第134回 田中義一内閣と山東出兵/済南事件への対応に見る若槻内閣との違い~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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田中義一蒋介石北伐歴史
<継承する記事>
第133回 上海クーデターはなぜ?/伏線としての南京事件(1927年)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

【前回の振り返り】

前回の記事では、 第132回の記事 で掲載した、蒋介石による上海クーデターの顛末に関連して、なぜ蒋介石は上海クーデターを行ったのか。この視点から記事を作成しました。

原因として、上海クーデターの直前に勃発した南京事件(1927年)と漢口事件に関連性があることをお示ししました。

特に南京事件では、日本人の、蒋介石に対する信頼性を利用し、特に蒋介石に信頼されていた『程潜』という人物の人となりにカモフラージュして、程潜の信頼性の下で、南京市の日本領事館は何の抵抗を示すことなく、領事館の門を開きました。

その瞬間、牙を剥いたのが程潜軍に潜んでいた国民党左派や共産党員たちだったのです。
彼らはまず領事館の歩哨を行っていた日本の西原二等兵曹に対して、銃剣で滅多突きにし、顔面や頭を滅多打ちにする等の暴行を行います。

続いて領事館内の日本人に対して、暴行や掠奪、追剥が行われ、ここに南京市内の軍人ではない民間人がなだれ込み、徹底的な略奪(強奪)を行います。

ですが、このタイミングで日本軍が反撃を行うと、今度は領事館内の職員だけでなく、領事館外の日本の避難民たちにまで危害が及ぶ、として指揮をする立場にあった荒木大尉は軍人たちに徹底的な『無抵抗』を指示します。

その結果、被害は領事館内だけでなく領事館外にまでおよび、暴徒化した中国人(軍人ではないことに注意!)たちによって領事館の職員ではない、一般人までが暴行や虐殺、強姦などの被害にあうこととなります。

そして、その後に及んでも当時の幣原喜重郎外相は、「ここで蒋介石軍に反撃を行えば、蒋介石が敵対する張作霖軍を援護することとなる」として南京に対して不干渉を貫き、また荒木大尉は軍艦から90名の兵士を上陸させるものの、彼らは警備を行うだけで、一切の反撃を行いませんでした。(このタイミングでは日本の避難民たちは軍艦に避難させられています。)

ですが、アメリカ軍やイギリス軍は当然これに対する反撃を行っており、その結果、多数の中国軍人たちは死亡し、事態は収束させられました。

ですが、このことで「日本は何の抵抗を行う気すらない、弱虫だ」というイメージが中国人たちの中に植え付けられ、日本人は後の武漢や蘇州で起きる同様な事件の被害者となるのです。

【本日のテーマ】

本日の記事では、前回テーマとした「南京事件」の翌年に起こった「済南(さいなん)事件」をテーマに記事を進めてみます。

田中義一:Wikiより】
田中義一

今回の記事で話題にするのは、この「田中義一」という日本の第27代内閣総理大臣です。
あの高橋是清を大蔵大臣として採用し、「昭和金融恐慌」の災厄から日本を救った人でもあります。
それでは、後段に移ります。


山東出兵

前回の記事(後段冒頭) でもお伝えしましたが、今回の記事のテーマである「済南事件」。

その舞台となる「済南市」は、かつてドイツが中国に対して「権益」を認めさせた場所でもあり、義和団の乱の舞台ともなった場所です。

【山東省】
山東省

後の第一次世界大戦で日本がドイツより奪取し、講和条約であるヴェルサイユ条約によって日本の権益が認められた場所。
ですが、五四運動の発生により、日本人への反日感情が一気に高まったこともあり、事態を打開しようとした日本は、1922年、中国との間で『の日中山東条約及び日中山東還付条約』を締結し、一部権益を除いて山東省を中国に還付します。

