第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第293回 ロシアとウクライナ/ユダヤ人のロシア流入までの歴史

本筋から外さないために、どこから記せばよいか・・・ととても迷ったのですが、今回のタイトルはこんなタイトルで始めてみます。

第293回の記事 でも記しましたが、ウクライナは元々「キエフ大公国」という名称で、現在のイメージだと、「ソビエト連邦」という国の中に含まれていた国で、「ロシア」がソビエト連邦の大部分を占めていることから、ウクライナはロシアに支配されていた国だ・・・というような印象も強いかもしれませんが、元々「ロシア」の方がウクライナの原型であった「キエフ大公国」より派生した国。

言うなれば「ウクライナ」が親で「ロシア」が子であった、という表現の方が近いかもしれません。
事実、モスクワ公はキエフ公の子供がキエフ公より譲り受けた「ウラジーミル・スーズダリ公」が元になっているわけですから。

キエフ大公国がモンゴルに支配されたのち、キエフ大公国を引き継いだのが「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」。
同時期、モスクワ大公国の原型であるウラジミール大公国もモンゴル占領下において存在していました。

ところが、キエフ大公国を引き継いだ「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」は、ハールィチ・ヴォルィーニ大公の血筋が途絶えてしまい、このことから一気に国力が衰退し、ポーランドとリトアニアに分割統治されることとなってしまいます。1349年)

ポーランドとリトアニアは、元々対立し、お互いに戦争を行う関係であったわけですが、共通の敵であるドイツ騎士団等に対抗する必要性に駆られ、ポーランドとリトアニアは同盟関係を結び、「ポーランド・リトアニア連合」となります。(1387年)


フメリニツキーの乱

1569年、ポーランドとリトアニアは、両国の元首を同一の人物が兼ねることにより、「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

さて。1648年、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」において、「フメリニツキーの乱」と呼ばれる武装蜂起が行われます。
この武装蜂起を主導したのが、「ボフダン・フメリニツキー」という人物。

【ボフダン・フメリニツキー】
フメリニツキー

彼は、ポーランド・リトアニア共和国王によって編成された「登録コサック」の一員で、反乱を起こす際には「ウクライナ・コサック」の指導者でもありました。

「コサック」の起源は明確ではないものの、そのルーツはウクライナにあり、その中にはキエフ公国の元士族・豪族も含まれていたのだとか。

没落した貴族と盗賊の集団であった、とのことですが、ロシアやポーランド・リトアニア等では軍人として重用されていた様子が見られます。

そんな中で、「登録コサック」とは、同じ「コサック」でも、国が正式に認めた「コサック」で、ロシア帝国時代には「貴族」としても認められていたのだとか。


そんなフメリニツキーの領地が、ポーランド貴族であるダニエル・チャプリンスキによって襲撃され、フメリニツキーの恋人であったモトローナ・チャプリーンシカまでも奪い去ってしまいます。

フメリニツキーはこのことを最高裁判所に対して提訴するのですが、敗訴。
さらにダニエル・チャプリンスキの手によって投獄されてしまいます。

ところが、フメリニツキーは警備長の手によって救い出され、ウクライナ・コサックの拠点がある、「ザポローシ゛ャ」へと逃げ出すことに成功します。

彼は、元々その経験や戦果、豊富な知識、家柄等も含めて、ウクライナ・コサックから尊敬される存在にありました。
彼は、ウクライナ・コサックを率い黒海北部、「クリミア・ハン国」のクリミア・タタール人(モンゴル人、というわけではないらしい)とも同盟関係を結び、ザポローシ゛ャに派遣されたポーランド政府軍に勝利します。

これを機に、フメリニツキーがポーランド政府を相手に起こした反乱が、「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるものです。


