第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

しかしこの記事・・・一体どこから手を付ければよいのかということに、いささか悩まされる部分があります。

そもそも、「コミンテルン」が発足した理由は「第二インターナショナル」の失敗が最大の理由です。

第319回の記事 にて、私はレーニンの唱えた「革命的敗北主義」について言及しましたが、この「革命的敗北主義」という言葉が初めて登場するのが、1915年9月、反戦派が集合してスイスにて開催された「ツィンメルワルト会議」という名前の国際会議です。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年6月の事ですから、ここでいう「反戦」とは、第一次世界大戦に対して用いられたものになります。

場所はスイス。レーニン亡命中に開催されたものです。

どうもレーニンの「革命的敗北主義」とは、そもそも「第二インターナショナル」が1912年、自ら作成した「バーゼル宣言」に記されていた文言に由来するものであるようです。

【バーゼル宣言より抜粋】
 「戦争が勃発するおそれがあるので、加盟諸国の労働者階級とその議会代表者は、インタナショナル事務局の総括的活動に支持されながら、彼らに最も有効とおもわれる手段を適用することによって戦争の勃発を防止することに、全力をつくすべき義務がある。

それらの手段は、階級闘争が激化し一般的政治情勢が激化するに応じて当然変化するものである。

 それでもなお戦争が起こった場合には、すみやかな終結のためにつくし、戦争によってひきおこされた経済上および政治上の危機を、国民を揺りうごかすのに利用し、そのことによって資本主義的階級支配の排除を促進することに全力をあげてつとめることが、義務である」。

後段の「それでもなお」以下の文章は、まさしくレーニンの「革命的祖国敗北主義」そのものではないでしょうか?

つまり、

「戦争を勃発させない様、努力する中においても尚戦争が勃発してしまった場合、危機感によって国民を扇動し、支配者層を排除するために全力を尽くす事が必要だ」

とバーゼル宣言には記されているわけです。そしてレーニンの主張する「革命的祖国敗北主義」とはまさしくこの事です。
第二インターナショナルはそう宣言しているにも関わらず、各国の社会主義政党は戦争の勃発に伴って「祖国防衛主義」に走り、その思想を投げ出してしまった事をレーニンは批判しました。

そして、これを受けて開催されたのが「ツィンメルワルト会議」です。もう一度「国際主義」を復活させるために行われたわけですが、同会議においても、その手段として「平和的な手段を用いる」ことを主張した「右派」と、「革命的な手段を用いる」ことを主張した「左派」に分かれてしまいます。

「国際主義」とは、「社会階級・国家・搾取のない世界」を目指し、それを実現するために、国籍を問わずすべての労働者を組織し、各国の国境に止まらず、国際革命を目的とする考え方です。(Wikiより)

この時、「左派」の中心にいたのがレーニンであり、彼がこの時に主張した枠組みこそ「第三インターナショナル」でした。

ロシア革命においてもレーニンはメンシェヴィキや社会革命党、同じボリシェヴィキの仲間であるカーネフやスターリンに対して、彼らの取った方法が「日和見主義」であると批判していたわけですが、「第三インターナショナル」とは、これまでの第二インターナショナルが否定してきた「排外主義」と共に、この「日和見主義」との断絶も主張したもの。

レーニンが「四月テーゼ」にて謳った内容こそ「第三インターナショナル」が目指すべき姿であったと考えることができます。

【四月テーゼの骨子】
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

レーニンが臨時政府を「ブルジョワ政府」とみなした理由は、臨時政府が他の帝国主義・資本主義国家と連携し、排外的な戦争を継続する意思を有していた為でしたね。


「第三インターナショナル」の実現に向けた動き

レーニンがこの「第三インターナショナル」の実現を具体的に動かし始めるのはロシア革命が成功した後の事。

1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけた事に対抗して、外務人民委員であったゲオルギー・チチェーリンに対して第三インターナショナル設立の準備に入る様指示を出します。

1919年3月にモスクワで開催された会議において、「第三インターナショナル」の創設が議決されます。「コミンテルン」の結成です。
合計54の代議士が参加し、このうち国外からは5名の参加がありました。

レーニン


「コミンテルン」への加盟条件

さて。いざ「コミンテルン」が結成されますと、レーニンが否定した「日和見主義」的な社会主義者まで含めて、様々な団体が関心を示すようになりました。

ですが、これはレーニンの目指すものであはありませんから、コミンテルンへ加盟するための21の条件を作成します。

21か条全てを掲載しているサイトが見当たりませんので、今回はWikiに掲載されています、4条件のみ掲載しておきます。

・内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)
・党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)
・社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)
・コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)



「コミンテルン」が行った事

それでは、この「コミンテルン」という組織は、一体どのような事を行っていたのでしょうか。

今回の記事では、「レーニン」がその代表者であった時代のコミンテルンについて掲載します。

ロシア革命の後、ヨーロッパでは様々な共産主義国家、及び共産党が誕生しました。

1918年1月 – アルゼンチン共産党結成
     2月 – クバーニ人民共和国独立宣言
     8月 - フィンランド共産党結成
     11月 - オーストリア共産党
         ギリシャ共産党(1924年まで社会主義労働者党)
         ハンガリー共産党結成
     12月 - ラトビア社会主義ソビエト共和国成立
          ポーランド共産党(1925年まで共産主義労働者党)
          ドイツ共産党結成

そして、翌1919年3月にコミンテルンが発足します。
コミンテルンが主に行ったのは、その後の武装蜂起の支援。

この時、「ドイツ革命」の支援を行った様子が登場しますので、次回記事ではこの「ドイツ革命」の様子を記事にしてみたいと思います。

一応、私の予定ではこの「ドイツ」という国にも単独でスポットを当て、なぜナチスドイツが誕生したのかというところまで含めてカテゴリーを作成する予定ではいるのですが、これに先駆けてこの「ドイツ革命」のみピンポイントで取り扱ってみたいと思います。


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