ですが、中国はさらに、あの袁世凱に懇願されて締結した『21か条の要求』をも廃棄しろ、と言ってきます。
実際には16か条しか要求していないし、締結されていないのですが。
(※ 第106回の記事 参照)

日本は当然これを拒否。この当時の中国って、アメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどの欧米列強に対して清朝末期より散々な目に合わされた八つ当たりを、日本に責任転嫁して日本に八つ当たりしているような、そんな空気すら覚えますね。

そんな欧米の「帝国主義」への反発も含めて、この当時の中国では、「全国規模で排日・侮日運動」が巻き起こっていたのだそうですよ。その根源を植え付けたのはあの袁世凱なんですけど。

そんな中で勃発したのが前回の記事でもご紹介した「南京事件」。
南京事件の舞台となった南京市がある地域は「江蘇省」。

【江蘇省】
江蘇省

山東省を再掲してみます。

【山東省】
山東省

そう。「山東省」とは、南京市のある「江蘇省」の真上なんです。
この当時、山東省にいた日本人約16940人。このうち青島付近に約13640人、済南に約2160人居住していました。

南京事件当時の若槻内閣は徹底的な「不干渉=見て見ぬふり」を貫き通しましたが、南京事件と漢口事件の責任を取って(加えて昭和金融恐慌のダメージを払しょくできない無能ぶりも含めて責任を取って)若槻首相は総辞職。(4月17日)

代わって内閣総理大臣に選ばれたのが第27代内閣総理大臣である田中義一首相でした。(4月20日)
彼は蒋介石軍のさらなる北進を受け、すぐさま山東省に陸海軍を派遣しました。このことを「山東出兵」といいます。


若槻内閣の当時でも、既にフランス、イギリス、アメリカは危機感を覚え、さらなる派兵をすでに検討しており、日本を含む公使による会議で提案を行っていましたが、日本だけが反対していました。南京であれだけ凄惨な経験をしたにもかかわらず、です。

ですから、田中義一内閣が派兵を伝達した時に、登園ながらこのことに反対する国は1カ国もありませんでした。
山東出兵は5月28日に派兵され、6月1日には上陸を完了しました。

このタイミングで張作霖軍(張宗昌軍)V.S.蒋介石軍の戦闘が勃発。(7月3日)
日本軍はさらなる増派を行うのですが、蒋介石軍に対して武漢軍(汪兆銘軍)が武力攻撃を仕掛けてきたため7月10日、蒋介石は張宗昌軍に停戦を申し入れますが、これは認められず、蒋介石軍は大敗。

蒋介石が下野を宣言したため北伐は一旦終了してしまったことからこれ以上山東省に危険が及ぶことはないと考え、日本軍はいったん軍を山東省から撤退させます。


第二次山東出兵

ただ、中国側の視点から見ると、この時の蒋介石の下野は、蒋介石の持つ影響力が武漢政府の南京政府への合流を妨げている要因になっている、ということも一つの理由であり、武漢政府が南京政府と合流した後、1928年1月、蒋介石は国民党内部でおきた武力衝突をきっかけに再び国民革命軍の総司令に就任します。

この時点で、元々北洋軍閥の人間であり、北京政変を起こして北洋政府内の対立にいったんは決着をつけた人物。
その後北京政変では味方したはずの張作霖を相手にクーデターを起こし、2か月足らずで戦場から逃げ出し、ソ連に渡った人物。
あの「馮玉祥」は「反共」へと転じ、蒋介石に合流していました。

1928年2月。
蒋介石は北洋政府を裏切った馮玉祥、そしてもう一人閻錫山という人物と共に北伐軍を再結成。4月7日、再び北伐を開始します。

【蒋介石・馮玉祥・閻錫山:Wikiより】
蒋介石・馮玉祥・閻錫山

1928年7月に蒋介石軍を退けたはずの北洋軍(山東軍)は蒋介石らに敗れて、再び戦乱の火の手が山東省に及ぼうとしていました。


さて、ここで考えていただきたいのは、現在の「蒋介石軍」を構成しているメンツです。

【蒋介石軍構成メンバーの変遷】
1.南京政府を立ち上げた当初の蒋介石軍は、特に南京事件の影響も受けて共産勢力が一掃されており、蒋介石の考え方を指示するメンバーで構成されていました。

