第247回 ABCD包囲網に至る日本とオランダの経緯/日蘭会商⑥など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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第246回 ABCD包囲網に至る日本とオランダの経緯/日蘭会商⑤

前回の記事 では、小林団長を筆頭とした日蘭会商使節団が、蘭印との間の交渉に行き詰まり、小林団長が事実上罷免された後の団員からの要請に応じ、第二弾として芳澤謙吉氏を団長とした使節団が派遣されたこと。

及び日本の使節団が蘭印との間で行った交渉のいきさつについて、記事にしました。

特に記事後半に掲載した日本側と蘭印側とのやり取りは、1940年11月に斎藤音次氏の後を引き継いだ蘭印総領事、石澤豊氏とオランダのホォーフストラーテン通称局長との間での予備交渉の内容になります。

で、この交渉で蘭印側が態度を硬直化させた姿勢を示すわけですが、その理由として、芳澤団長より蘭印側に対して一般提案提出されたのとほぼ時期を同じくして、日本において松岡外相が行った議会演説。

この内容に対してオランダ政府が態度を硬化させ、これに応じて蘭印政府が日本に対して輸出統制法を公布した、という経緯があったとの記述がみられます。(現時点では情報源が1か所で出所を確認できないため、参考情報にとどめます)

ちなみに松岡外相の議会演説は以下の通り。(抜粋:読みにくいと思いますので、全文に目を通す必要はありません)

右の如き情勢に鑑み、我が政府は既定方針ニ従い、南京ノ国民政府を承認することとし、、昨年十一月三十日、是と基本条約を結んだのであります。

此の条約は善隣友好、経済提携及ビ共同防共ノ三原則を具体化したものでありまして、日華両国はハ相互に其の主権と領土とを尊重しつつ、平等互惠ノ原則に依り、緊密なる経済提携を行い、又両国ハ共同して共産主義を防遏する為め、蒙疆及び華北の一定地域ニ皇軍の駐屯すること等を規定して居ります。

皇國が領土及び戦費の賠價を求めず、又進んで治外法権を撤廃し、租界を返還するの方針を約したことは、東亞民族の道義に依る結合を衷心念願して居る一つの確乎たる表現であり、証左であります。

既に基本条約を締結し、日満華共同宣言も発せられたる以上、我々は一意專心、汪精衞氏を首班とする國民政府を援助し名実共に之を中華民國の中央政府たらしめねばなりませぬ。

斯くて日満華三國を根幹とし、愈々大東亞共栄圏の樹立に向って、万難を排し邁進せんとするの態勢を執り來つたのであります。

次に大東亞共栄圏内の蘭領「インド」、仏領「インド」支那及び「タイ」國等ノ関係を一瞥しまするに、蘭印、仏印等は地理的情勢、其の他の上よりも我が國と緊密不可分の関係にあるべきで、従来之を阻碍し來つた事態は飽くまで之を矯正し、相互の繁栄を促進する為め隣保互助の関係の設定を期せねばなりませぬ。

政府は此の見地よりして、昨年九月初旬特に小林商工大臣を蘭印に派遣致しましたのでありますが、石油購入其の他に関し、重要にして急を要する問題の交渉一段落を告たるを機会に、長く現地に滯在することを許さない事情もありますので、同代表の帰朝を見るに至り、次いで政府は過般其の後任として芳澤元外務大臣を派遣し、既に交渉を再開して居るのであります。

抜粋ではありますが、松岡外相が「蘭印」について言及しているのはこの部分だけですので、ここを差したものだと思われます。

更に抜粋すると、ここ。
大東亞共栄圏内の蘭領「インド」、仏領「インド」支那及び「タイ」國等ノ関係を一瞥しまするに、蘭印、仏印等は地理的情勢、其の他の上よりも我が國と緊密不可分の関係にあるべきで、従来之を阻碍し來つた事態は飽くまで之を矯正し、相互の繁栄を促進する為め隣保互助の関係の設定を期せねばなりませぬ。

