第323回 7月事件と10月革命までの経緯など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第319回 レーニンの四月テーゼと十月革命

前回の記事、タイトルは「レーニンの四月テーゼと十月革命」としていましたが、内容としてはほぼ四月テーゼに関する記事で、十月革命については全く触れていませんでしたね。

今回の記事では、改めまして四月テーゼより、十月革命が勃発するまでの経緯を追いかけてみたいと思います。


前回までの復習ですが、第一次世界大戦の影響下、肝心の生産活動を行うべき人材を兵士ととして戦争に駆り出されたロシア帝国では、食料不足を原因として、首都、ペトログラードを中心にデモが発生。

これを鎮圧するために警官隊がデモ隊に発砲。このことを受けてデモは武装蜂起へと発展。デモの鎮圧にあたるべき兵士が次々と反乱軍側につき、皇帝ニコライ二世は半ば強制的に退陣させられ、遂に帝政ロシアは崩壊。

「残された議会(ドゥーマ)」と「政党であるメンシェビキを中心に作られたペトログラード・ソヴィエト」が帝政後ロシアの主導権を握ることとなりました。

ペトログラード・ソヴィエトを中心となって結成したメンシェヴィキは、後の十月革命で中心的な役割を果たすボリシェヴィキとはまた別の政党で、ボリシェヴィキの中心的なメンバーであるレーニンやスターリンらは流刑地送りにされていたり亡命していたりしていましたので、革命政府の旗振り役とはなれなかったんですね。

ところが、2月革命と帝政ロシアの崩壊を受け、流刑地よりボリシェヴィキの中央委員であるカーネフとスターリンがペトログラードに帰還(1917年4月3日)。

ですが、カーネフやスターリンを含むペトログラード・ソヴィエトは「暴力」による革命を容認しており、この姿勢を亡命先のスイスから帰還していたレーニンは批判し、「四月テーゼ」というものを公表します。

レーニン

【四月テーゼの骨子】
 
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

帝政ロシアの後を引き継いだ臨時政府は、ロシア国民向けにはペトログラード・ソヴィエトの意向を反映した声明を発表するわけですが、第一次世界大戦真っ只中であった当時、同盟関係にあった連合各国にはこれと逆行する声明を送りました。

で、これに反発した労働者や兵士が再びデモを起こし(四月危機)、ペトログラード・ソヴィエトが臨時政府へと入党することになりました。


7月事件

レーニンの打ち出した「四月テーゼ」は、まさにこの臨時政府の意向を先読みしていたかののような内容となっていたわけです。

四月危機は臨時政府の外相と陸海相が辞任することで収束し、5月5日に発足した臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの第一次連立政府では4名、ペトログラード・ソヴィエト側の人物が入党するわけですが、だから臨時政府の方針が大幅に変わった、というわけでもなかった様です。

臨時政府では同盟諸国からの要請を受け、ペトログラード・ソヴィエト側の議員であるケレンスキー陸海省は、対独前線に於いて大攻勢を仕掛けます(6月18日)。然し革命をうけ、当然兵士たちの士気は低下しており、ドイツからの反撃を受けることになります。

このことで更に兵士たちの政府に対する不満は募り、「7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定(Wikiより)」します。

第一機関銃連隊以外の部隊や工場労働者たちも参加し、デモが行われる(7月事件)わけですが、ソヴィエトの中央執行委員会はこれを拒否。デモは拡大するものの、前線より臨時政府やソヴィエト中央の姿勢を指示する部隊が到着し、デモは鎮圧され、失敗に終わります。

ボリシェヴィキはデモ隊の姿勢を支持したことから、デモが起きたことそのものがボリシェヴィキのせいにされ、メンバーであったトロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンは一時的にフィンランドへと逃亡します。


レーニンの変化
レーニンは元々暴力を否定し、反戦を訴えていた 第二インターナショナル の面々がいざ祖国が戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻し、祖国防衛へと立場を簡単に変えてしまったことを批判し、このことが「四月テーゼ」の内容にも反映されていました。

