第136回 高橋是清の経済政策と第一次世界大戦後の日本の首相~日本はなぜ大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果

第一次世界大戦後の日本高橋是清経済
<継承する記事>
第135回 張作霖爆殺事件の理由/河本大作の思い、田中義一の思い~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

【前回までの振り返り】

前回の記事では、前段にて張作霖爆破事件が発生するまでの経緯と事件そのもののの説明、後段にて事件勃発における世情(背景)を、特にこの当時の「満州」という地域に居住していた中国国民の異常なまでの反日感情とその残虐性を背景に、軍人としての先輩方が血肉を粉にして勝ち取ったと自負している「満州」という地域に対する思い入れ。

これに相まって20万人に及ぶ現地邦人たちの身の安全をどのようにして確保していくのか、様々な葛藤が渦巻く中で苦悩し続けた当時満州の警備を天皇陛下より任されていた「関東軍」の軍人たち。

この中でも張作霖爆破事件の計画立案を行ったとされる『河本大作』という人物の心的な状況にフォーカスして記事を作成しました。

この後、記事は「満州事変」へと移していこうと考えていいます。

満州事件が勃発した背景として、この当時の満州の世情が最大の原因として存在しました。
(日韓併合により日本人となった)朝鮮人たちは張作霖の後継者、張学良によって農地を奪われ、抵抗したものは逮捕・投獄。

正当な手続きを経て経営を営んでいた日本の企業に対しては一方的に経営許可を取り消されたり、経営を妨害。
北満州ではソ連が現地に居住する共産党員ではないロシア人にソ連国籍を取得する様圧力をかけており、これを「越権行為」とみなした張学良とソ連との間で紛争が勃発。

ソ連は満州に進軍し、「中東鉄道」を占領。
関東軍はこの地域に影響力を及ぼすことが難しくなりました。

この当時、朝鮮人共産党員たちは中国共産党に所属することを求めており、実際に所属していました。日韓併合に対する反発もあったようです。彼らは中国共産党員らと共に、満州地域において度々暴動を起こします。

これを取り締まるため、張学良は軍隊を派遣するのですが、派遣された兵士らにより、朝鮮人だけでなく朝鮮人以外の現地人に対しても軍隊による暴行が増加しました。

中国国民党は「鮮人駆逐令」なる法律を発令し、満州地域から朝鮮人を追い出そうとします。
この対立は朝鮮半島にも波及し、朝鮮半島では「中国人排斥運動」が勃発。

日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される・・・などという事件も勃発し、関東軍の我慢はやはり限界に達し、この後、「満州事変」へとつながっていきます。

【本日のテーマ】

本日の記事では、次回以降でテーマにすることを考えている「満州事変」。
つまり、「十五年戦争の勃発」を記事として掲載する前に、中心となって満州事変を起こす部隊、「関東軍」。

【関東軍司令部】
関東軍司令部

張作霖爆破事件を受けて、さらなる変貌を遂げるこの「関東軍」についてフォーカスする記事を作成しようと考えています。
事件以降の関東軍の中心となるのが「一夕会」というグループ。

彼らが一体どのような時代背景の中で誕生したのか。
本日の記事では、「一夕会」とはどのような経緯を以て誕生したのか。回数を二回に分けて、第1回目の記事では、第二次世界大戦後の日本の経済を立て直した立役者、「高橋是清」が中心人物となって経済政策を実行することとなる「昭和金融恐慌」。

第一次世界大戦の終結~昭和金融恐慌勃発に至るまでの経緯を「内閣の遷移」に注目しながら記事にしたいと思います。
一見すると「一夕会」とは関係がない内容に見えるかもしれませんが、後に一夕会誕生のシーンにまでリンクさせる予定です。


第一次世界大戦中の日本の経済

第一次世界大戦は、1914年から1918年11月にかけて行われました。

勃発当時の日本の内閣総理大臣は大隈重信首相。1916年10月からは寺内正毅(てらうちまさたけ)という人物が、1918年10月からは原敬氏が内閣総理大臣を務めました。

