第227回 南京事件と国際社会(ABCD包囲網に至る経緯)/日中戦争のその後②など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第226回 南京事件と国際社会(ABCD包囲網に至る経緯)/日中戦争のその後①

前回の続きです。
まず振り返っていただきたいのは、日本が中国に対して空爆を行うに至った経緯。
(※参照 第154回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(後編)

状況として、日本軍5000に対し、中国軍20万人という状況で、日本は圧倒的に不利な状況にあったということ。

「だけど元々中国の領土なんだから、ここに日本軍がいるのはおかしいんじゃない?」
という意見もあるかもしれませんが、「第二次上海事変」が勃発した上海には日米欧の共同租界地域(中国との合意の上で海外の政府が管理・警備を行っていた地域のこと)が存在しました。

日本軍がここを守らなければ、日本の民間人に待つのは虐殺と略奪・暴行・強姦という悲惨な末路のみです。
何より、第一次上海事変において、中国第19軍はこの租界地域を守る日本軍に対して発砲を行い、日本軍兵士90名が犠牲なった経緯があります。

蒋介石より第19軍に対して撤退命令が出されていたにも関わらず、です。

第2次上海事変当時の上海は、その後第19軍と護衛に当たっていた日本軍は交戦状態に陥り、第19軍は撤退。日本と中国国民党の間で停戦協定が結ばれた状況にありました。

地上戦において、最初にこの停戦協定を破ったのは蒋介石軍です。
また、国際連盟非難決議が対象としている期間は8月15日から9月25日の40日間となっていますが、実際に空爆がスタートしたのはその前日、8月14日からです。

この空爆は、日本が一方的に行ったわけではなく、日中双方が、中国は日本の艦船に向けて、日本は中国軍の空港に向けて空爆を行いました。

問題になるのは、この時中国が上海の共同租界地域、フランス租界地域に対して行った空爆です。

上海爆撃

Wikiソースにはなりますが、当時の空爆の様子はこのように表現されています。

1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、5人の外国人を含む850人が負傷し、450人が死亡、12台の自動車が破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷。

およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。 その31分後には、婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに2発の爆弾が落とされ、1,012人が死亡し、1,007人が負傷。 この一連の爆撃でノースチャイナ・デイリー・ニュース(英語版)会計部長ウィリアムズ、チャイニーズ・レコーダー紙記者ローリンソン、上海市参事会員エスリン、プリンストン大学教授Robert Karl Reischauerロバート・カール・ライシャワー(1907-37)、南部バプテスト連盟の宣教師フランク・ジョセフ・ローリンソン(英語版)ら海外要人が多数犠牲となった。

この空爆で、日欧米人を含む民間人(おそらく中国人も含まれる)総数1741人が死亡し、1868人が負傷しました。

さて。では思い出してみましょう。
「国際連盟非難決議」では、日本が中国に対して行った空襲を、「同年(1937年)4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲」と表現しています。

ゲルニカ爆撃とは、一体どのような空爆でしたでしょう?
「250キロの爆弾が54発、50キロの爆弾が158発、焼夷弾が5948」も大量の爆弾を用いて、「市に集まった近隣の農民たち」に対して、行われた「余にも凄惨な爆撃」を行った事件。これこそが「ゲルニカ爆撃」です。

その信憑性はともかく、この「国際連盟非難決議」が採択された際、想定された「ゲルニカ爆撃」とは、少なくともこのような被害を念頭に入れたものでした。かなり誇張された数字ではあるかもしれませんが、被害を受けたスペインバスク自治政府の発表によれば、その死者の数は「1,654人」と発表されています。

中国が共同租界・フランス租界地域に対して行った空爆と、起きた結果も、被害者の数もとてもよく似ていますね?
そう。「国際連盟非難決議」は、そもそも蒋介石が国際連盟に対して提訴したものであり、その証拠を持ち込んだのも蒋介石。

