第344回 ロシア革命時のウクライナ/ウクライナ・ソビエト戦争勃発など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第343回 ロシア革命の財源はどこから?/ユダヤ陰謀論の正体

さて。今回はソビエト連邦が誕生する経緯に於いて私が関心を持った4つのテーマの内2つ目。「ウクライナ」にスポットを当ててみたいと思います。


「ウクライナ」についての復習

今回のシリーズ の冒頭では、「ロシア」に焦点を当てる前に、「ロシア」が誕生する原点となった国家である「ウクライナ」についての記事を作成しました。

とはいえ、当時のウクライナの名称は「ウクライナ」ではなく、「キエフ=ルーシ公国」。現在のウクライナの首都、「キエフ」を中心に存在した国家です。キエフ公国がモンゴルに滅ぼされた後、モンゴルの支配下に於いてこのキエフ公国を継承した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」がウクライナのルーツです。

「ロシア」はキエフ大公より土地を分割された「ウラジーミル・スーズダリ公」が、後に「モスクワ公」となり、これがロシアの源流となります。

「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」はその後分裂し、「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアに、それぞれ分割して統治されることとなりました。

元々敵対する関係にあったポーランドとリトアニアですが、共通の脅威であったドイツ騎士団に対抗するため、同盟関係を結び、やがて両国を一人の元首が束ねる「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアにそれぞれ分割統治されていたわけですから、両国が合併し、一つの国家となったことで「ウクライナ」は再び一つ国家における領土として束ねられることとなります。実際には統合される3年前、ウクライナそのものがリトアニアからポーランドへと移り、「ウクライナ」というポーランドの一地域となります。

そして、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」に出現したのが「ボフダン・フメリニツキー」。ウクライナ・コサックの指導者です。ウクライナ・コサックは元々「キエフ=ルーシ」の士族・豪族の流れ者集団で、ウクライナの一地域に拠点を構えていました。

ウクライナがポーランドの一地域となった折、同地域の「登録コサック」、即ち公的な軍事組織として認められたコサック軍には、他のポーランドの貴族と同等の権利が認められました。

フメリニツキーが率いていた「ウクライナ・コサック」とは、このポーランドの一地域となった「ウクライナ」のコサック軍であったものと考えられます。

ただ、この「ウクライナ・コサック」が与えられていた権利は限定的で、しばしば共和国に対する反乱を起こしていました。

その代表的な反乱がフメリニツキーの起こした「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるもので、フメリニツキーは反乱の結果、ポーランド政府に勝利し、「ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)」という名前の国家を打ち立てます。この時ウクライナ人たちは初めて自分たちの事を「ウクライナ人」であると認識しました。

この後、フメリニツキーは自国をロシアの保護下に置くことを求め、ヘーチマン国家はロシアの保護下に置かれることとなるのですが、フメリニツキーの死後、ウクライナ=ロシア戦争が勃発するなどし、ウクライナは内戦状態へ。

その後、「右岸ウクライナ」がポーランド=リトアニア政府に、「左岸ウクライナ」がロシアに、それぞれ分割統治されることとなります。右岸ウクライナはポーランド=リトアニアにより自治権を失うのですが、左岸ウクライナはロシアにより自治権をみとめられ、保護国として存在し続けます。

所が、後に左岸ウクライナはロシアに対して独立戦争を仕掛け、失敗。その後左岸ウクライナもまた自治権を失うことになります。

その後、ポーランドそのものがロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割されることとなり、「ポーランド=リトアニア共和国」をのものが事実上消滅。右岸ウクライナまで含めてウクライナはロシア領となります。


ロシア革命と第一次世界大戦の経緯

さて。それでは時間軸を再びロシア革命へと戻します。

ここでもう一つおさらいなのですが、ロシア革命(10月革命)が起きたのは現代の暦で1917年11月7日。第一次世界大戦の真っ只中です。

では、改めて「第一次世界大戦」がどのような戦争であったのかというと、「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦い。これに他の諸外国が絡んだ形で行われていた戦争です。

