第324回 10月革命の経緯と10月革命後のロシアなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第323回 7月事件と10月革命までの経緯

私自身が勉強しながら記事を進めていますから、内容としては「真相」に踏み込む形ではなく、表面的な経緯をなぞる形となっていますが、もう暫くお付き合いください。

前回の復習です。
ロシア革命に於いては完全に出遅れた感じのボリシェビキとレーニンですが、二月革命の勃発を受け、流刑地や亡命先より帰還。徐々にその影響力の片鱗を見せ始めます。

共産主義革命の在り方としては、元々 第二インターナショナル が目指していた様な非暴力、反戦の姿勢を指示していたはずのレーニンですが、7月事件の失敗で、その責任をすべてボリシェヴィキ指導者たちに押し付けられるような形となり、レーニンはフィンランドに亡命。他の指導者たちは地下に潜伏し、ボリシェヴィキへの勢力は後退へと追い込まれてしまいます。

この時レーニンらを7月事件の主犯に仕立て上げ、首都ペトログラードから追い払ってしまったのが前首相のリヴォフなのか、リヴォフの後をついたケレンスキーなのか、見るサイトによって時系列が異なっていますので私自身ははっきりとはまだ理解できていません。

ただ、リヴォフは7月事件の責任を取って辞任していますので、おそらくボリシェヴィキをペトログラードから追い立てたのはケレンスキー内閣だったのだと思われます。

指導者たちが表舞台から鳴りを潜める中で、ボリシェヴィキそのものは合法的な活動に終始します。
同年(1917年)8月、ボリシェヴィキとは距離を置きながらも歩みをそろえていた社会民主労働党の過激な反戦派であるメジライオンツィ が、8月初めに開催されたボリシェヴィキ党大会を通じてボリシェヴィキに統合されます。

前回、軍事革命委員会結成に於いて中心的役割を演じた人物としてご紹介したレフ=トロツキーはこのメジライオンツィに所属していた人物です。この後、コルニーロフ事件を経て一気に勢力を拡大したボリシェヴィキによって十月革命は引き起こされるわけですが、どうもこの革命を主導したのはこのメジライオンツィに所属する面々であったようです。


十月革命勃発までの経緯

それにしても、調べれば調べるほど頭の中がごちゃごちゃになりそうです。

ロシア革命に勃発する経緯について、様々な記述を見ることができるのですが、私がこれまでやってきた検証方法がどうにも通用しない分野です。

例えば「レーニン」という人物の行動を探るにしても、通常であれば同じ記述が1か所ではなく複数個所に存在し、それらの矛盾点を潰し、整合性を取っていく中である程度の「流れ」が見えてくるのですが、見るサイトによって書いていることがバラバラで、重複している部分が少ないのです。

ですので、「検証」を行う事が難しく、書いてあることが真実なのかどうか、例えば「真実なのかどうかわからないけれども、おそらく真相に近いのではないか」というレベルにまで落とし込むことができていない記述が多くなりますので、あくまでも「そういう説があるんだ」と、現時点では参考程度に留めておいていただけると嬉しく思います。

7月革命に於いてケレンスキー内閣より追い立てられたレーニンはフィンランドにまで逃れていたわけですが、彼はそれまで暴力を否定し、暴力に依らない「社会主義革命」を訴えていたように思えるわけですが、そんな彼がなぜか7月事件以後、一転して暴力によるブルジョワの廃絶を訴えるようになります。

その代表的なものが彼がフィンランドに潜伏している期間に記した「国家と革命」という著書。
この中で、彼は以下のような主張を訴えています。

【国家と革命(Wikiより)】
レーニンにとって、国家は階級支配を維持する意義がある。

このことを示すためにエンゲルスの研究を参照しながら、社会から発生しながらも社会の上位において自らを社会から疎外する権力を国家と考える。

したがって国家とは階級支配の機関であり、階級の衝突を緩和しながら維持する政治秩序を創出するものであり、既存のブルジョア独裁国家は奪取するだけでなく、革命においてプロレタリアートによって強制力により廃絶してプロレタリア独裁国家をつくらねばならない。

同時にレーニンは革命とは選挙に基づいた政権交代ではない暴力革命でなければならないと主張し、ブルジョア国家の一部であるブルジョア民主主義もまた廃絶されなければならない(暴力革命に拘らず選挙などの平和的な手段もありうるとしたエンゲルスやマルクスの側面をレーニンは無視した)。

この主張のために、レーニンは、マルクスが著書でわずかしか触れていない「プロレタリア独裁」という用語を「民主主義の最高形態」として「発見」し、以後の著作で大々的に用いた。

この様に急進的な姿勢へと転換した理由の一つとして、「ロシア革命」という名前のサイト中、「革命の決意」というページ に於いて、以下のような記述がみられます。

【サイト「ロシア革命」より、「革命の決意」】
「七月事件」以降地下に潜ったレーニンは9月13日、「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」と題する手紙を潜伏先のフィンランドからボリシェヴィキの党本部にむけ発送した。

「ボリシェヴィキは2つの首都(ペトログラードとモスクワ)のソヴィエトにおいて多数を占めたので、国家権力をその手に握ることが出来るし、また握らなければならない」として臨時政府に対する武装蜂起を呼びかけたのである。

何故急にそんなことを言い出したのか?

