第148回 盧溝橋事件の真相を追う/第29軍の誕生(蒋介石対馮玉祥)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第147回 ニューディール政策とブロック経済の違い/世界恐慌後の世界

【前回までの振り返り】

今回のシリーズ では、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦へと突き動かされるその根本として、特に「日中戦争(支那事変)」の勃発に焦点を置いて記事を作成しています。

第二次世界大戦における日米開戦については様々な「日本の正当性」が各所で語られ、また記されているのですが、それ以前に、ではそもそも日本はなぜ中国と戦争状態に追い散ったのか。

① 日本における2.26事件
② 中国における満州事変
③ 欧米における世界恐慌

この3つのポイントがそのカギを握るのではないか、との推測に基づき記事を作成してきました。

第145回の記事までの内容において、特に①、②の疑問点については回収できたと思うのですが、「欧米における世界恐慌」についてはまだ回収できていないと感じていたので、前回の記事 では、この「欧米の世界恐慌」にポイントを絞って記事を作成しました。

【今回のテーマ】
「満州事変」までは回収できましたので、これからはさらに日中開戦の舞台となった、と言われる「盧溝橋」。

【盧溝橋】
盧溝橋

ここで勃発した「盧溝橋事件」に向けて記事を進めていきます。


盧溝橋事件はなぜ起こったのか

「盧溝橋事件」。調べていたのですが、どうにもよくわかりません。

いえ、その「概要」だとか「盧溝橋事件とは何か」という、その事例的なものに関してはいろんなところで記されているので簡単に調べることはできるのですが、私がどうにも疑問に感じているのは、「なぜこんなちっぽけな事件が『日中戦争』などとい大事件にまで発展したのか」ということです。

ちなみに「盧溝橋」という場所はこちら。

【盧溝橋(地図)】
盧溝橋(地図)

【北京市】
北京市

北京市の中の川沿い。赤い点の部分になります。
しかし・・・それにしてもこの「盧溝橋事件」に関連する一連の顛末。本当に難しすぎます。

私がこのシリーズ を作成する中で大切にしているのは、どちらか一方の見方に偏らないこと。
私は日本人ですから、どうしても日本に有利な「歴史」を重視してしまいがちです。ですが、それではこの記事を作成する意味がありません。ですから、見方が偏らない様、一連の流れとして、無理が起こらない歴史の流れを多方面から検証しています。

矛盾点が生れたら、そこを潰すことができる情報を必死に手繰り寄せているわけですが、私自身が納得のいく「歴史」を見つけるのは本当に苦労しました。

で、そんな視点でこの「盧溝橋事件」を検証した結果、私自身の一切の感情を排除して、ただ事実を「事実」として並べ立てた結果、どうやらこの盧溝橋事件にはいくつかの「ポイント」があることが見えてきました。

1.盧溝橋事件とは、日本軍と「中国第29軍」との衝突であるということ。
2.第29軍の指揮官と第29軍本体との双方には別の「感情」が流れているということ。
3.盧溝橋事件で戦闘行為を行うに至った日本軍と「関東軍」とはまた別の組織であるということ。
4.盧溝橋事件後、8月初旬に「華北」察哈爾(チャハル)省で関東軍が中心となって起こした「チャハル作戦」と、上海に於いて日本海軍が中心となって起こした「第二次上海事変」が本当の意味での「日中戦争」の勃発であるということ。

そして、
5.「チャハル作戦」と「第二次上海事変」とは全く別の性格の戦闘行為であったということ。

更にもう一つ、
6.石原莞爾(いしはらかんじ)の存在。

盧溝橋事件には気になる存在として、「石原莞爾(いしはらかんじ)」の名前も登場してきます。
石原莞爾。あの満州事変 において、その作戦を中心となって遂行した人物です。

今回の記事では、この6つの項目の内、まずは一つ目の項目、「第29軍」という、日本軍と対立したこの中国軍の存在について記事にしてみたいと思います。


「第29軍」とは何なのか?