大戦勃発当時こそ輸入相手国で会ったヨーロッパの世情不安により日本の主輸入商品であった蚕が売れなくなり、日本は一時的に不景気に見舞われましたが、勃発後、しばらくすると欧州諸国は武器の生産拠点を日本に求めるようになり、武器輸出によって日本の景気は俄かに活性化しました。

一方、ヨーロッパ本土における第一次世界大戦に精一杯のヨーロッパ諸国は、アジアに輸出を行う余裕がなく、結果的にアジア地域における商売は日本の一人勝ち状態となっていました。よく耳にする「成金(なりきん)」という言葉が登場したのもこの時のことです。

それまで債務国であった日本は、一気に「債権国」へと飛躍します。
産業構造もこれまでの「農業国」から「工業国」へと転換します。


第一次世界大戦後の日本経済

ところが、いざ大戦が終結に向かうと、好景気は一転して日本は「戦後不況」に見舞われることになります。
企業や銀行は「不良債権」を抱えることになる・・・等、まさしく1990年代の日本で勃発した「バブル崩壊」が投影されたような経済状況ですね。

余談ですが、第一次世界大戦中、袁世凱によって反日感情が高められた中国 において、段祺瑞と『日支共同防敵軍事協定』を結んだ 首相が寺内正毅(てらうちまさたけ)、逆に中華民国との関係を改善することで英米との協調を図ることを重視し、段祺瑞を援護する政策を打ち切ったのは 原敬首相 です。

彼は、第一次世界大戦の講和条約を決定するためのパリ講和会議にも参加しました。
米国大統領の提唱で「国際連盟」ができたのもこの時。

日本は常任理事国となりました。

彼が執り行った政策は「教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実」という4つの「積極財政政策」。
この中でも、特に交通機関の整備を重視し、特に『地方の鉄道建設』には『公債』を発行してその資金源に充てました。


・・・・って、あれ?
この政策、どこかで聞いたことないですか?


【麻生太郎さん】
麻生太郎
麻生太郎さん・・・ではありません。
そう。こちらの方。

高橋是清大蔵大臣】
高橋是清
高橋是清大蔵大臣です。

ただし、原首相が就任した当初はまだ経済は「好景気」で、戦争の終結により、市場は一時的に鎮静化するもの、ヨーロッパが実際にアジア市場に復活するのは1920年3月のこと。

この時点では逆に過剰なほどの好景気が続いており、物価も高騰していました。

ところが、ヨーロッパがアジア市場に復活し、日本の輸出産業が不調となるや、一転してこれまで生産した生産物は「余剰生産物」と化し、現金化できない生産物は、大量の「不良債権」を日本にもたらします。

このことによって原敬内閣は一気に財源不足に陥り、これまで実施していた財政政策が満足に実行できなくなってしまいます。
原敬首相は、1921年11月4日、不満を持った一般人である「中岡艮一」という人物によって暗殺されます。

彼の後を引き継いで第20代内閣総理大臣となったのが原敬内閣において大蔵大臣を務めた「高橋是清」でした。


【「首相」としての高橋是清

是清は、原が暗殺された直後に首相になったこともあり、満足な支持基盤も保有していませんでした。

是清自身も元々首相になるつもりなど更々なく、当然指導力も発揮することもできないまま、たった半年で政権の座を去ることとなります。

辞任や今回の「暗殺」などにより、突如として首相が政権の座を降りることとなった際、当時の制度では、「元老」という人が天皇陛下に対して次期首班の「奏薦(推薦のこと)」を行い、奏薦のあった人物を陛下が首相に命じ、これに基づいて組閣が行われる・・・というスタイルが築かれていました。

是清を奏薦した人物は西園寺公望という人物。
彼が是清を奏薦した理由は、この後に開かれる「ワシントン会議」に彼を出席させ、その辣腕を振るわせることにありました。

彼が締結した条約の中に、「九カ国条約」という条約が含まれています。
この条約では、中国との貿易が、全ての国との間で行われることが取り決められ、中国の関税自主権が認められた上で、日本はヴェルサイユ条約によって手にした「山東省」に対する権益を一部を除いて中国に返還し、山東省から撤兵することなります。

