第153回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(前編)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第151回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(後編)

【前回までの振り返り】
さて。ようやく日中戦争開戦の舞台へと記事が到達しましたね。

前段で振り返る記事は以下の二つ。

第149回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(前編)
第151回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(後編)

一般的に「日中戦争が勃発した原因」とされる「盧溝橋事件」の原因と結果について検証した2記事です。
まとめていて感じたのは、この「盧溝橋事件」とは、この時期に勃発していた度重なる中国第29軍が日本軍に対して行っていた挑発行動の一つであって、このことを取り上げて「日中戦争の原因だった」というのは少し違うのではないかということ。

何より、盧溝橋事件の舞台になった「冀察政務委員会」や「冀東防共自治政府」と現地に駐留していた日本支那駐屯軍との関係性は良好で、この地域に対する支那駐屯軍の増派については、西側から押し寄せてくる共産党軍に対抗するためのもので、政務委員会や自治政府との間でお互いに納得の上で派遣したものであったということ。

盧溝橋における演習もそのような流れの中で実施されたものであって、何か日本軍がこの地域を支配していたかのような印象を持たれるのは、大きな考え違いである、ということに気づかされました。

また、砲撃を行ったのはどのケースにおいても中国側からであり、支那駐屯軍側としては、過剰な攻撃を受けた際に、これに応戦する形で中国軍に反撃を行っていたということも理解できました。

そのような中でも、現地自治政府と支那駐屯軍は双方で停戦・和平に向けた協議を重ねており、問題だったのはこのような協議が進む中、内容に双方が納得し、停戦命令が発せられてもその中で中国軍。中国共産党員が幹部に名を連ねる中国第29軍が「発砲」や「虐殺」を含む挑発行動を日本軍に対して行い続けていたことにあったことも見えてきました。

最終的に、度重なる第29軍の「暴走」と「虐殺行為」から北平居留邦人を保護するため、自治政府から承諾を受けたうえで北平に派遣された日本軍兵士に対して、兵団を分断した上で中国軍側から砲撃・射撃が行われた広安門事件を受けて、ついに支那駐屯軍は中国軍(第29軍)掃討を決行するに至りました。

この時も、中国の民間人は狙わないこと、自分たちの行為は現地を支配することを目的としているわけではなく、あくまでも現地邦人の財産と身の安全を確保するための行為であることを宣言した上で、行動に移りました。

この時支那駐屯軍が宣言した内容は、支那駐屯軍がよほどのことがなければ第29軍に対する反撃すら行っていないこと、中国軍側の挑発に基づいた、局地的な衝突が勃発し続ける中でも誠実に停戦協議を行い続けていたことから考えても、嘘や偽りのない本心であることは疑いようがないと思います。

【今回のテーマ】

殷汝耕
【殷汝耕(いんじょこう)】

今回の記事では、広安門事件を受けて、日本軍が第29軍掃討へと移った後、冀察政務委員会と冀東防共自治政府の境にある「通州」という地域で勃発した中国人による日本人の大虐殺事件と、引き続いて上海にて日本の海軍中尉が虐殺された「大山事件」、またさらに度重なる中国側からの攻撃を受けて勃発した「第二次上海事変」について記事にできればと思います。

上海事変に関する経緯は記事を分けて、後編として記したいと思います。


通州事件の真相

冀東自治政府

「通州」は前段でもご紹介しました通り、冀東防共自治政府と冀察政務委員会の境にある地域。
地図上で確認できますね。

事件の内容は、起きてしまった結果から言うと、南京事件(1327年)の内容によく似ています。

済南事件 でも同様の内容が置いているんですが、済南事件では被害者の数が

『日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280』

であったのに対して、南京事件の場合は殺害された人の数が50を超えていること、強姦等の暴行を受けた婦女子が30名を超える等、その被害の規模が済南事件よりも大きいため、生じた結果としては南京事件のほうが近かったのではないかと思います。

