第233回 ABCD包囲網/援蒋支援ルートをめぐる日英仏の駆け引き①など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第232回 ABCD包囲網-天津英(イギリス)租界封鎖事件/有田・クレーギ―会談


これまでの流れを整理しますと、

1.第一次世界大戦後、日本が戦勝国として連合5大国の仲間入りを果たしたあたりから、どうも米国内における日本に対する世論の風当たりが厳しくなり始めていた。

2.日本が起こした「満州事変」は、日本にとってはソ連の南下を食い止めるための「英断」であったかもしれないが、米英にとっては「自国の権益が脅かされている」様にしか映らなかったこと。

3.ただし、対ドイツ戦が勃発する以前。チェンバレン首相の下でのイギリスは日本に対して敵意をむき出しにすることはなく、「天津英租界封鎖事件」においては日本との間で和議協定を結ぶところまで至っている。

つまり、第二次上海事変において、日本に対する「非難決議案」を採択しておきながら、アメリカとイギリスの対日姿勢はここまでの時点では真逆であったということが分かります。


ビルマルートをめぐる駆け引き

では、改めて増して話題を日本軍の「フランス領インドシナ進駐」に至る経緯に戻してみます。

日本がフランスと交渉し、このフランス領インドシナへの駐軍を認めさせるに至った経緯としては、第230回の記事 にも掲載しました様に、日本は別に武力を用いて強引にこの地域を占領したわけではありません。

確かに米英の主張の様に、「フランスがドイツに敗れ、弱っている状況に付け込んだ」という見方もできるかもしれません。
ですが、たとえそうであったとしても、日本とすれば「交渉」により、平和的にこの地域へ進駐したわけであり、このことで米国やイギリス、オランダからの経済制裁を強化される言われもないように思います。

そもそも、この「フランス領インドシナ進駐」が行われた経緯として、米英仏ソによる蒋介石への支援ルーツを断つ目的がありました。

その一つ、「香港ルート」に関しては日本が広東攻略を果たした時点で断たれます。
一方、「天津英租界封鎖事件」をめぐって日本とイギリスが和平協議を推し進める中で、1938年11月、イギリスより蒋介石に支援物資を輸送する援蒋ルート、「ビルマルート」が完成します。

このビルマルートに関しては、昭和15年(1940年)6月24日、つまり天津英租界封鎖事件をめぐって有田外相とクレーギー駐日大使との間で、協議内容を承認する公文が交わされたすぐ後、同じく有田外相とクレーギー大使に対して、

「重慶政権の抗戦力増加に資する物資(武器弾薬のほかガソリンやトラックなど)のビルマルートによる輸送を至急停止」


するよう要望が出されます。この時点で、既に英国首相はチェンバレンよりチャーチルへと交代しています。
このことが関係しているかどうかは定かではありませんが、

「英国側はこれを婉曲に拒絶」

します。

これに対して日本は、「強く再考を求め」、「7月12日にクレーギーは有田と会談して軍事物資のビルマ経由輸送を3か月間停止すると表明」します。

また更に有田外相は、「禁輸の完全履行確認を目的とする日本の領事館員の国境方面派遣容認を求め」ます。

有田外相としては、

「クレーギー大使。これまでの交渉を通じてあなたのことは信頼できる。だが、だからと言って英国政府すべてを信用した分けじゃない。口約束で『ビルマからの輸送停止』を約束したが、本当にこれが履行されるかどうかは現地に行ってみなければわからない。

もしあなたとの約束が本当に実行されるのであれば、別に日本が現地でこれを確認しに行っても問題はないよね?」

と言っているわけです。
案の定、クレーギーはこれに強硬に反対するもの、最終的にクレーギーは「ビルマ各地への領事館員の旅行は自由である」として、本人の責任を回避しながらも、日本の要求を呑む「妥協案」を示します。

一方でクレーギーは、有田外相に対し、「閉鎖期間中に日本が日中紛争の解決に努力すること」を求めます。

クレーギーとしては、「有田さん、私はこれだけ譲歩したんだから、輸送を停止している3か月の間に、ほんと、中国との関係を何とかしてよ? 頼むよ、ほんと」と言っています。

このビルマルートに関しては、本当に実行されていたのかどうか、イギリス統治下の現地、ビルマ政府による反対で確認することができないまま、期限の3か月目を迎えることになります。


