第236回 南部仏印進駐の目的と理由/日本軍による侵略だったのか?②など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第235回 南部仏印進駐の目的と理由/日本軍による侵略だったのか?

では、改めまして本題、「仏印進駐は日本軍による侵略だったのか」という話題について記事にしたいと思います。


おさらい

前回の記事 で、本来の話題から少しそれた内容を記事にしたのは、今回の仏印進駐も、「見方によっては『侵略』と言えないことはない」内容になるからです。

調べていて見えてきたのは、日本がフランスとの合意に基づいて日本の軍事顧問団を派遣し、フランスがこれを受け入れたところと、その後日本軍が南進を行い、インドシナ全体に軍隊を進駐させた経緯で、北部・南部進駐を行った時点で、既に日本軍が米英との戦争になることを想定に入れていたということ。

ひょっとすると私がこれまで記してきた「日本が太平洋戦争に至った経緯」について少し方向性の変わる内容となるかもしれません。(記している現時点(2016年12月22日8時41分)ではまだはっきりとはわかりません)

これまでの内容としては、太平洋戦争に日本が巻き込まれた理由として、

 1.そもそも第二次上海事変において、蒋介石軍が自国領土である上海の共同・フランス租界地域に空爆を行い、1740名死亡させた様子を撮影し、この様子を「日本軍の仕業である」と偽って国際連盟に提出した。

 2.蒋介石が提出した映像を下に日本に対する非難決議がなされた。

 3.蒋介石が提出した映像を下に行われた日本に対する非難決議を下に日本に対する経済制裁行為が国際的に政党かされ、これに基づいて米英蘭の日本に対する経済制裁が行われた。

 4.日本が戦争する相手は中国であり、理由は中国領土を占領し、日本の統治下におき、日本流の教育を施さなければ現地に住む日本の民間人・企業の安全を保障することが非常に難しい状況にあったことにある。

 5.尚、中国の共産化を放置していれば、やがてソ連の南下を許すこととなり、日本本土の平和すら脅かされることとなる。

以上の理由により日本は中国と戦争したのだということをこれまでの記事で掲載してきました。


勿論日本はいきなり中国に戦争を吹っ掛けたわけでもなんでもなく、これまで中国の共産勢力、国民党左翼による現地邦人が虐殺(悲惨な殺害のされ方という意味)を含むあまりにも悲惨な行為を受ける中で尚、たびたび交渉の機会を探っていました。

にも関わらず、国民党軍は日本軍に対して挑発し続け、通州事件という日本人・朝鮮人200名以上が虐殺される、余りにも悲惨な、「大虐殺事件」の結果、戦闘行為が上海にまで飛び火したのが「第二次上海事変」であったわけです。

また、この第二次上海事変においても、そもそも日本軍と蒋介石軍との間にはあまりにも大きな戦力の差がありましたから、日本軍の蒋介石軍に対する反撃は極力最小限にとどめられていました。

上海共同租界地域における日本人区域を3万の中国兵が取り囲み、これに対する日本人兵力はたった4000人しかいませんでした。尚、この時日本軍と蒋介石軍は停戦交渉の真っ只中であったにもかかわらず、です。

そして、共同租界地域からの脱出路をすべて封鎖した上で、中国軍から日本軍に対する機銃掃射が行われました。

そもそものスタートはここです。勿論この時点ですでに現地日本軍から政府に対して増援要請が行われていましたが、蒋介石軍から更に日本海軍に対しての総攻撃がスタートした時点で、蒋介石軍20万に対して、日本軍はたったの5000人しかいませんでした。(第154回記事 参照)


この時に中国軍は日欧共同租界地域、およびフランス租界地域に対して空爆を行い、これを国際連盟に対して「日本軍の仕業である」として映像を提出したのです。

その後起きたのが蒋介石軍政府である南京への空爆、および入城。(「南京大虐殺」の名称で知れ渡った事件です:第154回記事 参照)

日本軍は南京を統治下においた後、逃走した蒋介石軍を追って武漢、広東省等々の地域を制圧。
中国北部を軒並み統治下に納め、「中華民国臨時政府」を設立し、重慶に遷都した蒋介石軍との戦争を繰り広げるに至りました。


さて。この重慶に遷都した蒋介石軍に対して支援物資を送り続けていたのが「フランス」「イギリス」そして「ソ連」の3国でした。(アメリカも莫大な資金援助を行っていました)