2.ところが、一方の武漢政府はいまだ蒋介石のことを快くは思っておらず、蒋介石による山東省への北伐の折に、態々横やりを入れ、蒋介石の北進を難しいものとした連中です。

3.蒋介石が北洋軍に対して休戦を申し入れたのが7月10日、汪兆銘が武漢政府から共産勢力への粛清を行ったのが7月13日で、たった3日しか経過していません。

4.その後、蒋介石は北洋軍に敗北し、下野しました。

5.蒋介石が下野した後、武漢政府は南京政府に合流します。

6.同年11月、国民党内の武力衝突をきっかけとして、蒋介石は再び総司令官の座に戻ってきました。

7.翌1928年2月、蒋介石は北洋政府を裏切った馮玉祥、閻錫山(えんしゃくざん)と組み、再び北伐軍を結成しました。

8.馮玉祥は自ら起こしたクーデターから2か月と立たずに逃亡してソ連に渡り、ソ連の支援を取り付けて自らの軍の強化を行いました。馮玉祥はソ連で「中国国民党加入」を宣言しています(1926年5月10日)。彼は8月までソビエトに滞在していました。

9.閻錫山は、馮玉祥が張作霖に対して起こしたクーデターでは、馮に敵対する立場にありました。

北伐を行うため、自身が管理しきれない広東省以外の省の軍力を巻き込み、一旦は決別し、対立構造にあった左派を再び自軍に組み入れ、元々自身が打倒する目的であった相手勢力「北洋軍」の一部を巻き込み、、特にそのうちの主要人物はソビエトの影響を受けた軍を保有している・・・と、これがこの時点での蒋介石軍の構成内容です。

例えば、「右派」と「左派」に分かれていたとしても、孫文の遺志を継ぐ「広東軍」としてまとまっていた時代であればまだよいかもしれません。

ですが、汪兆銘軍と合流したのも、馮玉祥と連携したのも、共に上海クーデターの後でしたが、彼らを自軍に引き入れたことによって、却って蒋介石軍の「信頼性」は破綻しかかっていたといってもいいかもしれません。

日本軍は、このような蒋介石軍の危うさを危惧し、再び山東省に対して軍力を派遣します。(第二次山東出兵:1928年4月)


「済南事件」

「済南事件」というのは、このような厳戒態勢が敷かれる中、5月3日、山東省済南市にて勃発しました。

この時、済南市に駐在していた日本の将兵は3539人。
彼らは「臨時済南派遣隊警備計画」というものを作成し、この計画に基づいて済南市内の商埠地(中国から外国人居留地として認められていた場所)の警備に当たっていました。
済南市派遣部隊は、この地域への中国軍兵士の侵入を禁止していました。(4月29日)

5月1日、ついに蒋介石軍が北洋軍より済南を陥落します。
北軍が撤退した後、何者かによって済南内で、日本国旗を侮辱したり、日本をことさら誹謗する内容のビラがばらまかれたり、又は囚人が解放されたりしました。

ビラを撒いた犯人は済南に入城した「第40軍所属」の少年兵だったのだそうです。
ちなみに第40軍とは、賀耀組という人物が軍長を務める部隊。南京事件で中心となって事件を起こした部隊であり、今回の斉南事件でも一連の暴挙に及ぶのはほぼすべて彼の部隊ともう一部隊、「馮玉祥」の部下である「方振武」の部隊。