三国同盟対三国協商

上図を見るとわかると思いますが、三国同盟を英仏とロシアとで挟撃している構図です。

ところが、第一次世界大戦への参戦で、肝心の労働力であった農民たちが兵士として戦線に駆り出され、ロシアは極端な食糧不足に陥ります。で、食料の供給を求めて主婦たちが起こしたデモをきっかけに勃発したのが「二月革命」。二月革命の勃発により、ニコライ二世が失脚し、帝政ロシアが崩壊。

その後のロシアはニコライ政権下でドゥーマ(議会)をになっていた面々によって結成された「臨時政府」と、メンシェヴィキの旗振りによって結成された「ペトログラード・ソビエト」との二重権力構造となるわけですが、ペトログラード・ソヴィエトは臨時政府を「ブルジョワジー」であると考え、彼らの目指す「ブルジョワ革命」が臨時政府によって行われたと判断し、ペトログラード・ソビエトは臨時政府を指示する方針を示しました。

その後も臨時政府はニコライ政権下、第一次世界大戦に参戦する姿勢を改めず、4月危機、7月事件を経て左派政権である社会革命党の党首であるケレンスキー内閣が結成されるも、状況は変わらず。そしてついに10月革命が勃発し、ケレンスキーは失脚。ボリシェビキが政権の座に就くこととなったわけです。(ロシア革命の完成)


「帝国主義」の象徴である第一次世界大戦への参戦に反発してボリシェビキ政権が誕生したわけですから、この時点でロシアは第一次世界大戦から脱退することになります。

ですが、ドイツからすればそうは問屋が卸しません。これまでロシアとは対立する状況にあったわけですから、このままではロシアは一気に独墺によって攻め込まれることとなります。これを防ぐために、ボリシェビキ政権との間で講和条約を締結する以外に方法はない・・・ということになりますね。

この様な発想からロシアと中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)との間で締結されたのが「ブレスト=リトフスク条約」。この条約の締結によってロシアは第一次世界大戦から脱退します。


ロシア革命とウクライナ

さて。それでは改めて「ロシア革命とウクライナ」について考えてみます。

二月革命の勃発により、帝政ロシアは崩壊したわけですが、当時ロシア領にあったウクライナでも、二月革命の成功はウクライナ独立の機運を盛り立てることとなりました。この機運を受けて、1917年3月、ウクライナの各勢力間の関係を調整する政治的中枢機関として設立されたのが「ウクライナ中央ラーダ」。

「中央ラーダ」の「ラーダ」とは、ロシアでいう「ソビエト」とほぼ同義です。

ヘーチマン国家時代のウクライナもそうなんですが、どうもこのウクライナ人、自分たちの力で結束しよう、という思いがそれほど強く内容で「中央ラーダ」もこの例にもれず、せっかく独立や自治を志して結成されたのに、その方針として「「ロシア連邦」の枠内で共和国全土を治める方針」を定めます。

つまり、ウクライナとして完全に独立することはせず、ニコライ政権に続いて誕生した臨時政府にウクライナの命運を委ね「臨時政府の統治するロシアの一部として、ウクライナに自治を認めてください」という・・・まあ随分都合の良い方針を定めたわけです。まるでどっかの朝鮮半島を見ている様です。

で、この方針を以て中央ラーダの代表団はロシアベラルーシを訪れ、「自分たちに自治権を与えてください」とお願いするわけですが、当然断られます。

これもまた当然の事で、ウクライナは自分たちが戦争状態にある独墺とロシアとの干渉地域に当たるわけです。そこに自治権を認める事は、ロシア自身の命運を左右する結果ともなりかねませんから。

で、断られたウクライナはなんと、6月23日、「ウクライナはロシア連邦領内の自治地域である」と勝手に宣言してしまいます。(第1次ウニヴェルサール期)

ところが、一方のロシアでは、臨時政府に於いて陸海相の座に就いたケレンスキーが、ドイツに対する徹底抗戦を訴えるわけですが、二月革命により第一次世界大戦継続に対するモチベーションがダダ下がりのロシアの前線は完全に崩壊し、ペトログラードでは兵士らによるデモ(7月事件)が勃発し、8月には「コルニーロフの反乱」が勃発。