色々と調べていると、どうもこの第29軍。「反日感情が非常に激しい部隊だった」という情報が出てきます。
ですが、一方で、この舞台を統括していた「宋哲元(そうてつげん)」という人物。この人物に関しては、第29軍本体とは逆で、日本軍との間に人脈もあり、日本人に対しても比較的友好的であった・・・との情報も出てくるのです。

指揮官が親日的で、部隊が反日的・・・。
どこかで聞いたことがありますね。そう。あの「南京事件」や「済南事件」と同じ構図ですね。

今ことが原因で勃発したと考えられる事件は盧溝橋事件以降のいきさつの中でも登場するのですが、今回は第29軍が起こしたと思しき事件よりもまず、この「第29軍」という部隊が誕生するに至った経緯について記事にしたいと思います。


【第29軍が誕生するに至った経緯】

時代をグッと遡ってみます。

私が満州事変について記事にした際、私は「日本軍」側から見た満州事変については一通り掲載したのですが、ではこの時、中華民国国民党党首であったはずの「蒋介石」はいったい何をしていたのでしょうか。

【蒋介石】
蒋介石-2

張作霖爆殺事件 のことを思い出してみてください。
張作霖爆殺事件は、蒋介石に追われて満州に逃げ込んだ張作霖が、奉天という地域において日本の関東軍に爆殺されてしまう事件です。

この後、張作霖の息子である張学良が「満州にまでは北伐を行わない」ことを条件に国民党入りし、蒋介石は「北伐」を完成させるのですが、ではこの時の「満州」という地域。確かに満州という地域に対して実権を持っていたのは張作霖であり、これを引き継いだ張学良にあったわけですが、これを以て本当に蒋介石は「満州も含めて北伐を完了した」ことになるのでしょうか?

これ、実は「NO」なんです。
「清」という地域は、あくまでも「満州」という地域に住んでいた満州人が、国境を乗り越えて「中国本土」そして「モンゴル」「ウイグル」等の地域を支配して打ち立てた国。

蒋介石が北伐を行って統一したのは、飽くまで「中国」という漢民族の領土にすぎません。
満州は本来満州人の土地ですし、「モンゴル」という地域はモンゴル人の土地、「ウイグル」という地域はウイグル人の土地であるべきなんですよね、本来は。

ですから、関東軍が満州事変を起こして満州国という国を打ち立てたときも、日本人に対抗したのは中国人たちだけであって、満州人から対抗された様子はありませんよね?

そう。実は「満州事変」が勃発した時、蒋介石はあまり積極的にこの地域に対して干渉してません。実はこの時蒋介石は、中国国内において、馮玉祥たち「反蒋連合」との内戦状態にありました。


【「蒋桂戦争」と「中原戦争」】

詳細は割愛しますが、「新広西派」と呼ばれる国民党グループの間で、1929年3月、「蒋桂戦争」と呼ばれる内戦を起こし、この時馮玉祥は反蒋軍に参入。馮玉祥は敗北し、一旦は再び蒋介石の下に戻るのですが、翌1930年5月頃、蒋介石と反蒋連合との間で「中原戦争」と呼ばれる内戦が勃発し、これは同年11月頃までづづきます。

この時、反蒋連合に於いて(国民党に属しながら)馮玉祥が率いていた約30万人の「第二集団軍」は蒋介石の下で改編され、『第29軍』と名称を変更し、馮玉祥の下で第二集団軍を率いていた「宋哲元」がこの第29軍の軍長を務めることになります。

そう。「第29軍」とは、元々馮玉祥が率いていた軍団であり、「反蒋連合」を形成していたその一翼だったんですね。

「馮玉祥」。
この記事から読み始めた人にとっては、「だれ!?」っていうイメージがあるかもしれません。

馮玉祥とは、第二次奉直戦争において北京政変 を起こし、北洋政府の混乱に一つの区切りをつけた人物。

北京政変の後、自ら北京で張作霖に対するクーデターを仕掛けながら、さっさと敗亡して戦場を逃亡し、ソ連に渡った人物。
(※第132回の記事を参照)。その後、「ソ連の支援する、中国共産党と連携した中国国民党」への参入をソ連において宣言。

済南事件 において、事件を中心となって引き起こした二部隊の内の一つが、馮の部下である「方振武」が率いる部隊でした。

そして、上海クーデター 以降蒋介石に「全面的に協力」していたはずの馮玉祥は、蒋介石による北伐が完了すると、突然蒋介石に対して反旗を翻します。

勿論その「経緯」はきちんとありまして、北伐の完了後、自分の中に組み入れていた北洋政府時代の「軍閥」の影響力を縮小するために、「軍縮」を行おうとしたことにその理由はあります。

はっきりといえば、「北伐」によって確かに中国全土の「統一」は形式上なされたように見えたかもしれませんが、決して一枚岩ではなく、それどころかお互いに腹を探り合い、離反しあう性質は全く解消されていなかったということだと思います。