賀耀組の舞台は、非常に共産主義の傾向が強い部隊だったのだそうです。

このような方法によって、済南市内に不穏な空気が醸造され、ここで何か起きてもおかしくはないような状況が生まれてしまいました。囚人を解放したのもおそらくは・・・。

ですが、蒋介石はここに入城した後、「済南市の治安は自分たちが守るから、日本軍は撤退してもらえないか?」との要請を日本軍に対して行います。この時、日本軍は警備地域を「警備区域」その周辺の「守備区域」に分けて警戒に当たっていたのですが、日本軍は蒋介石のこの言葉を信じ、「守備区域」を廃止し、「警備区域」から防衛設備をすべて撤退します。(5月2日)

日本軍が山東出兵(第二次)を行った最大の理由は上海クーデター後、蒋介石軍の体質が大きく変質しており、蒋介石の命令が徹底されにくい状況にあったところにあったはずなのですが、この時の警備責任者であった斎藤警備司令官は、上司に相談することなく、これらの防衛設備の撤去を行ってしまいます。

上司であった福田彦助第6師団長は事後的に報告を受けますが、既に実行された後であったことから、このことを黙認します。(5月3日)

結論から言うと、この時犠牲となった日本人は日本軍が9名、日本人居留民が14名と先の南京事件のことを考えると非常に限定的な被害で済んだ、ということもできます。

ですが、済南事件が問題視されているのは、その犠牲者の数よりも、被害にあった日本人居留民に対する中国兵が行った行為のあまりにもの残虐さにありました。

事件は、日本軍が警備を撤去したその翌朝。5月3日に発生しました。
この、事件が勃発することとなった理由に関しては、日本側と蒋介石軍側とで主張が異なります。

できる限り公平性を保つため、私が掲載している内容は、公的な機関である 日本の外務省のホームページに掲載されている内容 を参考にします。

外務省ホームページによりますと、済南事件が起きた原因は以下のように掲載されています。

【済南事件が勃発した理由(外務省HPより)】
第二次山東出兵において、日本軍(陸軍第六師団)先遣部隊が済南に入った一週間後、蒋介石の国民革命軍も同地に到着し、現地治安維持については国民革命軍が引き受けることを日本側に申し入れました。

日本側がこれに同意し市内は一旦平和裡に明け渡されたものの、1928年5月3日、革命軍兵士による済南商埠地の邦人店舗略奪事件をきっかけに両者は衝突しました。

この衝突は即日停戦となりましたが、日本軍は5月8日より済南城占領行動を開始し、再度戦闘を誘発しました。四日間にわたったこの済南城攻撃は極めて激しいものとなり、中国側に数多くの死者を出しました。

済南事件が勃発した理由は、『革命軍兵士による済南商埠地の邦人店舗略奪事件』にあった、とされていますね。

ところが、これに対して蒋介石側は、「病気になった兵士が病院に治療に向かったところ、日本兵に通行を阻止され、言葉が通じず言い争いとなり、その場で兵士が人夫がそれぞれ1名ずつ射殺された」ことが原因だとしています。

ただ、もう一度 南京事件の事例 を思い出していただきたいのですが、南京事件の時も日本軍が蒋介石軍を信頼して門を開き、非武装で彼らを迎え入れたところ、中国兵は無差別的に日本人に対して襲い掛かり、日本人以外の複数の外国人、領事館の職員や領事館外の一般人に対しても虐殺や強姦、略奪をはじめとする様々な暴挙を行いました。

結果から見ると、今回のテーマである済南事件に於いてもまったく同じことが行われています。
更に今回は事前に何者かによって反日ビラが撒かれ、また囚人が解放されているなど、済南市そのものに危険性が醸造されていました。

初期の、結果全体から見ると「些細な」事件が、一気に済南市全土に拡大していく様子は非常に計画的であり、虐殺された14人の民間人に対して行われた行為の残虐さは、想像を絶するものがありました。

被害状況を私の言葉で記すのは非常に憚られるので、Wikiに掲載されている外務省公電の内容から抜粋します。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」