松岡外相はつまりオランダ領東インドを、「大東亜共栄圏の一部だ」と表現したわけですね。
この内容にオランダ政府が反発した、という記載は外務省ホームページ でも確認できます。

前回の記事 にて掲載した芳澤団長と蘭印側とのやり取りが、この松岡外相の発言を受けてのことであることを念頭に入れて前回の記事を読むと、大分風通しがよくなります。

時系列だけお示ししておきますと、

1940年7月   先発隊として向井石油代表が蘭印到着
1940年9月中旬 本体である小林使節団が蘭印到着。日蘭会商スタート
1940年9月27日 日独伊三国同盟締結
※小林団長の失言により交渉は一時暗礁に乗り上げるも、後を引き継いだ向井石油代表により石油輸入量について合意が成立する。小林団長、帰国。
1940年11月上旬 石油の新規既契約分について調印
1940年12月28日 芳澤団長が蘭印到着
1941年1月  芳澤団長より蘭印側に一般提案(資源取引以外の内容)が提出される
1941年1月21日 松岡外相による議会演説が行われる
1941年2月17日~3月1日
石澤豊総領事とホォーフストラーテン通商局長との間で予備交渉が行われる

と、この様な経緯になります。引用した資料 は、石油問題研究家である 岩間 敏 氏の文章なのですが、この文章では引用文が松岡外相の議会発言を受けてのものであることが掲載されていませんので、いささか公平な判断を行うことを目的とした資料としては問題がある内容だと思います。

「日本側の発言には正規の外交官にしては夜郎自大的、恫喝的な表現が目立つ」とも記されていますが、これはあくまで代表使節団ではなく、新任の総領事が行った事前交渉のいきさつですしね。

確かに松岡外相の発言内容に行き過ぎた部分があった事は事実ですが、これが蘭印側は、「蘭印を日本「管理」下に置かんとするが如き感あるところ、蘭印としては背後に潜む日本側の動静に対し強い疑惑と不快を感ぜざるを得ず」と受け止めていますが、この時点でまだそこまでの要求を行おうとしていたのかどうかは疑問が残るところです。

勿論、本音の部分ではそうだったのでしょうけど。
また、「仏印及ひび「泰」(タイ)に対する実力行使の気配」ともありますが、仏印に関してはあくまで主権はフランス側にあり、日本軍を駐留させているにすぎないこと。

タイとの間では日本はタイ・仏印間の紛争問題についてその停戦を斡旋し、和平を実現させただけにすぎません。
蘭印が、これらの日本側の行動を「脅威」に感じていたことは事実でしょうが、日本側からすれば、「そんなつもりはない」と言いたくなるのもわからないでもありません。

それともう一つ。日本側の主張にある背景としては、こちらの表。

【蘭印の石油精製所】
蘭印石油精製所

1938年時点での資料にはなっていますが、一日当たり全生産量12万4600バレル中8万1000バレルを精製していたのがバターフセという会社で、オランダとイギリスが共同出資するグループに所属する企業。

4万3500バレルを生産していたのがコロニアルという会社で、スタンダードクループというアメリカの企業グループに所属する企業。

残るはアルゲーメネという企業で、個々が生産する量は一日当たりぜん12万4600バレル中たった100バレル。
つまり、日本側とすると、当時存在した蘭印の現地法人から直接買い受けることができる200万トンを蘭印政府と協定を結び、確約することができたとしても、実際に精製しているのはその大部分が米英の息がかかった企業。

何かあったときに、蘭印と確約した通りに提供し続けるとは限らない。仮に米英が日本への禁輸に踏み切れば、当然蘭印におけるイギリス系、アメリカ系企業がこれに呼応することは想像に難くありません。
先のやり取りの中で、

石油について観みるも、蘭印側は英米に対し大規模企業を許し居る処、右を以て脅威とは認め居らさるにあらすや。

日本人企に対する今次我方要求を認めたる場合に於いても、資本の点より考え一朝一夕に英米の石油事業の如く大発展を遂くる訳にもあさるに付き、蘭印側としては杞憂の必要なし。

