第334回 ロシア革命後の経緯など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第324回 10月革命の経緯と10月革命後のロシア

前回の記事では、「ロシア革命」に於いて、レーニン率いる「ボリシェビキ」が中心となった「軍事革命委員会」、同じ社会主義政党であるメンシェビキや社会革命党が中心となった臨時政府に対するクーデターを起こし、遂にロシア政府(冬宮殿)を制圧する様子(10月革命)を記事にしました。

記してみた印象としては、私の印象として、「ロシア革命」はもっと凄惨で、血で血を洗うような革命であったのではないか、というイメージを持っていたのですが、実際には当時の国際社会から考えても、非常に穏やかに、平和裏に「革命」が行われたのだということに、少々拍子抜けする思いがしました。

フランス革命や等を見ていると、「支配される側」よりも「支配される側」の方が革命においては過激で、確かに怠惰ではありますが、支配する側が暴力的な手段に訴えることはそうなかった様に思います。

ですが、ロシア革命においては、むしろこの「支配する側」の方が暴力的であり、支配される側は非暴力的であるように映りますね。意外でした。

レーニンにしても、7月事件までは暴力そのものに反対し、暴力に依らない「社会主義革命」を訴えていた彼が、突然その方針を転換し、「一転して暴力によるブルジョワの廃絶を訴えるようになった」と私は記しましたが、その手段こそ「革命」という暴力的な手段であったものの、その結果は非常に平和的であったわけです。


さて。このような結果をもたらした理由として、これもまた意外だったのですが、10月革命に向けてボリシェヴィキに合流した、「社会民主労働党の過激な反戦派であるメジライオンツィ」。ここに所属していたレフ=トロツキーの存在です。

トロツキー


今回の記事は、10月革命と同時に開催された「第2回ソビエト大会」。ここに於いて行われたトロツキーの演説内容からスタートしたいと思います。


第二回ソビエト大会に於けるトロツキーの演説


内容は以下のサイトから引用します。
第2回全露ソヴィエト大会での演説

サイトそのものをどのような紹介の仕方をすればよいかが分かりませんので、たちまちリンクを貼り付けておきます。

【トロツキーの演説】
1、メンシェヴィキとエスエルの退去について

(10月25日)

 同志トロツキーは次のように述べた。人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。生起したことは陰謀ではなく、蜂起である。われわれはペトログラードの労働者と兵士たちの革命的エネルギーを鍛錬してきた。われわれは大衆の意志を陰謀へではなく、蜂起へと、公然と鍛え上げてきたのだ、と。

 演説の結びに、同志トロツキーはボリシェヴィキ会派の名において、次のような決議を提案した。

 

 第2回全ロシア・ソヴィエト大会は次のように確認する。

 メンシェヴィキおよびエスエル代議員の大会からの退去は、武器を手にした労働者、兵士大衆の前衛が反革命の攻撃から大会と革命とを防衛しているこの瞬間において、労働者、兵士大衆が全ロシアの全権を代表するのを阻もうという、無力で犯罪的な試みである。

 協調主義者諸党は、その旧来の政策によって革命の事業に甚大な損害を与え、労働者、農民、兵士たちの間で完全に面目を失墜した。

 協調主義者たちは、軍隊とわが国とを滅亡の淵へと追いやった6月18日の破滅的な攻撃を準備し、それに賛成した。

 協調主義者たちは、死刑を復活させた政府、人民を裏切る政府を支持してきた。協調主義者は7ヵ月間というもの、土地問題で農民を絶えず欺く政策を支持してきた。

 協調主義者たちは革命的諸組織の破壊、労働者たちの武装解除、軍隊へのコルニーロフ的規律の導入、血まみれの戦争の無意味な引き延ばしを支持してきた。

 協調主義者たちは、幾百万の勤労大衆を飢餓に追いやりつつあるわが国の経済的崩壊を、彼らの同盟者であるブルジョアジーがいっそう深刻にするのを実際には手助けしてきた。

 この政策の結果、大衆の信用を失ってしまったにもかかわらず、協調主義者たちは、ソヴィエトおよび軍事組織の長期にわたって改選されていない上層部における自分たちの地位に、作為的にかつ不誠実にもしがみついてきた。

 以上の事情のゆえに、全ロシア中央執行委員会(ツィック)は協調主義的な軍委員会と政府当局による直接の支持を拠り所としつつ、あらゆる手段をもってソヴィエト大会を妨害しようとしてきた。

 大会開催を妨害し革命的階級の世論を偽造しようとするこの政策が惨めな失敗をこうむったとき、協調主義者たちによって創られた臨時政府が、ペトログラードの労働者と兵士たちの圧力の下に崩壊したとき、全ロシア・ソヴィエト大会が革命的社会主義の党(ボリシェヴィキ)の明白な優勢を示し、ブルジョアジーとその下僕によって裏切られ苦しめられてきた革命的大衆にとって、蜂起が唯一の出口であることが明らかになったとき、協調主義者たちは、ソヴィエトの力を掘りくずそうと無駄な努力をしたあげく、それと絶縁したことによって、自らの最後の結論を引き出したのである。

 協調主義者たちの退去は、ソヴィエトを弱めるどころか、それを強化するものである。なぜならば、労働者と農民の革命の中から反革命的混ぜ物を一掃するからだ。

 エスエルとメンシェヴィキの声明を聞いたのち、第2回全ロシア大会は自らの事業を続行する。そして、その任務は勤労人民の意志と10月24日、25日の彼らの蜂起とによって定められている。

 去れ協調主義者どもよ! 去れブルジョアジーの下僕どもよ!

