第151回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(後編)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第149回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(前編)

【前回までの振り返り】
前回の記事では、中国北京市「盧溝橋」に於いて勃発した「盧溝橋事件」。

この盧溝橋事件が勃発するに至った背景。なぜ日本軍はこの時「盧溝橋」という地域で演習活動を行っていたのか。
すぐ対岸にまで共産党勢力が迫っていたという事実。またさらに宋哲元の下、冀東防共自治政府や冀察政務委員会の護衛に当たっていた「第29軍」がどんな部隊であったのかということ。

盧溝橋事件が勃発した原因、というより、「どのような状況の中で」盧溝橋事件が勃発したのかということに関して記事にしてみました。

読んでいただければ、「日中戦争の原因となった」とされる盧溝橋事件において、少なくとも日本側は、またさらに言えば「盧溝橋」現地を監理していた中国側としても、これを戦争に発展させるつもりなどさらさなかったということが分かると思います。

【今回のテーマ】

石原莞爾
【石原莞爾】

今回の記事に於きましては、前回の記事に引き続きまして、日中双方の「偶発的な発砲」によって引き起こされた盧溝橋事件が、本来穏便に済まさられるよう勧められていたにも関わらずなぜ最終的に「日中開戦」の経緯へと至ることになったのか。この様な内容について記事を記したいと思います。


盧溝橋事件勃発後の経緯

わかりやすいので、最初にこの地域の地図を掲載します。

【盧溝橋事件の舞台】
冀東自治政府

問題となるのは、盧溝橋事件に於いて、最初に日中双方より行われた「射撃」よりも、その後、7月8日早朝3時25分に行われた中国側からの射撃。場所は結構明るかったみたいなので、これは最初の射撃とは異なり、中国側は自分たちが何に対して射撃しているのかということは正確に把握できる状態にあったようです。

射撃されたのは、行方不明者が発生したことを伝令するために盧溝橋から豊台に派遣された2名の伝令役。
彼らが戻ってくる前に行方不明者が発見され、部隊が移動したために迷っていた2名の伝令役が狙撃されます。

夜が明けかかっていて、事態が把握できる状態であったにも関わらず、中国側から狙撃されたことを受けて一木清直大隊長は牟田口廉也連隊長の許可を得て、中国軍に対する進軍を開始します。

ここまでは日本軍側から中国軍側に対して、一切の射撃は行っていません。(最初の射撃も『空砲』でしたね?)
この進軍を受けて、日中双方が初めて全面衝突することになります。これも、日本軍を発見した中国軍側からの射撃で、日本軍はこれに応戦する形で射撃を行いました。

ただ、この時点で停戦交渉を行うための交渉役が日中双方より派遣されており、戦闘行為が行われる裏側で、同時に停戦交渉が行われていました。この停戦交渉に於いて、中国軍側からも今回の事件を引き起こした部隊に対して「不逞の輩」とする考えが示されており、中国側から、「あんなやつら、思う存分攻撃してやってください」との意思も示されていたようです。

【日本政府側の反応】
両軍が衝突した情報が、8日早朝日本政府にも届けられるのですが、この時軍上層部の中で、「これを機に一気に中国に攻め込むべきだ!」という意見と、「今はソ連にどう対応するかが大切なのであり、中国なんかにかまってる暇はない!」とする二つの意見がぶつかります。

この中に、「宋哲元は友好的で、現地では交渉も進んでいるからちょっと待とうよ、みんな!」という意見がどうも全く出ていないらしいことは・・・ちょっと考えるところがあります。

宋哲元が率いていたのはあの第29軍であったわけですから、当然と言えば当然であったかもしれませんが。

ちなみに、「今はソ連にどう対応するかが大切なのであり、中国なんかにかまってる暇はない!」と主張したのがあの石原莞爾。

この時首相であった近衛文麿は、事件の一報を受けたとき、「またあいつらか・・・」と思ったのだとか。
「あいつら」。つまり関東軍のことです。ですが、満州事変を引き起こした等の張本人である石原莞爾が、なんとこの盧溝橋事件に関しては全く逆の主張を行ったのです。

この時石原莞爾は関東軍から栄転して日本陸軍参謀本部第一部長という役職についていました。
彼は、実質的な参謀本部の責任者としての立場にあり、彼が盧溝橋事件における「不拡大派」の筆頭として

「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」

という電報を支那駐屯軍総長に送りました。

7月9日、早朝2時頃に停戦交渉がまとまり、日中双方に停戦の連絡が通達されます。
ところが、中国側にはこの通達が徹底されず、戦闘が散発。撤退完了はお昼過ぎまでかかってしまいます。

