第230回 ABCD包囲網に至る日本とオランダとイギリスの関係②など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第229回 ABCD包囲網に至る日本とオランダとイギリスの関係①

引き続き、royalbloodさんのブログ をベースにしながら話を進めてみたいと思います。

前回の記事 よりのテーマは、蒋介石が国際連盟に対して行った、第二次上海事変以降の日本の空爆を非難するための提訴、および非難決議の採択を受け、米国が日本に対して仕掛けてきた経済制裁。

これが後のABCD包囲網へとつながるわけですが、テーマとしては米国以外のイギリス、オランダの2カ国がどのようにしてABCD包囲網の一角を形成するに至ったのか。この経緯について考えることをテーマとしています。

前回の記事では、リデル・ハートという英国人の記した文章を参考に、イギリス人の目から見た十五年戦争(満州事変以降の日本の中国政策)について検証してみました。

日本にとって脅威であったのは中国の共産化と南下してくるソ連の存在にありました。
満州事変も、特に日本側から見ればこの脅威への対策として一種の「英断」でもあったわけですが、米・英の目から見れば決してそうは移りません。

アメリカやイギリスが自分たちの「私利私欲」のためにキリスト教とアヘンを使って清国の国民の精神性を貶め、戦争を仕掛けさせた後、圧倒的な戦力で打ち破り、清国の領土を次々と植民地化していったのは自分たちでありながら、日本軍の行為は、彼らに取っては自分たちの「権益が脅かされている」様にしか映らなかったわけです。

考えてみれば、第一次世界大戦後に日本と米英の間で締結されたワシントン海軍軍縮条約や九カ国条約、四カ国条約は全て日本の中国に対する影響力を阻害するために結ばれた条約ですし(もちろん日本にとってもメリットがあったから締結に至ったわけですが)、当然のこと・・・と言えば確かにその通りですね。


四カ国条約が結ばれるまで、日本はイギリスとの間で「日英同盟」を結んでいました。
四カ国条約とは、もともと日本とイギリスとの間で結ばれていた「日英同盟」の枠を広げ、「日英米仏」の四カ国での同盟関係に広げると、そのような条約です。

裏どりをするには時間がかかりますので、一般論として記しますが、この四カ国条約が結ばれることとなった背景として、第一次世界大戦を通じて日本が中国だけでなく、「アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権」を獲得したこと等により、米国国内に「日本脅威論」が高まる傾向にあったことが挙げられます。

その理由の一つとして、日本とイギリスとの間の、「日英同盟」が原因としてあり、これを解消させる目的もあった、とも言われているのだそうです。

つまり、この頃からすでにアメリカでは日本に対して「反日感情」が高まる傾向にあり、「事実であるかどうかは」はさておき、「感情論」として日本の弱体化を意図するような、そのような傾向があったものと考えられます。

ですが、この時点で日本とイギリスはまだ「同盟関係」にあったわけで、イギリスの中にはまだ米国ほど「対日感情」は敵対的なものではなかった筈です。

で、私のこのような疑問に答える記載が、royalbloodさんのブログ にも掲載されていました。

記事では、1940年、「ゾルゲ事件」を引き起こし逮捕されたソ連より派遣された諜報員(スパイ)である、「リヒャルト・ゾルゲ」という人物が、逮捕後に記した手記を引用する形で記されています。

【スパイ・ゾルゲが見た日本【4】・英国の対日政策より引用】
イギリスの行き方は、周知のように、日本に対し緩和政策をとり、むしろ日本の対華政策を是認する傾向を見せていたが、ヨーロッパ戦争勃発後は、特にアメリカ依存の程度が強まり、対日緩和政策を捨ててアメリカの外交方針に従わざるを得なくなった。

チャーチル
【英国首相チャーチル】

私と考え方の近い、日本の所謂「保守思想(第二次世界大戦は日本は悪くない、という考え)」の強い人たちが記したブログ記事等を見ますと、「米国をけしかけたのは、英国首相であったチャーチルだ」という主張をよく見かけるのですが、royalbloodさんは、この記事を引用する形で、以下のように記しています。
欧州大戦勃発前のイギリスは、どちらかというと日本に対して、宥和的な態度をとっており、日本の対中国政策をも是認するような態度を見せていたが、対独戦勃発後は、対日強硬姿勢をとっていたアメリカに支援を依存しているために、アメリカに従わざるを得なくなったと述べているのである。

つまり、イギリスはドイツ戦勃発後、アメリカからの支援に頼っていたイギリスは、日本に対して敵対する姿勢へと転換せざるを得なかったと、いうことですね。

では、イギリスの対独戦が勃発したのはいつかと申しますと、1939年9月1日のこと。
国際連盟理事会より、日本に対する経済制裁の正当性を認める採択が行われたのが1938年9月~10月にかけてですから、その約1年後のことです。

また、ルーズベルトが日本に対して日米通商航海条約破棄を通告下のが1939年7月の話ですから、その約2カ月後の話です。

「ABCD包囲網」が完成するきっかけとなるのは、日本の「フランス領インドシナ」への進駐、つまり軍隊を派遣し、駐留したことがきっかけとなります。

フランス領インドシナ
【フランス領インドシナ】

フランス領インドシナ。現在のベトナム・ラオス・カンボジアに位置するあたりです。

ただこれ、別に日本は「侵略」して、無理矢理この地域を支配したわけでもなんでもなくて、フランスがドイツとの戦争に敗北、政権が交代し、休戦状態に陥ったタイミングで日本はフランス政府に対して交渉によりこの地域への日本軍に駐屯を認めさせ、平和裏にこの地域を一時占領しましたから、これをまるで本軍が「侵略した」かの様に言及することは当たらないと思います。

米英はこの地域を通じて中国に対して補給物資を支援しており、日本軍としてはこれを食い止める必要性があったのです。

ですが、当然アメリカはこれに反発・・・というより、日本軍がこの地域へ進軍することはあらかじめ予見しており、これを口実としてアメリカ国内における日本の資産を凍結、つまり日本人が米国内の金融機関から資金の出し入れができないようにしてしまいます。その二日後には米国からの全面禁油措置を課します。

これにイギリスとオランダが協調し、米国と同様の措置を日本に課したため、日本とすると完全にエネルギー源を絶たれ、後は戦争行為によって資源国を占領することによってしか資源を確保する手段がない状況へと追い込まれてしまいます。

この時点ではまだ、日本の対戦国は「中国(蒋介石軍)」であり、イギリスでもオランダでもアメリカでもありませんでした。
ですが、結果的に日本のこの選択が日本の資源を枯渇状況に追い込み、対米、対英、対蘭戦争へと突き進む以外に方法がない状況へと追い込んでしまったわけです。

royalbloodさんは、ブログの中で、リデル・ハートの著書から、以下のような文章を引用しています。
It is remarkable that she deferred striking for more than four months, while trying to negotiate a lifting of the oil embargo.
「日本が、戦争の開始を4ヶ月以上も行わず、その間、石油禁輸措置の解除交渉に努めたことは特筆に価する」

この様な状況において尚、日本は極力戦争を回避し、交渉によって問題解決を行おうとしていたわけですね。

これに対してアメリカは、「日本はインドシナからだけでなく、中国からも撤退しなければ、禁輸は解除しない」と通告してきます。

文章が長くなりますので、続きは次回記事に委ねます。


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