第303回 第一次世界大戦とロシア革命/第一次世界大戦はなぜ?など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第297回 日露戦争とロシア第一革命/ロシア国内に於ける背景

さて。今回のシリーズの中心である「ロシア」と「ソ連」を考える上で、どうもこの「第一次世界大戦」というものを無視するわけにはいかないようです。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年7月28日、終結したのが1918年11月11日なんですが、ロシアをソ連へと変貌させるきっかけとなった「(第二次)ロシア革命」が勃発したのは1917年2月23日。第一次世界大戦の真っ只中で勃発しました。

ちなみに、2月に起きたロシア革命は「2月革命」と呼ばれます。
この時のロシア革命は 1917年11月7日(ユリウス暦1917年10月25日)にも勃発しており、この時の革命は10月革命と呼ばれます。

なぜ2月革命はグレゴリオ暦なのに10月革命はユリウス暦なんだ、というツッコミが入りそうですが、このネタはロシア革命そのものを記事にする際にわかる様であれば調べてみたいと思いjます。


第一次世界大戦はなぜ起きたのか?

記事としては第一次世界大戦について記す予定なのですが、ひょっとするとこの記事一つでは終わらないかもしれません。
今回は、基本的に教科書通り、第一次世界大戦が勃発するに至った経緯について、一般的な理由を調査してみます。


私の記憶では、中学であったか高校であったかは覚えていませんが、確か「サラエボ事件」なるものが原因で、オーストリアの皇子が殺害されたことがそもそもの発端であったように記憶しています。

ですので、今回は先ずこの「サラエボ事件」から調べてみます。


サラエボ事件とは?

基本、情報ソースはWikiをまずは利用します。

Wikiによると、このサラエボ事件について、以下の様に記されています。

【サラエボ事件とは?】
サラエボ事件とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

とあります。ここで一つ疑問が浮かびます。

確かに、一国の国王の後継者夫妻が暗殺された・・・というのは一大事件かもしれません。
ですが、そんなたった一つの事件がなぜ第一次世界大戦にまでつながっていったのでしょう?

【第一次世界大戦が勃発した理由(Wikiより)】
当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。

しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

上記にある「当局」とは、「オーストリア当局」の事。恐らく警察の事と思われます。

ここで浮かぶ疑問点は二つ。なぜセルビア政府は暗殺者たちに武器を支給したのか。
そして、オーストリアとセルビアの対立に過ぎなかったはずの事件が、一体なぜ第一次世界大戦という大きな戦争にまで拡大したのか。この2点です。

地図としては、世界地図で見る世界史 というサイト様に掲載されているものがとてもわかりやすかったので、ここから持ってきます。

1900.jpg

最も大きい国がロシア帝国。その左下、南西側に「オーストリア・ハンガリー二重君主国」なるものがあって、その真南に、とても小さいですが「セルビア」という国が存在しますね。


調べてみると、どうもポイントとなるのが、サラエボ事件に於いて皇太子夫妻を暗殺した犯人であるガヴリロ・プリンツィプの出身地とその属性に在るようです。

改めて彼の出身とその属性を見てみますと、

「ボスニア出身のボスニア系セルビア人」

となっています。
つまり、ボスニア出身のボスニア系セルビア人がセルビア政府から武器を支給され、起こしたのが今回の事件だということです。

では、「ボスニア」とはどの地域になるのかというと・・・

【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
ボスニアヘルツェゴビナ

現在の地図にはなりますが、このあたり。
丁度セルビアと国境を接するあたりになります。

【中世のセルビア】
セルビア(中世)

また更に、こちらは中世の「セルビア」。
セルビアは、7世紀にこの地域にやってきて、この地域に於いて、6つの部族に分かれて生活していたのだそうです。

その6つの部族が以下の通り。

「ラシュカ」「ボスニア」「ドゥクリャ/ゼタ」「ザフムリェ」「トレビニェ」「パガニア」

これら6つの部族が時にくっついたり、時に独立したりを繰り返しながら、1171年、ついに統一され、「セルビア王国」として成立することになります。

そう。「ボスニア」とは、セルビア人の中の一部族の名称だったんですね。

ただ、「ボスニア王国」という国と「セルビア王国」という国の関係性はどうもよく分かりません。
Wikiで、「セルビア王国」についてのページを見ると先ほどの地図となるのですが、これをボスニア王国についてのページから見ると、

セルビア・ボスニア

こんな感じ。ピンクがセルビア、緑がボスニアです。
1184年当時の地図なのだそうですよ。

セルビアが統一された時期と符号が合いませんね。
このあたりははっきりとした理由が分かれば後日記事にできればと思います。

そして、この当時のボスニアは、「ハンガリーの支配下にあった」ともされています。
ボスニアがボスニア王国として独立するのは1377年のことです。


話が随分脱線してしまいましたが、肝心なのは、「ボスニア人は、元々セルビア人だった」というところです。

そんなボスニアとセルビアですが、セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。
ただ、これだけではセルビア政府がオーストリア皇太子暗殺を計画した秘密結社に対して武器を提供するまでのことを行ったりゆうとしては 少し弱い気がします。

この後、「バルカン戦争」なるものが勃発します。
どうもセルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます。

そこで、次回記事では、この「バルカン戦争」について記事にしたいと思います。


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