第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第350回 ドイツ革命の経緯(レーテ蜂起)

前回の記事では、今回のカテゴリーに関連して、レーニンたちが結成した「コミンテルン」が初めてその影響を与えるに至った「ドイツ」。

ここで勃発した「ドイツ革命」について、主にその「前半」ともいえる部分を掲載しました。

今回の記事では、ここから更にドイツ皇帝/プロセイン国王であったヴィルヘルム二世の退位と「ワイマール共和国」まで話題を進められればと思います。

ヴィルヘルム二世の退位

ヴィルヘルム2世
今回のカテゴリーの目的の中の一つに、「共産党」という組織に内在する残虐性を追いかけることも含まれているわけですが、彼らの行う「市民革命」の中には、「帝国主義」から「共和制」への移行という目的も含まれています。

ですから、「ドイツ革命」においても、この「帝政崩壊」というものが一つの課題になるのかと思い、あえてピックアップしてみました。

キール軍港から始まるレーテ蜂起によって、一部都市では既に皇帝を退位させ、共和制の敷かれた年もあるわけですが、ドイツ全体でもやはり同様の事が起こります。

ほんと、ロシア革命とよく似ているのですが、ドイツの帝政が崩壊する過程においても、やはりロシアと同じように労働者や市民がパンを求めてデモを起こします。

ただ、このタイミングで支配層側はこれまでの様に群衆に向けて発砲するようなことはせず、首相であったマックスマックス大公子がヴィルヘルム二世に退位を迫るなどし、暴力に依らない方法がとられています。

血気にはやる民衆側の勢いが収まることはなかったのですが、結果的に社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトのそばにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによって共和制への移行が成し遂げられました。(1918年11月9日)

ドイツ共和制宣言

同じ日にヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明。

11月10日には社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府、「人民委員評議会」が結成されたわけだけど、労働者や兵士たちが結成した「レーテ」はこれを承認しながら、「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」なるものを選任し、ここにドイツの最高権力を与え、二重権力構造が生まれる・・・と。

このあたりもロシア革命とそっくりですね。


今回は「ドイツ」について調査することが目的ではなく、ここにコミンテルンがどうかかわっていくのか、ということを探ることが目的ですので、少し端折ります。

この様な状況の中で、第一次世界大戦に関してドイツは連合国との間で休戦協定を結びます。(11月11日)

しかし・・・これまで中国やロシア、またはヨーロッパにおける市民革命の様子をずっと見て来たからかもしれませんが、どうもドイツの革命の様子は、非常におとなしいですね。

この後、ドイツのマルクス主義者たちの政治集団である「スパルタクス団」が「ドイツ共産党(KPD)」を結成。
同じスパルタクス団による「一月闘争(スパルタクス団蜂起)」なども勃発し、実際に射撃戦なども行われるわけですが、結構あさりと鎮圧されてしまいます。

11月19日には国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得。2月6日、ワイマールという都市で国会が召集され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認されます。

この時制定された憲法が「ワイマール憲法」。当時世界で最も民主的である、とされた憲法ですね。
「大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた」とされています。

「ドイツ帝国」が崩壊した後、「ワイマール憲法」の下で成立した共和制国家の事を、「通称」ワイマール共和国、と呼ぶのですね。
正式名称は「ドイツ国」であると。

非常にあっさりと出来上がってしまいます。

1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印します。
この時ドイツが調印させられた内容が以下の通りです。

ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。

また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。

経済的な側面でいうと、多額の賠償金や産業の停滞が原因で政府の税収が減り、これをドイツ政府は「紙幣の増刷」という方法で対応したため、市場は次第に「インフレ」に見舞われるようになります。

物資やサービスが不足する中で紙幣増刷を行えば、当然そうなりますね。

この事から、左派勢力によるストライキや暴動が頻発するようになり、レーテ蜂起において帝政が崩壊した都市バイエルンでは、更にバイエルン州政府が共産党によって倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が発足。(バイエルン革命:1919年4月6日)

しかしすぐさまワイマール共和国政府派遣された軍隊等によって壊滅させられ、たった1カ月で崩壊。

で、この時崩壊前に共産党によって人質に取られた人々が虐殺され、更に崩壊後、バイエルン占領軍によってレーテ共和国に拘わった人々への虐殺行為がいたるところで行われたのだそうですよ。


本論とは少し外れるのですが、レーテ共和国が崩壊した後のバイエルンでは、「右傾化」が進んでいきます。
「右傾化」って、要は国家主義者たちの事ですね。共産主義は最終的には「国家」そのものを否定しているわけですが、国家主義者たちは「国」や「民族」としてのプライドやほこりを大切にしていたのでしょうか。

そして、そんな混乱の中、「バイエルン」という土地で生まれたのが「国家社会主義ドイツ労働者党」=「ナチス」でした。
こうしてみると、彼らが「共産主義者」を否定するようになった経緯も何となく見えてきますね。

まあ、この話題は後に掲載する予定の「ドイツ」に関するカテゴリーで掘ってみたいと思います。


カップ一揆


カップ一揆

1920年3月13日には、ヴェルサイユ条約締結に反対した右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立が宣言されます。

ところが、これに対してドイツ政府がとった方法は、「ゼネラルストライキ」。
つまり、労働者が結束して「働かない」ことを呼びかけました。カップは「右派政治家」ですから、政府の呼びかけに応じたのは「左派」であったということです。この結束力に驚かされますね。

そういえば、ドイツに「ハイパーインフレ」を引き起こす原因となったのは、「ルール占領」。フランスおよびベルギーによってドイツの生産拠点であったルール地方を占領されたこと。この時もドイツ政府は労働者たちにストライキを呼びかけ、代わりに紙幣をばらまいたことが「ハイパーインフレ」を引き起こすこととなります。


ルール蜂起

「ルール占領」が行われるのは1920年12月26日の事なのですが、それ以前に同じルール地方で、カップ一揆におけるゼネストに参加した労働者立による「ルール蜂起」という事件も起きています。

右派政治家であるカップが起こした「カップ一揆」を受け、今度はドイツ左派政党が結束し、共産党、独立社民党、社民党が共同声明の中で「プロレタリア独裁による政治権力の実現」を目標とすることを宣言します。

これを受けてルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領してしまいます。

これに対し、共和国側は軍隊を派兵し、4月6日にはルール赤軍中枢であるドルトムントに到着し、ルール赤軍を壊滅させました。


これらの混乱を通じ、ワイマール政府において中心的な役割を果たしてきたドイツ社会民主党はやがて国民からの信認を失いはじめます。

選挙によって大きく議席を失い、社会民主党に代わって中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣を結成することになります。

さて。このような中で1921年3月。ついにドイツ共産党が姿を見せることになります。


次回記事では、ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり合いについて記事にしてみたいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]