第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第310回 ロシア革命勃発に至る背景/マルクス主義者の台頭

「二月革命」とは言いますが、これは当時ロシアで利用されていた暦、「ユリウス暦」に基づくもの。
私たちが慣れ親しんでいる「グレゴリオ歴」では3月に起きた革命です。

私自身、このブログを通じて「右翼」や「左翼」、「共産主義」や「社会主義」等について学んできたわけですが、今回のこの「ロシア革命」。これを理解するうえで、私が長い間調べて来た内容がどうも役に立つときが来た様です。

「右翼」と「左翼」の違い、又は「共産主義」と「社会主義」の違いについては改めてシリーズ、「「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。」 でも振り返っていただければ幸いです。


二月革命の経緯

では、改めて「ロシア革命」に於ける「二月革命」について記事にしてみたいと思います。

帝政ロシア=ロマノフ朝がこうもあっさりと崩壊した理由として、

1.ロシア第一革命に於けるマルクス主義者たちの台頭
2.日露戦争に於ける日本に対する敗北
3.第一次世界大戦への参戦により、外資がロシア国内から撤退したこと
4.第一次世界大戦により、本来食料の生産活動を行うための農民が兵士として戦争に駆り出されてしまった事

主にこのような理由があるようです。
1、2については既に第310回の記事 に掲載しましたね?

加えて3,4の理由によって、ロシア国内の食料が供給不足に陥り、物価が5倍、6倍と高騰してしまったんですね。

で、食料の供給を求めてユリウス暦1917年2月23日、グレゴリオ暦3月8日にロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に於いて発生した「デモ」が「二月革命」のそもそもの発端です。

2月革命

このデモを鎮圧する様皇帝であるニコライ二世に命じられた警官隊がデモに向けて発砲。多数の市民が犠牲となります。

これを受けて一部の兵士が反乱を起こし、ニコライ二世はこれを鎮圧する様更に命令を出すわけですが、反乱を鎮圧するはずの兵士が次々と反乱軍に加わります。

この時のロシアの指示系統として、「ドゥーマ(議会)」に皇帝が指示をし、指示に従ってドゥーマが政策を実行する・・・という形がとられていたわけですが、肝心のこのドゥーマの議長であるロジャンコが皇帝の意に反して臨時委員会を設置し、政権を掌握し、皇帝に退位を迫ります。

このことによりニコライ二世は退位(1917年3月15日)。
彼の位を継承することを弟に拒否され、ロマノフ朝を継承する者が誰も存在しなくなり、ついにロマノフ朝は崩壊します。

一方で第310回の記事 でお伝えした通り、「メンシェビキ」に所属する議員の呼びかけにより、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。


内容そのものは結構端折りましたが、大体こんな感じです。

この後、更に十月革命がおこり、遂に「ソビエト連邦」が誕生するわけですが・・・。


「ロシア革命」と「フランス革命」の違い

調べてみて面白いな、と感じたのは、今回記事の対象としている「ロシア革命」と、市民革命の先駆けともいえる「フランス革命」や、その後ヨーロッパ各地で起きた「市民革命」との違いです。

第50回の記事 でお伝えしましたように、そもそも「フランス革命」とは、当時のフランスに在った身分制度、「アンシャンレジーム」に於いて、「聖職者」及び「貴族」の位を持つ第1、第2身分の位に対して、一般市民で構成される「第3身分」の位の人々が起こした革命です。

また更に、マルクスらが登場した時代には、第三身分が「ブルジョワ(資産階級)」と「プロレタリアート(労働者階級)」に分かれ、マルクスはブルジョワによる革命を「社会主義」、プロレタリアートによる革命を「共産主義」と呼びました。

そしてマルクスは、共産主義社会を実現するためには、プロレタリアートの暴力による改革と、社会主義社会から共産主義に移行するまでの間、プロレタリアートによる「独裁」が必要である、と説きました。

現代では「社会主義」とは「共産主義」に移行する段階に於ける、「プロレタリアートによる独裁」が行われている状況にある、と解釈されており、「共産主義社会を目指す人々」という意味では「社会主義者」と「共産主義者」とはほぼ同等の意味を持っていると考えられます。

一方で、ではそもそも「共産主義」とはどのような社会をいうと、元々「共産主義(コミュニズム)」という言葉を生み出したフランソワ・ノイエ・バブーフによれば、土地の「相続権」や「所有権」を否定した社会のこと。

この考え方の元となったルソーによれば、「自然界において人は平等であり、土地の所有や財産の相続よって身分、階級が生まれ、不平等が発生した」とあり、バブーフは「土地の所有や財産の相続」を否定し、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)の実現を目指しました。

バブーフが考えた、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』を目指す人々のことを「アナーキスト(無政府主義者)」と言います。(第161回の記事 をご参照ください)


フランス革命後のヨーロッパは、フランス革命による市民革命の『成功例』を参考に市民革命を実現していくわけですが、ロシア革命とフランス革命以降の市民革命の違いとして一番大きいのは、元々ロシアには「ブルジョワ」だの「プロレタリアート」だのと言った身分制度に関する認識がなかった言う事。

そして、ロシア人が「マルクス主義」に触れるのは、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が発令され、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」による「一月蜂起」が勃発した後。

更に、「土地と自由」から分派した「人民の意志」が、アレクサンドル2世を暗殺した後であったということです。
つまり、「マルクス主義」の情報がロシア国内に入る以前に、「市民革命」に相当する行為を行っていた、ということになります。

そして、二月革命後に結成された「ペトログラード・ソヴィエト」で副議長を務めたアレクサンドル・ケレンスキーが所属する社会革命党は、マルクス主義に基づいて結成された政党ではなく、マルクス主義がロシアに入ってくる以前からロシア国内に存在した「人民の意志」の流れを引き継ぐ政党でした。

この様に、「ロシア革命」が勃発する様子は、どうもこれまでのヨーロッパに於ける「市民革命」とは異なる傾向がみられます。

「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されたのはユリウス暦で3月1日、グレゴリオ暦で3月14日となるわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」は本来少数派であったはずの右派社会主義政党「メンシェビキ」の呼びかけによって結成されました。

元々「多数派」であったはずの左派社会主義政党「ボリシェヴィキ」は、「ペトログラード・ソヴィエト」結成時においては少数派だったのですが、ユリウス暦3月12日(グレゴリオ暦3月25日)、亡命先の東シベリアよりレフ・カーメネフと、後にソビエト連邦2代目書記長となるヨシフ=スターリンが帰国。

更にユリウス暦4月3日(グレゴリオ暦4月16日)、10月革命を主導し、ソビエト連邦初代書記長となるウラジミール=レーニンが帰国します。

カーネメフ・スターリン・レーニンはそろってボリシェヴィキのメンバーでした。


さて。それでは、次回記事において、2月革命が勃発した後の経緯を追いかけながら、この3名が帰国後、どのようにして10月革命が勃発するのか。その経緯を記事にしたいと思います。


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