第241回 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」の経緯/仏印進駐の経過からなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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第240回 日独伊三国同盟の締結と「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」②

時代が「現代」に近づけば近づくほど、私たちが入手できる情報の量も増え、どの情報が本当に正しいことを言っているのか。登場人物も、その所属するグループも数が増え、またより具体性を増します。

またここには計算式で簡単にはじき出すことのできない「感情」の問題もあるので、日本が米英と開戦するに至った経緯が果たして本当はどうであったのか。これを知ることは本当に難しい作業だと感じています。

整理しますと、

1.日中戦争は蒋介石軍が民間人の居住する日本の上海租界を3万の軍で包囲、逃走経路を封鎖した上で銃撃を行ったことにより始まった。(1937年8月12日)

2.蒋介石が上海日米欧共同租界・フランス租界を空爆(1937年8月15日)し、この様子を撮影した映像を「日本の仕業である」として国際連盟に提出したことで日本が欧米から経済制裁を受けることが正当化されてしまった。(1938年10月)

3.日本軍が蒋介石軍との戦闘を繰り広げる中で、英・仏・米は蒋介石軍によって数多くの民間人を虐殺された日本ではなく、戦争を仕掛けた側の蒋介石軍に対する支援を行い続けた。

4.一方、日本は同じ時期に北方にてソ連とも紛争を繰り広げる関係にあった。

5.「対共産」という共通の目的の下、日本はドイツと同盟関係にあったが、ポーランド侵攻をめぐってドイツはソ連と不可侵条約を締結。「アメリカ」という脅威に対抗するため、日独伊蘇の4カ国による同盟を締結する実現性がにわかに現実味を帯び始めた。(1939年8月23日)

6.そんな中、欧州にて第一次世界大戦が勃発。フランスがドイツに敗北(1940年6月17日)したことにより、フランスがフランス領インドシナから蒋介石軍への支援を停止することを約束し、また日本が北部仏印に進駐することに対して承諾を得ることができた。(6月19日)

7.日本が北部仏印進駐を完了させる(1940年9月23日)とほぼ同時期に、日本はドイツ・イタリアとの間で「日独伊三国同盟」を締結する。(1940年9月27日)

8.日本はソ連との間で日ソ中立条約を締結。(1941年4月13日)

9.日本の外相である松岡は、「日独伊蘇」による四国同盟を締結することを想定していたが、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始し、松岡の構想はもろくも崩れ去ることになる。(1941年6月22日)

10.御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される。(1941年7月2日)

とここまでが前回までの記事において私が記事に掲載した内容をまとめたものになります。

今回の記事では、このうち7番。日本が北部仏印進駐を完了させた後のフランス領インドシナでの動きから記事にしてみたいと思います。


タイ・フランス領インドシナ紛争

タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発したのは1940年11月23日。

前提条件として、タイは1893年に勃発した仏泰戦争により、

 「仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオス」
 「フランス保護領カンボジア(英語版)のバッタンバン・シエムリアプ両州」

という二つの地域をフランスに割譲させられていた、ということ。ここから話はスタートします。

日本はフランスとの間で話し合いによりフランス領インドシナへの進駐を完了しましたが、フランスは元々武力によってフランス領インドシナを制圧し、統治下に納めていました。

話し合いによってフランスに進駐した日本のことを米英は「侵攻」であると非難しましたが、武力によってこの地域を占領したフランスに対しては何も非難しないという・・・。だったら自分たちが武力によって占領したすべての地域を返還してから言えっていう話です。

話を元に戻します。

フランスがドイツに敗れ、ドイツの傀儡ともいえるヴィシー政権が誕生し、一方で日本が北部仏印進駐を完了した事を受け、前記した通り、1893年に勃発した仏泰戦争によって自国領土を分割させられていたタイは、フランスヴィシー政権に対して、改めて自国領土を返還するよう要求します。

ヴィシー政権はこれを拒否し、タイと仏印との国境付近で小競り合いが頻発するようになります。

タイ
↑こちらが現在のタイです。外務省HPから画像を引っ張ってきました。

タイ仏印紛争
↑こちらはタイと仏印の間で領土問題が発生したエリア。タイ・フランス領インドシナ紛争の後、タイが取り戻す領土です。
色のついているエリアの下側、白い部分が現在のカンボジア。

北部仏印
↑こちらは日本が進駐を行った北部フランス領インドシナ。画像は 世界史カレンダー様サイト より拝借しました。

日本が進駐したエリアはラオスの上2/3辺りまでですから、今回争いが発生したのは「南部フランス領インドシナ」ということになりますね。

1940年11月23日、タイが仏印に対して空爆を行ったことから開戦となります。
両国の紛争を終結させたのが日本。

この時点で、アジア地域で「独立国」と呼べるのはタイと日本の2カ国のみ。一方フランスとは仏印問題に絡んでお互いに協定を結び、少なくとも表面上は「友好国」と呼べる存在でした。

