第319回 レーニンの四月テーゼと十月革命など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第318回 ロシア第一革命以降のレーニン/ボリシェヴィキの指導者

人間の気持ちや感情ほど検証しにくいものはない・・・と、そう感じさせられるのが今回の「ロシア革命」についての検証です。

同一人物が考えている内容でも、これが段々変化していく様子が露骨に見て取れるし、それが元々考えていた事なのか、それとも途中で変説したのか、これを見ることがまた難しい・・・。

ですので、ごくわずかの事を調べるのにもものすごく膨大な時間が必要になってます。なので振り返って見ると記事そのものがとても短くなってますね。このあたり、ご容赦いただければと思います。


レーニンの四月テーゼ

四月テーゼ

前回の記事の復習と、更新すべき情報も含めて二月革命以降の様子をまとめてみます。

二月革命によってニコライ二世が失脚させられ、代わりに当時の国会(ドゥーマ)を構成していたメンバーによって臨時政府が打ち立てれます。

一方革命を起こした側であるボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党の三党ですが、二月革命後、この三党によって「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。

ボリシェヴィキの主要メンバーが流刑にあっていたり亡命したりしており、この時ボリシェヴィキは中心的な役割を果たすことができず、ペトログラード・ソヴィエトはメンシェヴィキの旗振りによって結成されました。

ペトログラード・ソヴィエトが結成されたのが1917年2月27日。ペトログラード・ソヴィエトはこの時、ペトログラード守備軍に対し、

「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」

という命令を発しています。「国会軍事委員会」、すなわち臨時政府のことを一つの政府として承認しているんですね。


一方の臨時政府ですが、3月6日、

「同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表」

しています。この時点で、臨時政府は戦争を継続することを発表しました。

難しいのはここからで、この政府決定に対し、ペトログラード・ソヴィエトは「全世界の諸国民へ」という声明に於いて、

「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」
「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」

という主張を行います。

難しいんですが、その他の記述から想像すると、どうも戦争そのものは容認しながらも、戦争が終結した後の社会に於いて、二月革命において労働者や兵士が結束して帝国主義を崩壊させたようにヨーロッパの諸国民が結束し、専制君主制維持を打倒するための行動を起こすよう呼びかけている様です。

これが3月1日のこと。

同月12日、流刑地よりボリシェヴィキの中央委員であるカーネフとスターリンがペトログラードに帰還します。
15日、彼らはボリシェヴィキ機関紙である「プラウダ」に於いて、以下のような記事を掲載します。

軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。これは平和政策などではなく、自由人民たちを苛立たせ拒絶させる、奴隷政策だ。

前回の記事 に於いて、レーニンが 第二インターナショナル に所属した社会主義者たちが暴力を否定し、反戦を訴えていながら、いざ第一次世界大戦が勃発すると「祖国擁護」を訴えて反戦の姿勢を翻したことを批判したことを記事にしました。

同じボリシェヴィキの指導者であるカーネフとスターリンが記した記事は、この様なレーニンの考え方と真っ向から対立するものです。

臨時政府による戦争継続の姿勢を容認したペトログラード・ソヴィエトと、更にこれに追随するような記事を掲載したカーネフとスターリン。レーニンがペトログラードに帰国するのは4月3日の事ですが、翌4月4日、レーニンが発表したものが「四月テーゼ」です。


具体的な四月テーゼの話題に進前に、少し時間を戻してペトログラード・ソヴィエトの圧力を受け、臨時政府が発表した「戦争目的についての声明」ついて掲載しておきます。

この声明が発表されたのが3月27日。臨時政府は、以下のような内容の声明を発表します。

「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」(Wikiより)

この当時の戦争は主に他国の領土を侵略するために行われていましたから、この声明では、

・帝政を打倒した臨時政府は、外国の領土や財産を暴力的に侵略する為には戦争は行わないこと

を訴えています。また、「自決」とありますから、議会を通じて民族が統合的に意思決定を行うシステムを基盤とした平和な社会を築くことを目的とします、とも訴えているわけです。

ペトログラード・ソヴィエトの要求をそのまま声明とした形ですね。

臨時政府はこの声明を4月18日、連合国各国政府に発送します。ですが、この声明に「ミリュコフ覚書」なるものが添付されていました。

この内容については、時系列を追いかける形で後程掲載したいと思います。


「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」

これが、「四月テーゼ」の正式な名称です。
四月テーゼの中でレーニンは、

 ・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
 ・「祖国防衛」を拒否すること
 ・「全権力のソヴィエトへの移行」

などを訴えました。

「祖国防衛」の拒否、とはレーニンの訴えた「革命的祖国敗北主義」に基づくものと考えられます。

引用先の第63回の記事 では、この革命的祖国敗北主義を非常に辛辣に書き表しましたが、少なくともこの時点ではまだいうほど末恐ろしいものでもない様に感じます。

彼の後を引き継いだスターリンの政策をみるまでこの考え方に対する評価は先延ばしにしたいと思います。

さて。レーニンが四月テーゼを発表したのは4月4日ですが、同月18日、臨時政府が連合各国政府宛に送った声明に添付されていた覚書には、以下のような内容が記されていました。

「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」

レーニンと当時のペトログラード・ソヴィエトとの間でも「戦争」に対する受け止め方に大きな開きがあったわけですが、この「ミリュコフ覚書」に書かれていた内容は、そんなペトログラード・ソヴィエトの考え方にすら大きく離反するものでした。

「ミリュコフ覚書」の内容が新聞で報じられると、労働者や兵士らの抗議デモを引き起こし(四月危機)、臨時政府のミリュコフ外相とグチコフ陸海相が辞職。そしてペトログラード・ソヴィエトよりもとより法務大臣として入閣していたケレンスキー以外に、メンシェヴィキ・社会革命党より合計4名が臨時政府に入党することとなりました。


ボリシェヴィキでは、四月危機の勃発を受け、レーニンの四月テーゼが党の公式見解となり、「全権力をソヴィエトへ」という言葉がスローガンとなります。


それにしても、ややこしい・・・。
目まぐるしく変化する情勢は、続いて「七月事件」、そして「十月革命」へと移行します。

次回記事ではこの七月事件と十月革命についての記事を作成します。


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