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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果
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第140回 濱口雄幸内閣の失態(昭和恐慌と井上準之助の財政政策)
【前回までの振り返り】
前回の記事では、特に「世界恐慌」という問題に着目し、日本で 昭和金融恐慌 が勃発した後、中国で満州事変が起きるまでの間、一体日本と世界で何があったのか。これを、世界恐慌が勃発直後までの期間に限定して記事にしてみました。
幣原喜重郎の「国際協調外交(ロンドン海軍軍縮会議)」と井上準之助の「グローバル協調経済政策(金輸出解禁+緊縮財政政)」という濱口雄幸内閣における二つの「愚策」が、後の日本をどん底へと突き落としてしまうことになります。
最も大きかったのは、海軍の中にロンドン海軍軍縮条約を容認する「条約派」と否定する「艦隊派」という二つの派閥を生み出してしまい、この中で、「艦隊派」と呼ばれる人々との中に、大きな対立構造を生み出してしまったということ。
それ以前に幣原は第一次若槻内閣の時代に陸軍との間でも対立構造を生み出してしまっていましたから、ここで政府V.S.日本軍という対立構造が生まれてしまいました。
世界恐慌が勃発したのは1929年10月24日、満州事変が勃発したのは1931年9月18日と世界恐慌勃発の2年後になります。
世界恐慌を引き起こした濱口雄幸内閣が退陣するのが1931年4月14日。その後を引き継いだ若槻内閣の時に満州事変は勃発しました。
若槻禮次郎内閣は1931年12月13日まで継続します。
【第29代内閣総理大臣 犬養毅】
【今回のテーマ】
若槻内閣の後を受けて誕生した犬養毅内閣。
是清が有名な「日銀による国債の直接引き受け」という妙手で世界恐慌による不景気を一掃し、世界で最も早く世界恐慌の影響下から日本を脱出させる手腕を振るったのはこの時です。
今回の記事では、アメリカニューヨークウォール街で勃発した「世界恐慌」が発生したその原因を探り、その後、世界恐慌のあおりを受けて勃発した「昭和恐慌」を、一体どのような手腕を以て退治したのか、という内容について記事にしたいと考えています。
近代史年表(第一次世界大戦終結~満州事変終結)
本題に入る前に、少し年表を整理しておきたいと思います。
歴史がいくつかの層をまたいで進行しているので、イメージしにくくなっているかもしれません。
その「層」とは、「中国」「日本軍」「日本政府」の3つの層です。3つの層をまたいで、第一次世界大戦の終戦後から世界恐慌後に至るまでの経緯を年表としてまとめてみます。
【原敬内閣】
【1918年】
11月11日 第一次世界大戦終結(世界)
【1919年】
1月28日 パリ講和会議開会(世界)
4月26日 日本に山東省権益が譲渡されることが決まる(世界)
5月4日 五四運動勃発(中国)
【1920年】
3月 尼港事件(世界:ロシア)
3月15日 戦後バブルの崩壊(日本)
7月14日 安直戦争勃発(中国)
11月 孫文の広州帰還(中国)
【1921年】
7月23日 中国共産党結成(中国)
10月27日 バーデンバーデンの密約(日本 於:ドイツ)
【高橋是清内閣】(11月13日~)
【1922年】
2月6日 ワシントン海軍軍縮条約締結(世界)
4月28日 第一次奉直戦争(中国)
【加藤友三郎内閣】(6月12日~)
6月16日 孫文・蒋介石、広州を脱出(中国)
【1923年】
1月26日 孫文・ヨッフェ共同宣言(中国)
【山本権兵衛内閣】(9月2日~)
9月1日 関東大震災(日本)
【1924年】
【清浦奎吾内閣】(1月7日~)
1月20日 第一次国共合作(中国)
5月3日 蒋介石、黄埔軍官学校の校長に就任
【加藤高明】(6月11日~)
9月15日 第二次奉直戦争(中国)
10月23日 北京政変(中国)
【1925年】
3月12日 孫文死去(中国)
7月 汪兆銘により、広東国民政府樹立
【1926年】
【第一次若槻禮次郎内閣】(1月30日~)
3月20日 中山艦事件(中国)
7月1日 蒋介石による北伐の開始(中国)
12月25日 大正天皇 崩御(日本)
【1927年】
1月1日 武漢国民政府の樹立(中国)
1月7日 イギリス租界回収事件(中国:武漢)
3月14日 昭和金融恐慌勃発(日本)
3月24日 南京事件(中国)
4月3日 漢口事件(中国:武漢)
4月12日 上海クーデター(中国)
【田中義一内閣】(4月21日~)
5月27日 第一次山東出兵(日本→中国)
11月 木曜会結成(日本)
【1928年】
4月20日 第二次山東出兵(日本→中国)
5月3日 済南事件勃発(中国)
5月9日 第三次山東出兵(日本→中国)
6月4日 張作霖爆殺事件(満州)
【1929年】
5月19日 一夕会結成(日本)
【濱口雄幸内閣】(7月2日~)
10月24日 世界恐慌勃発(世界 アメリカ)
11月22日 井上準之助、金輸出解禁/昭和恐慌勃発(日本)
【1930年】
4月22日 ロンドン海軍軍縮条約締結(世界)
【1931年】
【第二次若槻禮次郎内閣】(4月14日~)
9月18日 柳条湖事件/満州事変勃発(満州)
【犬養毅内閣】(~12月13日)
【1932年】
2月18日 満州事変終結
世界恐慌がはなぜ発生したのか?