Wiki同ページには検死されたときに撮影された犠牲者の様子も掲載されています。

民間人の被害者は、

『日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280』

とあります。

同日11時、驚いた蒋介石は日中双方に対して停戦を申し出るのですが、日本軍は停戦の要望に応じたものの、中国側は発砲を止めず、中国側に停戦を勧告するため、白旗を挙げて近づく兵士までをも銃撃。一命は民家に潜伏した中国兵によって射殺されます。彼らはやむを得ず引き返すこととなります。

5月5日、虐殺された同胞たちの遺体を発見すると、日本軍は当然のことながら激昂します。

ただ、当然中国人たちの様に切れて突然の暴挙に出るような真似はせず、5月7日、12時間の期限付きで関係者部武官の処刑、日本軍に抗争した部隊の武装解除、一切の排日的宣伝の禁止、南軍(蒋介石軍)の隔離を要求しましたが、相手方はこれを拒否。(12時間以内に応じなかった)

この事から日本軍は5月8日、済南城周囲の掃討、および済南城の砲撃へと移ります。
ただ、この時も日本軍は無差別に砲撃を行ったわけではなく、安全地帯と避難地を指定し、南軍に脱出経路を用意しておいたのです。

まとめ

田中義一首相は、このような事態を受けて、事件の翌日、5月4日に中国に在留していた軍隊や朝鮮半島からさらなる部隊を派遣し、5月7日の時点で済南市を包囲しました。

日本軍の数は蒋介石軍に比べて1/10程度に過ぎず、仮に田中義一首相が派遣した部隊が到着しなければ日本軍そのものが殲滅されていた可能性は否定できません。

5月8日、5月9日と、さらに部隊を増派します。

このことで、無抵抗主義を貫いた若槻内閣の時に発生した南京事件とは、異なり、日本人にそれ以上の犠牲者を出すことはなく蒋介石軍は済南市から逃げ出してしまいました。

蒋介石自身の対応も異なりますよね?
後の蒋介石と日本の領事とのやり取りの中で、蒋介石自身も、その他の将校たちの中にもこのような事件を引き起こそうとする二心は全くなく、むしろ日本軍との対立を避けようとしていたことが分かっています。

この事件を仕掛けたのはすでにお分かりの通り、共産主義思想が蔓延していた第40軍長賀耀組と馮玉祥の腹心である第41軍長方振武。この2部隊です。

日本軍と「交戦状態」となったのもこの2部隊のみ。
南京事件の時、その中心となったのも賀耀組率いる第40軍。

ただ、これもよくわからないのは、賀耀組という人物の変遷を見ると、蒋介石からの評価は高く、お互いに信頼関係が築かれています。今回の事件を受けていったんは罷免されるものの、間もなく要職に復活していること、などから、ひょっとすると賀耀組自身は事件の計画を知らなかったのかもしれません。

彼が率いる第40軍の中にいた何者かが計画していた、ということなのでしょうか。
一方で第41軍長の方振武は元々北京政府側の人間で、馮玉祥と共に中国国民党へと入党しました。

上海クーデターが起きた後の1927年6月には南京政府ではなく武漢政府側に所属しています。
こうしてみると、どうも今回の主犯はこの方振武であったのではないか・・・ということも想像に難くはありません。

この後、済南をこっそりと脱出した蒋介石は、まるで何もなかったかのようにして平常通り「北伐」を続けます。
そして、同年(1928年)6月4日、ついにあの「張作霖爆破事件」が勃発します。

【次回テーマ】

次回の記事では、 今回のシリーズ 最大の命題である「日本が中国と開戦状態に陥った理由」。
私が中国の歴史に対して、日本側から干渉する一番最初の事件。

いよいよ「張作霖爆破事件」についての記事を掲載できればと考えています。



このシリーズの過去の記事
>> 第133回 上海クーデターはなぜ?/伏線としての南京事件(1927年)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第135回 張作霖爆殺事件の理由/河本大作の思い、田中義一の思い~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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