第274回 日米開戦決断に至る経緯/第三次近衛文麿内閣解散に至る経緯など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第273回 日米開戦決断に至る経緯/ハルノートが提示されるまでの日本

前回の記事でお伝えしました通り、今回は

 近衛内閣総理大臣
 豊田外務大臣
 東条陸軍大臣
 及川海軍大臣
 鈴木企画院総裁

の「五相」の間で行われた、「対米英開戦に向けた論議」について記事にしたいと思います。

【1941年10月12日五相会議】
10月12日五相会議(近衛、豊田、東条、及川、鈴木)
陸軍大臣説明す

豊田
 日米交渉妥結の余地あり、それは駐兵問題に多少のあやをつけると見込みがあると思う、妥結の妨害は北仏の兵力増加は妥結の妨害をしてる
 之を止めれば妥結の余地ある

近衛
 9月6日の日本側提案と9月20日の提案との間には相当の開きがある、米側が誤解して居るにあらずやと思わる、之を検討せば妥結の道あらむ

東條
 判断は妥結の見込みなしと思う、凡そ交渉は互譲の精神がなければ成立するものでない、日本は今日迄譲歩に譲歩し4原則も主義としては之を認めたり、然るに米の現在の態度は自ら妥協する意思なし、先般の回答は9月6日9月20日の我方の書類に対する回答と存す

及川
 外交で進むか戦争の手段によるかの岐路に立つ、期日は切迫して居る、其決は総理が判断してなすべきものなり、若し外交でやり戦争をやめるならそれでもよろし

東條
 問題はそう簡単にはゆかない、現に陸軍は兵を動かしつつあり、御前会議により兵を動かしつつあるものにして今の外交は普通の外交と違う

 やって見ると言う外交では困る

 日本の条件の線にそって総帥部の要望する期日内に解決する確信がもてるなれば、戦争準備を打切り外交をやるもよろしい、其確信はあやふやな事が基礎ではいかぬ、此の様なことで此大問題は決せられぬ、日本では総帥は国務の圏外に在る、総理が決心しても総帥部との意見が合わなければ不可なり、政府総帥部の意見が合いご裁断を要す、

 総理が決心しても陸軍大臣としては之に盲従は出来ない、

 我輩が納得する革新でなければならない、納得できる確信があるなら戦争準備は止める確信をもたなければ総理が決断をしても同居はできぬ、現に作戦準備をやって居るので之をやめて外交だけやることは大問題だ、

 少なくとも陸軍としては大問題だ、

 充分なる確信なければ困る

 外相に確信がありますか、北部仏印のことなどは些末の問題だ、

 外交が延びるからあのような問題が起きるのだ、陸軍がやるから外交困ると言われるのは迷惑だ、

 軍のやっとる基準は御前会議決定によっておるのだ、

豊田
 遠慮ない話を許されるならば(本項は特に記述を避くる様注意あり取扱上留意を要す)
 御前会議決定は軽率だった、前々日に書類をもらってやった

東條
 そんなことは困る
 重大の責任でやったのだ

近衛
 戦争は一年二年の見込みはあるが三、四年となると自信はない
 不安がある

東條
 そんな問題は此前の御前会議の時に決って居る
 7月2日の御決定に南方に地歩を勧め北方は解決すと練りにねってきめられたのだ

 各角度から責任者が研究し其責任の上に立ったものでそんな無責任なものではない、
(及川の態度は東條に同意すると称し何れにか決せざるべからず、而して之は総理が決すべきなりと言い我方の条件にはふれず又武力でやれとも言わず総理に定めさせて責任を総理にとらせる一方なるべく外交やる様に促す様な風に観察せらる)

近衛
 今どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ず、戦争に私は自信ない、自信ある人にやって貰わねばならぬ

東條
 これは意外だ、戦争に自信がないとは何ですかそれは

「国策遂行要領」を決定するときに論ずべき問題でしょう、
外交に見透しありと言う態度ではいけない、確信がなければいけない

東條
 皆の話は結局次の様になる

(イ) 日米交渉問題は駐兵問題を中心とする主要政策を偏向せず
(ロ) 支那事変の成果に動揺を与うることなし

 右の確信を外相として持ち得るや否やを研究するの要あり
 而して私は外相総理の此の確信の具体的根拠を伺い真に作戦準備を打ち切るも、外交にて打解する確信なりと納得するのでなければ陸相としては外交でやることに賛意を表するわけにはゆかぬ

