第232回 ABCD包囲網-天津英(イギリス)租界封鎖事件/有田・クレーギ―会談など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第231回 ABCD包囲網に至る日本とオランダとイギリスの関係③

「ABCD包囲網に至る日本とオランダとイギリスの関係」というテーマの一部を構成する記事ではあるのですが、当初は、そこまで明確に日本に対する敵意を見せていなかったイギリスが、なぜABCD包囲網を形成し、日本を開戦へと追い込むに至ったのか、その片鱗が見える象徴的な事件だと思いますので、ここをピックアップして記事にしてみます。

前回の記事 でお伝えしましたように、「天津英(イギリス)租界封鎖事件」とは、日本の統治下にある華北(河北省、山東省、河南省、山西省の華北四省、北京市及び天津、青島市といった地区)に成立させた「中華民国臨時政府」において、新しく「海関監督」に任じられた「程錫庚」という人物が、天津英租界地域にて殺害されたことに起因する事件です。

犯人が天津英租界地域に潜伏し、この引き渡しを日本軍がイギリス側に求めたところ、イギリスがこれを拒否したため、日本軍は租界地域を封鎖し、この地域からの出入りを制限したのです。

このいきさつについて、外務省のホームページにも詳しく掲載されていましたので、今回はこれを引用する形で記事を進めていきます。


封鎖実施に至る経緯

天津封鎖に至る経緯について、外務省ホームページでは以下のように掲載しています。
 昭和13年12月,日本軍は天津租界への抗日分子進入阻止を目的として,英仏両租界の入り口で検問検索を開始しました。この検問検索は昭和14年2月に終了しましたが,現地軍は抗日分子取締りのみならず,租界に保管される中国政府所有の現銀の引渡し要求など,租界に関する諸懸案の解決状況によっては将来一層有効な措置をとると公言しました。

 昭和14年4月,新海関監督に任命された程錫庚が英租界内で殺害され,その容疑者の身柄引渡しを英国側が拒絶すると,日本軍は6月14日,英仏租界の封鎖(交通制限)を断行し,「英国の援蒋政策に猛省を求め,日本と協調して東亜新秩序建設に協力するまで矛を納めない」との談話を発表しました。

この文章を読む限りでは、日本軍が租界地域にて検問を行っていたのは、程錫庚が英租界内で殺害されたことをきっかけとしていたわけではないのですね。

治外法権でもあるこの地域が、中国の共産党員やゲリラの巣窟となっていましたので、封鎖事件が起きる前から軍はこの地域にデイルする人々の検問を行っていたということです。

租界地域に対して、更に日本軍は抗日分子の取り締まり、租界に保管される中国政府所有の現銀(要はお金のこと)の引渡しをイギリスやフランスに対して求めており、状況によってはより厳しい取り締まりを行いますよ、と事前に勧告していたんですね。

事件はそんな中で勃発し、容疑者の引き渡しを英国側が拒絶したため、租界地域を封鎖し、更に

「英国の援蒋政策に猛省を求め,日本と協調して東亜新秩序建設に協力するまで矛を納めない」

との談話を発表。
要は事件を口実として、「中国政策について、日本と一対一での交渉のテーブルに上がれ」と日本は英国側に要求したわけです。

有田八郎

この措置に対して、当時日本で駐日大使を務めていた「ロバート・クレイギー」という人物は、日本の有田八郎外務大臣に対して、現地からの報告として、

「英国人が検問の際に中国人と同列に扱われて厳重な取調べを受けていることを指摘」し、

この不当な待遇を即時停止する様要請します。彼はその後も現地から報告のあった情報として、

「英国人への侮辱的取扱いや食糧供給妨害の事例を次々と列挙」し、

その是正を日本に対して要求します。このことは英国内でも報道され、イギリス人の日本人に対する世論を厳しいものへと変化させます。

ですが、実際に現地、天津で総領事を務めていた田村(フルネームは調べきれていません)は、

「数例の行き過ぎた取調べがあったのは事実であるが,日本軍は英国人の取扱いに十分慎重を期しており,英国側の報道はほとんどが誇大・ねつ造に基づくものである」

との報告を行います。

両者の報告内容には大きな隔たりがあったため、この問題を解決するため、有田外相とクレーギ―駐日大使との間で、「日英東京会談」が開始します。英国からの提議によるものです。

