第293回 ロシアとウクライナ/ユダヤ人のロシア流入までの歴史など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第292回 ポーランドとドイツ騎士団とユダヤ人/ソ連誕生までの布石

だめだ・・・

どうもこのシリーズを書こうとすると、私がそもそもなぜこのシリーズを記そうと思ったのか、という軸がぶれそうになります。

結論として導きたいのは、そもそもロシア帝国が崩壊し、共産化したのは「ロシア人とユダヤ人との対立」の結果である、という結論です。もちろんこれは仮説であり、まだ証明できてはいません。

これを証明するためにこのシリーズを作ろうとしているのですが、どうも「悪魔のささやき」が聞こえてきてなりません。
仕方のない部分はあるのですが、どうしても「ユダヤ人迫害の歴史」を追求しようとしてしまいます。

ですが、これをやっちゃうと本来の「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」を追求する以上に記事数を割いてしまいそうでなりません。

もっと言えば、最終的には「ロシア革命はユダヤ人の陰謀であり、ロマノフ家はユダヤ人の手によって壊滅させられた」というところまで持っていきたいわけです。

というと語弊があるかもしれませんね。私は、この仮説が事実であるのか、それともデタラメなのかということを証明したいのです。
ここを証明することが目的ですので、ユダヤ人迫害の歴史は、ロシア中世・近代史に関連する部分に極力留め、それ以上過去にまでは遡らない様努めたいと思います。


前回の記事 では、モンゴル(キプチャク・ハン国)の脅威に晒され、弱体化しつつあったポーランドが、ユダヤ人に寛容な政策を取ることで、他国で迫害されるユダヤ人を自国内に招き入れ、ドイツ商人と共に、ポーランドの経済回復の一助となってく様子を記事にしました。

で、そもそも私がなぜポーランドがユダヤ人を招き入れることとなった歴史に触れようとしたのかというと、このことが後々ロシア内にユダヤ人を大量に招き入れることとなる根拠となったから。

で、私がなぜ「ユダヤ人迫害の歴史」に言及したくなるのかというと、そもそも「ポーランド」にユダヤ人の数が激増した理由は、ポーランド以外の国々でユダヤ人が迫害を受け続けてきていたからであり、これはロシアもまた例外ではありません。

つまり、ロマノフ朝によるユダヤ人に対する迫害がユダヤ人のロマノフ朝に対する反感へと繋がり、これが後のロシア革命へとつながったのではないか・・・というのが一つの「仮説」です。


さて。ではなぜ「ポーランドの歴史」が「ロシアにユダヤ人を招き入れる原因となったのか、と申しますと、ここに大きく関係してくるのが「ウクライナ」の存在です。

では、もう一度前回の記事でご紹介した、「元」国時代の地図を見てみます。

モンゴル

ロシアを支配していた「キプチャク・ハン国」の領土内、カタカナで「キエフ」と書かれている領土内に、さらに小さい文字で「キエフ」、そして「モスクワ」という文字が書かれているのが分かると思います。

前回の記事でもお伝えしました、元々キプチャク・ハン国がこの地を急襲する以前、この国には「キエフ・ルーシ」という国が存在していました。モンゴルの急襲によって「キプチャク・ハン国」と名を変えるわけですが、まだここに「キエフ・ルーシ(キエフ大公国)」が存在していた時代。

時の権力者、ユーリー・ドルゴルーキー大公は、自身の息子であるフセヴォロド3世に、嘗て自身が「公(公国の元首のこと)」として治めていた領土を分け与え、「ウラジーミル・スーズダリ公」の位を与えます。

フセヴォロド3世はこの土地に、「ウラジーミル・スーズダリ公国」を建国し、これが後の「モスクワ・ルーシ(モスクワ大公国)」の原型となります。フセヴォロド3世の死後、この土地はフセヴォロド3世の息子であるユーリー2世が継承します。

モンゴルが攻めてきたのはユーリー2世の時代(1238年)。モンゴル軍により、ユーリー2世の一族は、軒並み滅ぼされ、彼自身も戦死するのですが、彼の弟であるヤロスラフ2世が大公の座を受け継ぎ、彼はモンゴルに「臣下」として従事することで「モンゴル帝国領ウラジーミル公国」の存在を維持します。

更にその息子、アレクサンドル・ネフスキーの末子である「ダニール・アレクサンドロヴィチ」がアレクサンドルより「モスクワ領」を受け継ぎ、「モスクワ公」を名乗ることとなります。ダニーるの血縁者が後にモンゴル王より「モスクワ大公」に任じられ、ダニールの息子であるユーリー3世とイヴァン1世が連続して「モスクワ大公」の位に就くこととなります。

この時代はまだ、「モスクワ大公国」はモンゴルの支配下にあったんですね。

【モスクワ大公国】
モスクワ大公国-2


モスクワ大公国は、確かにユーリー2世よりウラジーミル領を分け与えられたフセヴォロド3世の子孫が更に受け継いだ土地なのですが、実際にモンゴルに滅ぼされた後の「キエフ大公国」そのものを勝ち取り、継承したのは「ハールィチ公国」と「ヴォルィーニ公国」とが合併した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」でした。

ハールイチ・ヴォルイーニ大公国

この、「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」こそ、「ウクライナ」の源流。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はモンゴルとの戦いに敗れた後、ウラジミール大公国同様モンゴルの属国となるのですが、大公であったダヌィーロは、自分の息子を隣国リトアニアの初代大公であったミンダウガスの娘と婚姻関係を結ばせ、リトアニアとの関係を強固なものとし、ともにドイツ騎士団との戦いや、ポーランドへの遠征なども行います。

1340年に大公が途絶え、国が貴族の支配を受けるようになると、その国力は一気に弱体化し、後にポーランド・リトアニアによって分割統治されることなります。

ハールィチ公国はポーランド領に、ヴォルィーニ公国はリトアニア領となります。
この当時、ポーランドとリトアニアは連合国となっており、「ユダヤ教」に対してヨーロッパ一寛容な国家でした。
(※失礼しました。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国がポーランドとリトアニアに吸収された当時、両国はハールィチ・ヴォルィーニ領をめぐって戦争を起こしており、まだ「連合国」と呼べる関係にはありませんでした。
吸収した後、ドイツ騎士団に対抗するため、お互いが連携(1387年)し、同盟関係を結ぶことで「連合国」としての形を築くことになります)


そんな「ポーランド・リトアニア連合国」に「ウクライナ」は吸収されてしまったんですね。
この時、「ウクライナ」という地域に、もまた大量のユダヤ人が流入します。


少し見えてきましたね?
このことが、後にロシア帝国にユダヤ人が大量に流入するきっかけとなります。

そのためには、もう少しこの「ウクライナ」という国の歴史をたどる必要があるのですが・・・。
その記事は次回へゆだねます。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]