時にして1922年2月6日。
まだ孫文が存命中であり、中国国民党と中国共産党が共同戦線を張る、9か月前の出来事でした。

つまり、この時点ではまだ「中国共産党」や「ソ連」という存在に対する脅威はまだ顕在化していませんでした。
6月12日、是清は内閣を総辞職します。


続く加藤友三郎内閣は、加藤の大腸ガンによる病没で終了。(1923年8月24日)
そして、その8日後、「関東大震災」が発生します。(9月1日)

第22代山本権兵衛内閣(第二次)の組閣は翌9月2日に行われるものの、後の昭和天皇となる裕仁親王が難波大助という共産主義者によって狙撃された責任を取り、内閣総辞職。(1924年1月4日)

次に内閣を引き継いだのが清浦奎吾という人物。
ですが、彼は内閣構成員をほぼすべて「貴族院」の議員で固めました。当時は貴族院と衆議院の二院で議会は構成されていたのですが、貴族院は、選挙によってえらばれた議員が一人もいません。

このことから、当然の様にして反発を買い、高橋是清や後の第29代内閣総理大臣となる犬養毅らが倒閣運動(第二次護憲運動)を巻き起こし、清浦奎吾は解散総選挙を決行。(5月10日)
清浦内閣は惨敗に終わり、解散総辞職(6月11日)

その後の内閣を引き継いだのが、第二次護憲運動でも中心人物として活躍した「加藤 高明(かとうたかあき)」という人物です。

この内閣の特徴といえるのは、まずその内閣の構成員。

高橋是清や犬養毅はもとより、若槻禮次郎、幣原喜重郎、濱口雄幸など、後の日本政界の中心となっていく人物が名を連ねています。

彼によって「普通選挙法」が施行され、これまで納税額によって選挙権が制限されていた制限選挙から、満25歳以上の、全ての成年男子に選挙権が与えられることとなりました。この時は、とはいえまだ男子にしか選挙権がなかったんですね。但し、この普通選挙法の成立により、共産主義者の主張がまかり通るようになることを恐れ、同時に「治安維持法」も制定されています。

ただ、この加藤高明内閣の途中で「両税委譲」という、当時に日本では国税であった「地租(土地に付加される税金)」と「営業税(商業や工業などお影響に課せられる税金)」の二つの税金を、「地方税」として国から地方に委譲すべきだ、という意見が是清が総裁を務めていた立憲政友会と、首相である加藤高明が党首を務める憲政会との間で対立が起こり、政友会は与党を離脱。

加藤首相は1926年1月22日、肺炎のため病没。この後を引き継いだのが第25代内閣総理大臣若槻禮次郎でした。(1月30日)

【若槻禮次郎】
若槻禮次郎

彼の下で財政政策を担った片岡直温大蔵大臣。
この人物の不用意な一言が、戦後不況と関東大震災の影響を受け、ただでさえ不況のどん底に落ち込んでいた日本国経済をさらなる不況のどん底に貶めかねない、「昭和金融恐慌」を勃発させます。

現在の日本で考えると、バブル崩壊に伴って不景気のどん底に陥った日本国経済を阪神大震災が追い打ちをかけ、橋本龍太郎の経済政策がとどめを刺すような、そんなイメージです。

あ・・・ちなみに誤解なきよう。
私は、橋本内閣において経済が落ち込んだ理由は、現時点では消費増税が直因であったとは考えておりません。
詳細は 第14回 『阪神大震災』と『アジア通貨危機』 をご覧ください。

ただ、ケースとしては非常によく似ています。
違うのは、橋本内閣の時代には高橋是清がいなかったこと。

【次回テーマ】

次回記事に於きましては、改めて昭和金融恐慌以降、高橋是清がどのようにして財政政策を執り行っていくのか。
このことと、「一夕会」の存在がどうリンクするのか。

このことについて記事にできればいいな、と考えています。



このシリーズの過去の記事
>> 第135回 張作霖爆殺事件の理由/河本大作の思い、田中義一の思い~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第137回 高橋是清の経済政策と昭和金融恐慌/北伐時代の日本

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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