第154回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(後編)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>
第153回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(前編)

【前回までの振り返り】
前回の記事では、盧溝橋事件の後、停戦協議が進められる中でまったく挑発行為をやめようとしな第29軍と、広安門事件の後第29軍の掃討に日本軍が出向いたために手薄となった通州で、第29軍にそそのかされて大変な大虐殺事件を引き起こした冀東保安隊と、彼らが起こした「通州事件」に関連した内容を記事にしました。

ちなみにこの通州事件の後、日本軍は翌日、まず奈良から派遣された部隊が逃走する冀東保安隊300人を追撃し、更に8月2日には逃走兵たちが集結していた場所に航空機より爆撃を加えこれらの逃走兵たちを一掃しています。

通州事件の後、この地域にはびこっていた第29軍は軒並み掃討され、ようやく平穏が訪れます。
このタイミングでも、残された冀東防共自治政府と支那駐屯軍との間柄はそれほど悪くはなっていないようで、拉致された殷汝耕に代わって池宗墨という人物が長官となり、日本軍に対して謝罪と賠償を行いました。

この時点で宋哲元は蒋介石に説得され、これまでの親日の姿勢を翻し、抗日へと態度を変えていました。
宋は敗走し、冀察政務委員会は事実上崩壊します。

この後の冀察地域は日本軍の後ろ盾を得て、江朝宗が市長に就任。冀察政務委員会は江に後を託して解散することとなりまし。
で、この地域を追われた第29軍がチャハル地域に進出し、これを関東軍が掃討した、という流れになるんですね。

盧溝橋事件からこの通州事件後の冀東保安隊および第29軍掃討に至るまでの流れを「北支事変」と呼びます。

【今回のテーマ】
さて。通州事件の後も、中国軍はいろんなところで様々な事件を引き起こします。

日本軍はこの後も「不拡大」の方針を貫き、地道な交渉と最低限の反撃を繰り返すのですが、上海に於いて、ドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンによって「奇策」を授けられた蒋介石軍は、ひそかに上海における戦闘準備に入ります。

【アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン】
アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン

どうもこの当時のドイツは、ナチスと外務省の間で意見が割れており、日本との連携を重視するナチスと、中国との連携を重視する外務省の間で、ファルケンハウゼンは外務省側のスタンスを取っていた、ということですね。

彼は蒋介石に対して、「共産党よりも日本の脅威に対抗するべきだ」と吹き込むのです。
この当時の上海は、第一次上海事変の停戦協定である『上海停戦協定』(1932年5月5日)が締結されたその状況下にありました。

上海停戦協定締結下にありながら、1935年より着々と上海日本軍殲滅の為、準備を進める蒋介石。
緊迫する上海情勢に、「通州事件」がどのように影響していくのか。今回の記事では、そんな上海の情勢が悪化していく様子について記事にしたいと思います。


中山水兵射殺事件

この事件が勃発するのは1935年11月9日。
上海の共同租界(第144回の記事でもお伝えした通り、上海における「租界」は日欧米共同の租界地域でした)に於いて、秘密結社同義協会会長の楊文道という人物によって引き起こされた中山秀雄一等水兵が殺害された事件のことを中山水兵射殺事件といいます。

第一次上海事変を引き起こした反蒋介石軍、「第19軍」はこの楊文道と連携していて、楊文道は中国共産党とも連携していました。
彼は第19軍と連携しながら、日本と蒋介石を対立させることで、蒋介石政権を打倒する策略を企てていたんですね。

この後、上海にて日本人が経営する商店を中国人暴徒が襲撃したり、日中関係改善に努める中国要人が暗殺されたり、何しろ中国人による殺害事件の被害者が、日中双方に立て続けに発生する状況にありました。

そして1936年12月に西安事件が勃発し、蒋介石が完全に反日姿勢へと転換。
翌年7月に北支事変勃発と相成るわけです。こうしてみると、蒋介石に対していらぬ耳打ちをしていたのは共産党員だけでなく、ドイツ人顧問であるファルケンハウゼンも同様であった、ということですね。


第二次上海事変勃発

蒋介石が、第二次上海事変までの経緯に、一体どのようなスタンスでかかわっていたのか。このことを示す資料にはいまだめぐり合っていません。

但し、1936年末頃(西安事件と同じタイミング)より、国民党軍が『上海停戦協定』に違反して非武装地域に軍隊を布陣させはじめており、北支事変の勃発を受けてさらに兵力を増強。上空には頻繁に航空偵察機を飛ばしていたのだそうです。

1937年7月24日、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致される、宮崎水兵事件が勃発した時には、保安隊や憲兵隊に偽装させた兵隊を上海に送り込み、このような保安隊の動きを不安に感じた上海市民は、共同租界地などに避難しました。