内容は・・・言を俟ちません。済南事件の時殺害された民間人の殺され方に、改めて目を通していただければご想像いただけると思います。

しかも通州事件の場合、その殺害された人の数が223名。現地在留邦人の数が385名とのことですから、実に2/3近い在留邦人がこの通州事件において「虐殺」されたのです。

Wikiに現地を取材したアメリカ人の報道が掲載されていますので、引用してみます。

【アメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズの報道】
日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。
日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。

家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。

水は彼等の血で赤く染まっていた。
何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

何しろ彼らがやることは非常に残忍なのです。まさしく「鬼畜」。


【通州事件はなぜ起きたのか】

ただ、一つだけ忘れてはいけないのではないかと思うのは、「冀東防共自治政府」や「冀察政務委員会」は、「満州事変」の延長として誕生した地域だということです。

大分見えてきたのですが、「冀東防共自治政府」は前段に写真を掲載した殷汝耕(いんじょこう)が設立した自治政府であり、「冀察政務委員会」は宋哲元が設立した地域なんですね。

関東軍は殷汝耕が自治政府を設立する際に後ろ盾となっていたようで、自治政府設立のための委員会を結成した際には、このことを対外的に発信する様圧力をかけていたようです。

ただ、自治政府を誕生させたのは関東軍云々よりも現地モンゴル人たちの後押しのほうが強かった様で、これを関東軍が強制させたかのようなイメージを持つのは少し違うと思います。で、自治政府に引き続いて「冀察政務委員会」の設立が具体化してきたときに、この委員会設立に反対する学生たちが、「一二・九運動」という学生運動を勃発させます。

時期にして1935年12月9日。西安事件 が勃発するほぼ1年前の出来事です。

この時はまだ蒋介石も「反日」より「反共」の姿勢を貫いていましたから、自治政府や政務委員会の誕生に向けた動きを「日本軍による『脅威』だ」と感じていた学生たちからしてみれば、不満でならなかったと思います。ただ、「学生」と「反日」が揃えば・・・どんな組織が裏についていたのかは想像に難くありませんね。

ちなみに「通州」という地域は、「冀東防共自治委員会」が設立された地域。
いわば冀東防共自治政府の「首都」のようなものです。

事件はこのような背景を背負った「通州」で勃発しました。

冀東防共自治政府を設立した殷汝耕は、宋哲元以上の親日家。冀察政務委員会によって自治政府が管理される立場にはありましたが、彼は第29軍とはまた別に、「冀東保安隊」を有していました。

事件を起こすのは、この冀東保安隊の中で、張慶余、張硯田の両名が統率していた2つの部隊。
彼らは中国側から冀東防共自治政府への風当たりが強くなってきていることを受けて、自治政府からの「離脱」・「蜂起」を計画していました。

「通州事件」とは、この両名が冀東防共自治政府に対して巻き起こした「クーデター」だったんですね。
そして、このクーデターに絡んでいたのが「廊坊事件」事件に於いて通州に敗走した第29軍の残党兵

張慶余、張硯田両名は、クーデターを起こす日程をいつにするか苦慮していたわけですが、通州に逃げ込んだ残党兵は、二人に対して「今でしょ」と悪魔のささやきを行ったんですね。

また、これに先駆けて1937年7月27日、中華国民政府はラジオ放送で

「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」

なるデマ報道を行います。またさらに、

「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長(蒋介石)は近く29軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」

と。

事件が起こったのは1937年7月29日早朝だったのですが、この時日本軍のほとんどは、広安門事件勃発に絡んで他の地域に出撃していたため、通州にいた日本兵はたった100名程度。これに対して冀東保安隊は第29軍の残党と合わせて実に3000人以上。