引用します。
【日英東京会談(一) 会談開催から一般的原則に関する協定の合意まで】

 天津問題解決のための日英東京会談が,英国の提議で昭和14年(1939年)7月15日から開始されました。

 会談の冒頭で有田外相は,英国の援蒋政策放棄を意味する根本原則の確認を要求しました。

クレーギー大使は,天津問題の背景としてならば一般問題の討議に応じるが,日本側提案の原則は天津のみならず中国全域に適用されるおそれがあるとの難色を示し,これに対して有田外相は天津について容認できるのであれば,他の地域において容認できない理由はないと反駁しました。

さらにクレーギーは,利敵行為の判定が判然とせずブランク・チェックとなるおそれがあることや,日本軍占領地域における排英運動取締りを付加すべきこと等を挙げて,日本案の修正を求めました。

その後の討議の結果,利敵行為の判定について「いかなる場合においても英国側の対日抗議を排除しない」と有田が口頭で言明することを条件に,ほぼ原案通りで合意され,7月24日に発表されました。

内容が少し理解しにくい部分があるのですが、日本が要求した内容は、

「抗日分子取締りのみならず,租界に保管される中国政府所有の現銀の引渡し要求」

ことを求めたものと思われます。この内容に対してクレーギーは、「事件は天津で起きたんだから、天津の事件を解決するための話し合いをしようよ。日本の要求は、天津だけでなく、中国全土のことまで想定したものだよね?」と問いかけたわけです。

これに対して有田外相は、「イヤイヤ。そもそも天津で通用する解決策だったら、天津だけじゃなく、他の地域にも普通に受け入れることのできる内容でしょ?」と返答します。

また更にクレーギーは、「もし仮にそちらの条件を飲んだとして、まるで無条件降伏をしたみたいになったらどうするのよ。これに占領地域のイギリス人が反発したらどうするのさ。それも日本側がとりしまるわけ?」と聞き返します。

これに対して有田外相は、「そこまで取り締まるつもりはないよ。こちらの要求は、お宅の租界地域に潜伏する抗日中国人を全員こちらに引き渡し、中国政府がこの地域に隠し持っている現金を引き渡しさえすれば、それ以上のことを要求するつもりはないよ」と答えるわけです。

クレーギーは、日本側の要求に合意し、7月24日に発表しました。

24日以降、今度はさらに具体的な対応策に対する協議が行われました。

以下、引用します。
【日英東京会談(二) 具体的問題に関する協議と会談の決裂】

 日英会談において,昭和14年7月24日からは具体的問題に関する協議が開始されました。

 日本側は,英租界内での抗日分子の捜査・逮捕に関する日英協力,容疑者の臨時政府当局への即時引渡し,英租界内における国幣の流通禁止,租界内に保管されている現銀の租界外への搬出などの12項目を英国側へ提出しました。

 その後,協議は経済事項(国幣流通禁止・現銀移管の両項目)をめぐって難航し,英国側は容易に回答を行いませんでした。

 8月18日に出された英国の最終回答は,警察事項については協力に同意するが,経済事項は第三国の権益に害を与えるおそれがあるため英国単独で受諾することはできないというもので,経済事項はすべての関係国により公平な解決を必要とする旨が述べられていました。

 これに対し日本側は,警察事項と経済事項を分離しようとする英国側提案を受諾できないと反駁しましたが,英国側が対日回答を公表する旨を明らかにすると,日本側もこれに対抗する公表を行うこととし,ここに日英会談は決裂するに至りました。

日本は英国側に対して、

 1.抗日分子の操作・逮捕に協力すること。
 2.容疑者を(中華民国)臨時政府当局へ即時引き渡すこと。
 3.租界内に流通している中国紙幣の流通を禁止すること
 4.租界内に保管されている現金を全額租界外に搬出すること

など、合計12項目を英国に要求しました。
ですが、イギリスとしては

「いやいや、今回の会談は租界内での臨時政府関係者殺害事件への対応を取り決めるための会談でしょ? 犯人の引き渡しなど、警察が管轄する分野に対しては協力できるけど、特に経済面での協力は中国の権益も絡んでくる分野じゃない。イギリスが単独で決断することはできないよ」

