第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第344回 ロシア革命時のウクライナ/ウクライナ・ソビエト戦争勃発

ウクライナ1918

前回の記事を軽くおさらいします。

前回の記事は、ロシア帝国領土となった後、ロシア帝国に於いて勃発した「二月革命」。これによって独立の機運が盛り上がったウクライナが、十月革命が勃発するまで、ニコライ政権に続いて誕生した「臨時政府」を正式な政府であると認め、「臨時政府が統治するロシア」に対して、「ロシア連邦内の自治地域である」という宣言を勝手に行ってしまった第一次ウニヴェルサール期。

その後第一次世界大戦の影響下、ドイツ軍がウクライナを占領してまいかねない状況の中で慌てて臨時政府がウクライナの自治権を認めた「第二次ウニヴェルサール期」、十月革命に於いて臨時政府がボリシェビキ政権に敗れた後、ついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言した第三次ウニヴェルサール期。

これに対抗してボリシェビキ政権がウクライナ政府=中央ラーダに工作員を送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとするもののこれに失敗。

これを受けて中央ラーダに対して最後通牒を突きつけ、これを拒否されるや否やその翌日、もう一つの「ウクライナ人民共和国」を元々東ウクライナの首都であった都市、「ハルキウ」に建国します。

ハルキウは元々ウクライナ人ではなく、ロシア人やロシア人が多く居住していた地域で、ボリシェビキもこの地域には浸透しやすかったんですね。

前回の記事ではこの国の名を「ウクライナ・ソビエト共和国」と記しましたが、実際にこの名称で呼ばれるようになるのは1918年3月19日の事。この時、ウクライナ人民共和国以外に存在していたいくつかの「ソビエト共和国」を、統合し、「ウクライナ・ソビエト共和国」と呼称するようになります。

前回の記事ではここまでお伝えしました。今回はこれ以降。ロシア・ウクライナ戦争がどのようにして進んでいくのか。また第一次世界大戦の収束に伴ってこの戦争にはウクライナでもロシアでもない、第三国が関わるようになるわけですが、この過程について記事にしたいと思います。


「ウクライナ・ソビエト戦争」の経緯

ただ、この「ウクライナ・ソビエト戦争」。具体的に情報が掲載されている資料がWikiしかありませんので、この情報をベースに進めていくことになります。

1.実際に進行が開始するのは翌年、1918年1月の事で1月9日以降、カテリノスラウ、アレクサンドロフスク、コノトープ、フルーヒウと次々とボリシェビキ軍が占領。

2.一方でウクライナ中央ラーダ政府は1月22日、ロシアからの完全な独立を宣言します。(第四次ウニヴェルサール)

ウクライナとボリシェビキ軍の戦力は拮抗していた様なのですが、ボリシェビキ軍はウクライナに対して情報戦を仕掛け、このことによって中央ラーダ軍を内部から崩壊させていくような戦い方をしていたようです。

3.1月28日、ウクライナの首都、キエフにてボリシェビキ軍スパイが武力蜂起を起こし、翌29日には「クルーティの戦い」が勃発し、ウクライナの300人の青年隊が4千人のボリシェビキ軍に敗北。

4.2月8日にはボリシェビキ軍によりキエフが占領されてしまいます。中央ラーダ軍はジトームィルまで撤退します。

地図でいえば、ウクライナ領の中央にある●、「Kiev」がキエフ、その西側の●、「Zhitomir」がジトームィルです。

この時、ボリシェビキ軍(そのほぼすべてがロシア人)は、元々ウクライナ人を見下す傾向が強く、レーニンたちが「ロシア革命」を起こして勝ち取ったはずのソビエト政府だったのですが、ウクライナ人にとってその振る舞いは「帝政ロシア時代のロシア」を思い起こさせるものとなったのだとか。

キエフを占領したムラヴィヨーフという人物が率いるボリシェビキ軍=赤軍は占領下におけるキエフで、約2週間のうちにウクライナ人を無差別に逮捕・処刑し、約2000人のウクライナ人を殺害したのだそうです。フランス革命時代のロベスピエールを彷彿させますね。

