第228回 南京事件と国際社会(ABCD包囲網に至る経緯)/日中戦争のその後③など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第227回 南京事件と国際社会(ABCD包囲網に至る経緯)/日中戦争のその後②

前回の続きです。

一般的に、「日中戦争」がスタートしたのは盧溝橋事件 の勃発であった、とされています。

ですが、実際の歴史的な動向を見てみると、少なくとも第二次上海事変が勃発するまでの間、日本と中国はとても「戦争状態」と呼べるような状況にはなく、中国(第29軍)から仕掛けられる度重なる挑発に対して、局所的に日本が応戦するような状況にありました。

和平交渉も普通に進められていましたし、所謂「宣戦布告」も行われてはいませんでした。
日中戦争がスタートしたのは、明らかに「第二次上海事変」の勃発にあるわけです。

蒋介石が日本に対して宣戦布告した後も、日本は和平交渉を行う姿勢を貫き、8月14日、双方が空爆を決行したことをきっかけに日本からも中国政府に対して宣戦布告を行い、開戦状態となりました。

この事態を受けて、蒋介石は「8月15日以降の」日本の空爆を国際連盟に提訴。

国際連盟

証拠として自軍、中国軍が共同租界地、およびフランス租界地に対して行った空爆を撮影した様子を提出し、国際連盟はこの証拠に基づいて、日本に対して「非難決議」を採択することと相成りました。

この時の国際社会はソビエト共産党が中国の権力構造の内部にまで浸透する以前、第一次世界大戦当時の世界情勢を背景として、中国への不干渉、国際問題を和平交渉によって解決することを前提とした「ワシントン体制」と呼ばれる体制下にありました。

「中国共産党」および「ソ連」の脅威を身をもって体感せざるを得ない状況にあった日本は、既に国際社会の状況が、第一次世界大戦後の情勢とは全く異なる状況になっていることを知っていたわけですが、アジア大陸を経て遠く、その影響を体感できる状況になかった欧米の思想は、いわば「お花畑状態」にあったといっても過言ではないかもしれません。

ですから、「そんなお花畑連盟が中心となって行う議会の決定に日本は従うことなどとてもできません!」と日本は言っていたのですね。

蒋介石による提訴以降の流れを振り返って見ますと、こんな感じです。

1 1937年9月12日、中国による連盟への提訴。諮問委員会への付託
→委員会より日本への委員会への招請 日本の対応:拒絶
→中国より提出された資料に基づいた報告書が総会にて全会一致で採択

2.総会での採択を受け、九カ国条約関係国会議の開催が決定される。
→ベルギー政府より日本政府に招請状 日本の対応:拒絶

→他国からも再三の働きかけがおこなれるが、日本はこれに応ぜず。
同時に日本は盧溝橋事件以降の日本の努力と、中国側の挑発行為による自体の悪化を理由とし、第一次世界大戦直後の情勢を前提とした会議への参加には応じられないことを声明として発表。

→関係国はその後も日本への招請を行うが、日本は拒絶。
会議は具体的な成果を見ることなく、無期休会となる。

3.1938年9月11日、中国より国際連盟理事会に対し、対日制裁を実現するため、国際連盟の「連盟規約」の適用が要求される。
→連盟は規約17条に基づいて、日本に連盟への招請を行う 日本の対応:拒絶

→理事会は「連盟規約16条に基づいた制裁措置」を、「各国の事由において適応しうる」という議長報告を採択。
日本はこの採択を受け、

・理事会の決定に従って日本に対し制裁措置を実行する国があれば日本は対抗措置をとる決意がある旨
・日本が連盟脱退後も行ってきた連盟の平和的,社会的,および技術的分野における事業への協力を今後も維持することは困難となった旨

をそれぞれ表明。その後、連盟事務総長に対し、連盟への協力中止を通告

日本の余にも頑固な様子が見て取れるわけですが、事態をまったく知らない国がこのような日本の姿勢を見れば、確かに「これは日本が制裁を受けてもやむを得ない」と考えるかもしれません。

ですが、元をただせば、この採択そのものが、「蒋介石が国際連盟に対して、自軍(中国軍)が自ら自国内の共同租界・フランス租界地域におこなった空爆の様子を撮影した資料」を、『日本軍の所業である』と偽って提出し、この資料を下に行われた採択であったことを忘れてはならないと思います。

日本軍が、日中戦争後、「第二次世界大戦」へと巻き込まれた最大の理由は、「日本軍が一切の言い訳を行わなかったから」だということが見えてきました。


フランクリンルーズベルトの「隔離演説」

あの「ニューディール政策」を行ったフランクリンルーズベルトが行った「隔離演説」。
第147回の記事 で一度お示ししたことがあったと思います。

この「隔離演説」の中で、ルーズベルトは以下のように述べています。

【ルーズベルト隔離演説】
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」
<中略>
「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」

第147回の記事 を記したとき、私この演説は「満州事変」を受けてのものであったと思っていたのですが、どうやら満州事変ではなく、「第二次上海事変」を受けてのものであったようです。

演説が行われたのは1937年10月5日。中国からの連盟提訴が、諮問員会で採択され、その後総会で、全会一致で採択されたのは1937年10月6日ですから、ルーズベルトの隔離演説が行われたのはこの前日であったことになります。

中略以降の部分に関しては、ルーズベルトがドイツで行われたゲルニカ爆撃と、中国が上海で自国内の共同・フランス租界地域に対して行った空爆を同一視し、これを「日本の所業である」と認識して行った発言であることは発言が行われたタイミングから見ても明らかです。

この後、米国の日本に対する経済制裁が行われていく経緯は以下の通りです。

【米国の対日経済封鎖が行われた経緯(Wikiより引用)】
1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」

1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告

1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)[13]として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。

1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効

1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制

1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)

1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立

1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制

1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸

1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸

1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制

1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制

1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令

1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

当時の日本は、石油の約8割を米国から輸入していたため、米国からの石油輸出の全面停止は、本当に深刻であったようです。
これらの経緯において、日本が中国以外のアジア地域に対して侵出を行った最大の理由は、米国からの経済措置に対応してのものであったことは明らかでしょうね。

日本がドイツ・イタリアとあの三国同盟を結んだのは1940年9月。
日本は1936年11月にドイツと、1937年12月には加えてイタリアとの間で「防共協定」を結んでいましたから、三国同盟が結成されたのは、これを発展させてのものであったことになります。

これらの国がターゲットとしていたのは「ソビエト連邦」。
この国の存在において3国間の利害が一致していたんですね。

このあたりの関係性を図るには、あの「ナチス」が取り仕切るドイツ、そしてソビエト連邦という存在についてもきちんと調べる必要があると思いますので、ここは後日記事に託したいと思います。

次回記事では、「ABCD包囲網」で名前の登場する「イギリス」と「オランダ」との関係性についても内容を深める記事を掲載し地と思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]