 兵士、労働者、農民による蜂起の勝利万歳!

上記文章は、ロシア語版『トロツキー著作集』に収録されているものですが、冒頭の文言は、この資料の作成者の言葉だと思われます。

内容はもっぱら「協調主義者」たちへの批判です。同資料のタイトルに「1、メンシェヴィキとエスエルの退去について」と記されていますね。

メンシェヴィキと「エスエル」。エスエルとは、即ちケレンスキーが所属した社会革命党の事です。
トロツキーの演説を引用する形で記されていますが、その内容はレーニンの主張をそのまま地でいくような内容となっています。

要約すれば、

メンシェビキも社会革命党も、一見すると革命政党のように見えるが、結果的にはブルジョワたちとの協調を図り、この事が革命そのものを形骸化させ、兵士や農民たちに甚大な被害を与えた。

「協調主義者」たちを政治の舞台から一掃することが、本当の「革命」である

と、そういった内容になっています。
リンク先からの受け売りになってしまいますが、現時点としてはこのロシア革命を判断する上での明確な情報を持ち合わせていませんので、このリンク先の内容を参考としながら記事を進めていきます。

リンク先資料によれば、この「第二回ソビエト大会」を開催するに当たって、レーニンは

「大会を開催するべきではない」=「大会を開催することはクーデターを失敗させる決定的な要因になる」

と考えていたのですが、一方のトロツキーは、

「大会を開催する前にクーデターを起こすことは、双方に不要な流血を起こす結果になる。クーデターと大会を連携させて行うことが必要だ」

と考えていました。トロツキーは、軍事革命委員会を設置する際、その演説の中で、

 「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」

と宣言しており、要は堂々と「クーデターを起こすための組織を作るぞ!」と言いながら軍事革命委員会を作っていたわけです。
ですが、そもそも軍事革命委員会を作ることを提案したのはメンシェヴィキの面々でしたし、特に「コルニーロフの反乱」に於いて中心的な役割を果たしたボリシェヴィキに強く出ることは出来なかった・・・ということでしょうか。

第二回ソビエト大会を開催する直前に、エストニア自治政府に於いて、ボリシェヴィキの指導者の一人が左派勢力を率いてクーデターを起こします。

これを受けてケレンスキー内閣はボリシェヴィキ機関紙の印刷所を占拠し、「武力による言論弾圧」を行います。
トロツキーは、この様なケレンスキー政府の行動を、「第二回ソビエト大会を妨害する行為である」とし、「ソビエト防衛」の名の下、軍事革命委員会はケレンスキー内閣を「鎮圧」する形で見事クーデターを成功させてしまうわけです。

この時点でペトログラード内のロシア人兵士たちはほぼボリシェヴィキ側についていましたから、結果的にほとんど血を流すことなくクーデターを成功させることができたわけです。


トロツキーは、また同じ演説の中で、以下の様にも述べています。

平和のための闘争には2つの道がある。

第1の道は、同盟諸国の政府と敵国の諸政府に対して、革命の道徳的および物質的力を対置することである。

第2の道、これはスコベレフとのブロックであり、そのことはテレシチェンコとのブロックを意味している。すなわち、帝国主義への完全な屈服を意味している。

「平和に関する布告」の中でわれわれが各国の政府と人民とに同時に呼びかけていると指摘する者がいる。しかし、これは形式的なものにすぎない。われわれは当然のことながら、自分たちのアピールで帝国主義政府に影響を与えようなどとは思っていない。しかし、これらの政府が存在する間は、われわれはそれを無視するわけにはいかないのだ。

われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。

もし、蜂起したヨーロッパ人民が帝国主義を押しつぶさないならば、われわれが押しつぶされるだろう。このことは疑いない。ロシア革命が西欧における闘争の旋風を引き起こすか、あるいはすべての国々の資本家どもがわが革命を締め殺すかのどちらかだ。

改めて確認しておきますと、ボリシェヴィキの指導者はレーニンです。ですが、彼は今回記事にした「第二回ソビエト大会」において、これを開催するか、しないかでトロツキーと意見が分かれ、結果的にトロツキーの選択(戦略)が正しかったことが証明されてしまいました。

トロツキーの戦略により、ほとんど流血することなく革命を成功させることができたのです。これ以来、レーニンはトロツキーの事をとても信頼するようになります。

そして、トロツキーは上記演説の中で、

「われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。」

と述べています。
つまり、ロシアが行った革命のモデルを、ロシアだけでなくヨーロッパ全土にまで広げることを提案しているわけですね。

ここまで来ると、私の過去の記事を読んだことがある人の中には、とある言葉が思い浮かぶのではないかと思います。

第三インターナショナル。そう、「コミンテルン」の事です。

トロツキーが演説した内容は、そっくり「コミンテルン」の在り方と同じことを言っています。

現時点ではまだ私自身の「予測」にすぎませんが、次回記事では、この「コミンテルン」結成に向けた経緯に主眼を置いて記事を進めてみたいと思います。


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