蒋介石は、自分たちが上海租界に対して行った爆撃の様子を撮影し、これを「日本が中国の各都市に対して行った空爆である」として、証拠として提出したんです。

国際連盟諮問委員会の出席23カ国の諮問委員は、この撮影された様子を見て、全会一致で非難決議を採択したのです。


「9カ国条約」とワシントン体制

この当時の世界は、第一次世界大戦がもたらした結果への反省から、「軍縮」が叫ばれるようになり、「9カ国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」「4カ国条約」という3つの条約に基づいて、

「今後は戦力の拡大にルールを設定し、ルールを逸脱した軍拡は行わないようにしましょうね」
「今後は領土問題などに起因する国際問題が起きた際には、戦争という方法は用いず、平和的に解決しましょうね」

という国際関係、即ち「ワシントン体制」が気づかれていました。
どの国も、この「ワシントン体制」に基づいて国際協議を推し進めていたわけです。

そう。「ソ連」と「中国」以外は。

「9カ国条約」とは、「アメリカ合衆国」・「イギリス」・「オランダ」・「イタリア」・「フランス」・「ベルギー」・「ポルトガル」・「日本」・「中華民国」の9か国間で締結された条約で、簡単に言えば、「もうこれ以上各国は中国の権益を侵害しないようにしましょう」というルールです。

考えてみれば、日本以外の国々は、中国に対して直接の利害関係を保有する関係にはなく、唯一日本に対して不利益を被るような、そんな内容になっていたわけです。

日本以外の欧米各国は、アヘン戦争以前から、「キリスト教」と「アヘン」による中国の国力の弱体化を図り、中国を挑発しては戦争を行い、次々と中国領土を植民地化していきました。

ですが、日本の場合は南下してくるロシアの脅威を念頭に、中国と朝鮮の間で協力関係を築き、満州と朝鮮半島でロシアをブロックするような体制を築こうとしていました。

ですが、中国にこびへつらう朝鮮と、新しい文明を受け入れようとせず、古来の権力構造に固執し続けた清国のあまりにもの情けなさを目の当たりにし、ロシアから日本国を守るため、「必要な手段」として朝鮮半島と満州地域の国有化を図ったわけです。

張作霖爆殺事件や満州事変に関しても、私は 第139回 の記事で、関東軍の暴走を示唆するような記事を記しましたが、この時の関東軍の念頭にあったのは「ソ連」の存在であったはずです。

もし仮に満州地域を防衛しきることができず、ソ連の南下政策を許したとしたら、それは日露戦争当時のロシアとは比較にならないほどの危険性を秘めた、「共産主義」の南下を許してしまうことになります。

当時の中国は軍閥政治に共産主義勢力が蔓延した状態の中、同族間で戦争行為を続ける、非常に不安定な状況にありました。
張作霖が統治する満州地域においても、やはり左派・共産主義者特有の、現地の日本人に(朝鮮人を含む)対して暴行や殺害行為を行う状況が後を絶たず、このままではやがてこの地域も・・・とする不安感はぬぐい切れなかった筈です。

このまま張作霖に統治を任せていては、やがて満州地域は危険地帯と化し、ソ連の南下を許してしまう・・・。
この地域に日本の統治力が及ぶ自治政府を築き、ソビエトの脅威を遠ざけることが必要だ、と考えたのが満州事変が起きた本当の理由だったのではないでしょうか。

勿論日本は独自の石油・石炭等資源をそれほど保有していませんから、同時にこの地域の資源に対する権益を維持し続けることも必要であったはずです。


9カ国条約が結ばれた後、ソ連は中国に影響力を発揮することとなり、「中国の共産主義」というワシントン体制が築かれた当時には存在しなかった脅威が中国に生まれたのです。

このあたりは、 シリーズ を読み返していただくとご理解いただけると思います。

ロシアと中国の国境付近で起きた「尼港事件」やその後の「南京事件(1927年)」、「済南事件」、「通州事件」などは、そのほとんどがロシアと中国の左派・共産主義勢力によって引き起こされた事件ですが、その悲惨さを考えれば、日本軍が一体何を恐れていたのかということも想像に難くないと思います。


長くなりますので、記事を分けます。

<次回記事>
第228回 南京事件と国際社会(ABCD包囲網に至る経緯)/日中戦争のその後③(公開後、閲覧可能になります)

このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]