第254回 日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか/日米開戦の原因に迫る⑥など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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第253回 日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか/日米開戦の原因に迫る⑤

さて。前回の記事 では、軍部の作成した「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」に於いて、松岡外相が噛みついてクレームを入れるシーンを記事にしました。

軍部が「南方政策を優先すべきだ」としたことに対し、松岡は「それは私の考え方とは違う」と異論を唱えたのです。
私としてはこのことが、「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が議論される前日に松岡の意見により即日決定された「南方施策方針に関する件」と矛盾することを文末でお示しました。

松岡の考え方は果たして立った一日で変わってしまったのか、それとも独ソ開戦を受けて松岡はパニック状態に陥っていたのか、このことを別の資料にて検証することを前回の記事でお約束しました。

調べてみますと、丁度この翌日(1941年6月27日)に松岡と軍部との間で行われあt第34回大本営政府連絡懇談会によって、少しその理由が垣間見えてきましたので、この資料を中心に記事を進めてみます。

以下はこの時の松岡の発言詳細です。

情勢の推移に伴う帝國国策要綱の件(6月27日)

大島より意見具申数回あり。

その要旨は、帝国の方策は相当難しいと思うが独「ソ」戦は短期に終る、秋または本年中には独英戦は終る、過度に形成を観望するは不可なりというに在り

吾輩は夙に外交策戦計画を立案し、その後も之に就き想を練って居たのである。

独「ソ」戦発生の公算は二分の一と考えて居った所今日既に発生セリ。

今日の大本営案は概ね同意なるも、外交の見地より若干意見在り。左に従来より考えてある所を述ぶべし。

全面和平の為重慶と直接交渉は見込みなし、従って大きく包囲してやる要アリと判断し、「ソ」とも中立条約を作り、独に対しては頼みはしなかったが之と手を握り唯残るは米国のみとなった。よって米国に対し滞欧中参戦阻止援蒋中止を趣旨とする個人「メッセージ」を出した。

帰京後米国の返事を見た所、本職の考えと違って居った。変なものになったのは中間に人が入ったからだ。

数日前米国から返事が来たが実に妙なものだ。勿論支那事変をやめればうまく行くかも知れぬが夫れは適当ではない。結局最後に米国をつかむことに狂を生じた。

今や独「ソ」戦が惹起した。帝国は暫く形成を観望するとするも、何時かは一大決意を以て難局を打開せねばならぬ

独「ソ」戦が短期に終わるものと判断するならば、日本は南北何れにも出ないと云う事は出来ない。

短期間に終ると判断せば北を先にやるべし。独が「ソ」を料理したる後に対「ソ」問題解決と云むても外交上は問題にならぬ。

「ソ」を迅速にやれば米は参加せざるべし

米は「ソ」を助けることは事実上できぬ、元来米は「ソ」が嫌だ、米は大体に於て参戦せぬは、一部判断違いがあるかもしれぬが

故に先づ北をやり南に出よ

南に出ると英米と戦ふ、仏印に進出する事に就ては、ともすれば英米と戦うことになるかも知れぬが、二週間に亘る軍側の説明に依り仏印進出の必要性は能く分った。

「やけくそ」にやるわけではない

「ソ」と戦う場合、三、四月位なら米を外交的におさえる自信を持って居る

統帥部案の如く形成を観望すると英米「ソ」に包囲せらるべし

宜しく先ず北をやり次て南をやるべし。虎穴に入らずんば虎子を得ず。宜しく断行すべし

(陸相 「支那事変との関係如何」)

(松岡)昨年暮迄は南を先に次て北と思って居った。南をやれば支那は片付くと思ったが駄目になった。北に進み「イルクーツク」迄行けば宜しかるべく、其の半分位でも行けば蒋にも影響を及ぼし全面和平になるかも知れぬと思う

内容は現代口語に近いですから、凡そ理解できますね。

6月25日、「南方施策促進方針に関する件」を決議する段階で、松岡はその決議に関し、

「本件は急いだ方が宜し、決定した以上今直ぐが宜しい、随時閣議は刺激するかも知れぬが時局柄やむを得ず」

と述べているわけですが、なぜか「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」に於いては「南は後回しにすべきだ」と主張する松岡。
上記やり取りの中で、この「南方」に対する考え方としては、いくつかポイントとなりそうなやり取りが登場します。

上記やり取りによりますと、

 1.対ソ戦は短期決戦で済む

 2.アメリカはソ戦が嫌いだから、対ソ戦には介入してこない

 3.短期決戦に持ち込み、ドイツがソ連を攻略した後に「対ソ問題」を解決したとしても外交上問題にはならない。

ということが理由として挙げられます。また、上記記載内容の続きからの引用にはなるのですが、

 4.日本にとって三国同盟は重要だが、日ソ中立条約はもともと結ぶ必要のなかった条約(ドイツがソ連と和解したため選択肢として登場したもの)。三国同盟をやめる必要性が出てくるのなら日ソ中立条約は取らない。