年表は、大事だと思う事件を中心にまとめてみました。
しかしこうしてみると、濱口内閣は自ら「昭和恐慌」を引き起こしておきながら、実に2年近くも政権の座に居座り続けたんですね・・・。しかもその後を引き継いだのが若槻内閣とか・・・。
国民は実に3年近くもの世界恐慌&昭和恐慌のダブルショック下での大不況にさらされ続けたんですね。
そりゃ、国民も、軍隊も切れますよ。まるでどこぞの民主党内閣みたいです。
さて、それでは本題に移ります。
「世界恐慌」っていうのは、そもそも1929年10月24日に発生した、ウォール街における株価の大暴落からスタートします。
ゼネラルモーターズの株価が一気に下落したことから端を発して、これが他の株価にも飛び火。ダウ平均株価が、一気に17%近く下落したのだそうです。(戦後アメリカの経済の発展の一つとして、自動車産業の発展が大きな影響を与えていました)
この日が木曜日だったことから、この日のことを「暗黒の木曜日=ブラックサーズデー」と呼びます。
いくつかの証券取引所は封鎖され、当時の大手投資業者(銀行も含む)たちがこれを買い支えることでいったんは平静を取り戻すのですが、株価大暴落が新聞紙上で報道されると、歯止めがまったく聞かなくなってしまい、たった1週間で、当時のアメリカの年間の国家予算の、実に10倍以上もの損失が生れたのだそうです。
この、ウォール街における株価の大暴落がもたらした影響は、米国に与えた影響も大きかったのですが、アメリカにおける影響は短期間で収束しました。ですが、それ以上に第一次世界大戦の舞台となった欧州経済への影響のほうが大きかった様です。
この株価大暴落の影響を受けてオーストリアの巨大銀行の破たんに始まり、ドイツでも第二位の資本力を持つ銀行が破綻。ドイツの全銀行が閉鎖し、奥の企業が倒産。この影響は、ドイツから東欧、全世界へと広がります。ドイツは敗戦国であり、その賠償をアメリカがサポートしていました。
ウォール街の株価大暴落の影響を受けて、アメリカ資本がドイツから撤退したことはドイツの状況をより深刻なものとしてしまいました。
【そもそもなぜウォール街の株価は大暴落したのか?】
ネットでいろいろな情報を見ていると、ウォール街の株価が大暴落を起こした理由として、米国国内に対する「過剰な投資」が原因であったとされています。
第一次世界大戦では、その主戦場となったのはヨーロッパでした。
アメリカも勿論派兵を行ったわけですが、アメリカ本土は戦場となっていませんし、逆に欧州に対して物資を輸送することで、アメリカは好景気になりました。日本と一緒ですね。
その景気は戦後1920年代に入っても継続し、特に戦争でヨーロッパが疲弊していたこともあって、アメリカは無敵状態となっていて、この時の景気は、「永遠の繁栄」などと呼ばれたのだそうです。
そんな中で勃発したのが日本における「昭和金融恐慌」でした。
日本は、アメリカに先駆けて「戦後不況」を体験し、戦争特需がもたらした「バブル」の崩壊を体験していたんですね。
前回の記事 でもお伝えしましたように、日本で戦後不況が押し寄せた理由は、確かにアジア市場への欧州の復活に伴う輸出産業の減退・・・ということが一つの側面として存在しました。
ですが、それ以上にその原因は、戦争によって高揚した日本の景気が、「株」や「土地」といった「権利」を売買する「投機へと変質してしまっていたことにありました。きっかけはこのような「株価」の暴落 にありましたね?
日本でバブルが崩壊した時も、リーマンショックが世界を襲ったときも、ともにそうでしたね?
