第318回 ロシア第一革命以降のレーニン/ボリシェヴィキの指導者など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第313回 「ウラジミール=レーニン」という人物

前回の記事では、後に10月革命の中心人物となり、ロシア革命を成し遂げてしまう人物、「ウラジミール=レーニン」について、彼の生い立ちをロシア第一革命が起こる直前まで追いかけてみました。

レーニン

記事を革命前後で分けたことには、単に文章が長くなってしまう事以外にもう一つ理由があります。

レーニンは、ロシアに於ける革命を「プロレタリアートによる革命」ではなく、「ブルジョワ」によって成し遂げるべきだと、そう考えたのだということを記事にしました。

そして、元々「マルクス」という人物によれば、「プロレタリアートによる革命」を「共産主義」、「ブルジョワによる革命」を「社会主義」と定義づけていましたから、ブルジョワによる革命を目指したレーニンの革命は、「共産主義革命」ではなく「社会主義革命」であったのだと、そうお伝えしたと思います。


プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命

それにしても解釈が難しい・・・。
何が、と申しますと、これがタイトルにある、「プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命」。

レーニンは元々「ロシアに於ける革命は、プロレタリアートではなくブルジョワに依って成し遂げられるべきだ」と考えていました。
ですが、1905年に勃発した血の日曜日事件 を受け、「レーニン来るるべき革命の性格を「労働者と農民の革命的民主主義独裁」と規定した」とWikiには掲載されています。

そして、その考え方の中で、「レーニンはプロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命を構想した」とあるのです。

なんだそれは、と。
ブルジョア革命はブルジョワジー(資産階級)行われるものなんじゃないのか、と。

そこで、同じ記述をWikiではなく、「世界史の窓」に書かれてある「レーニン」のページを参考にしてみると、以下の様に記されていました。

1902年には『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張した。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会に参加し、その主張を展開しボリシェヴィキを指導した。第1次ロシア革命では当面のブルジョア民主主義革命の達成を目指した。

Wikiベースでは「ブルジョワによる」とされている部分が、「少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党」と言い換えられています。

この、「少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党」の事をレーニンは「ブルジョワ」と表現したのでしょうか。
世界史の窓の文章から見ますと、ロシア社会民主労働党の中で、「ボリシェヴィキ」としてブルジョワ民主主義革命を目指した、ということになります。

いや然しそれ、既にブルジョワジーが主導していない時点でブルジョワ革命じゃないだろう、というツッコミが入りそうな曲面ですね。

世界史の窓からの引用は、レーニンの著書である「何をなすべきか」からの引用です。
で、私が前回の記事 で掲載したレーニンの考え方もまた同じ「何をなすべきか」において掲載されている内容を意訳したものです。

レーニンは1916年、つまり第一次世界大戦場勃発した2年後、亡命先にて「帝国主義論」という著書を残しています。
レーニンがこの著書を通じて対立しているのは、元々反戦を訴えながら、第一次世界大戦の勃発を受けて「祖国擁護」へと転じていいった 第二インターナショナルの社会主義者 たち。

リンク先にも掲載しているとおり、ここでいう「社会主義者」とは、共産主義者たちが訴える「暴力による革命」を否定し、暴力の代わりに議会による話し合いでこれを解決しようと考えた人たちのことです。

ですが、暴力を否定し、反戦を訴えたはずのこの社会主義者たちが、いざ第一次世界大戦が勃発し、祖国が戦争に巻き込まれると一転して「祖国擁護」を訴えて祖国に戻り、第二インターナショナルは事実上崩壊してしまいました。

この時記された著書、「帝国主義論」の中で記されていたのは、「資本主義社会が発展し最終段階としていきつくところが『帝国主義』である」ということ。

つまり、レーニンが目指していたのは帝国主義と資本主義社会の打倒だったんですね。
つまり、「帝国主義と資本主義社会」を打倒すること、即ち「ブルジョワ革命」であると考えていたのではないでしょうか。

さて。では、このレーニン率いる「ボリシェヴィキ」がロシア第一革命に於いて何をしたのかというと、第310回の記事 よりの引用になりますが、

『武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行』

します。このデモ隊に対して帝政ロシア政府軍が発砲、1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは政府軍に投降。ロシア第一革命は終結することになります。

つまり、レーニンはロシア第一革命に於いて、ブルジョワ民主主義革命を起こすことに失敗した・・・と。


さて。「ロシア第一革命」に続いて起きた革命が「二月革命」。
このとき、レーニンはスイスに亡命しており、二月革命を主導したのは「社会革命党」と「メンシェビキ」。

二月革命に於いてロシア皇帝であるニコライ2世が半ば強制的に退位させられ、後を引き継ぐことがいなかったことから帝政ロシアは崩壊。所謂「帝国主義」を崩壊させることに成功し、ここで無事「ブルジョワ革命」は成し遂げられることとなりました。

さて。ところが、です。
ここで問題となってくるのは帝政ロシアの後を引き継いだ臨時政府と、メンシェヴィキの旗振りで結成されたペトログラード・ソヴィエト。

「ロシア社会民主労働党」より分裂した「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」ですが、この二つの派閥の最大の違いは、ボリシェヴィキの目指していたのは「プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命」。

一方のメンシェヴィキが目指していたのは、「ブルジョワ革命なんだから、やっぱりブルジョワジーの手で実現されるブルジョワ革命」。この違いがこの二つの派閥の考え方の違いです。

メンシェヴィキは、ニコライ二世が去った後のロシアで誕生した、ロシア国会(ドゥーマ)議長らによって結成された臨時政府を「ブルジョワ政党」であると考え、この臨時政府を支持する方針を示します。

これが、レーニンにとっては「社会主義革命を成し遂げず、妥協した姿である」と捉えるんですね。

レーニンに先駆けて同じボリシェヴィキの指導者であるカーメネフとスターリンも帰国するわけですが、レーニンはそんな二人もメンシェヴィキと変わりがない、と訴えます。



4月3日、スイスから帰国したレーニンは、この様な思いを記した「四月テーゼ」なるものを発表します。

次回記事では、この「四月テーゼ」を中心に記事を進めてみます。


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