そして、「第29軍」とはそんな性質を代表するような「馮玉祥」が元々率いていた部隊。
そして、その中には少なくともあの済南事件を引き起こした部隊が含まれていたはずです。

満州が日本と戦争状態に陥っている中、蒋介石は日本軍ではなく、中国共産党の掃討に目を向けていました。
満州事変が継続している最中はいったん休止していたようですが、満州国設立直後には再び共産党掃討を再スタートします。


満州事変における張学良

一方で、張学良としては「張作霖爆殺事件」を考えると、自分の父親が爆殺されたわけで、心情としては穏やかであったとはかんがえられません。ですが、彼もまた満州事変に対しては「不干渉」の立場を取ります。

ただ、張学良も蒋介石も、関東軍が行った行為に対しては激しい怒りを覚えていました。
自国を安定させるため、共産党掃討に躍起になっているときに、一体何をしてくれるんだ日本軍!と、そんな感情だったのではないでしょうか。

【西安市】
西安市

満州事変後、一旦ヨーロッパに渡った張学良は、1934年、中国に帰還した後、共産軍討伐副司令官に任じられ、西安市にて共産党の掃討に当たるのですが、彼は連敗続き。それどころか、共産党からの「抗日共闘」の口車に載せられ、あの周恩来と会い、勝手に「停戦」してしまいます。

彼はこのことで西安に代わりの軍隊を送り込まれ、役職を解任、転属させられるのですが、これを逆恨みし、張学良は「西安事件」を起こします。

西安事件に於いて、蒋介石は張学良の親衛隊により拉致・監禁され、中国共産党との間で、「第二次国共合作」を約束させられます。

 1.南京政府の改組、諸党派共同の救国
 2.内戦の停止
 3.抗日七君子の釈放
 4.政治犯の釈放
 5.民衆愛国運動の解禁
 6.人民の政治的自由の保証
 7.孫文遺嘱の遵守
 8.救国会議の即時開催

これら8つの項目に対する合意がなされた上で蒋介石は釈放されます。(12月12日)
ただ、蒋介石が釈放された後、国民党政府は逆に態度を硬化させ、さらに共産党掃討へと乗り出すのですが、盧溝橋事件の勃発を受け、ついに抗日の姿勢を明らかにし、日中戦争の開戦へと相成ります。


まとめ

こうしてみると、日中開戦に至るまでに、いかに中国共産党による影響が大きかったのかということがよくわかりますね。

記述を呼んでいると、満州事変の時、蒋介石の日本に対する激しい怒りの感情が沸き起こってきたことや、これを表ざたにすることができなかったため、中国共産党による拉致監禁を利用して反日の姿勢を明らかにしたかのような言い回しもいくつか見かけます。

ただ、釈放された後は再び共産党への掃討作戦を実行していますし、盧溝橋事件においてもどちらかというと統制のとれていない第29軍の暴発がもたらした結果のほうが大きいと思います。関東軍がしびれを切らして満州事変実行に至った経緯にも、蒋介石軍の中に、まったく統制のとれていない不逞の輩が紛れ込んでいたことが最大の原因です。

これを蒋介石一人にやれ、というのも無理があるかもしれませんし、何より中国の指導者たちのあまりもの自分勝手さは、正直蒋介石に同情したくなる部分もあります。国民党軍の中にマルクス主義思想を招き入れてしまったのは蒋介石の責任ではなく、孫文に原因がありますし、その後の蒋介石はとても頑張った・・とも思います。

もっとさかのぼれば、袁世凱が国民の中に反日感情を浸透させなければ、清朝の皇族たちがもう少ししっかりしていれば。
そして何より欧州各国が「アヘン」と「キリスト教」を使って清朝時代の中国国民の心情をあそこまで荒廃させてしまわなければ、もっと違う未来が生れていたのかもしれません。

ですが、結果的に生まれた「未来」は、とても悲惨な結果を生み出してしまいました。

【次回テーマ】
次回記事に於きましては、盧溝橋事件本体。
勃発後、行った何が起きたのか。

日本と中国の責任者たちは、一体どのような努力を行っていたのか。
そんな盧溝橋事件に関するエピソードをご紹介できればと思います。



このシリーズの過去の記事
>> 第147回 ニューディール政策とブロック経済の違い/世界恐慌後の世界
このシリーズの新しい記事
>> 第149回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(前編)

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