フランス領インドシナルートをめぐる駆け引き

インドシナルートには、インドシナの「ハイフォン」という都市から、中国の「南寧」という都市まで陸路輸送するルート

【ハイフォン】
ハイフォン

【南寧】
南寧

そして、同じくハイフォンから「昆明」という都市に向かう、二つのルートがありました。

【昆明】
昆明

1938年10月に広東が陥落し、香港ルートが経たれてしまったことで、欧州陣営としては中国に武器・物資を輸送するため、この「仏印ルート」が最も重要な経路となりました。日本はフランスに対し、この仏印ルートから中国に対して武器を輸出することを中止するよう、再三申し入れていました。

ですが、フランスはこれに応じません。翌1939年11月、広東省より西進し、更に南寧市を陥落します。

【広東省】
広東省

【広西省】(南寧市)
広西省

南寧市が陥落したことで、「仏印(インドシナ)ルート」の内「南寧ルート」は断たれてしまいます。
残る一ルート、「昆明ルート」をめぐって日仏の交渉はまさしく「混迷」します。

フランスが蒋介石軍への武器輸送をやめないことから、日本軍はハイフォンから昆明に武器を輸送するための「雲南鉄道」の爆撃を開始します。(1939年12月末)

【雲南省】(昆明市)
雲南省

雲南省の南西がインドシナ、「ハイフォン」になります。
翌1940年2月、日本とフランスの間で、フランスからの蒋介石に対する武器輸出に関連した交渉がスタートします。

日本からの要求は蒋介石に対する一切の物資輸送の停止。
代わりに日本は中国国内におけるフランスの権益を尊重すること、そして雲南鉄道への空爆停止などを条件として示しました。

ですが、交渉はうまくいかず決裂。
4月下旬より、日本は再び空爆をスタートするのですが、1940年5月、ついにナチスドイツによるフランスへの侵攻がスタートし、フランス軍は崩壊。戦局が不利になったことにより、フランスは日本に対しても全面的に折れ、日本からの要求をのむことになります。

6月下旬に仏印(インドシナ)から蒋介石軍への物資の輸送を禁止し、また日本軍が本当に禁輸が行われているかどうかを確認するための監視団を派遣することにも応諾しました。


さて。この後、フランス領インドシナへ日本より、西原一策少将を団長とする監視団が到着するわけですが・・・。

どうもこの後の日本の動きをめぐって日米、日英との関係が悪化したらしいことが見えてきました。
米国は元々日本に対して高圧的であったわけですが、イギリスとの関係が悪化した理由の一つに、この後日本による「北部フランス領インドシナ進駐」に関わる事情が影響している様です。

この事態をめぐって、米国ウェルズ国務次官にょり、日本の堀内駐米大使に対して、興味深い見解が表明されています。

「日本の仏印に対する要求は侵略と言うほかなく,過去三年以上にわたる日米間の諸問題の最高潮に達したるもの」


さて。この言葉、どこか違和感を覚えませんか?

「日本の『フランス領』インドシナに対する要求は『侵略』と言うほかなく」

の部分です。どの口が・・・という気になりませんか?
なぜインドシナは「フランス領」なのでしょう。

ベトナムの歴史についてはきちんと調べてから記事にする必要があると思うのですが・・・という表現でもうお分かりですね。
インドシナは元々「インドシナ」という地名ではありませんでした。

「ベトナム」「ラオス」「カンボジア」という別々の3つの国であったわけです。
ラオスやカンボジアについては、フランスに占領されるに至るきちんとした理由があったわけですが、ベトナムは違います。

ベトナムは、フランスが「武力」によって侵略・占領し、植民地化された地域です。カンボジアやラオスは後年、「フランス領インドシナ」に編入されました。

【現在の東南アジア】
東南アジア

【フランス領インドシナ】
フランス領インドシナ

勿論日本がこの地域へ進駐した目的は「援蒋ルートを断つこと」。
内容を見ると、確かにこの目的を逸脱した、「行き過ぎた部分」も見受けられはしますが、これは全てフランス政府と合意した上でのこと。

結果的に日本軍は「フランスによる支配」からこれらの地域を開放することになります。

次回記事では、このあたりのいきさつをもう少し詳しく記事にしてみたいと思います。





このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]