第248回 ABCD包囲網とオランダ/対仏印泰施策要綱と南方施策促進に関する件など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>
第247回 ABCD包囲網に至る日本とオランダの経緯/日蘭会商⑥

まず最初に、タイトルにもある「対仏印泰施策要綱」と「南方施策促進に関する件」について掲載します。
私がタイピングしてますので、ひょっとして誤字等がございましたらご勘弁を。

文字は読みやすい様に現代時に打ち変えています。
最初は読みにくく、抵抗を覚えるかもしれませんので、とりあえず読み飛ばしてください。
【対仏印、泰施策要綱】
昭和16年1月30日
大本営政府連絡会議決定

第一 目的

大東亜共栄圏建設の途上において帝国の当面する仏印、泰に対する施策の目的は 帝国の自存自衛の為仏印及泰に対し軍事、政治、経済に亘り 緊密不離の結合を設定するに在り

第二 方針

1.帝国は速に仏印及泰に対する施策を強化し 目的の貫徹を期す
  之が為 所要の威圧を加え 止むをえざれば仏印に対し武力を行使す

2.本施策は英、米の策謀を排し 敏速にこれを強行して成るべく速に目的を概成す

第三 要領

1.帝国は失地問題処理を目標とする仏印、泰間紛争の居中調停を強行してこれを契機として帝国の仏印、泰両地域における指導的地位を確立する如く施策す

2.泰に対しては成るべく速に日、泰協定を締結し仏国に対しては経済交渉の即決を図ると共に 機を見て日、仏印間結合関係を増進すべき
  一般的協力並 仏印、泰間紛争防止の保障及 日、仏印間通商交通擁護を目的とする軍事的協力に関する協定を締結す
  右協定に於て充足せらるべき帝國の政治的及軍事的要求 左の如し

 イ. 仏国をして仏印に関し第三国と一切の形における政治的軍事的協力をなさざることを約束せしむ
 ロ. 仏印特定地域における航空基地及 湾岸施設の設定又は使用並 之が維持の為 所要機関の設置
 ハ. 帝国軍隊の居住、行動に関する特別なる便宜供与

3.政、戦両略の妙用を期する為 速に所要の作戦準備を整ふると共に武力行使の時機は予め機を失せず之を定む

4.交渉の経過に応じ 適時威圧を増大し 目的の達成に勉む
  右威圧行動に対し仏印が武力を以て抵抗せば当該部隊は武力を行使するもこれを強行す

5.仏国が紛争解決に応ぜざる場合には仏印に対し武力行使を予定し 其発動は別に決定せらるるものとす
  協定締結を拒否する場合に於ける武力行使は予めこれが準備を為すも 其発動は当時の情勢に依り決定す
  右武力行使は仏国をして我要求に聴従せしむるを以て限度とし 武力行使後に於ても極力仏印の治安維持、政治経済等は仏印当局をして当たらしむに勉む

6.泰にして我要求を拒否する場合に於ては日、泰協定の内容を変更し又は威圧を加ふる等 極力我要求を容認せしむるに勤め如何なる場合に於ても泰をして英、米側に赴かしめざる如く施策す

7.本施策に応ずる如く帝国の与論を統一すると共に 徒に英、米を対象とする南方問題を激化せしめ無用の摩擦を生ぜざるに留意す

こちらが「対仏印、泰施策要綱」です。第241回の記事 に於きまして、泰仏印紛争について私、「1941年1月21日、双方は停戦と相成ります」と記しましたが、交渉そのものは、1941年5月9日まで継続しており、1941年5月9日に泰・仏印双方が東京条約に調印したことで「終戦」と相成りました。

この時の日本側の行動の指標となったのが上記にある「対仏印、泰施策要綱」です。

【南方施策促進に関する件】
昭和16年6月25日
大本営政府連絡会議決定
同日上奏御裁可

1.帝国は現下の諸般の情勢に鑑み 既定方針に準拠して 対仏印泰施策を促進す
  特に蘭印派遣代表の帰朝に関連し 速に仏印に対し東亜安定防衛を目的とする日仏印軍事的結合関係を設定す

2.前号の為 外交交渉を開始す

3.仏国政府または仏印当局者にして我が要求を応ぜざる場合には武力を以て我が目的を貫徹す

4.前号の場合に処する為 予め軍隊派遣準備に着手す

以上が「南方施策促進に関する件」です。

「特に蘭印派遣代表の帰朝に関連し 速に仏印に対し東亜安定防衛を目的とする日仏印軍事的結合関係を設定す」
とあるように、これが日蘭会商の打ち切りを受けて決定されたものであることは明確です。

「対仏印、泰施策要綱」には、冒頭から

 「帝国は速に仏印及泰に対する施策を強化し 目的の貫徹を期す
 之が為 所要の威圧を加え 止むをえざれば仏印に対し武力を行使す」

とあります。この要綱は、泰仏印紛争に於いて、日本が紛争解決のために介入し、その見返りとして、特に仏印との間で

「一般的協力並 仏印、泰間紛争防止の保障及 日、仏印間通商交通擁護を目的とする軍事的協力に関する協定」

を結ぶことを目的としています。また、その見返りとして日本が仏印に対して求めたのが

 イ. 仏国をして仏印に関し第三国と一切の形における政治的軍事的協力をなさざることを約束せしむ
 ロ. 仏印特定地域における航空基地及 湾岸施設の設定又は使用並 之が維持の為 所要機関の設置
 ハ. 帝国軍隊の居住、行動に関する特別なる便宜供与

