第350回 ドイツ革命の経緯(レーテ蜂起)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

前回の記事では、レーニンやトロツキーが発足させた「第三インターナショナル」=「コミンテルン」は、一体どのような組織だったのか、何を目指そうとしていたのか。これを途中まで記し、「ドイツ革命」を通じてその過程を検証することをお約束し、記事を終えました。

今回の記事では、第一次世界大戦末期に勃発した「ドイツ革命」の経緯と、革命においてコミンテルンがどのようにかかわったのか。
そして「コミンテルン」そのものの思想の変動についても記事にしたいとおもます。


「共産主義」と「社会主義」

「共産主義」と「左翼」 のカテゴリーの中で幾度も触れてきたテーマでもあります。

第161回の記事 の中で、この問題について私の中では一つの決着をつけたつもりではいたのですが、どうもこの「共産主義者」と「社会主義者」についての違いがより明確となったのは今回シリーズ化している「ロシア革命」の時機だったのではないか・・・ということが見えてきました。

第161回の記事 に於きまして、私は「共産主義」と「社会主義」の違いについて、以下のような方法で定義づけを行いました。
① ブルジョワによる運動が「社会主義」であり、プロレタリアートによる運動が「共産主義」である。
② 平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である。
③ 「社会主義社会」とは、「資本主義」から「共産主義」へと移行する途中の「プロレタリアートによる独裁」がおこなれている社会である

ここには、とあるSNSにおいて、実際に共産党に所属し、ここで共産主義についてきちんと学んだ方とお話をする中で教えていただいた事が含まれています。③に記した内容がまさしくそれです。

しかし、今回のカテゴリーを記していく中で、どうも「共産主義」と「社会主義」という区分けについて、見えてきたのは、「レーニン」が目指した社会の在り方こそ本当の「共産主義」であり、10月革命が勃発する以前、社会革命党やメンシェヴィキ、そしてスターリンらが妥協しようとした社会は、本当の共産主義ではなかったのではないのか?

レーニンが主導して立ち上げたコミンテルンが目指したものは「世界革命」であったこと。ところが、これを引き継いだはずのスターリンが目指したのは「一国社会主義」というものでした。


「世界革命」の「前提」

ロシアの革命家たちが自分たちの革命の成功にこだわった、その背景にあったものとして、ここにはどうもマルクスの「予言」が原因としてあったようです。

【「共産党宣言」におけるマルクスの予言】
1882年に書かれた『共産党宣言』のロシア語版序文では、マルクスとエンゲルスは「ロシアはヨーロッパの革命的活動の前衛となっている」という認識を示し、「ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果、両者がたがいにおぎないあう」可能性に言及した。(Wikiより)

そして、この予言の通りロシア革命は見事に成功しました。

そして、マルクスと共に共産主義革命の勃発を予測したエンゲルスは、次の様にも述べていました。
<共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。

〔中略〕それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。

マルクスたちの予言通りに共産主義革命が勃発するのだとしたら、ロシア革命が成功したのだから、これがきっかけとなり、西ヨーロッパを皮切りに、世界中で共産主義革命=「世界革命」が半ば自発的に勃発する、とレーニンやトロツキーは考えたわけです。

そう期待したわけですね。そして、革命を成功させたロシアがその手本になろうとしたのです。
その最初の第一手となったのが「ドイツ革命」でした。


「ドイツ革命」とは?

Wikiの表記を引用してざっくりと解説しますと、「ドイツ革命」とは以下のようなものを差します。

第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結として皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。

この様な蜂起が勃発した最大の理由は、

・元々短期決戦を想定していたドイツの想定が敗れ、フランス軍との戦闘においてその戦線は長期化してしまった事。
・膠着状態を打開するため、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制=「総力戦体制」に移行したこと。

この2つです。この結果、ドイツの経済は停滞し、「国民に多大な窮乏と辛苦を強いる」事となり、「戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発」することになります。

ロシア二月革命 が勃発した理由とまったく同じ理由ですね。

考えてみれば、この当時ヨーロッパまで出張に来ていた「岡村寧次(おかむらやすじ)」、「永田鉄山(ながたてつざん)」、「小畑敏四郎(おばたとしろう)」に東条英機を加えた4名は、この様なドイツやロシアの状況を見て、日本陸軍の現状に危機感を覚え、軍部の人臣を刷新し、軍全体で総力戦が挑める体制を築く必要性を実感する(バーデン・バーデンの密約) わけですね。

ふ~む・・・。

まあ、あくまでも余談です。ただ、当時のドイツにしろロシアにしろ、自国がどうであろうとそこには「敵国」が存在するわけですから、ここに軍部の人臣を刷新する必要性を実感した、ということはそうおかしなことではないのかもしれませんね。


ドイツ革命の経過

デモや暴動が頻発した、という部分だけでなく、これが武力蜂起へと転化するあたりも、ロシア二月革命によく似ています。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

【キール軍港】
キール軍港


これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

【レーテ蜂起】
レーテ蜂起


ドイツの都市バイエルンでは、バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制が廃止されるなどし、この運動はほぼすべての主要都市に波及。ほぼすべての主要都市で「レーテ」が結成されます。(レーテ蜂起)

勿論この話には続きがあるわけですが、私の時間が少しなくなってきましたので、続きは次回記事に委ね、今回はここで一旦終了いたします。


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