つまり、この時点では「反暴力」を訴え、第二インターナショナルが取っていた暴力に依らない、平和的な手段による共産(社会)主義革命を訴えていました。

四月テーゼにある「全権力をソヴィエトへ」という考え方はボリシェヴィキ自身のスローガンとしても採用され、ボリシェヴィキは平和的な手段により権力を臨時政府(ブルジョワ)から奪取しようと考えていました。

ですが、7月事件でボリシェヴィキが壊滅的な状況へと追い込まれたことから、レーニンはこの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけるようになります。つまり、これまでの様に平和的な手段によって権力を奪取するのではなく、「武装蜂起」、つまり「暴力」によって臨時政府から政権を奪取することを訴えるようになるのです。

マルクスは、共産主義革命は暴力によってしか実現できないと訴えたわけですが、レーニンも結果的にはこのマルクスの考え方を継承することとなるんですね。


コルニーロフの反乱
一方、第一次連立政権では、首相であったリヴォフが7月事件の責任を取って辞任(7月8日)。

代わりに二月革命後よりドゥーマの一員であった社会革命党のケレンスキーが首相となり、内閣を完全に社会主義者陣営で固めてしまいます(第二次連立内閣:7月24日)。ただしここにボリシェヴィキは含まれません。

この様にして政権の座に就いたケレンスキーですが、実際におこなった政治の内容は第一次連立内閣とそう変わりはなかったらしく、対独戦の失敗や7月事件後のボリシェヴィキ陣営への弾圧を通して旧体制派や革命派からも支持を失い、弱い支持基盤を晒すこととなります。

そして、そんな中旧体制の復活を求めるラーヴル・コルニーロフが軍の最高総司令官の座へと就任し、首相であるケレンスキーとの間で対立が生れます。ケレンスキーも旧体制派の支持を得たいとは考えていましたが、コルニーロフの要求のすべてを受け入れることは出来ませんでした。

そして、コルニーロフはついに反乱を起こし、部下に武力を用いてソヴィエトを解散させることを命じます。
そして政府に対しては全権を再び旧体制派へと委譲することを求めます。

この時政府側に付いたがボリシェビキの面々。
コルニーロフの命を受けてペトログラードに攻め込んだ兵士たちはソヴィエトを指示する人々に説得されて武装解除し、弾の一発も撃つことなくこの反乱は収束したのだそうです。


軍事革命委員会の結成

コルニーロフの反乱を受け、メンシェヴィキはペトログラード・ソヴィエトに対し、「軍事革命委員会」の設置を提案します。

この時点でボリシェヴィキは「全権をソヴィエトへ」というスローガンを放棄し、武装蜂起による権力奪取を行う方針を第六回党大会(7月末~8月当初)に於いて決議しており、またコルニーロフの反乱後、10月10日(ユリウス暦)にボリシェヴィキ中央委員会に於いて賛成多数により「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択しています。

ボリシェヴィキは武装蜂起を行うための戦力を欲しており、メンシェヴィキ側からの「軍事革命委員会設置の提案」は渡りに船でした。

10月12日、メンシェヴィキが提案し、ボリシェヴィキが賛成した軍事革命員会は設置されることとなります。
この軍事革命委員会は、ケレンスキー政権を打倒し、ソヴィエトによる政権を設立するため、武力蜂起を行う為の組織であったわけです。

この時中心的な役割を演じたのがレフ・トロツキーという人物で、彼は「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」との演説を行い、ボリシェヴィキには公然と武装蜂起を行う意思があることを認めてしまいます。

トロツキー

この様な状況に在りましたから、メンシェヴィキは軍事革命委員会には参加せず、軍事革命委員会は大部分をボリシェヴィキが、そのほか社会革命党左派(エスエル左派)、そして無派閥によって構成されることになりました。

ボリシェヴィキはついにペトログラード・ソビエトに於ける「多数派」へと返り咲いたんですね。
トロツキーは武装蜂起を第二回全国ソビエト大会が開催される10月25日に実行することを主張し、軍の各部隊もケレンスキー率いる臨時政府ではなく、ペトログラード・ソヴィエトの指示に従うことを決めます。

さて。この後10月24日、2月革命以降に設立されたエストニア自治政府に於いて「10月革命」の口火は切られます。
次回記事においては、10月革命の経緯と10月革命後のロシアについて記事にしたいと思います。


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