この両国がいつまでも争いを続けることを懸念した日本が停戦を斡旋し、二見甚郷駐タイ公使がタイから公式に受け取った調停依頼文書をフランスに渡し、フランスがこの内容を受諾したことで1941年1月21日、双方は停戦と相成ります。

結果、上地図にある領土を日本はフランスからタイに返還させました。(第二次世界大戦後、ラオスとカンボジアが独立し、この領土はラオス・カンボジア領土となります)


日本とアメリカの関係

では、ここで改めて米国が ルーズベルトの隔離演説 以降、日本に対して行ってきた経済制裁について、順を追ってみてみたいと思います。

1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」

1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告

1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。

1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効

1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制

1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)

1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立

1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制

1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸

1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸

1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制

1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制

1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令

1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

経過を見てみますと、1939年7月に行われた米国からの日米通商航海条約破棄の通告は、同年6月より日本と英国との間で、有田・クレーギーによる外交交渉が行われている最中。次第に日本に譲歩するイギリスに対する牽制の意味合いも込められたものでした。

名目は「日本の中国侵略への抗議」でしたが、既に何度も述べていますように、そもそも日本に対して戦争を仕掛けてきたのは中国ですし、特にこの「抗議」を正当化する国際連盟での決議は蒋介石の提出した捏造資料を基に行われた日本に対する非難決議がベースとなっていました。

何より日中戦争は中国内に潜む共産主義勢力からの度重なる残虐な行為と挑発に業を煮やしてのもの。とても「侵略」と呼称できるようなものではありませんでした。

何より本当に「侵略」を行ってきたのは、中国と国境を接してさえいない欧米各国の方であり、自国の存亡を脅かす程の身の危険を感じる状況にないにも関わらず中国やインド、東南アジア等々を支配下に置いてきた自分たちの侵略行為は棚に上げて行われた「抗議」であったことを忘れてはならないと思います。

野村吉三郎外務大臣の度重なる交渉努力にも関わらず、1940年(昭和15年)1月26日、同条約は失効。この結果、日本は自国資源をほぼ全面的にアメリカに対して依存しているにも関わらず、米国との間でその取り決めが何一つない、「無条約状態」となってしまいます。


日本占領下における北支の状況

盧溝橋事件以降、広安門事件に於ける第29軍からの攻撃 を受け、北京への総攻撃を決定、陥落させた日本軍(1937年7月29日)は、1937年12月14日、北京に於いて湯爾和を首相とする「中華民国臨時政府」を設立させます。既に日本と友好関係にあった「冀東防共自治政府」もここに吸収されます。

1940年3月30日、南京に汪兆銘による南京国民政府が設立され、中華民国臨時政府はここに吸収されるわけですが、汪兆銘政権は日本の後ろ盾によって成立した政権であり、米国は汪兆銘政権を非難し、呼応して蒋介石軍に対して2000万ドルの借款供与を行います。

考えてみればこの時点で、日本軍の支援する汪兆銘政権V.S.米英の支援する蒋介石政権という対立構造が出来上がっていたんですね。

フランスがドイツに敗北し、日本と仏印の間で仏印進駐に対する交渉がまとまったのが6月19日。
これを受けて米国は特殊工作機械等の対日輸出を許可制にする、という制裁措置を講じます。

これが実際に公布されるのが7月2日で、このことで日本は

 兵器、弾薬、軍用器具、主要原料26種、化学製品11種、工作機械等

の輸入を「許可制」とされてしまいます。このことによって、日本はこれらの資材を米国から自由に輸入することができなくなってしまいます。

また、「基本国策要綱」が閣議決定(1940年7月26日)され、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が大本営決定 されるのが7月27日。

これを受けて航空用燃料や屑鉄等が許可制項目に加えられます。
ここまでくると、資源を完全に米国に依存している日本としては、手足を縛られた状態で胸倉を突き上げられたに等しい状態ですね。

同年9月、日本の北部仏印進駐の完了、および日独伊三国同盟締結を受けて屑鉄の輸出全面停止、となります。
実はこの屑鉄の全面輸出停止、タイと戦争状態にあったフランス領インドシナに対しても同様の制裁が加えられています。

様々なサイト等での記述を読んでいて、「実際に日本が石油の輸出を全面的に停止されたのは日本が南部仏印進駐を行った後だ」という記載を多く見かけましたから、日本があそこまで強硬に南部仏印進駐を行った事に違和感も覚えたのですが、ここまでの制裁の経緯を振り返ると、確かに南部仏印進駐が選択肢に入ったことは理解できなくもありませんね。


次回記事では、ABCD包囲網のもう一つの国、「D=オランダ」についても調査を進めてみたいと思います。


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