 尚細部に就て言えば駐兵問題は陸軍としては一歩も譲れない、所要時間は2年3年では問題にならぬ、第一撤兵を主体とする音が問題違いである、退却を基礎とすることは出来ぬ

 陸軍はガタガタになる、支那事変の終末を駐兵に求める必要があるのだ

 日支条約の通りやる必要があるのだ、
 所望期間とは永久の考えなり、作戦準備を打ち切っても出来ると言う確信がなければかぬ、やって見て出来ぬから総帥部にやれ言うのは支離滅裂となる、

 吾輩は今日迄軍人軍属を統督するのに苦労をして来た、与論も青年将校の指導もどうやればどうなるか位は知って居る、下のものをおさえて居るので軍の意図する処は主張する、御前ででも主張する考えなり

鈴木
 欧州情勢を検討せねばいかぬ
 独伊が単独講和をやることは困る(鈴木総裁は直に外交打切り開戦決意とは考えあらず)

さて。これは非常に意外ですね・・・。

私、南部仏印進駐を行った時点で、近衛内閣としては既に「対米開戦」に向けての「腹」は決まっていたのかと思っていたのですが、近衛首相はここにきて突然及び腰になります。

豊田外相も同じですね。
考えてみれば、「対米開戦」についてはあの松岡外相も最後の最後まで反対していました。先延ばししてでも、出来る限りその決断を先に延ばそうとしていたのは松岡でしたね?

近衛は、ここにきて「開戦の決意は自分にはできない」と、言葉にします。

松岡はこの様に言っていました。
「南部仏印進駐をするのであれば、英米開戦を行う覚悟を持ってしなければならない」と。

ですが、近衛は結局その「覚悟」ができていなかったということです。
そして、にもかかわらず「南部仏印進駐」を決行してしまった。

いや、できていたのかもしれません。ですが、最後の最後で、最終的な決断を行うだけの勇気が持てなかった。
対蒋介石軍ではここまで迅速な対応を見せていたにも拘わらず。

近衛内閣はこの四日後、10月16日に「総辞職」します。
そして、この後で政権の座に就くのが東條英機。

ついにあの東條が政権の中心としての立場を担うことになります。
前回の記事に於いて、わたしは

 『10月9日第58回連絡会議において、ついに「タイムリミット」が話題に上ります』

と記しましたが、今回の公文書の中で登場する「御前会議」という言葉。
7月2日の「御前会議」とは「情勢の推移に伴う帝國国策要綱」に関するものですが、実はもう一つ、9月6日にもこの「御前会議」が行われています。

実は、「タイムリミット」に就いてはこの御前会議に於いて、「10月下旬」としてはっきり掲載されています。

【9月6日御前会議】
昭和16年9月6日御前会議を経て決定
帝國国策遂行要領

9月6日御前会議


帝國は現下の緊迫せる情勢 特に米英蘭等各国の執れる対日攻勢「ソ」連の情勢及英国国力の弾撥性等に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要領」中南方に対する施策を左記に依り遂行す

1.帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す

2.帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段を画して帝国の要求貫徹に努む
  対米(英)交渉に於て帝國の達成すべき最小手段の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し

3.前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
  対南方外の施策は規定国策に基き之を行い特に米「ソ」の対日連合戦線を結成せしめざるに努む

逆に言えば、日本政府は天皇陛下の御前で、ここまでの決意をしていたということですね。

東條とすれば、ここまでの決意で軍をすすめ、開戦にむけた準備をしているのに、「あれは適当にやったことだ」と言われたのでは軍隊への示しがつかないと、そう言っているのですね。

ですが近衛や豊田にとってそこまでの覚悟ができていたのかというと、最終的にはそうではなかった、ということですね。

ということは、です。11月20日、日本側より米国に対して最後の「修正案」が提示されるわけですが、この11月20日対案を作成したのは既に近衛内閣ですらなかった・・・ということです。

五相会議に於いて、近衛や豊田に対して非常に強硬な姿勢を見せ、そしてついに「内閣総理大臣」となった東條英機。

彼が中心となり、「11月20日対案」が作成され、米国へと提示されるわけですが、次回記事に於いては、そんな東條が、一体どのような経緯を経て「11月20日対案」を作成し、米国側へと提示したのか、その経緯を手繰ってみたいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]