第293回の記事 でもお伝えしましたように、この当時のポーランド政府は、ユダヤ人に対して世界で最も寛容な政府でした。

ポーランド政府は、ユダヤ人を初めとする、異国の知識人を優遇し、自国の農民を管理する立場に当たらせていました。

特にウクライナはポーランド政府から離れていることもあり、「農奴」として働かされていた農民たちの不満は鬱積していました。
また過去に反乱を起こしたウクライナ・コサックたちは軍人としての資格や自治権を奪われて農奴としての扱いを受けていたこともあり、反乱を爆発させる材料が勢ぞろいしていた・・・当時のウクライナはそのような状況に在りました。

ですので、当然自分たちを管理していた「ポーランド人とウクライナ人の貴族・カトリックの聖職者・ユダヤ人の収税吏と官吏」もさることながら、「反乱軍に加わらない、あるいは反乱を支援しない者も身分・宗教・民族を問わずに惨殺(Wikiより)」されます。

また、「一時期コサックの同盟者であったタタールはウクライナの町村でほしいままに奴隷狩りを行った」とのことで、この反乱で殺害されたユダヤ人の数は数万単位に上るのだとか。この話は、飽くまで余談ですけどね。


「ザポロージャのコサック軍」誕生

「ザポローシ゛ャのコサック軍」とは、軍の二つ名の様ではありますが、これ、れっきとした国の名前なんです。
タイトルで( )書きしている「ヘーチマン」とは、コサックの指導者の事。

「ヘーチマン国家」とは、コサックの指導者であるフメリニツキーが設立した国家である「ザポローシ゛ャのコサック軍」の通称になります。ヘーチマン国家誕生を受けて、初めて「ウクライナ人」が、この「ウクライナ」にルーツを持つ民族名として用いられるようになります。

「フメリニツキーの反乱」の結果、ウクライナにはこの「ヘーチマン国家」が誕生します。(1649年)
フメリニツキーはポーランドへの反乱期間中、継続してロシアに援軍を求めていたのですが、ロシアはこれを拒否し続けます。

最終的に、フメリニツキーは「援軍」を求めるのではなく、「ロシアの保護下」に置くことを要求。
1653年7月2日、ロシアはフメリニツキーの要求に応じることを約束。1654年1月18日、このことが正式に誓約されます。


ロシア・ポーランド戦争開戦

ウクライナが自国の保護下に置かれたことで、ロシアはポーランド対ウクライナ戦に参戦することになります。
このことを受け、ウクライナと同盟関係にあったクリミアは同盟を破棄、逆にポーランドと同盟関係を結びます。(1654年6月)

また更に、ポーランド・リトアニア共和国と対立関係にあったスウェーデン王国が参戦(1655年夏)。
フメリニツキーは自軍が優勢となったことから、クリミア・ハン国と再度交渉にあたり、自軍に復活させます。


ところが、決着が見え始めると、今度はウクライナ領土をめぐってスウェーデン、ロシア、ヘーチマン国家の間で対立が顕在化。1656年5月、ロシアはスウェーデンに対して宣戦布告し、今度はポーランド・リトアニアに対して和平を申し入れます。

和平交渉への参加を拒否されたことから、フメリニツキー軍はロシアとの国交を断絶し、スウェーデンに援軍を派遣します。
しかし、ここに至ってフメリニツキーは病床に倒れ、脳梗塞によって死去。

指導者を亡くしたコサック軍は空中分解し、内戦状態へと陥ります。

1718年スウェーデンの指導者であるカール12世が死去。スウェーデンが和平を申し出たことからこの戦争は終結し(1721年)、ロシアは一挙に北方最強国へとのし上がります。

1721年10月22日、「ロシアツァーリ国」改め、「ロシア帝国」が誕生します。


この後、1795年、ポーランドはロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割され、ポーランド・リトアニア共和国は「国家」として事実上消滅してしまいます。

「ウクライナ」にユダヤ人が大量に流入したことが、ロシアに大量のユダヤ人を招き入れる原因になった・・・と考えていたのですが、「ウクライナ」だけでなく、そもそも「ポーランド」そのものが分割されてしまったことによってロシアは大量のユダヤ人を国内に招き入れることとなったんですね。


さて。次回より、いよいよ部隊を「ロシア」へと移動し、時間軸もできれば「ロシア革命」まで進めることができれば、と考えています。


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