 5.利害ではなく、道義で外交を行うべき

といった文言も登場します。

また、松岡にも、軍部にも共通して言えるのは、「勿論支那事変をやめればうまく行くかも知れぬが夫れは適当ではない」という部分。

松岡がこの言葉に言及しているのは、日米諒解案のやり取りに関しての見解なのですが、「支那事変をやめるわけにはいかない」という見解は松岡にも軍部にも共通して言えます。

蒋介石との交渉による和平はまず不可能で、支那事変そのものをやめるわけにはいかないとなれば、あとは南仏へ進駐するか、北に出るしかない。

北に出れば米軍が入ってくることはないが、南に出れば米英と開戦状況に陥る可能性が否定できない。
だからまず北に出てドイツを支援し、北方から蒋介石軍に圧力をかける選択肢を取ろう、というのが松岡の主張ですね。

また、「ドイツの戦況が有利な状況にあるのかどうかが分からないうちに支援を表明するのが大切だ」とも言っており、松岡とすると、日本が対ソ開戦を行った後の状況まで含めて想定に入れていたということでしょうか。


一方、軍部が対ソ開戦に慎重だったのはまず、同じ資料の続きに記されている内容から判断しますと、蒋介石軍に軍力を注ぎすぎて対ソ開戦の為の兵力を準備する時間がない、という理由です。

準備を整えようとすれば関東軍だけでも4、50日は必要で、それ以外の兵力を編成しようとすればそれ以上にかかる。
準備も整ってないのに、やるか、やらないかを今決めることはできない。

準備が整ったときに独ソ戦がどうなっているのか、その状況をみて対ソ戦を決意してもいいのではないか、というのが軍部の意見。

軍部でも海軍と陸軍との間で反応が違っていて、「北を攻めるのは絶対に反対だ」というのが海軍。
「松岡外相の気持ちはわかるが、現実問題として無理でしょ?」

というのが陸軍の反応です。

また、松岡が25日の時点では南方政策に積極的であったのに、なぜ26日の時点では意見が変わっているのかという点について、松岡の

「南に出ると英米と戦ふ、仏印に進出する事に就ては、ともすれば英米と戦うことになるかも知れぬが、二週間に亘る軍側の説明に依り仏印進出の必要性は能く分った」

との文言から推察できるかもしれません。この文言から推察するに、南方政策についてその必要性を訴えていたのは元から軍部であり、松岡その必要性を事後的に認めた、という流れが見えてきます。

25日の、「南方施策促進方針に関する件」についての懇談会が行われる経緯の中で、松岡は軍部に説得され、「決まった以上、なるべく早く実行するべきだ」との意見に変化したということでしょうか。

またこの「南方施策促進方針に関する件」について再掲しますと、

【南方施策促進に関する件】
昭和16年6月25日
大本営政府連絡会議決定
同日上奏御裁可

1.帝国は現下の諸般の情勢に鑑み 既定方針に準拠して 対仏印泰施策を促進す
  特に蘭印派遣代表の帰朝に関連し 速に仏印に対し東亜安定防衛を目的とする日仏印軍事的結合関係を設定す

2.前号の為 外交交渉を開始す

3.仏国政府または仏印当局者にして我が要求を応ぜざる場合には武力を以て我が目的を貫徹す

4.前号の場合に処する為 予め軍隊派遣準備に着手す

これが松岡が「急いで実行に移すべきだ」とした「南方施策促進に関する件」に関する内容です。

内容としては、「特に蘭印派遣代表の帰朝に関連し 速に仏印に対し東亜安定防衛を目的とする日仏印軍事的結合関係を設定す」が主題としてあり、続いて「前号の為 外交交渉を開始す」とありますから、松岡が「急ぐべきだ」としたのは、「東亜安定防衛を目的とする日仏印軍事的結合関係の設定」を行うための「外交交渉」を急ぐべきだといったのであって、進駐そのものは別に急ぐ必要はない、と意図したのではないか、との推察もできます。

ですがこのあたりはやはり松岡自身の心中の問題でもありますので、実際のどうであったのかということを確定させるのはやはり難しいですね。

松岡自身の言葉としては、

『全面和平の為重慶と直接交渉は見込みなし、従って大きく包囲してやる要アリと判断し、「ソ」とも中立条約を作り、独に対しては頼みはしなかったが之と手を握り唯残るは米国のみとなった。よって米国に対し滞欧中参戦阻止援蒋中止を趣旨とする個人「メッセージ」を出した。