更に1937年8月6日、「国際宣伝組織」を結成するために陳立夫という人物を上海に派遣。この時は毒ガスを携帯させており、実際に散布まで行ったようです。

この様な状況の中、日本政府は上海への危険性かが高まったことから、上海だけでなく、揚子江沿岸地域の全在留邦人に対して帰国を促すのですが、それでも約1万人は残留したのだそうです。

そして1937年8月9日、「大山事件」が勃発します。

【大山事件】
大山事件

「大山事件」とは、その名称の通り大山勇夫海軍中尉、および斎藤與蔵一等水兵が中国兵によって射殺された事件のことで、中国兵が先に自国の兵士を射殺し、大山・斎藤両名が行ったかのように偽装して大山と斎藤を射殺。

その後、遺体に対しても執拗な射撃を行っていたことから、上海の日本人たちを激怒させることになります。
通州事件を受け、上海においても日本人と中国人の関係性は非常に緊迫した状況にありましたからなおさらです。

この時は、一連の北支事変における和平の交渉に、中国国民党側からも信頼されていた実業家の船津振一から中国側に働きかけて提案された停戦の為の協議、「船津和平工作」がスタートした、まさにその初日でありました。

ですが、大山事件の勃発を受けて、にわかに和平工作の雲行きが怪しくなってきます。

8月12日未明には中国正規軍が上海までやってきて、約3万人が共同租界の日本人区域を包囲。
一方で日本軍は役4000程度の兵力に過ぎませんでした。

3万の中国軍に攻め込まれてはたまったものではありませんから対抗措置をとることはせず、中国軍に対して改めて撤退する様伝えます。ですが、当然中国軍はこれ応じることはなく、日本海軍は陸軍の派兵を軍令部に依頼します。

軍令部からは到着までに時間がかかるため、なるべく戦闘を拡大させないようにとする通達が行われます。
翌13日、中国軍より日本軍に対して機関銃による射撃が開始されます。租界から外に通じる道路をすべて封鎖し、逃げられない状態にした上で、更に攻撃してきたのは保安隊や憲兵隊に偽装した「便衣兵」でした。

この時点においても日本軍としては「不拡大方針」が通告されていましたから、応戦は最小限に控え、防衛戦術に徹します。
中国軍機が低空飛行による挑発行動を行ってきた際も反撃することはありませんでした。

中国軍の行動はさらにエスカレートし、周辺の橋を複数個所破壊し、日本軍に対する砲撃を開始。
ついに日本軍はこれに応戦し、戦闘がスタートします。

このタイミングで英米仏より二中双方に敵対行動を回避するための交渉を行うための回避安が出されるのですが、はっきり言ってこれまでの中国の行動を考えると、仮にこれに応じたとて、とても戦闘行為をやめるとは考えられませんよね。

現地海軍で司令官を務めていた長谷川清海軍中将は、日本政府に対してさらなる軍隊の派遣を要請します。
そして、ついに蒋介石軍から日本海軍上海特別陸戦隊に対する総攻撃が開始します。

この時点で、5千人の日本軍に対して国民党軍はすでに20万人以上集結していました。
1937年午後九時、国民党軍は日本の海軍上海特別陸戦隊に対する総攻撃をスタートしました。

これに対して日本海軍は隣県の中国空軍基地がある杭州や広徳、また南京などへの空爆命令を出します。(渡洋爆撃)


中国空軍による上海租界の空爆

第二次上海事変でひどかったのは、中国空軍による上海の共同租界・フランス租界地域への空爆でした。

当初は日本艦隊に対する攻撃で、これに日本海軍は艦隊、および航空隊による迎撃を行っていたのですが、国民党空軍からの攻撃はやがて上海の共同租界・フランス租界へと拡大します。

この攻撃により、日本人だけでなく、欧米人を含む民間人総数1741人が死亡し、1868人が負傷しました。
このことに対して国民党政府は遺憾の意を表明するのですが、この後も蒋介石軍による租界地域への空爆は続きます。

これに対し、日本軍は前日の様東爆撃命令に従って、台湾基地より広州や広徳の航空基地に対する爆撃を敢行。
南京に対する空爆は悪天候のため延期されました。

このタイミングまで、日本軍は石原莞爾らの主張に従い、「不拡大政策」を貫いてきました。
ですが、さすがにここまでの事態を受けて、ついにその政策を見直し、近衛内閣は8月15日、以下のような「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表します。

【盧溝橋事件に関する政府声明】
1.帝国はつとに東亜永遠の平和を希望し、日支の親善提携に努力してきたが、南京政府は排日抗日を国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と我国の実力軽視の風潮に赤化勢力が加わり、いよいよ反日侮日の機運を醸成した。

