第240回 日独伊三国同盟の締結と「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」②など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第239回 日独伊三国同盟の締結と「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」①

日独伊三国同盟

第238回の記事では、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定されるに至った経緯について、まずはタイ・フランス領インドシナ紛争から記事にすることを考えていたのですが、それよりも先に、まずは日独伊三国同盟から記事にしてみたいと思います。

というのも、この「日独伊三国同盟」が締結されたのは1940年9月27日。

日本の北部仏印進駐とほぼ同時期であることがその理由です。

アメリカが日本に対して態度を硬化させた理由の一つはこの日独伊三国同盟の締結にあり、日本が「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定した理由の一つとして、このことはなにがしかの影響を与えているのではないか、と考えたわけです。

背景として、日本国内では1936年2月に勃発した2.26事件を受けて、陸軍(統制派)の発言力が高まる状況にあったこと。

また、同じ1936年11月、日本はドイツとの間で「日独防共協定」を締結しており、「対ソ」という共通の敵国をめぐって、お互いに協力しあえる関係にありました。

翌1937年8月に第2次上海事変が勃発し、日中が全面衝突するわけですが、日本は、実は満州事変依頼、ソ連とも満蒙国境付近において度々紛争を繰り返していました。

考えてみれば、日本が中国を自国の影響下に収めようとした最大の理由はソ連の南下を阻止することにありましたから、当然と言えば当然かもしれません。何度か紛争が繰り返される中で、最も規模が大きかったとされるのが「ノモンハン事件」と呼ばれる国境紛争です。

ドイツと日本は、「日独防共協定」を結んでおり、同盟関係にあったはずなのですが、1939年8月23日、なんとそのドイツがソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結してしまいます。

具体的な詳細はここでは追及しませんが、その目的の中の一つに、「ポーランド侵攻」の問題がありました。

【第二次世界大戦勃発時のポーランド】
ポーランド侵攻

青がドイツ、緑がソ連。
薄い青色の部分と薄い緑色の部分がポーランドです。

第二次世界大戦は、ドイツとソ連がこのポーランドという国に攻め込んだところからスタートしました。

独ソ不可侵条約を双方が締結した時、密約として、双方はポーランド分割統治に合意していたんですね。
ただ、結果としてソ連は日本とポーランドを両方相手にするのは得策ではない、として日本からの停戦合意内容に応じ、日本とソ連は1941年4月、「日ソ中立条約」を締結することとなります。

このことで、ソ連から中国への援蒋ルートは途絶えることとなりました。

停戦協議は1940年6月9日には大筋合意が行われており、世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱 において、日本の外交政策として、

 「先づ対独伊蘇施策を重点とし、特に速に独伊との政治的結束を強化し、対蘇国交の飛躍的調整を図る」

とあるのは、日本・ドイツ・ソ連・イタリアの4カ国が同盟関係を結ぶことによって、アメリカの脅威に対抗しようとしたんですね。
1940年9月27日、日独伊三国同盟を結成させた後、日本はさらにソビエトとも同盟関係を築くことにより、「ユーラシア枢軸」を形成し、アメリカを第二次世界大戦に参戦させないことを目的としていました。

ドイツの外相であるヨアヒム・フォン・リッベントロップも同じ考え方を持っていたのですが、ナチスドイツの総統であるアドルフ=ヒットラーは逆にドイツの勢力拡大の為、ソ連攻略は欠かせないと考えており、1941年6月22日、突如としてソ連侵攻を開始し、松岡の構想はものの見事に砕け散ってしまいます。

ドイツはポーランドを挟んでソ連と対峙していたわけです。
ポーランド侵攻

ソ連と共同でポーランドを攻略してしまえば、「ポーランド」という壁がなくなり、ソビエトへの侵攻もやりやすくなります。
おまけにソ連は油断していますから、より有利に戦えるという算段・・・。

ドイツとソ連の関係が悪化した理由の一つとして、ソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出した、という状況もあったようです。

結果的にドイツと連携したことはアメリカの反感を買っただけで、アメリカとの開戦が俄かに日本軍の視野へと入ってくることになりました。

ちなみに松岡に対して三国同盟を締結させるよう煽ったのは日本陸軍。
その結果定められることとなったのが「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」です。


ドイツがソ連に進行をスタートするまでの間、松岡の頭の中には、アメリカが主導する「アメリカブロック」、ナチスドイツが主導する「西欧ブロック」、ソ連が主導する「ソ連ブロック」、そして日本が主導する「東亜ブロック」の4つのブロックに世界を分けて分割して統治することで「世界国家」を形成することができると、そう考えていたようです。

実際どのような状況になるかはさておき、ドイツの裏切りさえなければ、半ば近しい状況が形成されていたことは必ずしも否定できるものではありません。

この時点で日本は、中国戦において莫大な軍事費を割いており、北に再びソ連を見据えた戦略形成を余儀なくされたことで、俄かに「資源」の問題が急速に大きな意味合いを持ち始めました。

この時、外相である松岡は、たとえ中立条約を破棄してでも同盟国であるドイツを支援する名目でソ連に進行する「北進論」を主張したのですが、政府や陸軍側は、昭和天皇まで含めて松岡のこの「北進論」に反対し、代わりにフランス領インドシナ南部への進駐、所謂「南進論」を主張したとのこと。

この後日本は英米からの反発を買い、石油輸出の全面ストップという制裁を受け、日米・日英開戦へと突き進んでいくわけです。

しかし、ここまでくると私にもわからなくなってきました。
勿論、日本が中国との「日中戦争」を開戦するに至った経緯は十分に理解できます。

蒋介石がねつ造した情報を真に受け、日本に対する制裁を正当化した国際連盟。これを下に日本に対して経済制裁を課してきた米国。

ドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦がスタートした時、日本の首相は米内光政(よない みつまさ)という人物でした。
彼は昭和天皇が直接指名し、総理大臣へと推薦した人物です。

昭和天皇は日独伊三国同盟の締結に反対しており、このために米内を首相として推挙しました。
過去に例を見ない出来事だったのだそうです。

ですが、元々三国同盟を推す意見の多かった陸軍は、ドイツがフランスを降伏に追い込んだことを受け、俄かに三国同盟締結への動きが活発化してきます。

「バスに乗り遅れるな」との言葉が生れたのはこの時なのだそうです。
陸軍の総意として陸軍大臣は辞任。米内首相は後任の大臣を出すよう陸軍に要請しますが、陸軍はこれ固辞。

このことでついに米内は総辞職へと追い込まれます。彼の後を継いで首相となったのが近衛文麿。
反対する松岡を止めさせるため、近衛は内閣を解散し、第三次近衛内閣を成立させ、松岡を外相の座から外したうえで南部進駐を決行しました。

このあたりのやりかたは、2.26事件で是清らが暗殺された後の経緯 とよく似ていますね。

ただ、一番違和感を覚えるのは、少なくともここまでの記載を受けて、客観的に考えれば、南部仏印への進駐を行えば、一体どのような結果を生むのかということは何となくわかりそうなものです。

にも拘らず、このことによって米国より課せられた「制裁」を、近衛を含め、日本国政府は「予期していなかった」との記載が多くみられるのはいったいなぜなんでしょう。

次回記事では、改めてフランス領インドシナ現地まで戻って、日本国政府が「南部仏印進駐」へと突き進んでいく経過について検証してみたいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]