の3つ。

日本が武力を用いるとしているのは、この施策に於いて、紛争解決に応じなかった場合、及び日本側からの要求に応じなかった場合の事。

実際には仏印はこの紛争解決に応じ、5月9日の段階では終戦状態に落ち着いていますので、蘭印との交渉打ち切りを受けて決定された「南方施策促進に関する件」に於いて問題となるのは、特に「対仏印、泰施策要綱」第2項に関連してのことです。


「ヴィシー政権」と「ドゴール政権」

「フランス領インドシナ」は、その名称の通りフランスの植民地です。

ところが、当時のフランスはドイツに敗北し、日本側が交渉していた「ヴィシー政府」は、ドイツの占領下、ヴィシーに拠点を構えたドイツの「傀儡政府」でした。

ですが、一方で当時のフランスにはもう一つ、オランダがそうであったように、イギリスに拠点を構える、亡命政権、「自由フランス」が存在しました。後にフランス大統領を務めることとなる「シャルル・ド・ゴール」が代表を務める政権で、当然当時のイギリスはヴィシー政権ではなく、ドゴール政権をフランス政府として承認していました。

日本が最も恐れていたのは、いつか仏印が自分たちが交渉している相手であるヴィシー政権を離脱し、ドゴール側についてしまうことでした。

ヴィシー側と交渉している間はおそらく武力衝突が起きることはないのでしょうが、「南方施策促進に関する件」において「仏国政府または仏印当局者にして我が要求を応ぜざる場合には武力を以て我が目的を貫徹す」としているのは、ヴィシー政権が反発するケースまで含めて予め想定していたということですね。

この、「南方施策促進に関する件」を大本営にて決定した上で、日本はフランスヴィシー政権に対して、南部仏印進駐に対する承諾を得るための交渉に入ります。

これが合意に至れば、仮に仏印がドゴール側に寝返って日本軍に反乱してきたとしても、日本軍はこれを武力によって制することが可能になります。

ヴィシー政権は、「仏印の主権尊重を日本側が声明すること」を条件とし、日本側の要求を全面的に承諾します(1941年7月21日)。7月23日、双方が書面にて合意に至り、翌24日交渉妥結に至ったことが独伊に、翌25日、米英に対して同じ内容が通報されます。

これを受けて同25日、アメリカは対日資金凍結措置を、イギリスがこれに追従し、同じく対日資金凍結措置を行い、翌26日には日英通商航海条約の破棄を通告しました。また、オランダもこれに追随し、「日蘭民間石油協定」を停止します。

前記した通り、日本にとってこれは「平和進駐(武力は用いていない)」であり、継続してアメリカとの交渉を続けることを希望します。ですが、野村駐米大使と会談したヴェルズ国務次官は、「世論からの突き上げもあり、対日石油禁輸に踏み切る可能性がある」と警告。

【野村吉三郎駐米大使】
野村吉三郎


25日の時点では、既に南部仏印進駐の部隊は派遣されており、7月28日、日本軍は南部仏印進駐を開始します。

8月1日、ついにルーズベルトは対日石油輸出全面禁止へと踏み切り、これにイギリスが追従しました。ABCD包囲網の完成です。


最終的にルーズベルトを対日全面禁輸と踏み切らせたのは、米国内における「世論」でした。
ABCD包囲網という呼び方も正直どうかと思うんですが、それよりも何よりも、米英仏の蒋介石に対する継続的な支援さえ行わなければ日本が仏印進駐を行うことなどありませんでした。

何より蒋介石軍はもっと早急に殲滅され、何十万という日本兵が犠牲になることはなかったでしょう。
中国人の犠牲者の数ももっと少なかったでしょう。

日本軍は、決定内容にこそ、「武力の行使」を記載していましたが、仏印進駐における一部軍人の暴走以外で武力を用いることはありませんでしたし、いたって平和的に進駐を行いました。

蘭印との交渉も、最終的に打ち切られこそしたものの、双方非常に粘り強く交渉は行われています。

日本軍がその武力を用いたのは「中国」と「ソ連」に対してのみです。しかも、「対共産党」という名目の下。
一方で米英側はどうだったでしょうか。

フランスは途中で日本に協力する姿勢へと変わりましたが、蒋介石軍に支援物資を送り続け、結果的に日中双方に膨大な犠牲者を出しづづけました。

米英が蒋介石軍を支援し続けた理由は、アヘン戦争以降、自分たちが蹂躙し続けてきた中国人に対し、第一次世界大戦後に締結された「9カ国条約」の下築かれた「ワシントン体制」に基づいて、戦争に依らない紛争の解決、中国政治への不介入を貫き続けたことが原因です。

結果的にソ連の南下を許し、中国に「共産主義」をはびこらせ、日本人だけでなく、自分たち欧米人も「虐殺」と「残虐なる暴力」の憂き目に合い続けてきたはずなんですけどね。

日本が、本当に米国に対して真珠湾攻撃まで行う必要があったのかどうか。ここまではまだ把握できていませんが、ここまでの段階で冷静に考えれば、本当に日本に「非」があったのかどうかは明白ではないかと思います。

さて。次回記事では、改めて「ハルノート」というものに着目し、日本が戦争を越した理由は、本当に「ハルノート」によって「全面降伏か、敗北か」を選択せざるを得ない状況に追い込まれたからなのか。そのような視点に着目して記事を作成したいと思います。


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