第231回 ABCD包囲網に至る日本とオランダとイギリスの関係③など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第230回 ABCD包囲網に至る日本とオランダとイギリスの関係②

引き続き、royalbloodさんのブログ をベースにしながら話を進めます。


フランス領インドシナ進駐に至る経緯①

この部分は、Wikiの掲載も併用しながら記事にしてみます。

フランス領インドシナ
【フランス領インドシナ】

日本がこの地域を占領した理由は、 前回の記事 にも掲載しましたように、イギリスやアメリカ、フランスなどから中国編支援物資の輸送を食い止めることが目的でした。

いつからなのか、という部分についてははっきりとした記述を探し出すことはできないのですが、Wikiベースでは、「1937年の日中戦争(支那事変)勃発以降」と記されています。

恐らくは国連において日本に対する非難決議が採択されたのと同時期であったのではないかと思います。
「借款」、つまり借金という形での資金援助が各国から行われていたほか、香港、ソ連、ラオス、そしてフランス領インドシナより、鉄道や河川、空路を通じて各国は蒋介石に対する物資の輸送も行っていました。

この時点で、飽くまでも日本の戦争相手は「中国」であり、アメリカでも、イギリスでも、フランスでも、ソ連でも、そしてオランダでもありません。日本が戦っていた戦闘相手、「中国」に対して各国は経済・物資の両側面から支援を行っていました。

第二次上海事変後、南京を攻略した日本軍は、南京攻略後、南京を撤退し、首都機能を武漢市にある漢口へと移転した蒋介石を追って武漢市漢口へと攻め入ります。(ちなみに中国軍によって引き起こされた黄河決壊事件 が発生するのは、この逃走中の出来事です)

【上海】
上海

【南京】
南京

【武漢】
武漢市

武漢攻略と同時に日本が攻略作戦を実施したのは「広東省」。

【広東省】
広東省

ここを攻略されてしまったため、まずはイギリスが「香港」を通じて蒋介石に対して支援を行っていた支援ルートの内、「香港ルート」が潰されます。(1938年10月21日)

【香港】
香港

ただこれ、あくまでも日本は中国に対して戦争行為を行ったのであって、イギリスに危害を加えようとしていたわけではありません。この二か所を占領されたことで、蒋介石は次に「重慶」というところに逃走し、ここに首都機能を移転します。

【重慶】
重慶

1938年11月3日、時の内閣総理大臣 近衛文麿 は、蒋介石に対して、

「近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めない」
と述べたうえで、

「日本の目的は『東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り』、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まない」

との声明を発表します。(Wikiより引用:東亜新秩序(第二次近衛)声明)
蒋介石は『「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図している』と批判し、アメリカもこれに同調します。

ちなみにこの時点で、日本が「10万人の大虐殺事件」を引き起こしたとされる「南京市」は、日本政府統治の下、非常に安定した状況にありました。

近衛首相が声明を発表したのと同じ月、イギリスから中国に支援物資を輸送する「ビルマルート」が完成します。

対象を「中国」に絞った様相については、色々と経緯があるわけですが、これは今回の記事の本旨ではありませんので、その内容は後日記事に委ね、サブタイトルにある「フランス領インドシナ進駐に至る経緯」へと戻ります。


天津英租界封鎖事件

時間は少し飛びまして、1939年6月。日本が天津にあるイギリスの租界地域を封鎖する、「天津英租界封鎖事件」というものが勃発します。

この当時の中国では、日本政府が中国北部(華北)地域で「占領統治」を行っており、ここに「中華民国臨時政府」を樹立していました。この中華民国臨時政府から「天津」の「海関監督」を任じられた「程錫庚(読み方は調べきれていません)」という人物が暗殺されてしまいます。

事件が起きたのが天津のイギリス租界地域で、犯人がここに潜伏してしまったのです。
日本政府はイギリス政府に犯人の引き渡しを求めるのですが、イギリスがこれを拒否します。このため、日本の本間雅晴天津軍防衛司令官によって、英仏租界地域の交通制限が実施されることになりました。

租界地域内は「治外法権」となっており、日本政府の手も、中国政府の手もこの地域内には及びません。
この当時の天津イギリス租界地域は共産党員やゲリラの巣窟となっていたのです。

この事件をめぐって、イギリスのロバート・クレイギーと日本の有田八郎外相との間で執り行われたのが「有田・クレーギ―会談」です。

この会談に関する資料を見ていて、日本がなぜ大東亜戦争へと巻き込まれていったのか、その少し違う側面が見えてきましたので、この点を少しクローズアップして次回記事でまとめてみたいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]