実はこの頃、ドイツにて急速に革命的機運が高まりつつあった。

「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」という「世界革命」を指向するレーニンにとって、臨時政府打倒とソヴィエト政権樹立という火花を打ち上げることこそが「世界革命」の合図なのであり、ドイツの情勢を見てもその機は限界まで熟しているというのである(ロシア革命史)。

この記述の中で、

 「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」

という考え方をこの時点でのレーニンが持っていたのかどうかは若干疑ってみているのですが、それでもレーニンが考え方を変えたきっかけとして、当時のドイツに於いて革命的機運が高まってきていた・・・という記述は参考になるように感じます。

この当時のドイツがどのような状況にあったのか、という内容については後日まとめる予定の「なぜナチスドイツは誕生したのか」というカテゴリーに委ねたいと思います。

ですから、今回はレーニンの心情の変化がフィンランド潜伏中のドイツに於ける世情の変化にあった、という前提で話を進めてみたいと思います。

それともう一つ考えられるのは、「第二インターナショナル」の存在。

レーニンは、元々暴力を否定し、反戦を訴えていた第二インターナショナルの面々が、いざ祖国が戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻し、祖国防衛へと立場を簡単に変えてしまったことを批判していました。

彼が「暴力」によらない革命を目指していた、と私が記している根拠はここにあります。

ですが、彼が「国家と革命」に於いて記述している内容は、「祖国がいざ戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻した第二インターナショナル」ではなく、「もともと暴力を否定し、反戦を訴えていた第二インターナショナル」をどうも批判している様に見えるのです。

彼は第二インターナショナルが「祖国がいざ戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻した」ことを批判していた筈なんですが、「第二インターナショナル」を批判するということは、そもそも第二インターナショナルのやり方そのものが間違っていたのではないか・・・とうする発想に至ったのではないでしょうか?

第二インターナショナルがそもそも第一インターナショナルの暴力的な部分を否定し、「暴力」ではなく「話し合い」による改革を訴えていたわけですが、そのやり方を否定するということは、即ち暴力による革命を肯定することになる・・・と。

四月テーゼにおいても彼はメンシェヴィキやボルシェビキの同志であるはずのカーネフやスターリンを批判しました。
その批判する理由が、「プロレタリアート(ソヴィエト)」による革命を実現しながら、「ブルジョワ(臨時政府」)」の政治を肯定してしまったことにありました。

そして7月事件を受けてケレンスキーが首相となり、議会政治そのものを社会主義者たちが支配したにも関わらず、結局ケレンスキーは戦争を肯定し、兵士を含むロシア国民より同盟諸国との同盟関係を優先したわけです。

ですからレーニンは政治そのものをメンシェヴィキやケレンスキー達社会革命党の面々ではなく、ボリシェヴィキの手中に収めることが必要だと考える様になっていったんですね。


さて。この時点でしっくり来ていないのは、コルニーロフの反乱 の後、トロツキーが中心となって軍事革命委員会が結成されるわけですが、この時点で既にレーニンが変装してロシアに戻ってきていて、7月事件を受けて壊滅状態に陥っていたボリシェヴィキを再建した、という記述がみられる中で、同じレーニンが変装して戻ってきたのは10月だ、という記述がみられたり・・・。

どの情報を信じるべきなのか、まだ現時点では確定していません。
また、レーニンが「世界革命」という考え方を持っていて、ロシア革命後、ロシア革命の余波が全世界に広がり、全世界で社会主義革命がおこることを期待していた、という記述も登場します。

これは、後の「第三インターナショナル」、即ち「コミンテルン」の結成にも関わってきますね。
まぁ・・・それにしても時系列が一致しません。


十月革命の勃発
十月革命はユリウス暦10月25日に革命が起きたから十月革命と呼ばれるのであって、現代の暦であるグレゴリオ暦では11月7日に起きた革命です。

十月革命はボリシェヴィキ率いる軍事革命委員会がケレンスキー率いる臨時政府に対して引き起こしたクーデターです。
きっかけとなったのはエストニア自治政府に於いて、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人のヤーン・アンヴェルトがエストニアの左派革命勢力を率いて起こした武力蜂起。

これを受けロシア臨時政府がボリシェヴィキ機関紙の印刷所を占拠。つまり武力による報道弾圧を行うわけですが、これに反発してついに軍事革命委員会が武力行動を開始します。

ボリシェヴィキの事前策略のおかげで既にペトログラード内ロシアの兵士たちはボリシェビキ側に付いており、実際にはそれほど血を流すことなくボリシェヴィキはペトログラードの要所を抑え、続いてロシア政府のある冬宮殿を制圧。

冬宮殿

ボリシェヴィキはたった2日でロシア政府を占拠してしまったのです。(ロシア革命)

同じタイミングで「第二回ソビエト大会」が開催されるわけですが・・・。


次回はロシア革命後、ボリシェヴィキがどのようにして政権を掌握するに至るのか。
「ロシア革命後の経緯」について記事にしたいと思います。



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