第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉

前回の記事では、ロシア戦争後のウクライナについて、一通りその経過を収束することができましたので、一旦ウクライナについては記事を終了させる予定だったのですが、改めて記事を読み返していて、今回テーマとする「ブレスト=リトフスク条約」について回収ができていないと感じましたので、コミンテルンの記事に入る前にいったんこの「ブレスト=リトフスク条約」について記事を記しておきます。


ブレスト=リトフスク条約
こちらの画像は、ロシアと中央同盟国が締結した「ブレスト=リトフスク条約」です。

第342回の記事 にて「ロシアと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」を、前回の記事 で「ウクライナと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」をそれぞれ記事にしました。

時系列から申しますと、ウクライナが締結したブレスト=リトフスク条約が1918年2月9日、ロシアが締結したブレスト=リトフスク条約が同年3月3日の事ですから、ウクライナの方が先に締結したことになります。


ブレスト=リトフスク条約とは?

では、そもそもこの「ブレスト=リトフスク条約」とは何なのか。

今更言うまでもないかもしれませんが、「ブレスト=リトフスク条約」とは、ウクライナ、ロシアがそれぞれ別途中央同盟国との間で締結した「講和条約」です。

前回の記事で記しました通り、ウクライナが締結した「ブレスト=リトフスク条約」は、当時ロシアが元東ウクライナの首都であったハルキウに建国し、ここを拠点として領地を拡大するロシア赤軍との戦闘で敗北を続け、1918年2月8日に首都キエフを占領された翌日、ロシア赤軍を打倒するために選択した講和条約。

このことによってウクライナは独墺と同盟関係を築くことに成功し同年4月末日までにウクライナはウクライナ人民共和国(ソビエト)の領土をほぼ全て奪い返すことに成功しました。


ロシアと中央同盟国との和平交渉の経緯

一方、ロシアが中央同盟国との間でブレスト=リトフスク条約を締結するのはウクライナから約1カ月遅れた1918年3月3日の事。ウクライナでは中央ラーダ軍とボリシェビキ軍間での内戦真っ只中であったことが分かります。

では、ロシアが中央同盟国との間で締結した「ブレスト=リトフスク条約」とは、一体どのような条約であったのでしょうか。


和平交渉をスタートさせたのはウクライナよりもロシアの方が先でした。

10月革命によってボリシェビキ軍が臨時政府軍を打倒し、新政権を打ち立てる中で、臨時政府がロシアを代表する正式な政府であると認識し、臨時政府が統括するロシア領内での自治を宣言していたウクライナが、臨時政府の崩壊に伴って正式にロシアからの独立を宣言したのが1917年11月20日の事。

このままではロシアと対立構造にあるドイツがウクライナに介入することは避けられない状況の中でロシアは1917年12月22日、中央同盟国との間で和平交渉をスタートさせます。

しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を和平交渉の条件として提示したことから、この交渉はすぐに暗礁に乗り上げています。ボリシェヴィキ派ウクライナ人民共和国が出来るのはその3日後。

12月25日にロシア側からウクライナ側に最後通牒が突きつけられ、ウクライナとロシアは戦争状態に突入します。


ウクライナと中央同盟国との交渉の経緯

一方、ウクライナ側が中央同盟国との和平交渉に乗り出したのは翌年1918年1月1日の事。中央同盟国側からすると、ロシアと並行する形で同時にウクライナとも和平交渉を進めるわけです。

これに対し、ロシア側(トロツキー)らからの妨害工作が入るわけですが、ウクライナは豊富な穀倉地であり、ウクライナの穀物を魅力に感じたドイツは、ロシアよりウクライナを和平交渉の相手として選択します。

その結果、1918年2月9日ウクライナ中央ラーダ政府と中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」が締結されます。