とある部分に関しても、この前提条件を頭に入れておけば納得のできる部分です。

つまり、日本側が最終的に蘭印に対して求めていたものは、企業間取引を通じて米英の息がかかった会社から手に入れられるような資源ではなく、米英の影響を受けず、仮に米英との間で開戦状況に陥ったとしても順当に供給を受けられる石油会社、できれば日本直営企業と取引がしたかったのだということが見えてきます。

それが証拠に、蘭印との交渉内容として、日本が閣議決定した内容は以下の通り。
(1) 新鉱区としてボルネオを第一目標として、タラカン島の対岸約5万平方キロと日本のボルネオ石油が試掘中のカリオラン鉱区に隣接する地域とする。

(2) 既設鉱区として、スマトラとジャワの現行鉱業法が施行される前に付与された鉱区で生産中は、もちろん、未開発の油田も対象とする。

(3) 会社の買収として英米系以外の蘭系石油会社を対象とする

とあります。日本としては、もとより蘭印の経済を日本企業がどうこうしようというつもりなど毛頭なく、蘭印において、蘭印政府のお墨付きの下、米英企業並みに、自由に資源開発を行い、日中戦争のみならず、日本本土、およびその後日本の統治下に置いた地域の復興の為の資源を確保することを目的としていたのでしょう。

ちなみに、この石油輸入量に関しては、現地における開発も含め、蘭印は日本側からの要求をほぼ呑む形で合意に至っています。

問題になったのはその他の資源。とりわけ、ゴムとマンガン鉱の回答量が日本側の要求より少なかったことで、最終的には日蘭交渉決裂となります。

この、交渉決裂に至った理由として、第229回以降の記事 で引用させていただいております、royalbloodさんのブログにて服部卓四郎氏の 『大東亜戦争全史』という書籍からの引用として、以下のような文章が紹介されています。(やっと伏線が回収できました)

当日朝、芳沢大使より、尚多少交渉の余地ある旨の電報も到着し、蘭印の現に応諾した条件に基き、一応調印するか否か、若干の論議があつたが、調印しても大なる効果なく、却つて仏印及び泰に日本の弱腰を見透かされる不利ありとして、調印せざることに決論せられた。

誰の言葉として紹介されているのかが不明ですが(おそらく松岡外相)、つまりこのまま調印すれば、後の仏印やタイとの交渉において不利に働くのではないか、という、一種の「プライド」によって調印が見送られたのだということですね。

ただ、この時点で芳澤団長は、一旦交渉は打ち切るものの、まだ蘭印に対して交渉を今後継続していくことで合意しており、この時点で日・蘭印間の信頼関係が途絶えていたわけではありません。

問題になるのはこの後。
日本がアメリカ、ドイツ、ソ連の各大使にあてて発信した電報が、米国政府に傍受され、暗号が解読されてしまった事。

解読された電文こそ、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」。

全文を発信したわけではありませんでしたが、結果日本が南部仏印進駐を行おうとしていることがばれてしまい、これを受けてアメリカが対日禁輸・資産凍結を行い、これに蘭印が追従してしまいます。

元々、「ABCD包囲網」を検証することを目的としてスタートした今回の記述ですが、今回記事にしたABCD包囲網における日蘭の交渉過程を根拠として、「オランダとは交渉ができる関係にあったのであり、オランダとの関係を断ち切ったのは日本である」といった主張を見かけることがあるわけですが、今回の経緯を見れば、この表現が必ずしも正鵠を射たものではないことが分かりますね。

確かに交渉に於いてオランダは態度を硬化させつつあるものの、とても「対日禁輸」等経済制裁を課す関係性にあるようには思えません。

では一体なぜオランダが米英に追従して対日経済制裁を課すに至ったのか。次回記事では、6月末に大本営政府連絡会議決定がなされた「南方施策促進に関する件」及び「対仏印、泰施策要綱」を検証することで、その謎に迫ってみたいと思います。

時系列ごとに事象を整理すると、真実が見えてきますね。


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