帰京後米国の返事を見た所、本職の考えと違って居った。変なものになったのは中間に人が入ったからだ。

数日前米国から返事が来たが実に妙なものだ。勿論支那事変をやめればうまく行くかも知れぬが夫れは適当ではない。全面和平の為重慶と直接交渉は見込みなし、従って大きく包囲してやる要アリと判断し、「ソ」とも中立条約を作り、独に対しては頼みはしなかったが之と手を握り唯残るは米国のみとなった。よって米国に対し滞欧中参戦阻止援蒋中止を趣旨とする個人「メッセージ」を出した。

帰京後米国の返事を見た所、本職の考えと違って居った。変なものになったのは中間に人が入ったからだ。

数日前米国から返事が来たが実に妙なものだ。勿論支那事変をやめればうまく行くかも知れぬが夫れは適当ではない。結局最後に米国をつかむことに狂を生じた。』

とあり、「結局最後に米国をつかむことに狂を生じた」とあることから、この時点で既に日米諒解案を通じた米国との交渉はこの時点で十中八九決裂すると踏んでいたのでしょう。また、「ハルと自分が直接交渉していればこんなことにはならなかった筈だ。自分の代わりに野村大使が交渉に挑んたためこんなことになった」という意図も垣間見えます。

その上にドイツがソ連侵攻をスタートしたというニュースが飛び込んできたわけですから、松岡外相の心の動揺が見て取れます。

松岡は「ソ連と戦争になること」より、「アメリカと戦争になること」の方が危険であることをこの時点ではっきりと気づいていたんですね。松岡は「南に進出すれば米英と戦争になる」ことを察知しており、同じ戦争になるのなら、米英よりソ連を選ぶべきだ、としていたわけです。

ドイツがソ連との間で「独ソ不可侵条約」を結ぶまでの間、日本とドイツは「日独防共協定」を締結しており、「ソ連」という共産国家を共通の敵として認識し、日本はモンゴルの国境付近でソ連とも交戦状態にあったのです。

ところが、日本と同盟関係にあったドイツが、日本と敵対関係にあったソ連との間で不可侵条約を結んでしまったことで日本の中に「ドイツに仲介してもうことで、ソ連との間で停戦条約を締結する」という選択肢が生れました。

「ドイツとソ連が交戦状態に陥る可能性は1/2だ」としながらも、これが発生しないことに期待して日ソ中立条約を締結したわけですが、その肝心のドイツとソ連が交戦状態に陥ってしまったことで、この構造が音を立てて崩れ去ってしまいました。

有田・クレーギー会談によってイギリスは援蒋ルートをストップすることを約束しました。
フランスとの交渉により北部仏印進駐を行うことで、フランスも又援蒋ルートを遮断することを約束しました。
日ソ中立条約を結ぶことで、ソ連側からの援蒋ルートを遮断することもできました。

後は米国からの蒋介石支援をストップさせ、米国を欧州戦争に参戦させない確約さえさせることができれば蒋介石軍を殲滅し、それこそ「大東亜」に平和と安定をもたらすことが可能になるわけです。

ところが、この様な状況の中で突然ドイツがソ連に侵攻し、独ソ開戦。俄かに日本にとってすでに安定していたはずの「北方」に課題が発生することとなってしまったわけです。

日本の選択としては、三国同盟を破棄するか、日ソ中立条約を破棄するかそれともこれを放置するかの3択を迫られることとなります。

松岡は日ソ中立条約を破棄し、三国同盟を選択することを主張したわけですが、軍部は「放置する」との選択を主張しました。
若し仮に「放置する」の選択を取るとした場合。次に何を考えなければならないのか。

松岡の選択肢は「アメリカを参戦させないためにはどうすればよいのか」という選択肢だったわけですが、軍部の選択肢は「フランス領インドシナ」をどうするべきか、という選択肢だったわけです。

松岡は6月21日米国対案を見た時点で、「米国が蒋介石支援をやめる」という選択肢を取ることはない事を感じ取っていたわけですので、「南部仏印進駐はない」という選択肢になります。仮に実行すれば対英米戦開戦となるリスクが大きくなりますから。

ですが、軍部とすれば「仏印を安定させること」が最優先事項ですから、「南部仏印進駐を行うべきだ」という選択肢になるわけです。すでに独ソ戦はスタートしていますし、蘭印との交渉は妥結に至らず終結しました。そしてハルからは「米国対案」が届いたちょうどそのタイミング。

この後、松岡は外相の座をはずされ、軍部は「南部進駐」へと突き進むことになります。


次回の記事ではもう一つ、松岡が「南方施策」に関連して、軍部からどのようにして説得されていったのか。
この経緯を追いかけてみたいと思います。


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