第310回 ロシア革命勃発に至る背景/マルクス主義者の台頭など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

第297回の記事 に於きまして、私は日露戦争当時に勃発した「ロシア第一革命」について記事にしました。

ロシア第一革命そのものは、

 「私たちの生活はこんなに苦しいのに、日本と戦争をやってるなんて何事だ!」

といった主張を労働者たちが皇帝に対して行ったところ、デモ隊が警備兵に大量に射殺されてしまった事(血の日曜日事件)が原因で、革命運動がロシア全土に広がったもので、主導者のようなものは存在しなかったのだそうですが、ここに至るまでの流れを見てみますと

1.1861年2月、皇帝アレクサンドル2世により、「農奴解放令」を公布。ロシア国民の中に改革へ向けた意識が高揚される。

2.同年末、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」が結成される。

3.海外に亡命している革命家たちとも連携し、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発するが、ロシア国内の指導者が逮捕され、1864年4月11日、鎮圧(一月蜂起)

4.1878年、一月蜂起を起こした人民主義者(ナロードニキ)たちによって「第二次『土地と自由』」が結成されるが、革命を起こす方向性で意見が分かれ、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、それを否定しプロパガンダを重視する「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)」派とに分裂。

5.1881年3月1日「人民の意志」メンバーによりアレクサンドル2世暗殺

6.1887年3月1日、「人民の意志」メンバーである、レーニンの兄「アレクサンドル・ウリヤノフ」によってアレクサンドル3世の暗殺が計画されるが失敗し、「人民の意志」は壊滅。この頃から、西欧に移住したロシア人たちが「マルクス主義」に触れ、ロシア人の「マルクス主義団体」が結成されるようになる。

7.1898年、キエフのマルクス主義団体が中心となり、「ロシア社会民主党」が結成される。結党宣言を行ったシュトルーベにより、「ロシア社会民主労働党」と党名が改められる。

8.1901年、ナロードニキの流れを組む革命政党、「社会革命党」が結成される。

9.ロシア労働党機関紙「イスクラ」編集局を中心とするグループ「イスクラ派」が分裂し、

 『多数派であるボリシェヴィキ』

  と

 『少数派であるメンシェヴィキ』

に分裂する。

「イスクラ」は多数派であるメンシェヴィキの機関紙となるが、ボリシェヴィキの代表で会ったレーニンは1904年末、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を創設する。

10.1905年1月9日、「血の日曜日」によりロシア第一革命が勃発する

と、この様な流れになります。

そう。ついに登場しましたね。ロシア革命の立役者、「ウラジーミル・レーニン」の名が。

レーニン

まあ、悪名高きソ連を生み出したわけですから、「立役者」との表現はあまり適切ではないかもしれませんが。

ちなみに元々は「ボリシェヴィキ」が「多数派」、「メンシェヴィキ」が「少数派」を意味するのですが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも共に「社会主義」派閥。ですが、後に同じ社会主義の中でも「ボリシェヴィキ」が「左派」、「メンシェヴィキ」が「右派」と変化していくようです。

ロシア第一革命が終結するのは1905年12月です。
この時ボリシェヴィキは武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行させるのですが、デモ隊に向かって帝政ロシア政府軍が砲撃。1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは投稿し、ロシア第一革命は終結することとなります。


ロシア第一革命後のロシア

前置きのつもりだったのですが、随分長くなりましたね。
革命に合わせて、ロシアでは各地に「ソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会(理事会))」が結成されます。

ですが、ロシア第一革命の後、社会活動家たちに対する皇帝の締め付けは激しくなり、指導者は投獄されるか、または亡命という選択を迫られました。このことにより、「ソヴィエト」は壊滅させらます。

この時、中心となって活動家たちの弾圧を行ったのが「ピョートル・ストルイピン」という人物。
ロシア第一革命後の内閣で首相を務めていた人物です。

ストルイピン

ですが、彼の取った農村に対する政策がロシア国民の反感を買い、1911年9月18日、彼はユダヤ人青年の手によって暗殺されてしまいます。彼が暗殺された場所こそ、現在のウクライナの首都であるキエフ。

ちなみに、当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア第一革命当時、このサンクトペテルブルクで「ソヴィエト」を結成した人物が「レフ・トロツキー」。彼もまたウクライナ人で、家族はユダヤ人。

彼は後のロシア革命で指導者の一人ともなる人物です。


少し話が脱線しました。
ストルイピンの弾圧により鳴りを潜めていた社会活動家たちですが、彼が暗殺されたことにより、少しずつ息を吹き返します。

ストルイピン暗殺の翌年、1912年1月、ロシア社会民主労働党からの独立を目指していたレーニンは、ロシア社会民主労働党から追放されてしまいます。

ここで、ロシア社会民主労働党は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」の2つの党へと完全に分裂してしまうこととなります。


第一次世界大戦に於けるロシア

政党「ボリシェビキ」誕生の2年後、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発 します。

改めて第309回の記事 を比較しながら記事を見ていただけると、状況が頭に入りやすいかもしれません。

1912年に第一次バルカン戦争が、1913年に第二次バルカン戦争が勃発するわけですが、バルカン戦争終息後、1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」を受けてオーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

これを受けて、いち早くセルビア支持を表明し、国内に向けて総動員令を発布したのがロシアでしたね。(7月31日)
そして、そのロシアに対して速攻で宣戦布告したのがドイツ。(8月1日)

Europe1914-jp.png

そんなロシアとドイツとの間で最初に起きた衝突が1914年8月17日から9月2日にかけて継続した「タンネンベルクの戦い」でした。

ロシアはこの戦いに於いてドイツ領プロセインに侵攻を行うわけですが、結果ロシアは敗北し、前線をロシア領内まで後退。
続く第一次マズーリ湖攻勢に於いてロシアは再びプロセインへと軍を勧めますが、ドイツはフランスと対峙する西部戦線より部隊を移動させており、ロシア軍は壊滅。

ドイツよりロシア軍は完全にたたき出されてしまうこととなります。
翌年のゴルリッツ戦線でもロシアは敗北し、ポーランド方面ではワルシャワ、イヴァンゴロドの2つの要塞が陥落し、ロシアは大撤退を迫られます。

この様な情報がロシア国内にも伝わり、ロシア社会民主労働党より分裂したボリシェヴィキ、メンシェビキ、及び社会革命党は、一気にその党勢を拡大します。

戦争が長引くことによってロシア国内の経済も低迷。
議会と皇帝との間の対立構造も深刻となり、宮廷もまた僧侶であるはずのグリゴリー・ラスプーチンによって牛耳られる(1916年12月30日に暗殺される)など、第一次世界大戦当時のロシアはまさしく「混迷」を深めていくこととなりました。

そして、そんな中でついに勃発するのが第一弾の「ロシア革命」である「二月革命」です。

次回記事では、そんな「二月革命」についてまとめてみたいと思います。


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