早朝5時頃には中国側からの砲撃などもあったようで、この時日本陸軍は増派を提案するのですが、海軍の反対にあい、この時は軍隊の増派がいったん見送られます。

翌10日、日本側から、「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」という提案が中国軍に対してなされ、これを軸に日中間での協議がなされるのですが、その最中、またしても中国軍から日本軍に対する砲撃がなされます。

このことを受け、ついに石原莞爾も重い腰を上げ、中国への陸軍の増派を認める決定を行います。
ただ、現地の様子から考えれば、確かに第29軍の挑発行為は目に余るものがありましたが、まだ許容範囲にはあったものと思われます。事実、日中間では普通に協議は進められていました。

ただ、・・・石原の周りにいたのはあの好戦的な陸軍兵士たち。2.26事件後、政府は統制派陸軍に席捲されている状況にありました
考えてみれば、これまでの「南京事件」や「済南事件」などの一連の流れから考えても、第29軍がどのような行動に出るか、疑心暗鬼でもあったでしょうし、陸軍兵士はあの「右翼マルクス主義者」たちです。無教養な皇道派ほど過激ではないにしろ、「武力による解決」はその考え方のベースにあったものと考えられます。

こうして、10日午前中には、関東軍より2個旅団、朝鮮軍より1個師団、内地3個師団の軍隊の派遣が決定されます。

司会、翌11日早朝には石原莞爾より近衛文麿首相にこの日開催される閣議にて増派を否決する様申し出があります。
彼は統制派陸軍兵士たちによっていったんは丸め込まれはしたものの、やはり増派そのものには反対だったんですね。

閣議前には首相・外相・陸相・海相・蔵相の5大臣によって話し合いの場が持たれます。
この場で、杉山陸軍大臣以外の5大臣は派遣に反対の意思を示すのですが、この場で杉山は「あなたたちは現地在留邦人たちの命などどうでもいいというのか!」なる趣旨の言葉を述べ、近衛文麿はこの考え方に心を揺り動かされます。

そして、同日2時に行われた閣議において軍隊の派遣を決定。
6時25分に近衛首相より派兵に関する声明が発表されます。

ところが、同日20時、中国現地において日中間交渉が成立し、既に通達がなされていて派兵を止めることができなかった満州・朝鮮の内地師団のみ派兵し、関東軍に関しては派兵に待ったをかけます。


停戦合意後の第29軍のふるまい

盧溝橋に向けて増派を行ったのは日本軍だけではありません。

日本軍の増派に先駆けて、7月9日、蒋介石は国民党軍に対し、北上し、盧溝橋事件に関して万が一のことに備えるよう指示を出します。日本軍、特に石原莞爾が増派に踏み切る決断を行ったのは10日、この国民党軍北上の一報が届いた後。

勿論日本軍の中の、統制派を中心とした陸軍の好戦的な姿勢も原因の一旦としてはありますが、蒋介石側の軍隊の派遣を受けての石原莞爾の決断でした。このことが中国軍に圧力をかけた・・・との見方もできるでしょうが、だからと言ってこの後の第29軍の行動を正当化する理由とはなりません。

日本軍 桜井徳太郎 と中国軍 秦徳純 の間で11日に停戦協定が締結されていましたし、この段階では日本軍も蒋介石軍もまだ「軍を派遣した」だけ。何も戦闘行為は行っていません。

停戦協定が成立している状況の中で、初撃は第29軍側から投じられました。


【大紅門事件】

1937年7月13日、上図の「豊台」にある「大紅門」というところで、中国軍第29軍第28師が日本軍のトラックを襲撃し、爆破。4人の日本軍兵が死亡します。(大紅門事件)

翌14日、天津から通州を経由して豊台に向かう日本兵の一人が第29軍の襲撃を受け、虐殺されます。例によって目も当てられないほどに残忍な「虐殺」です。

17日、日本国政府広田弘毅外相は、南京の国民政府に対し、

「日本は時代をこれ以上悪化させたくない。国民党軍がこれ以上北上を続けると、第29軍の面々を刺激して停戦交渉が難しくなる。日本兵の数も圧倒的に少なく、このままだと現地の日本居留民や駐屯兵の安全を確保することが危うくなる。頼むからこれ以上あいつらを刺激しないでくれ。19日までに返事をくれ。」

