第242回 ABCD包囲網に至る日本とオランダの経緯/日蘭会商など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第241回 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」の経緯/仏印進駐の経過から

そもそもの観点で考えますと、日中戦争(日華事変)の位置づけとして、日本は現地に居住する邦人と法人企業を保護することを目的とした「自国防衛のための手段」として戦争を継続していたわけですが、アメリカはこれを「侵略行為」、特に自国がアジア大陸に保有する権益に対する「侵略」としてとらえていました。

日本が守ろうとしていたのは自国民の「命」と「財産」であったのに対して、米国が守ろうとしたのは自国政府の現地における「権益」でした。

この違いは大きいと思います。英国は、当初こそ日本に対する非難決議案に同意したわけですが、特にチェンバレン首相の時代、天津英租界封鎖事件を通じて日本側と交渉を行い、有田・クレーギー会談において日本に歩み寄る姿勢を見せています。

日本の一貫したスタンスは、

「私たちは欧米各国の権益を脅かすつもりなどこれっぽっちもない。だけど、これ以上蒋介石軍を支援し続けるつもりなら、相応の対応はさせてもらう」

というスタンスだったわけです。

ところが、米国は一貫して蒋介石軍に対する資金援助を行い続け、状況が日本に対して有利になるたびに経済制裁を課し続けました。

一方イギリスは、1940年6月、やはり有田・クレーギーの間で行われた交渉において、援蒋ルートの3か月間の停止を約束するわけですが、その3カ月後。日本の北部仏印進駐完了、および日独伊三国同盟締結を受けて援蒋ルートの停止を中止し、再び蒋介石軍に対する支援をスタートさせます。

この部分について、私、チェンバレンの後を引き継いだチャーチル首相のことを調べていたのですが、少し注目したい側面が出てきましたので、この部分については後日記事にしたいと思います。

日本が蒋介石軍を殲滅させようとした最大の理由は、蒋介石軍の赤化、つまり共産化にあったわけで、中国を日本の統治下に置き、ここで日本流の教育を施さない限り、日本は常に対岸に「共産主義」という脅威を抱え続けることになります。

これを放置すれば、いずれ日本は日本本土においてこの共産主義=ソ連と対峙せざるを得なくなるわけで、このことは図らずも第二次世界大戦後のアジアにおいて証明されることとなりました。

当時のアメリカやイギリス、そしてフランスが支援し続けていた中国とは、それほどの危険性を保有する勢力であったということを忘れてはならないと思います。これにたった一国で立ち向かった日本は、考えてみれば本当にすごかったんだと思います。

単独でこれらの国々に立ち向かうリスクを回避すべく、ドイツやイタリアと同盟を結んだことも、必然といえば必然だったのかもしれません。


さて。それではこれまでまったく姿を見せていない、もう一つの国、「オランダ」。
後に「ABCD包囲網」の一角として名を連ねるこの国ですが、では日本による仏印進駐が問題となった頃、オランダと日本は一体どのような関係にあったのでしょうか。


オランダ領東インド

【オランダ領東インド】
オランダ領東インド

今回の舞台となるのはこの「オランダ領東インド」。
有名な「東インド会社」が設立されたのもこのオランダ領東インド=現在のインドネシアになります。

こうやって地図を見ながら地図を作っていると、このあたりの事情が分かってきますね。
恥ずかしながら、「東インド会社」が作られたのは私、現在のインドの東部あたりだとばかり思っていました。

オーストラリアは正しく「対岸」になるんですね。
改めて地図を使ってこのあたりの関係性をおさらいしてみたいと思います。

蒋介石政権の拠点である重慶がここ。
重慶

フランスがハイフォンから重慶に支援物資を送っていた雲南省がここ。
雲南省

そのハイフォンのあるフランス領インドシナがここ。
フランス領インドシナ

日本が進駐した北部仏印がこのあたり。
北部仏印

そのフランス領インドシナと戦争したタイがここ。
タイ

そして今回舞台となるオランダ領東インドがここです。
オランダ領東インド

マレーシア、フィリピンを挟んで仏印の真向いということになりますね。
この地がなぜ問題になるのかというと、このオランダ領東インド。この当時のアジアでは最大の石油産出量を誇っていたんですね。

日中戦争がスタートし、アメリカからの経済制裁が加速する一方で蒋介石軍には米英仏から続々と支援物資が届けられる中、日本軍はこのアジア最大の産出量を誇るオランダ領東インドの存在に目を付け、オランダとの間で交渉により石油資源の獲得を目指すようになりました。


日蘭会商

この、オランダ領東インドにおける日本とオランダの関係性を探るには、時代を世界恐慌直後。欧州各国によるブロック経済政策が行われた時代 にまでさかのぼる必要があるようです。

第147回の記事 にも記しています通り、高橋是清の経済政策によって日本は世界のどの国よりも早く世界恐慌の影響から脱却していました。

この事から、この当時のオランダ領東インドでは、日本から蘭印に向けての輸出が大幅に増加する様になり、日本からの輸入量が輸入額全体の1/3を占めるまでになりました。

この事を憂慮したオランダは、日本から蘭印への一部輸出品目に対して輸入制限をかけます。
この事態に対して日本がオランダとの間で交渉をスタートしたことが蘭印における日蘭交渉(日蘭会商)の始まりです。(1933年12月~1934年12月)

輸出制限をかけたいオランダに対して、日本は逆に「輸出拡大」を要求するなどしたため、交渉は一時決裂するものの、1936年6月8日に『日蘭海運協定(海運会社の間で積荷に関する合意)』が成立し、1937年4月9日には石沢・ハルト協定が成立します。

【石沢・ハルト協定】
一、本邦側は蘭印砂糖を可及的多量に買付ける

二、蘭印側は本邦品の蘭印輸入を昭和八年度の実績を基準として輸入割当を行い、従来の輸入制限令を可及的に撤回乃至緩和する

三、邦商取扱い比率は最高二割五分の現制度を存続し、二、三の商品に対しては最高三割を許与する

四、神戸在住の蘭人輸出商は日本側輸出組合に加入するよう両国政府は側面的に援助する

五、協定期限は昭和十三年(1938年)末まで

ところが、1937年に日中戦争が勃発したことにより、蘭印から日本への輸出が減少し、オランダがこれに対する抗議をを行います。(1938年4月)

日本に対して、もっと蘭印の物資を輸入しろ、と言ってくるんですね。
オランダ公使より「蘭印物産の輸入制限緩和」の要求が、同年12月には「蘭印物産14品目の輸入斡旋」の要求がなされます。

これに対して日本は、1939年3月、「石沢・ハルト覚書の精神に従って対応する」との方針を示します。


この様な状況を見ると、どうも他の米英仏と比較して、日本とオランダとの関係は非常に友好的なものがあったことが分かります。

一つの国と国として、日本はオランダとの間で信頼関係を築き、日中戦争が勃発した後もその信頼関係は損なわれていません。
問題になるのはその後、欧州にて第二次世界大戦が勃発して後のことになるようです。

記事が少し長くなりますので、一旦記事を分けます。


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