これだけの部隊が一斉に日本軍に襲い掛かったのです。
彼らはまず殷汝耕を捕縛。続いて日本兵に襲い掛かり、日本軍を壊滅。

居留民を守るものが誰もいなくなった日本人居留地域に対して彼らは襲い掛かったのです。
様々な記述を見ていると、このような残虐な行為を行った中国兵の中には、学生も含まれていたとのことで、おそらくは共産党に焚き付けられ、一二・九運動を起こした学生もこの中には混じっていたのではないでしょうか。

まあ、何しろこの時冀東保安隊+第29軍の残党が行った所業は、本当に人間とは思えないような残虐な殺害行為を行ったわけです。ちなみに、この時の写真がWiki等にも掲載されていて、ネット検索を書ければ犠牲者となったたくさんの日本人(朝鮮人を含む)たちの写真を見ることができます。

現在の中国(中華人民共和国)政府は、この通州事件に於いて自分たちが行った、とても人とは思えない所業の数々を、「南京大虐殺において日本人が行ったことだ」としてその写真をユネスコに提出したのだそうですよ。

南京大虐殺の件も、後日記事にする予定ですが・・・言葉を失いますね。


チャハル作戦


【東條英機】
東條英機

さて。このような一連の経緯を受けて、ついにあの「関東軍」が動き出します。
上の地図、左端のほうに白地で「チャハル省」と記されているのが分かりますでしょうか。

冀察政務委員会の一部ではありますが、この名前、ちょっと中国語の語感とは異なりますよね。
この地域は「モンゴル」の土地になります。

関東軍の名目としては、この地域に中国本軍に攻めてこられると満州に危険が及ぶ可能性があること、そしてあの「第29軍」がここに侵入する傾向があったため、「モンゴル人の国を樹立する」との名目でこの地域に侵攻を開始します。

以前もお伝えしたと思うのですが、日本軍がまるでこの地域を中国から奪い取るような印象を持たれるかもしれませんが、元々この地域は「満州人」の国である「清朝」が、モンゴル人から承諾を得て「清朝」の一部としていた地域。

蒋介石は北伐を完了した、とは言いましたが、この時点では蒋介石軍以外に「中華ソビエト共和国」も存在しており、蒋介石が北伐を完了したといっても、モンゴル人の土地であるはずの「チャハル」に関しては、まだ中華民国が「占領している」という意味合いのほうが強かったのではないでしょうか。

事実、現地のモンゴル人は中国から独立したがっていましたし、「冀東防共自治政府」を設立することができたのも、現地モンゴル人が独立を望んでいたからです。

作戦を事項した結果、モンゴルの徳王を中心としたモンゴル人が「蒙古連盟自治政府」を打ち立てており、本当にここが中国人の土地であるのならば、ここに日本人でもない、中国人でもない、別民族の国家が打ち立てられるのは変な話です。

日本としては、「満州を守るため」という目的があったにせよ、これを「侵略」とするのは少し違うのではないかと思います。


【陽高事件】

ただし、この時関東軍は、「結果」だけから考えると先の通州事件に劣らない「虐殺事件」を引き起こしています。
「チャハル作戦」を指揮したのは写真に掲載した「東條英機」。

この中の一部隊が、「山西省 陽高」という地域を占領した後、現地の男性を年齢を問わず、全員引き出してその場で掃射して殺害してしまうのです。その数300~500名に上るのだとか。はっきりとした人数はわからないとのことですが、そこに猟奇性が見られないだけで、決して肯定できる所業ではないように思います。

誰が、なぜこのような事件を引き起こしたのかは結局明らかになっていないそうですが、一方的に中国のやったことだけを掲載するのはフェアではないと思いますので、掲載しておきます。

【次回テーマ】
次回記事に於きましては、今回の記事の「後編」として、通州事変がもたらした結果がどのような経緯で「上海」に飛び火するのか。そのような経緯について記事にしたいと思います。
このシリーズの過去の記事
>> 第151回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(後編)
このシリーズの新しい記事
>> 第154回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(後編)

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