最前線であるウクライナが、いずれドイツに占領されてしまいかねない状況に陥ります。そこで、慌てて臨時政府は中央ラーダが設置されているキエフに使者を送り、地域を限定して、にはなるものの、ウクライナに対して「自治」を認める事を伝達します。

このことによって、ウクライナはロシアに併合されて以来、初めて正式な形での「自治権」を有することになりました。(第2次ウニヴェルサール期)


ウクライナ・ソビエト戦争の勃発

さて。ここまで見ていただいているとわかると思いますが、ウクライナ「中央ラーダ」は、明らかにニコライ政権の後を引き継いだ「臨時政府」を相手に交渉を行っています。この時点ではまだボリシェビキ政権は誕生していないわけですから、当然と言えば当然なのですが、中央ラーダは明らかに「臨時政府派」なのです。

ところが、その「臨時政府」がボリシェビキの起こしたクーデターによって崩壊。中央ラーダはこのことによって「盟主」を失ってしまいます。中央ラーダは、ボリシェビキの行為を「暴力的である」として非難します。

自分たちが仕えてきた臨時政府が崩壊したわけですが、だからと言って臨時政府を崩壊させたボリシェビキにホイホイと仕えるわけにはいきません。

朝鮮の場合は日清戦争で清国が日本に敗れた後、今度は日本に尻尾を振り、日本が三国干渉で旗色が悪いと見るや、今度はロシアに対して尻尾を振るという非常に情けない態度を取り、最終的には日本の手によって強制的に中国から独立させられてしまったわけですが、ウクライナは違いましたね。

ロシア臨時政府がボリシェビキに敗れ、崩壊するとウクライナはついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言し、完全にロシアからの独立を宣言するのです。(第3次ウニヴェルサール期)

形式上は、あくまでも「ロシア臨時政府が統治するロシア領内での独立」を意味するわけですが、その、肝心の臨時政府が存在しないわけですから、これが事実上の「独立宣言」となりました。

これを受け、「英仏露三国協商」を構成していた英と仏は、早急にウクライナを国家として承認します。

この段階ではまだボリシェビキ政権は臨時政府から政権を奪取したばかりで、ドイツとは対立する構造にあります。ウクライナはそんなロシアから独立を宣言したわけです。

一方、ボリシェビキ政権は英仏と同盟関係にあった臨時政府に対するクーデターを仕掛け、これを成功させたわけですから、英仏とはまた対立する構造が出来上がります。何しろ、これを成功させたレーニンやトロツキーは、「反帝国主義」を掲げる共産主義者ですからね。

また、英仏は当然独墺と戦争状態にあるわけですから、ウクライナに独墺側につかれるわけにもいきませんから、英仏がウクライナの国家承認を急いだのも理解できます。

また、一方のボリシェビキ政権も、ウクライナに勝手に独立されるわけにはいきませんから、ボリシェビキ政権は先ず中央ラーダにスパイを送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとしますが、失敗。

そこで、ボリシェビキ政権はウクライナ中央ラーダに対し、「ウクライナでソビエト軍、ボリシェヴィキ軍の行動の自由を保障すること」を条件に中央ラーダが運営するウクライナ人民共和国の設立を認めるとした交換条件を突きつけます。

勿論これは中央ラーダにとって飲めるものではありませんから、ボリシェビキ政権から中央ラーダに対する「最後通牒」となります。当然中央ラーダはこれを拒否し、ボリシェヴィキはウクライナへ軍事侵攻を行うことを決定(1917年12月25日)。翌26日、ボリシェヴィキは、ウクライナのロシア側の地域、「ハルキウ」という地域にもう一つのウクライナ人民共和国、「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立します。

「ウクライナ・ソビエト戦争」の勃発です。

ウクライナ1918

こちらの図で、右上の濃い紫色のエリアがロシア・ソビエトで、その西側の薄紫色のエリアが「ウクライナ・ソヴィエト共和国」です。
この地域には元々「ボリシェヴィキ派」のウクライナ人が多くいた地域でもあったようです。


次回記事では、ウクライナ・ソビエト戦争の経過と、これに絡む諸外国の様子なども記事にできればと思います。


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