第313回 「ウラジミール=レーニン」という人物など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊

前回の記事でお示ししました様に、所謂「ロシア革命」は、ユリウス暦1917年2月23日にロシアの首都ペトログラードにて発生した、食料配給を求める「デモ」が原因で勃発しました。

2月革命後、「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」「社会革命党」の3党によって「ペトログラード・ソヴィエト(労働者・兵士による評議会)」が誕生し、一つの「権力」を保有することとなるわけですが、結成はこの当時多数派であった左派社会主義政党「メンシェヴィキ」の呼びかけに応じて行われました。

ですが、第310回の記事 でもお伝えしました様に、そもそも「メンシェヴィキ」や「ボリシェヴィキ」が誕生したの最大の理由は、後の十月革命で中心的な役割を果たす「ウラジミール=レーニン」がロシア労働党機関紙であった「イスクラ」編集局から分裂し、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を結成したことが原因でした。

この当時「レーニン」率いるボリシェヴィキは「多数派」であったわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成された時点では少数派となっています。

では、「多数派諸委員会ビューロー」を結成した後、「レーニン」率いるボリシェヴィキは、一体どのような変遷をたどったのでしょうか。先ずは「レーニン」にスポットを当て、今回の記事は進めてみたいと思います。


レーニンの生い立ち


レーニン

ロシアの革命家、「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」。本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」と言います。

第310回の記事でお伝えした様に、彼の兄の名前は「アレクサンドル・ウリヤノフ」。

当時のロシア皇帝であったアレクサンドル3世を暗殺しようとして失敗した人物です。

内容はWikiベースで進めていきます。
レーニンの兄がクーデターに失敗し、絞首刑に処せられたのが1887年。
レーニンもまた同年12月にカザン大学にて学生運動に加わり、暴動を起こして警察に拘束され、大学からも退学処分されることになりました。レーニンは兄と共に「テロリスト兄弟」の烙印を押され、以降秘密警察から監視される日々を送ることとなります。

そんなレーニンの思想に大きな影響を与えたのが「カール・マルクス」。彼が学生運動に参加したのもマルクスによる影響を受けた部分が大きい様です。

記述を読みますと、レーニンという人物は、非常に頭のいい人物であった様ですね。以下、転載です。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。国家検定試験でも134人中1位という成績を残す。

1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。

ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っている。


前回の記事 で、ロシアがたどった市民革命への道は、他のヨーロッパ各地がたどった市民革命の変遷とは異なる独特な道を進んだことをお示ししましたが、レーニン自身はどっぷりマルクス主義にはまり、所謂「社会活動家」としてもその頭角を現していきます。

・1895年     労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成
・同年12月7日 逮捕・投獄
・1897年     シベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放
・1898年7月   社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚
・1899年4月   『ロシアにおける資本主義の発達』を出版
・1900年     刑期が終了し7月にスイスへ亡命
(スイス滞在中、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会)
・1900年12月   政治新聞『イスクラ』を創刊
(当時、ロシア社会主義者の中で広まりつつあった「経済主義(政権打倒のための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視する考え方」を批判したもの)
・1901年12月   「レーニン」という偽名を用いるようになる

さて。その翌年、1902年に彼が記した著書、「何をなすべきか?」に関する記述の中で、少し面白い記述がありましたので、これを少しご紹介しておきます。

先ほど、ロシアがたどった市民革命の道が他のヨーロッパ諸国とは異なる異質なものであることをお伝えしました。
ただ、レーニンはそんな中でもどっぷり「マルクス主義」にはまった、ということもお伝えしたのですが、「何をなすべきか?」の中に於いて、レーニンもまたこの「マルクス主義」に対して独特の考え方を示したようです。

(何をなすべきか?とは)労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。

彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。

この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

ちょっとややこしいですね。


外部注入論とは?

「何をなすべきか」の中で、レーニンはそもそも何を主張しようとしていたのでしょう。
第62回の記事 でお伝えしました様に、マルクスは「ゴーダ綱領批判」において、「共産主義」の在り方について、以下の様に定義しています。

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

加えてその実現が「暴力」によってのみ実現できる、としているわけですが、この部分はいったん頭から外します。

(※以下の内容は、私の個人的な解釈を含みますので、その点はご容赦ください。)

「社会主義」という考え方は、その後のヨーロッパの歴史の中で、様々に姿を変え、例えばマルクスが、その実現は「暴力」によってのみ実現されるとした部分も、後の社会主義者たちの解釈の中で、大きく変化します。

そしてレーニンは、そんな「社会主義」という考え方が、プロレタリアート(労働者)たちの階級闘争の中かから自然発生的に生まれるものではない、と考えたわけですね。

彼の祖国であったロシアに於いても自然発生的に「ナロードニキ」という市民運動は勃発したわけですが、これは所謂「マルクス主義」の影響を受けたものではありません。

マルクス主義は、レーニンらによって事後的にロシア国内に持ち込まれ、ロシアの革命運動に影響を与えていくことになるのです。

マルクスはこのような革命が「プロレタリアートの手によって」実現されるべきだ、と考えました。

ですがレーニンは、「社会主義はプロレタリアート革命の中から自然発生的に生まれるものではない」と主張しているわけです。
ですから、誰かがこの「社会主義」をプロレタリアートたちに教えてあげる必要がある、と考えたのですね。

そしてレーニンは、それが出来るのは知識のない労働者階級である「プロレタリアート」ではなく、資産があり、外部から「社会主義」という思想を学ぶ手段を取ることができる「知識階級」である「ブルジョワジー」だと考えたわけです。

つまり、レーニンの目指す社会主義革命は、「ブルジョワ(資産階級)」による革命。
こうなってくると、レーニンが目指した革命は間違いなく「共産革命」ではなく「社会主義革命」であったことがよくわかります。


レーニン率いるイスクラ派(政治新聞「イスクラ」を創刊したメンバー)は、1903年、1898年3月14日に結党されたものの、弾圧を受けて機能不全に陥っていたロシア社会民主労働党を再建し、第2回党大会を開催します。

ところが、再建されたばかりの同党は、イスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって内部分裂。「ボリシェヴィキ」と「メンシェビキ」の2派閥に分かれます。

このうち「ボリシェヴィキ」を率いたのがウラジミール=レーニンでした。


さて。この後、起きるのが「血の日曜日事件」と「ロシア第一革命」。
このあたりから段々レーニンのスタンスがややこしくなってくるので、一旦記事を分け、続きは次回に委ねることとします。


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