第253回 日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか/日米開戦の原因に迫る⑤など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第252回 日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか/日米開戦の原因に迫る④

それでは改めまして、1941年6月21日、米国側が出してきた「米国対案」 に対し、9月25日、日本側が出した修正案を中心に記事を進めてみます。

・・・と行きたいところなのですが、この間に松岡外相の罷免を含め、日本と米国との間で様々なやり取りが繰り広げられていますので、9月25日の日本側修正案にたどり着く前に、日本国内での経緯や日米間に於ける経緯について記事にしておきたいと思います。

データとしては、主に国立公文書館アジア歴史資料センター 資料より、「公文書による日米交渉の経緯」 に掲載された内容を中心に進めていきます。

米国よりの対案が出されるのが日本時間にて6月22日早朝1時。
前回の記事 にも掲載しています通り、この3日後、日本時間6月15日13時に南方施策促進に関する件 、つまり南部仏印進駐に関する決定がなされます。

引用記事でも掲載しました通り、これは蘭印に於ける日蘭会商終結(あくまで『決裂』ではない)を受けてのものです。
日蘭会商については、第247回の記事 にも掲載しています通り、日本のオランダに対する要求はほぼ全面的に妥結しています。

にも関わらず最終的に交渉が妥結に至らなかった理由としては「ゴムとマンガン鉱」に対する回答が日本の要求量よりも少なかっただけの理由。このまま妥結したのでは、タイや仏印に「足元を見られる」事を危惧してのものです。日本側のプライドの問題でした。

松岡洋右


逆に言えば、蘭印との交渉が合意に至りませんでしたから、このまま放置すればそのこと自体が足元を見られる原因となり、仏印が「ヴィシー政権」から「自由フランス政権」に乗り換えることも危惧されたわけです。

ですから「次の一手」として松岡は(フランスとの交渉を推したのは松岡ではなく軍部であったようです)フランスと直接交渉し、仏印全体への進駐を完了させ、仏印が寝返ることがないよう先手を打った、というのが今回の「南部仏印進駐」の真相だったのではないかと思われます。

松岡が一番懸念していたのは、米国が欧州戦争に参戦すること。パワーバランスが崩れ、米国が参戦するための口実を与えることを一番恐れていたのです。これは、第250回記事 にて掲載した松岡修正案から考えても明らかなことです。

ただ、もう一つ問題だったのは、「米国対案」が日本側に突きつけられたのとタイミングを同一にして、ドイツがソ連に攻め込んでしまった、ということ。松岡の構想にあったのは、欧州戦線に於いては「日独伊」そして「ソ連」が4カ国で同盟関係を築くことで米国が参戦しにくい状況を作ることにありました。

ですが、独ソ戦が開戦してしまったことで、この構想がもろくも崩れ去ってしまったわけです。
恐らく松岡が南部仏印進駐の決定を急いだ理由には、この様な事情もあったのではないでしょうか。

この時の松岡の言葉として、この様な言葉が掲載されています。

「本件は急いだ方が宜し、決定した以上今直ぐが宜しい、随時閣議は刺激するかも知れぬが時局柄やむを得ず」

と。日本時間で6月25日のことです。
そしてその翌日、「帝国国策要綱」についての懇談会が開催されています。「帝国国策要綱」。つまり、「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱 の事です。

この骨子を作成したのは陸海空軍によるもので、この時の会議では、これに松岡外相が噛みついています。

例えば、帝国国策要綱 要綱第3項に、

「3.独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」

と書かれているわけですが、ここに「自主的に」とある部分に対して、松岡は

「同盟関係にあるのに、ドイツ、イタリアに相談することなく、勝手にソ連に攻撃するのか?」

と投げかけています。陸海軍側は、

「いやいや、ドイツはいつもこちらに相談することなく勝手に戦争始めてるじゃない。なんでわざわざこちらから連絡しなきゃならないわけ?」

と答えます。すると松岡は、

「向こうが勝手に戦争を仕掛けようが仕掛けまいが、そんなことはこっちには関係ない。こっちが誠心を以て対応することで向こうの気持ちをつかむことができるんだ」

と答えます。また、

要綱第1項にある、

「 1.蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す情勢の推移に対し適時重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける敵性租界を接収す」

について、

「租界接収には覚悟がいる。『情勢の推移に応じ(最終案では情勢の推移に「対し」となっています)』とあるが、『情勢の推移』とはいったいどのような情勢を想定しているのか」

と問いかけ、これに軍部が「米英との開戦を意図している」と伝えると、松岡は「これは南京政府(汪兆銘政権)にはできない。日本がやらなければならない」と答えています。

また同4項
「4.前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ」

という項目に関しては、

「南方に対する基本姿勢の保持に大なる支障なからしむの、『大』とは何だ」

と問いかけています。そう。軍部が最初に出した要綱では、「対英米戦争の基本態勢」の文言は入っていなかったんですね。
当初案では、「南方に対する基本姿勢」と書かれていたのです。

3項が対ソ開戦に関する項目ですから、「仮にソ連と開戦状態に陥っても南方に対する基本姿勢に影響はありません」と最初は書書かれていたのです。

また松岡は、帝国国策要綱 方針 第2項
「2.帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す」

に関して、
「『南方進出の歩を進む』ということと、『尚、北方問題を解決す』の『尚』という言い回しが理解できない」

と問いかけます。更に、
「要領3(対ソ開戦ついての項目)の『各般の施策を促進す』ということも理解できない」

とも問いかけています。之が実際にどの部分を差していたのか、までは現時点はわかりませんが、軍部は「北方問題は後回しにし、先に南方問題を解決する」ことを想定していたのです。

実際に資料でも、松岡に問いかけられた「軍部総長」に対して、「近藤次長」が「南が先だ」との声を耳に入れています。

これに対し、松岡は「それは私の意見とは異なる」と答えています。つまり、松岡は「北方問題を先に解決するべきだ」と考えていたのです。

松岡は、南方に進出するということは、米英を敵に回し、戦争状態になるということに気づいていたんですね。
だからこそ租界問題において軍部に米英開戦に対する覚悟を問い、綱領第4項についての文言が、「南方に対する基本姿勢の保持」という文言が、「対英米戦争の基本態勢の保持」という文言に書き換えられたのです。

つまり、

「南方問題を先に解決し、北方問題を後回しにするということは、米英開戦が行われた後で、更に北方問題を解決する、ということを言っているんですよ、あんたたち?」

と松岡は暗に言っていたのだと思われます。
ですが、この松岡の考え方だと、前日25日に決定した「南方施策方針に関する件」で松岡自身が主張した内容と矛盾するようにも感じます。

独ソ開戦も勿論急なことでしたし、松岡自身は独ソを含めた4カ国連携を考えていました。
その上で米国対案が出された直後ということもあり、松岡の頭の中ではいろんなプログラムが回転していたのでしょうか。

ひょっとすると、松岡自身の頭の中では、「対ソ開戦」という選択肢は最初からなかったのかもしれません。

次回記事では、この後の日本国内に於ける国策の推移を見ながら、松岡の考え方についても整理していきたいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]