というメッセージを伝えるのですが、蒋介石は

「お前らが内地軍を増派したんだろ!こっちだってお前らの挑発行動に対する準備が必要なんだ!」

とこれを拒否します。またさらに、

「盧溝橋での一件の停戦協議を、現地で勝手に進めるな!南京政府と直接交渉しろよ!」

と、まとまりつつある停戦協議ですらその有効性を否定するような言い方をしてきます。そして、19日には蒋介石自身より、以下のような演説がなされました。

「満州を失ってすでに6年、いまや衝突地点は北京の盧溝橋に達している。
 我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。
 最後の関頭(かんとう)に至ったならば、あらゆる犠牲を払っても徹底抗戦する」


「関頭」とは、いうなれば重大な局面のこと。蒋介石はこの時点で、既に開戦状態に至る決意をしていたということになります。

その後も日本の偵察機への射撃が行われたり、19日に停戦協定の詳細が決定し、中国軍は盧溝橋にある宛平県城から撤退することになるのですが、撤退をする際に日本軍に対して一斉射撃。日本軍はこれに反撃します。(7月20日)


【廊坊事件】

25日には、地図中「北平」という地域にある「廊坊」というところで、中国軍の拠点内部を通過する軍用の電線が故障したことから、日本軍は事前に中国側に連絡をしたうえで、「歩兵第77連隊第11中隊」を護衛に付けて修理部隊を派遣し、(事前に第29軍とも交渉し、事情を伝えたうえで)、電線の修理に当たるのですが中国軍は第11中隊に向けて小銃と機関樹による砲撃を開始。

日本軍がこれに反撃し、またさらに天津から歩兵第77連隊が駆け付け、中国軍は「通州」に向けて敗走します。(廊坊事件)
廊坊に居留していた中国軍は、日本とはまだ一度も交戦状態に陥ったことのないおとなしい部隊であり、日本軍側としても、まさか彼らが砲撃してくるとは・・・といった心境であったようです。


【広安門事件】

そして翌日26日、「広安門事件」が勃発します。

【広安門】
広安門

場所は北平。支那駐屯軍は、北平居留民を保護するため、事前に冀察政務委員会と交渉し、秦徳純市長の承諾を得たうえで、26台のトラックで北平城へと日本軍は向かうのですが、事前に承諾を得ていたにも関わらず、城門が封鎖されていました。

日本軍は中国軍と交渉をし、門を開けさせるのですが、部隊の2/3が通過したところで突然城門を再び封鎖され、門の内外の日本軍に対して中国軍側より手榴弾と機関銃の猛射が浴びせかけられました。その後、中国軍はさらに兵力を増強するのですが、日本軍側に豊台の舞台が到着したところで折衝が行われ、同日午後10時に停戦に至ります。

これらの事件。「盧溝橋事件」を発端に一連の流れで勃発していますが、これらはそもそも同じ事件ではなく、「別々の事件」です。

つまり、第29軍とは、まったく統制のとれていない舞台で、非常に残忍な側面を有するということを彼らは「これでもか!」というほどに露呈しまくったわけです。

駐屯軍はついに切れてしまい、交渉相手であり、何よりも第29軍の軍団長であった宋哲元に対して、

「もう無理!これまでこちらは誠実に交渉を続けてきたけど、何なん、あれ。
第29軍は全く協定内容を守る気がないやん!! もう我慢できない。これまで一緒に協力してやってきたけど、もう無理。
これからは私たち支那駐屯軍はあなたたちとは関係なく、勝手に動かせてもらうから!」

という通告を行ったうえで、
「あんたたち中国軍がこれ以上場内にいるともっと事態はひどくなるから、さっさと城から出て行って!!」

という勧告を行います。

そして支那駐屯軍は戦闘の準備をし、まずは現地邦人の財産と身の安全を確保するため。更にこれはあくまで第29軍に対する戦闘行為であり、現地中国民に対する敵対行動ではないこと。そして別にこの地域を日本軍が支配しようとか、そういう気は全くないということを宣言したうえで、中国軍に対する攻撃を開始。

約2日で北平、天津両地域の中国軍の掃討を完了します。

【次回テーマ】
この後、今度は第29軍ではない冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が反旗を翻し、「通州」地域の在留日本人を数百人虐殺する「通州事件」が勃発します。

通州事件のいきさつも含めて、次回記事では、盧溝橋事件の一連の経緯の後、日中戦争はいったいどのよう様にして展開していくのか。そのあたりの内容を記事としてまとめたいと思います。



このシリーズの過去の記事
>> 第149回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(前編)
このシリーズの新しい記事
>> 第153回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(前編)

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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