「株」や「土地」などがその機能や性能といった本質ではなく、転売を続けていくことでどんどん値を釣り上げていくという状況。これが過騰しすぎた経済に冷や水を浴びせたわけです。
昭和金融恐慌 の勃発は、なんとなくそういった投資家たちの心情に、「不安の種」を植え付けたのではないでしょうか。
ダウ平均は1924年当時のアメリカの株価と比較して5倍近くになったころ、この当時のFRB(連邦準備制度理事会)は、公定歩合を引き上げます。(1929年8月9日)
経済的な理屈が分かっていれば、この「公定歩合の引き上げ」という行為は、「金融引き締め行為」であり、経済の規模を縮小するために行われる行為だということになるのですが・・・。この当時のFRBはどうだったのでしょう。(銀行からの借り入れに対する利息が増えますから、過騰した市場においては、投資行為が行われにくくなります)
翌月、9月3日に株価の最高価格を付けた後、徐々に株価は下落し始めます。(日本のバブル崩壊の時と同じですね)
このタイミングでイングランド銀行が公定歩合を引き上げたため、アメリカの資金がイギリスに移動します。(9月26日)
金利が上がったから移動するということは、手元にあった株を現金化し、これをイギリスの銀行に預けるということですから、当然株価にとっては下落要因となります。
この1カ月後に勃発したのが「ウォール街の株価大暴落」。なるべくしてなった・・・ということでしょうか。
日本でバブルが崩壊するときも、同じように日銀が金利を引き上げていますし、株価が下落に転じたところで橋本龍太郎が「総量規制」を行っていますから、構造としてもよく似ています。
高橋是清の経済政策
若槻内閣が辞任に追い込まれた最大の理由は、実は世界恐慌ではなく、「満州事変」 にありました。
若槻は軍部に対してまったく指導力を発揮することができず、なめられっぱなし。
この事で、同じ内閣の内務大臣・安達謙蔵が切れてしまい、辞任しないまま引きこもり、このことで内閣が動かなくなってしまい、ついに若槻は総辞職を行うことになります。(12月11日)
続いて組閣指名を受けたのが犬養毅。彼の下で大蔵大臣を務めたのが高橋是清でした。
【高橋是清】
是清がまずとった政策は「金輸出の再禁止」。彼は、この政策を実行したのは大蔵大臣に就任した直後。12月13日のことでした。
金輸出が再び禁止されたことで、日本国内の物価は、海外の物価変動の影響を受けにくい状況になります。
この状況で彼は、このところの日本でも有名になり始めた「日銀による国債の直接引き受け」という政策を実施します。この時の日本に、「財政法第5条」という制約がありませんから、国会の決議を経ずともこの政策を実施することが可能でした。
ただ勘違いをしてはいけないのは、この時は今の日本とは違って市場は「資金不足」にあったということ。
お金の量が少なかったんですね。ですから、是清は国債を発行し、これを日銀に直接買い取らせることで、「資金を確保」したのです。
「流動性の罠」に陥ったことが原因でデフレに陥っている経済社会では、日銀に国債を買い取らせずとも、金融市場に現金通貨が有り余っていますから、国債を発行すれば市中銀行が買い取ってくれます。
ですが、是清の時は銀行にその国債を買い取るための資金がありませんでしたから、銀行ではなく日銀から資金を供給させたのです。
また、その資金を「軍事予算の拡大(現在の公共事業に相当)」に充てましたから、これに関連する産業は資金にゆとりができることになります。そのお金を再び実体経済に対して投資する、という経済の好循環を起こすことに成功し、日本国経済はあっというまに「不況」から脱却することができました。
是清によって、日本は世界で最も早く「世界恐慌」に伴う不景気から脱却してしまったのです。
当時のフーヴァー大統領の後を継いだフランクリン=ルーズベルト大統領はこの政策を真似して公債発行による公共投資政策を行い、アメリカを不況から脱却させます。
時系列からすると、そうなるんですよね・・・。
で、これを見てケインズが「ケインズ経済学」なるものを確立させる、と。
このあたりは、このシリーズが終わった後、もう少し深く検証してみますね。
【次回テーマ】
次回記事に於きましては、いよいよ時代を満州事変から先に進めてみます。一夕会メンバーが引き起こした「満州事変」。
彼らは、その後「統制派」と「皇道派」に分かれてしまいます。そう。あの「2.26事件」への布石です。
次回記事では、そんな一夕会メンバーが引き起こす様々な「騒動」について検証してみたいと思います。
このシリーズの次の記事
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>> 第143回 一夕会と桜会/三月事件と十月事件・血盟団事件の勃発
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