同条約では、100万トンの穀物を提供することを見返りに、中央同盟国がウクライナに軍事協力を行うことが約束されました。


ボリシェヴィキ政権の誤算

ウクライナと中央同盟国との間で条約が締結されたことを受けて翌2月10日、トロツキーは中央同盟国との交渉を打ち切ります。

ボリシェヴィキ政権の誤算としては、この時点で既にボリシェヴィキ側はウクライナ領土の大半を手中に収めており、ウクライナの事を舐めてかかっていた部分がありました。そして、ドイツをはじめとする中央同盟国内部にもロシア革命の考え方に賛同する労働者や農民、兵士たちがいることから、彼らが武装蜂起を起こすことにも期待していたわけです。

ですが、ウクライナが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結してしまった事から、この計算が大きく狂ってしまいました。レーニンは慌ててウクライナに対する懐柔策を講じるわけですが、結果的に中央ラーダ軍は息を吹き返し、自分たちが占領していた領土の大半が逆に奪い返され、ボリシェビキ軍はロシア領土内へと追い返されてしまうことになります。


さて。そもそもウクライナがロシア赤軍に劣勢を強いられていた最大の理由は中央ラーダ軍がロシア赤軍に対して武力が劣っていたわけではなく、赤軍がウクライナに対して仕掛けた情報戦(プロパガンダ戦略)によって内部崩壊させられたことが原因です。

つまり、10月革命によって政権を奪取したばかりのボリシェビキ軍の戦力は「その程度」の戦力でした。

第一次世界大戦において英仏を筆頭とする連合軍を相手にする独墺軍にとって、ロシア赤軍の軍力などまさに赤子の手をひねるようなもの。ウクライナ領土を経て、独墺軍が破竹の勢いでロシア領土にまで攻め入る状況にありました。


ロシアが締結した「ブレスト=リトフスク条約」

ロシアは元々「賠償金や領土併合なしの和平」を条件として中央同盟国との間での和平交渉に臨んでいました。

ですが、この様な状況に陥りますと、もうそうは言っていられません。

ロシア赤軍最高総司令官は1918年2月19日、全軍に武装蜂起をする様指令を出し、直ちにドイツ軍との間で和平交渉に入る様命令を出します。

条約が締結されたのは3月3日の事。ロシアはこの条約によって第一次世界大戦戦線から正式に離脱。

そして「フィンランド」、「エストニア」、「ラトヴィア」、「リトアニア」、「ポーランド」、「ウクライナ」及び、トルコとの国境付近の「アルダハン」、「カルス」、「バトゥミ」に対するすべての権利を放棄させられます。

ロシアが放棄した地域

上図の赤色で示された地域ですね。これらの地域はドイツに割譲され、そのほとんどが独立を果たすこととなります。

ウクライナは4月29日、ヘーチマンの政変によって中央ラーダ軍が解散させられ、政治体制も共和制から君主制へと移行。
国名も「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」へと変更されます。

6月12日、ロシアはついにウクライナ国との間で休戦協定を結ぶこととなり、この事を受けてロシア内戦は一時休戦状態となりました。

また更に8月27日、ブレスト=リトフスク条約には追加条項が加えられ、ロシアは条約相手国に対して多額の賠償金を支払わされることとなりました。

条約への妥結後、レーニンは首都をペトログラードからモスクワへと遷都しました。


これでブレスト=リトフスク条約に関する点はほぼ回収できましたね。

この語、1918年11月13日、中央同盟国は連合国側に敗北し、ブレスト=リトフスク条約は効力を失い、ロシア=ウクライナは再び交戦状態へと突入することになります。

一方この条約に調印したことでボリシェヴィキ政権は国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなりました。
この事でロシア赤軍(ボリシェヴィキ側)と白軍(反ボリシェヴィキ側)との対立が激しくなり、ロシア国内でも内乱状態に突入することになります。

第一次世界大戦終結後、連合軍側が白軍側についてこの内乱に介入したことから、ロシア国内この後2年間に及ぶ内戦状態が継続することになりました。


さて。改めまして、次回こそ「コミンテルン」に関連した記事を作成したいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]