第308回 第二次バルカン戦争が勃発した理由とその影響を検証するなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第307回 バルカン戦争とは?その影響をわかりやすく考える

第一次バルカン戦争について検証した前回に引き続き、今回は「第二次バルカン戦争」について検証してみます。

復習いたしますと、『バルカン戦争』は

青年トルコ党が実権を握ったオスマントルコによってマケドニア地域に集められたボスニアヘルツェゴビナのムスリムがマケドニアにいたアルバニア人と連携して行った事実上の独立戦争をセルビアが支援し、またロシアの支援を受けて結成された「バルカン同盟」諸国が更にオスマントルコに対して宣戦布告を行った

ことによって勃発しました。

結果、バルカン同盟はオスマントルコに勝利します。
停戦条約として締結されたのが「ロンドン条約」。

改めて、前回お示しした地図を掲載してみます。

マケドニア
【地図①】

元々バルカン戦争はアルバニア人の独立を口実として勃発した戦争ですから、ロンドン条約においてはアルバニアの独立が宣言されます。地図では青色の部分の左端(西側)に「1912」と記されているのが分かると思います。

斜線の引かれていない、このエリアが「アルバニア」が独立した後の領土です。

地図をみるとわかりますが、ロンドン条約によって、ピンク色の「セルビア」領土に隣接する、右上から左下に向けて引かれた太い斜線のエリアがセルビアに、同じく右上から左下に向けて引かれた細い斜線のエリアがギリシャ、左上から右下に向けて引かれた斜線のエリアがブルガリアにそれぞれ割譲されます。

先ほどの地図を少し東に移動させますと、こんな感じです。

トラキア
【地図②】

こい黄土色の部分が「トラキア」。
国境は現在の地図になりますが、トラキアの北側がブルガリア、西側がギリシャ、東側がトルコです。

Wikiのマケドニアのページを参考にしますと、

「1910年代のバルカン戦争によってギリシャ、ブルガリア王国、セルビアの3王国によって分割された。このときの国境が現代まで残されているものである」

と記されていますので、この地図の国境がちょうどバルカン戦争によって分割された国境、ということになりますね。

ブルガリアには、マケドニア領土以外にこの「トラキア」の丁度国境線より北側の部分も割譲されました。


第二次バルカン戦争

さて。今回のテーマとなる第二次バルカン戦争。

ロシアの後押しを受けて同盟を結成し、オスマントルコに対して戦争を挑んだバルカン同盟ですが、トルコに見事勝利し、ロンドン条約によって多くの領土を手に入れることになります。

ところが、今度はこの獲得した領土をめぐってバルカン同盟諸国間で争いが始まります。

記述を読んでいると、領土争いの舞台となったのは地図①の内、ブルガリアが獲得した領土。
南西側に細長く伸びている部分があると思いますが、この領土の所属をめぐって争いが勃発した様です。

同エリアは、丁度「セルビア」「ブルガリア」「ギリシャ」の3国が国境を接する地点で、この地点の領有権を3国が共に主張していました。

特にブルガリアとギリシャはトラキアに於ける国境でも対立する構造にありました。

この様な対立構造にある中、第二次バルカン戦争はブルガリアによるセルビア・ギリシャ両国への侵攻からスタートします。
この段階で事実上バルカン同盟は崩壊しているわけですが、セルビアとギリシャはお互いに同盟関係にあり、共同でブルガリアに対抗します。

更にセルビア・ギリシャ連合軍に対し、バルカン同盟で同盟関係にあるモンテネグロ、更にルーマニア、オスマントルコ帝国までもが参戦し、ブルガリアに対して宣戦布告を行います。

この時、唯一ブルガリアを支援したのがオーストリア・ハンガリー帝国、バルカン同盟側を支援したのがその立役者であるロシアです。

第二次バルカン戦争

結果的にブルガリアの惨敗に終わるわけですが、第一次・第二次バルカン戦争を通じて、バルカン同盟の4カ国、及びオスマントルコ帝国の中で、領土問題に対する不満が蓄積したままになってしまいます。

第二次バルカン戦争の結果、ブカレスト条約が締結されるわけですが、この結果に満足した国は一国も存在しなかったんですね。


オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国との間に生まれたしこり

改めて振り返ってみましょう。
確かに「バルカン戦争」そのものは独立を目指したアルバニア人をセルビアが支援する形から始まったのですが、セルビアがアルバニア人を支援した動機の中にあったのが、「ナチェルターニェ」の考え方から、自国に統合することを目指していた同じセルビア人の国であるボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国に併合されてしまったことにありました。

このことでセルビアはボスニアヘルツェゴビナを統合することを諦め、逆に南側のオスマントルコ領を侵略することを目指すようになりました。

オスマントルコとの戦争に勝利し、マケドニア領は手に入れたわけですが、オーストリア・ハンガリー帝国の横やりが入り、アルバニアが独立。ここから軍隊を撤退させられることとなった上、唯一の海上ルートへの抜け道であったアルバニア地域を封鎖されてしまいます。

地政学的に考えれば、海上ルート、所謂「シーレーン」は国が発展する上でも非常に重要な貿易の為のルートであり、北部をオーストリア、南部をトルコに抑えられた状況は、セルビアの将来的な発展の大きな弊害となったはずです。

こう考えると、セルビアの対オーストリアへの開戦に至る動機としては十分だったと考えられますね。
この他、オーストリアはドイツと同盟関係にありましたし、両国はロシアと対立する構造に在りました。

敗戦後、ブルガリアはオーストリア・ドイツと急速に接近し、また敗戦によりお互いに勢力を急速に縮小させることとなったオスマントルコにも接触を始めます。

一方でセルビアを支援したロシアはイギリス・フランスとの間で「三国協商」という同盟関係を築く友好関係にあり、この後サラエボ事件 をきっかけとして火が付いたセルビアとオーストリアとの対立は、一気に第一次世界大戦へと拡大することとなります。

次回記事では、いよいよサラエボ事件が第一次世界大戦へと発展するその過程について記事にしたいと思います。


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