逆に言えばこれらの国々が中国に対する援助を行ってさえいなければ日中戦争が大東亜(太平洋)戦争にまで拡大し、あそこまで泥沼化することはなかったわけです。

これらの国々が中国を支援していた支援ルートのことを「援蒋ルート」と言い、特にフランスとイギリスに対してこれらの支援をやめるよう外交ルートを通じて申し入れていたわけですね。

イギリスが支援を行っていたルートは「香港ルート」と「ビルマルート」の二つ。
香港ルートは日本が1938年10月に広東省を占領したことにより遮断。

その翌月、「ビルマルート」が完成するのですが、天津英租界封鎖事件を経て行われた有田外相とクレーギー大使との交渉により、1940年7月より3か月の間支援が停止されることが約束されます。

そして現在問題にしているのは残るフランスによる支援ルート、「仏印ルート」についての問題です。


仏印進駐は日本軍による侵略だったのか?


フランス領インドシナ

さて。仏印ルートにも2種類あり、南寧省を通じて移送するルートについては日本が1939年11月、同省を陥落したため封鎖されます。

残る雲南省を通じてのルートについて、フランスが交渉に応じないため、まずは同年12月、日本軍は雲南鉄道を空爆。
翌1940年2月、再び日仏間の交渉がスタートするものの、交渉は決裂し、同年4月、日本軍は再び雲南鉄道への空爆を再開します。

しかし、翌5月、第二次世界大戦ヨーロッパ戦においてナチスドイツによるフランス侵攻がスタート、翌6月14日にパリが陥落したことを受けてフランスは日本に対して全面的に折れ、仏印より蒋介石軍への支援停止を約束し、日本軍監視団の受け入れも受諾します。(6月19日)

この決断が行われたのはパリが陥落した直後。新首相であるフィリップ=ペタンが首相の座に就くのが6月17日、独仏の間で停戦協定が結ばれたのは6月22日ですから、これは非常にフランス情勢が非常に混迷した中で行われた交渉であったことが分かります。交渉を行ったのはフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルーという人物でした。

7月1日にフランスは首都をヴィターに移し、改めてペタンを首相とした「ヴィター政権」が誕生します。
このヴィター政権はカトルーの行った交渉を認めず、ジャン・ドクーという人物を新総督に任じます。

しかし、結局カトルーとの間で行われた交渉内容は撤回されることなく、新たに松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリー大使の間で締結される協定についての交渉が行われることとなります。

松岡洋右(ようすけ)。そう。第139回の記事 でも登場しました、満州事変の戦後処理において、日本の国際連盟からの脱退を決断した人物です。

この後、フランスとの間で松岡・アンリー協定が締結され、更に現地軍司令である西原一策・アンリ・マルタンの間で「西原・マルタン協定」が締結され、協定内容に従って日本は「北部仏印進駐」を平和的に行った・・・というのがまあ、日本の仏印進駐は「侵略を目的としたものではなかった」とする側の意見として見られます。

ちなみに「松岡・アンリー協定」が結ばれたのは8月末、西原・マルタン協定が結ばれたのは9月22日です。

私がなぜ『日本の仏印進駐は「侵略を目的としたものではなかった」とする側の意見』という表現を用いたのかというと、勿論「奏ではない、仏印進駐は侵略を目的としたものだ」とする意見もあるからです。

で、気にかかっているのは日本が仏印総督との間で交渉を行い、日本軍監視団の受け入れを受諾させた6月19日から、松岡・アンリー協定が締結される8月末までの間に、日本国内において閣議決定が行われている「基本国策要綱」、および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」なるものの存在です。

ここまでの時点で、飽くまで日本は「中国」を相手として戦争を行っており、ここに所謂「侵略」の意図は見られません。
ですが、この「基本国策要綱」という文書から登場するのが「大東亜共栄圏」という発想です。

私、現時点ではまだ前記した「基本国策要綱」および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」という両文章原文について、具には目を通せていません。

ですから、ここからどのような結果が読み取れるのか、まだそのことを理解できていない状況です。


さて。では次回記事では、「基本国策要綱」および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」という両文章の内容を中心に記事を作成してみたいと思います。

その時歴史が動いた・・・というシーンを見ている様で、実は少しワクワクしています。

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