトロツキーがレヴィに賛同したのも何となく理解できますよね。

さて。「コミンテルン」をめぐる今回のシリーズ、次は再び舞台を「ロシア」に戻したいと思います。


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