この事で、ウクライナ人の反ボリシェビキ感情はマックスに到達します。


ウクライナ・ドイツ間での「ブレスト=リトフスク条約」の締結

5.2月9日、中央ラーダは独墺との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。食糧100万トンと引き換えに独墺軍の軍事的協力を得ることに成功します。

この段階、つまり1918年2月9日の段階から、元々「ウクライナとロシア」の戦いであったはずの「内戦」にドイツとオーストリアが参戦します。

ここでは「独墺と条約を締結した」と記しましたが、実際に締結した相手は「中央同盟国」。

もともと第一次世界大戦は「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦いから始まったわけですが、ロシアはロシア革命により三国協商より離脱。一方イタリアは途中で三国協商側に寝返り、三国同盟から離脱。

独墺はオスマン帝国、ブルガリア王国と共に「中央同盟国」を形成する状態にありました。

6.ウクライナ中央ラーダからの要請を受け、独墺はウクライナへ45万の軍隊を派遣。独墺の支援を受けた中央ラーダは破竹の勢いで領土を回復していきます。

7.1918年3月、ロシアは首都をペトログラードからモスクワへ遷都。

8.ウクライナ領土にあったソビエト共和国を全て「ウクライナ・ソビエト共和国」として結集するもそのほぼ全てが中央ラーダ軍に奪い返され、ウクライナ・ソビエト共和国はロシア領土内に逃げ込むことになります。

9.4月末日までに中央ラーダはウクライナ領のほぼ全てを奪い返します。


ヘーチマンの政変

さて。この段階で「ウクライナ」は「独墺」と同盟関係にあるわけですが、ウクライナ領土内に派遣されたドイツ軍。このドイツ軍の胎動が実に横柄なもので、ウクライナ領土内の農民から膨大な食料が徴発されるなどし、これまでボリシェビキに向けられていた反発心が、今度はドイツ軍をウクライナに招き入れた中央ラーダに対して向けられることになります。

10.1918年4月29日、ウクライナ・コサックの氏族であるパウロー・スコロパードシクィイがキエフ・サーカス劇場にて行われていた農民大会にて、ヘーチマンに選出される。(ヘーチマンの政変)。中央ラーダは解散させられ、国号は「ウクライナ国」と改められる

まるでロシアで起きた10月革命を彷彿させるようなクーデターがウクライナでも勃発します。

中央ラーダの「ラーダ」は議会を意味しますから、所謂「共和制」を目指す政権です。ところがヘーチマンの政変によって誕生割いた政権は「ヘーチマン(コサックのボス)」が存在しますので、ウクライナ国がは「君主制国家」でありました。

ボリシェビキが政権を握ったロシアとは違って、ウクライナでは君主国家へと再び時代が逆戻りした形となったわけですね。


中央ラーダ軍の復活

1918年11月1日 西ウクライナ人民共和国が独立を宣言

1918年11月11日 ドイツが連合国に敗北

ウクライナ国ができたのは4月末であったわけですが、同年11月、ドイツが連合国に敗北してしまったことでドイツ軍はウクライナから撤退してしまいます。

これをまたとない機会ととらえた中央ラーダ軍の残党が再び結集し、「ディレクトーリヤ」という組織を作ります。
12月14日 撤退するドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを再び占領。ウクライナ国ヘーチマン、スコロパードシクィイは亡命し、ウクライナ国は消滅。ウクライナ人民共和国が復活

1919年1月6日 ウクライナ・ソビエト共和国は「ウクライナ労農臨時政府」を立ち上げ、「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に国号を変更する

3月10日 ウクライナ社会主義ソビエト共和国は独立を宣言し、ロシア共和国と軍事同盟を結ぶ

ややこしすぎる・・・

この時点でウクライナは「西ウクライナ人民共和国」「ウクライナ人民共和国」「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の3つ存在する状態となります。