と答えるわけです。ですが日本としては、

「いやいや、24日に約束したじゃない。今更約束を破る気?」

と答えています。この問題をめぐって、日英会談は決裂してしまいます。

2カ月後、1939年(昭和14年)9月、ヨーロッパにおいて対独戦が勃発します。
直後の9月4日、クレーギーは沢田廉三外務次官を訪問。7月に決裂した日英東京会談を再開したいと申し出ます。

英国は租界地域に潜伏していた抗日テロ容疑者の身柄を引き渡し、東京会談で合意に至っていた事項に関して履行を進めた上で、日本側は交渉再開に合意し、日英協議は再開します。

以下、引用します。
【英国の交渉再開要請】

 欧州大戦勃発直後の昭和14年9月4日,クレーギー大使は沢田廉三外務次官を往訪し,日英東京会談の決裂に遺憾の意を表して交渉再開を提議しました。これに対して沢田次官は,英国が自身の見解を表明しなければ再開には応じがたいと回答しました。

 その後,抗日テロ容疑者の身柄引渡しなど,英国側が東京会談において合意に達していた事項の履行を進めたため,11月,日英協議は再開されました。

 日本側は,現銀問題については臨時政府の帰属という建前は崩せないが,銀を華北地方の水害救済資金に流用しても差し支えないこと,国幣流通禁止問題はドロップするが臨時政府の紙幣(連銀券)流通に協力することを柱とする解決案を提示しました。

 これに対しクレーギーは12月4日,修正案を提示して,現銀は10万ポンドを水害救済資金とし,残余は香港上海銀行と横浜正金銀行の共同管理とする,英租界当局は連銀券の使用に何ら妨害をせず,その使用は個人の需要に任せるとの試案を提示し,このクレーギー試案を基礎に解決を図ることで合意が成立しました。

上記項目の中登場した「華北地方の水害救済資金」とは、第229回の記事 にてご紹介した、蒋介石軍による黄河の堤防破壊事件のことを示したものと思われます。

天津租界地域に流通している旧政府の中国紙幣について、天津地域から全額搬出することは前提条件としながらも、その一部を黄河決壊事件の被害者の救済のために当てても構わない、としたわけです。

その代り、租界地域に流通する紙幣は旧政府の中国紙幣ではなく、臨時政府が発行する紙幣に入れ替えることを約束させました。


協議は翌昭和15年(1940年)5月まで継続し、協議内容についてお互いに合意し、6月12日、谷正之外務次官とクレーギー対しとの間で覚書が取り交わされ、19日には有田外相とクレーギーとの間で覚書に記された合意内容に基づいて必要な措置を取る旨の公文が交換されました。

同じ内容の合意を、同日、日本は今度はフランスの天津租界地域との間でも取り交わし、6月20日、天津租界地域の封鎖は解除されました


ちなみに、この時イギリスに於いて首相を務めていたのはネヴィル・チェンバレンという人物。
彼は、ドイツに対しても「宥和政策」と呼ばれる、つまり極力戦争を起こさず、話し合いによって解決する方法を取ろうとしていました。

開戦が1939年9月1日、チェンバレンがドイツに対して宣戦布告を行ったのが9月3日であったわけですが、開戦後もチェンバレンはドイツと交渉を重ねていました。軍備も対外的には発動せず、主に自国防衛にのみ割いていた様です。

彼が首相の座を辞するのは翌年、1940年5月10日。彼の後を引き継いだのがウィンストン・チャーチルです。

イギリスが天津英租界事件を通じて日本と和平交渉を繰り広げる中、米国は1939年7月、日本に対して日米通商航海条約破棄を通告しています。

国際連盟において日本の非難決議が採択され、連盟規約における日本への制裁の正当性が是認されたのが1939年10月。
有田・クレーギー会談が実を結んだのが1940年6月12日ですから、少なくとも米国が日本に対する制裁を開始した時点での米英の日本に対する姿勢は真逆であったことが想像されます。

情報の中には、米国が日米通商航海条約破棄した理由として、天津英租界封鎖事件を通じてイギリスが日本に対して歩み寄る姿勢を見せたことにも原因がある、との記述も見られます。

アメリカはこの時のイギリスの態度に不満を覚えていたんですね。

また、イギリスの日本への姿勢が変わったことには、「チャーチル首相」の誕生との間に何か因果関係がありそうです。


外務省ホームページには、「援蒋ルート」についても詳しい記載がありましたので、次回記事では、再びこの「援蒋ルート」に着目して記事を作成していきます。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]