2.今次事変の発端も、このような気勢がその爆発点をたまたま永定河(注:盧溝橋の河)畔に選んだにすぎない。神人共に許さざる通州虐殺事件の因由もここに発する。

3.我国は隠忍を重ね、事件不拡大を方針とし、つとに南京政府に挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せぬよう勧告したが、南京政府はますます戦備を強化し、厳存の軍事協定を破り、上海ではついに我に対して砲火を開き、帝国軍艦を爆撃するに至った。

4.このように支那側の帝国に対する軽侮と不法暴虐至らざるなく、わが国としてはもはや隠忍その限界に達し、支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置を取るのやむなきに至った。

5.我国の願うところは日支提携にあり、支那の排日抗日を根絶し、日満支三国の融和提携の実を上げること以外に他意はない。もとよりまったく領土的意図はなく、また無辜の一般大衆に対してはなんらの敵意を有するものではない。また列国権益の尊重には最善の努力を惜しまぬものである。
(引用元:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_rokokyo_seifuseimei.html

支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し=「乱暴な中国を懲らしめよ」という意味です。

同じく8月15日、中華民国は「全国総動員令」を発動し、蒋介石が陸海空軍総司令に就任、戦時体制を確立させます。
一報、中国共産党も同じく『抗日救国十大綱領』なるものを発動し、ここに至ってついに日中全面戦争が開始するわけです。

日本より、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍(陸軍)が派遣され、またさらに海軍は国民党軍の本拠地である南京空軍基地等に対する空襲を行い、8月30日にかけて制空権を掌握します。

ここにきて8月18日、イギリスから日中双方に対して双方の軍の撤退が通告され、租界の日本人保護は自分たちに委任してもらえれば責任をもって遂行する、とされるのですが、当然中国軍がこれに応じるわけがありません。

日本としてもここで撤退などしようものなら、多勢に無勢。在留邦人も含めて自分たちが全滅させられることは目に見えていますから、これに応じられるわけがありません。日本政府はすでに戦闘が開始していることを理由としてこれを丁重に辞退します。

8月23日、上海派遣軍は海軍との連携による上陸に成功し、上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐します。
同じタイミングで中国国民党と中国共産党は「第二次国共合作」を成立させます。

【盧溝橋事件当時の蒋介石】
少し話題をそらします。

この記事中、「第二次上海事変勃発」の章で、

「蒋介石が、第二次上海事変までの経緯に、一体どのようなスタンスでかかわっていたのか。このことを示す資料にはいまだめぐり合っていません。」

と私は記したのですが、少しその様子を垣間見ることができましたのでご紹介しておきます。

西安事件において共産党に「第二次国共合作」を約束させられた蒋介石ですが、どうやら盧溝橋事件が起きたタイミングではまだ、日中全面戦争に対しては慎重な姿勢を保っていたようです。
寧ろ「抗日全面戦争」を煽っていたのは周恩来ら中国共産党。

蒋介石は、第151回の記事でご紹介した演説「最後の関門」の演説を公表しながらも、並行して第29軍を北平や天津から撤退させ、日本軍と妥協しようとしていました。

このタイミングで共産党は「第二次宣言」を発表し、全面抗戦の姿勢を強調。
これ前蒋介石に反対の意を示していた複数の国民党要人たちが、蒋介石の「最後の関門」演説を擁護する意思を表明するなど、蒋介石は引くに引けなくなり、抗日の姿勢を表明することとなります。

この頃、満州南側「チャハル」では関東軍らによる「チャハル作戦」が展開されていましたから、まさしく「日中全面戦争」の様相を呈していました。(9月2日、「北支事変」は「支那事変」へと名称を変更されます。)

ただし、上海上陸にかけては中国軍はドイツ軍顧問団による指導を受けていたこともあり、上海派遣軍は大苦戦を強いられました。上海上陸戦だけで、日本軍からは約1万人の犠牲者が出たのだそうですよ。

11月9日、中国軍は一斉に退却を始めるのですが、この時中国軍は同じ中国人民間人に対する略奪と破壊が行われたのだそうです。フランス租界でも中国側の敗残兵や、避難民に紛れた「便衣兵」との間で銃撃戦が行われたり、重要機関に対する放火も行われたのだそうです。

結果的に中国軍が撤退したことで、上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が小さくなった、としてフランス将兵は日本軍に感謝の意を表しました。

この後、敗走した国民党兵を追いかけて、上海から南京へと追撃に移ります。
部隊はあの「南京大虐殺」で悪名の高い「南京」へと移ることになります。

【次回テーマ】
次回記事では、部隊を上海から南京へと移し、あの「南京大虐殺」について、私なりの視点で、本当にそのようなことが行われたのか。

この様な内容について検証してみたいと思います。



このシリーズの過去の記事
>> 第153回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(前編)
このシリーズの新しい記事
>> 第155回 南京事件(南京大虐殺)の真相を2つの視点から検証する。

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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