ちなみに「西ウクライナ人民共和国」は地図でいうと西側の黄色の部分。「GALICIA(ガリツィア)」と書いている部分があると思うのですが、このあたりで独立した国家です。で、同エリアに●で、「Lvov-Lemberg(リヴィウ)」と書いている都市がありますが、ここが西ウクライナの首都。

元々この地域に住んでいる住民の6割はウクライナ人だったのだそうですが、そのほとんどが農民で農村部に住んでいて、首都であるリヴィウにはウクライナ人ではなく、ポーランド人やユダヤ人によって支配されていたのだそうです。

ですから、西ウクライナ人民共和国が独立を宣言した時点で西ウクライナとポーランドとは交戦状態に陥ります。

一方のウクライナ人民共和国では、国家こそ復活したものの、ディレクトーリヤ政府は「ボリシェヴィキ・ソビエト政府の軍隊(赤軍)」や「南ロシア軍(白軍、白衛軍)」、「ウクライナ革命反乱軍(黒軍)」と交戦状態に陥ります。「ボリシェヴィキ・ソビエト政府」が「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の事ですね。

西ウクライナとウクライナ共和国は双方がそんな状態にありましたから、1919年1月22日、両国は正式に統一宣言を行います。


ポーランド・ソビエト戦争

1919年2月14日 ポーランド・ソビエト戦争勃発

ドイツ軍が撤退した後、レーニンはロシアが撤退した地域に各地域の共産主義勢力と連携すること、ドイツ、及びオーストリアの革命勢力を支援することを目的として赤軍を派遣することを命じます。(1918年11月)

「ドイツ軍が撤退した地域」に該当するのが「ポーランド」でした。
ドイツの敗戦後、ドイツとソ連から領土を割譲される形で「ポーランド」が復活します。

第一次世界大戦当時、ポーランドはドイツとソ連によって割譲されており、更にソ連領ポーランドとウクライナが国境を接する形にありました。

一方のポーランドは、フランスからの支援を受ける形で1919年2月、軍の再編成を行います。ここに攻め込んできたのがソ連の赤軍でした。(ポーランド・ソビエト戦争の勃発)

この様な状況の中で、1919年7月17日、ポーランドはガリツィア地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は崩壊し、残党がウクライナ人民共和国へと逃げ込むことになります。

ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤ軍と西ウクライナ人民共和国軍は共闘し、ボリシェビキ赤軍と一進一退の攻防を広げるのですが、1919年10月ウクライナでチフスが流行し、ウクライナ軍は兵士の7割を失います。

これを受け、ウクライナ軍はウクライナ人にとって宿敵であったはずのポーランドへ亡命することとなります。

ディレクトーリヤ軍を率いるシモン・ペトリューラにとって最も憎む相手こそボリシェヴィキ軍。ペトリューラはポーランドに対し、自分たちを唯一のウクライナを代表する唯一の政府として認める事を条件として、ポーランドと同盟を結びます。

ところが、一方の西ウクライナ人民共和国軍はボリシェビキよりもむしろポーランドを最大の宿敵として認識していた為、ペトリューラとは袂を分かち、ポーランドではなくロシア赤軍と合同することとなります。

然し、結果的にディレクトーリヤ軍とポーランド軍はロシア赤軍に敗北し、ポーランドはこの戦争を収束させるよう西欧諸国より圧力をかけられ、ディレクトーリヤ軍ではなくウクライナ社会主義ソビエト共和国を正式なウクライナ政権であるとして承認し、西ウクライナ人民共和国を自国領土として併合しました。

それまで「ウクライナ人民共和国」であったはずの領土は「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の領土として併合されることとなりました。


ウクライナ人民共和国政府はその後も亡命し続け、中心人物であるペトリューラはソ連のスパイに暗殺されるものの、亡命政府そのものは第二次世界大戦後も存在し続け、現在は「ウクライナ共和国」として無事独立を果たすことに成功しています。


しかし、それにしても、「東欧」ってものすごく複雑ですね。

次回記事では、いよいよ「コミンテルン」が発足する経緯について迫ってみたいと思います。

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